夏の大会が終わり、自信を喪失したかのように見えたみさきは、ケロッとした顔で退部を告げた。
意外にも真白は部活に残ったが、みさきが抜けたせいか覇気がない。対照的に明日香は夏の大会からメラメラ闘志を燃やし、練習に励んでいる。
部長は受験勉強の合間を縫って練習に参加してくれているが、それ以外は真白が明日香の相手をしている。が、夏の大会で3回戦まで到達し、真藤さんともいい勝負をした明日香と真白ではやはり実力差が大きい。正直言ってまともな練習にはならなかった。
よって白瀬さんに協力を依頼し、明日香のグラシュの最高速度を搾って無理やり真白と練習させている。
こんな方法、真白には悪いと思ったが、快く承諾してくれた。本当に感謝でしかない。
本当は俺が相手をすべきなのだろうが、俺も夏の大会から、みさきと同じような脱力感を抱えていた。
あんな底のしれないような怪物ともう一度同じ土俵に立って試合をする。
そんなことはとてもじゃないが、考えられない。
日が沈み始めた頃、部活は解散となり、俺は帰路に着いた。
頭は真っ白で、何も考えないまま、海を抜け、島の上を飛ぶ。
「……日向晶也?」
と、その時。どこかからか自分を呼ぶ声が聞こえた。
地上を見下ろすと、特徴的な白髪の女の子――乾沙希が俺に向けて手を挙げている。
俺のこと?と自分を指さすと、こくこくとうなづいているのが見えた。
イリーナさんとは部長の試合の時にそれなりに話したが、乾とは帰り道で偶然会って一言二言言葉を交わしたぐらいだったはずだ。出会ってわざわざ呼び止められる程の仲じゃない。
驚きながらも、徐々に高度を下げて近づいていく。
「こんにちは、乾さん。夏の大会では全国大会優勝おめでとうございます。今日は、学校帰りですか?」
「……うん。日向晶也は、練習帰り?」
「ええ、まあ。……今の明日香は乾さん打倒を目指して、全国優勝を目標に練習してます。次の大会は夏の真藤さんとの試合のようには行きませんよ」
「?……うん」
コーチとしての反発心か、俺が思わずしてしまった宣戦布告とも言える発言。しかし、対して乾は曖昧に頷いただけだった。
少し沈黙が流れた。
「それで……なんで俺を呼び止めたんですか?」
俺は話を切り出した。
イリーナさんならともかく、乾からしてみれば俺は単なる他校のコーチに過ぎない。
乾がわざわざ俺を呼び止めた理由が分からなかった。
乾は、心なしか神妙な顔をして、
「……一つ、質問してもいい?」
「質問? 別にいいですけど」
乾は一体俺なんかに何を聞きたいんだ?
「どうして、FCをやめたの?」
「?!」
心臓が跳ね上がった気がした。まさかそんな事を聞かれるとは思っていなかった。
真っ直ぐな目が無遠慮に俺を見つめている。思わず視線を逸らす。
「……イリーナさんから、聞いたんですか?」
「うん。日向晶也は、過去にFCの全国大会で何度か優勝している有名な選手だったって」
「……だとしても、もう昔の話ですよ。話せることなんて何も無いです」
「私には……話せないこと?」
「いえ、別にそういうわけじゃないですけど……どうして、俺のそんなこと、聞きたいんですか?」
乾は無表情のまま、口元に手を当て、少し考えて、
「……私は、FCを辞めようかと思っている」
「えっ?!」
思わぬ人からの思わぬ告白に、情けない声が漏れた。
冗談でも全国大会で優勝するほどのトップ選手が言う言葉じゃない。
「……私には後悔していることがあるから」
後悔……?
