私がFC(フライングサーカス)というスポーツを始めたのは何故だっただろうか。
物心のついていない幼少期のことで、詳しくは覚えていないが。確か、『空を飛んでみたい』と言う純粋な興味が最初だったと思う。
――その純粋さは、いつから変化してしまったのだろうか。
「相手より上の位置をキープし続ければ、背中へはタッチされないのではないかしら?」
とある日、厳しい練習の合間時間。イリーナがホワイトボードをじっと見つめて、至極当然のことを言った。
つまりは相手が常に自分の下を飛んでいる状態。
確かにそれを作れれば、相手に背中へタッチされることはない。
しかし、問題は、無視されてローヨーヨーでブイ方向に逃げられてしまう可能性が高いことである。
距離を取られれば、相手に待ち構える時間が生まれるし、そのまま追いつけずブイを取られてしまう危険だってある。
試合において上の位置をキープするなんて考えるまでもないこと。不可能に近しい。
沙希は、イリーナに何を言っているのかという疑問符を浮かべたが、しかしすぐに考え直した。
相手はあのイリーナだ。無意味にこんな事を口にするはずがない。
じっと見つめる沙希に、イリーナは口元に手を当て、少し思考を巡らせた後、静かに口を開いた。
「……相手が上の位置を取って頭を抑えようとすれば、ローヨーヨーでブイ方向に距離を取って牽制する。それが私たちのこれまでの常識だった。そうよね?」
沙希がこくりと頷く。
「確かにそれが最善でしょう。位置エネルギーで相手より優位を取って、ローヨーヨーで追い返しても、既に距離を取っている選手が相手では追いつく事は難しいでしょうし……」
そこでイリーナは、言葉を切って、
「……けど、それが戦略として使えないと、本当にそう言いきれるかしら?」
「どういう意味?」
首を傾げた沙希に、イリーナはカラーペンを手にとり、キュッキュとホワイトボードに図を書き出した。
「私、思ったのよ。私たちはこれまでFCに飛行速度と安定性を追い求めてきた。誰よりも飛行姿勢が良く、誰よりも上昇下降の切り替えがスムーズで、冷静に戦局を見る事が出来、絶対にフェイントに惑わされない選手。それを理想として練習してきた。そうでしょ?」
「うん」
「今の沙希は、スピーダーとしては同年代と比較して誰よりも速く、簡単に相手を近づけさせない判断力と冷静さも備わっている。私はそう思うの」
イリーナはペンを止めた。それから図を指さし、振り返って沙希を見やり、
「だから……沙希なら、相手をブイに逃がさず、一定距離で上の位置をキープし続けられる。そう思わない?」
――その日から、私の練習カリキュラムは大きく変化した。
イリーナは、状況によって左右してしまう上の位置をキープできる距離を計算し、私に随時指導する。
私はプロの選手相手にそれを実践し、失敗を繰り返しながらも、体力が尽きるまで何度も何度もやり直す。
そして、日本での夏の大会、全国制覇という目標を見やり、全力を尽くし……やがて、長い月日が過ぎた。
やってきた夏の大会。しかし、私の予想に反してイリーナの作戦はなかなか日の目を帯びなかった。
プロの講師による効率を重視した練習と、遥か格上のプロ選手相手の試合経験。
イリーナが大枚を叩いて求めた練習効率と、誰より多くの努力を重ね、研鑽を積み続けた私の技術には誰も追いつけなかった。
秘策を使う必要もなく、私は着実にトーナメントを登りつめていく。
試合が終わる度、何度かため息をついた。
……また私は一人ぼっちだ。あの日と何も変わらない。
誰も私を追い抜いてはくれない。
なぜなら、私は孤独であらねばならないから。きっとそういう運命だから。
――だから、嬉しかった。
あの夏の大会、決勝。相手は真藤一成。日本最強のFC選手と呼ばれている男。
その実力は本物だった。まさに彼は天才だった。
1回戦や2回戦で大差をつけ、相手を圧倒した私の技術をいとも容易く凌駕し、瞬く間に点を奪い取っていった。
為す術もない圧倒的な技術に私は感動していた。練習相手だったプロの選手とは違う真の才能を感じた。
……ああ、この人は私とは違う。
常に効率を追い求め、常に練習し続け、理論上の最強を追い求めてきた私とは違うのだ。
――この人がまさに、“天才”なのだと。
知らず知らずのうちに口元に笑みを浮かべている私。しかし、ヘッドセットのイヤホンからはイリーナの痛切な声が響いていた。
内容は私への至極妥当な指示。そこには何故指示通りにしないのかという怒りも混ざっている。
……分かってる。けど、ファーストブイでの対決で私は理解してしまったのだ。
この人は強い。それも圧倒的に。けれど、私たちの戦術を知らない。
だから、彼ではきっと私には勝てない。
なぜなら、彼は本当のFCを知らないから。
私たちが効率を追求し続けたが故に発見した、この戦略を。
真藤一成の猛攻から逃れ、私が必死で蛇行しながら殆ど垂直に上空に逃げていく中。
ふと、聞こえていたイリーナの言動が怒りから悲しみへと転じている。
そこでハッと気づく。
何をしているんだ、私は。
イリーナをもう悲しませないと。そうあの日誓ったでは無いか。
イリーナに勝利を約束したが為に、FCをこれだけ頑張ってきたのでは無いか。
ギュッと瞼を閉じ、次に開いた時、私の瞳は決意に染まっていた。
勝つ。勝つ。絶対に勝つ。
絶対に負けない。負けられない。
眼下で苦しい表情をし、叫び声を上げる真藤一成。
それがなんだ。私を脅しているつもりか。
勝ちたいという気持ちなら私は誰にも負けない。
あなたには分からない。きっと私より多くを持っているあなたには。
真藤一成が水面まで追い込まれ、苦悶の表情を浮かべ、フォースラインにショートカットした。
リードを手に入れた私は、フォースラインでも同様に、まるで単純作業をするように冷静にフェイントを躱し、一定の距離を保ち、上から頭を抑え続ける。
無我夢中だった。
――やがて遂に勝利を告げるホーンの音が鳴った。イリーナの喜ぶ声がヘッドセットから聞こえる。
私はといえば、息を整えながら、真藤一成を見下ろしていた。
彼も息を荒らげながら、失意との瞳でどこまでも広がる真っ青な海を見つめている。
だが、そこには敗北だけではなく、どうして自分が負けたのか分からない、という混乱も含まれているように見えた。
……もし、だ。
もし、私があの時、イリーナの戦術を用いなかったら。試合はどうなっていただろうか。
真っ向から私の技術を否定され、2点を連取され、そこから、私の技術力で彼を打倒することが出来ただろうか。
答えは出ない。いや、出るはずがない。なぜなら試合は私の勝利という形で既に終わっているのだから。
だが、私の心は私の脳裏とは裏腹に、本来の勝敗の行方を確信しているようだった。
――その瞬間、才あるものへの尊敬は畏怖へと変わる。
私はふと、自分自身に問いた。
……私のFCはこれでいいの?