「夏の大会で、真藤選手と対戦した時、私は正々堂々と戦わなかった」
「……それはもしかして、上をとる戦法のことを言っているんですか?」
乾がこくんと頷いた。
「あの作戦を使わなければ、私は負けていたかもしれない。だから私は負けるのが怖くて、イリーナの期待を裏切るのが怖くて、ずるをした」
無表情な乾にしては珍しく、声が感情によって震えている。
俺は少し考えてから、
「……スポーツをやっている人間なら、誰だって勝利が欲しいし敗北は怖いですよ。確かに、あの作戦は確かにあの時はびっくりしましたし一時は卑怯だとも思いました」
「……そう」
「けど、ルールに則った正式なもので、乾さんとイリーナさんの革新的な戦略です。何より、気づけなかった真藤さんや俺たちが悪い。乾さんが責任を感じる必要はありませんよ」
「うん、ありがとう……」
「ど、どういたしまして……?」
「……でも。私が試合に勝っても、勝負に負けたのは変わらない。……私は、あの試合、真藤一成に負けた」
「そんな事ないですよ」
「……どうしてそう思うの?」
「さっきも言った通り、正式なルールに則った試合でしたから。ちゃんと真正面から戦って乾さんは勝ったんです」
なんで俺は乾を慰めるようなことを口にしているのだろうと思いながら、俺は反論の言葉を口にしていた。
乾はひとつ頷いてから、俺の目を真っ直ぐに見つめて、
「じゃあ……私は次の試合、真藤一成に勝てると思う?」
「えっ?」
「どう?」
聞かれて、少し考える。
上を取る戦略。その強みはスピーダーが確定でファーストブイの一点を取れることにある。その後は、相手の上の位置を常にキープして逃げ続ければ、タッチによる得点はされず、最初の1ポイントの差は埋まらない。つまり乾の勝利が確定する。
スピーダー有利のまさに乾の土俵。その戦略の前では例え真藤さんが相手でも勝機は十分にあると思う。
「勝てる、と思います。少なくとも可能性は高いです」
悔しいけど、そのぐらいにあの作戦を使った乾は圧倒的だ。
だが、乾は俺の言葉を聞いてフルフルと首を振った。
「無理。彼は本当の天才だから。次に試合をしたら、私は勝てない」
「いや、乾さんだって十分天才じゃないですか」
全国大会優勝なんて芸当、天才以外に一体誰ができるのだろうか。
だが、乾は再度首を振って、
「ううん。彼と試合した時にわかった。私は彼ほど才能はない。だから負ける。前はたまたま策を見つけたから勝てたってだけ。次に同じ土俵で戦えば、私は負ける」
策を弄したとはいえ、1度は公式戦で完全勝利しているというのに、乾はとてもかたくなだった。勝てない、才能がないの一点張り。
――それはまるで、過去の自分を見ているようだった。
全国大会で優勝し、トロフィーを片手に自慢げだった俺。
かつての俺は自分が誰よりも才能に溢れていると確信していた。実際、試合では負けなしだったし、自分より学年が上の選手にも何度も勝った。
それでも努力は決して怠らなかった。白瀬さんや先生といった、プロで活躍する選手から熱心に指導を受けてもいた。
だから、あの時の俺は、自分を上回る人間がいるなんてことを全く想定していなかったのだ。
むしろ、自分を超えるものが現れないことに退屈すら感じていた。
だが、その均衡はだんだんと崩れ始めた。
地方大会、シード枠だった俺は毎年大差で勝ち抜いていた。
負けるはず可能性なんて微塵もなく、勝つのが当たり前。重要なのは、どれだけ点差をつけられるか。予選大会は俺にとってそういうゲームだった。
だが、年々点差が付けられなくなっていった。
大会ごとに計測していた最高記録の更新は遥か昔になり、今では手が届かなくなった。
違和感はだんだんと大きくなり、やがて全国大会優勝が当たり前の実力を持っていた俺は、必死で息を切らして僅差で全国大会を優勝する俺になっていた。
かつては微塵も感じていなかった負ける恐怖。
いつの間にか勝つ楽しさは失われ、ただ恐怖から逃れる為だけに必死で練習を重ね、大会を勝ち抜く。
全国大会で連覇を重ねる俺の名は多くの人間に知れ渡り、誰もが俺の勝利を信じて疑わない。
期待が重く、のしかかる。
だがまだ俺は負けてなどいなかった。僅差の試合も多くなったが、勝ち抜き記録が止まることは無かった。
だから、俺は確信していた。
俺は天才だ。天才がこれほどまでに努力しているのだ。負けるなずなどない。あってはならない。天才である俺の努力が報われなかったら、限界まで努力してそれで、勝ちを掴むことが出来なかったら。
俺は、きっと終わりだ。
先生から止められても、俺は決して練習を辞めなかった。
朝から晩まで、限界まで空を飛び、授業中でも常にFCのことを考え、起きている時間の全てをFCに捧げた。
だが、その思いは気まぐれで相手をした素人の少年1人に吹き飛ばされることとなる。
自分の数年の全力の努力をわずか数時間で習得する人間がいる。その事実に、これまで自分を支えていた1本の柱がポッキリと折れたようであった。
そして気づいてしまった。
……そうか。俺は天才じゃない。
例え限界まで努力したっていずれ、こういう真の天才に追い抜かされる。
……なら、俺がしていることになんの意味があるんだ?
1番になれないのなら、今俺がしている練習も大会の試合も、ただの遊びじゃないか。プロになっても、天才の下にいるしかないのなら、それはあまりに惨めじゃないか。
俺が今まで取った栄誉も何もかも、本来なら真の天才であるそいつが持っていたもので、俺はまぐれでそれを手に入れただけの哀れな人間に他ならない。
価値がない? なら、捨ててしまえ。壊してしまえ。
才能がない? なら、諦めるしかない。FCなんてもう二度とやるか。
子供じみた、しかしながら真に迫った覚悟は今も俺の胸に刻まれている。
そして今、目の前にあのころの俺と全く同じ覚悟を持とうとしている人間がいる。
乾は、真藤一成に才能で負かされたのだ。
あのころの俺のように、例え勝つことが出来たとしても、いずれは絶対に勝てなくなることを確信しているのだ。
暫く無言で考え込む俺を、乾はじっと見つめていた。
その目は期待ではなく、失意でもなく。同士を見る目だ。
そうか、乾が俺に声をかけた理由はこういうことだったのか。
俺も乾も同じように、真の才能というやつを見て、柱が折れてしまった人間なのだ。
いや、正確には乾はまだ折れていないのだろう。だが既に折れる寸前だ。
きっと、俺が傷を舐め合うようなことを言えば。乾に俺が思う全てをぶち負けて、そしてそれに乾が共感してしまえば。
俺たちは共に立ち上がれなくなる。FCから永遠に逃げて、夢を追うことをしなくなる。
「……さっきイリーナさんの為に勝つとか、言ってなかったか?」
自然と乾を引き止めるような言葉が口から飛び出た。
俺自身は同じような状況で真っ先に逃げた情けない人間だと言うのに、どの面下げて行っているのだろうか。
「うん。でも、きっと私じゃ叶えられないから。別の道を探す」
「別の道って?」
「それは……分からない。でも、探す」
いつの間にかタメ口になっていた。
乾の要領を得ない答えにイライラが募る。
「乾は、全国大会で優勝したんだぞ? そんな人間のどこに才能が無いって言うんだ? それなら、真藤さん以外は全員才能がないことになるだろ」
「私は、彼と違って、いつも努力を欠かさずFCに全てを捧げて生きてきた。プロの選手も講師もお金を沢山イリーナが使って雇った。限界まで練習してこの程度。才能と過程は比例する。私に才能はない」
「けどさ……」
「それに、それをいうなら、日向晶也だって全国大会で優勝している。それも、1度や2度じゃない」
「あれは……子供の頃の話だよ」
「才能に子供も大人も関係ない」
「……」
否定の言葉はいくつも頭の中に思い浮かぶ。だが口には出せなかった。
「……日向晶也がFCをやめた理由。多分わかった。私と同じ、でしょ。違う?」
「だったら、どうするんだ? 同じ才能に負けた同士で傷でも舐め合うのか?」
皮肉げに口にした俺の言葉。しかし、乾の目は変わらず真っ直ぐだった。
「……協力、しない?」
「は……協力?」
「私は、このまま負け続けるつもりは無い。たとえ負けるとしても最後まで足掻き続ける。それで、次の大会でFCを引退する」
「いや、ちょ。ちょっと待ってくれ」
慌てて両手を突き出して止める。
乾の言葉は俺の想像を超えて、前向きだった。
「乾が真藤さんを倒すために最後まで足掻くって言うのはわかった。けど、なんでそれに俺を誘うんだ?」
「? だって……日向晶也は天才だから」
「さっきから何回も言ってるだろ。子供の頃の話を持ち出すな。俺は天才なんかじゃない。勝手に期待しないでくれ」
「倉科明日香は、夏の大会で真藤一成をあそこまで追い詰めた。それは貴方の指導が良かったから、違う?」
「違う。俺は何もしてない。明日香がエアキックターンを連発したことを言っているのなら、あれは明日香が勝手にやったことだ。彼女の、才能だよ」
「なら、日向晶也には人の才能を開花させる能力があるんじゃないの?」
「勝手に人を天才に仕立てあげようとしないでくれ。俺にそんな能力はない」
「別にどっちでもいい。私はあなたを天才だと思う。だから、コーチを依頼している」
「……俺がもう、久奈浜学園のコーチをしてるのは知ってるだろ?」
「なら、私が久奈浜に転校してFC部に入ればいいの?」
「あー……ややこしいことになるから、それはやめてくれ」
「なら、私はどうしたらいい?」
「それを俺に聞かれてもな……」
俺は頭をガシガシと描いた。
そもそも乾のコーチをやる気はない。
だがそれを真っ正直に伝えても諦めてくれる気がしない。
乾の真っ直ぐな目がそれを物語っている。目は口ほどに物を言うのだ。特に乾は。
「……わかった。コーチをするよ。ほっといたら、本当に転校して来そうだしな」
「本当?」
目を少し見開き、キラキラとした表情を浮かべる乾。
いや、無表情のままではあるのだが、そんな気配がしている。
「ああ。けど、条件がある。俺がコーチをするのは夏休みの1ヶ月間だけだ。それを超えたら転校したりしてもう俺に付きまとわないことを約束してくれ」
「うん。わかった」
本当にわかってるんだろうな、と思いながら再度頭を描く。
なんで俺がここまで期待されているのかは全く持って不明だが、こうなっては致し方ない。
「それで、練習はいつやる?」
「じゃあ……明日。夕方同じくらいの時間にここに集合で」
「いや、もうちょっと早い時間にしよう」
「……いいの? 部活あるんでしょ?」
「暫く休むことにする。俺がいなくなれば、先生がコーチになるだろうから、むしろ明日香にはその方がいいだろうし」
「うん。……ありがと」
乾が少し嬉しそうに笑って頷いた。
別に乾の為じゃなかった。
ただ、さっきの乾との会話で俺はコーチとしてもFCを続ける気を無くし始めていた。
才能がないことに気づいているのに、なんで今更俺はFCにコーチという立場で他人の才能にしがみついて居座っているのだろうか。
乾との1ヶ月が終わったら、俺もFCをやめる。
そのつもりで俺は、乾に返事をしていた。
夏休みまであと3日。
この夏でようやく俺も終わらせられる。
帰路。ひぐらしのなく声が妙に強く耳に残った。