フライングスーツを着るのは何年ぶりだったか。確か、競技用のグラシュを履いたのも、あの海岸での出来事が最後だったはずだ。
沙希との会話の後、現地解散となり帰宅した俺は、イリーナさんから渡されたグラシュを開封していた。
包み紙を解くと目に入ったのは、長い時が過ぎて何回かの型代わりがあっても、見た目はさほど変わっていないグラシュ。強い懐かしさを感じる。
俺はなんとも言えない気持ちでそれを手に取った。
「Fly」
久しぶりの競技用グラシュは、ぐらぐらとバランス感覚がシビアで、真っ直ぐ飛ぶのにも苦労した。
服装は学校のジャージという非常に簡素なものだが、実は飛行に殆ど影響がない。
グラシュは飛行中、メンブレンの膜に体全体を覆われているため、空気抵抗は変わらないからだ。
……まあ、フライングスーツを着ないと安全性の面で大会には出られないけど。今は持ってないので仕方がなかった。古いものは当然 とっくに捨ててしまったし。
集合場所の人気のない谷に着くと、既に紫のフライングスーツに試合用のグラシュの完全装備の真藤さんが空中で腕を組んで立っていた。
「やあ、日向くん」
片手を挙げて爽やかに挨拶する真藤さん。
その目はいつもみたいな優しく穏やかな目ではなく、試合中のような猛獣を思わせるぎらついた目をしていた。
あの後、電話での俺の誘いに、真藤さんは二つ返事でOKを出してくれた。
FCの推薦で大学に入学するから受験勉強とかは必要ないみたいだけど、真藤さんも忙しいだろうに、本当に感謝でしかない。
「すみません、真藤さん。こんな夜分遅くに呼び出してしまって」
「いや、僕は気にしないよ。夕方は別の用事があるんだろう?日向くんがFCをもう一度始めてくれる、なんて理由なら僕はいつだって君の元へ向かうさ」
「あはは……ありがとうございます」
不気味な笑みを浮かべる真藤さんに俺は苦笑しながら頭を下げる。そういえば、この人はそういう人だった。
真藤さんは腕を組み直して俺をじっと見て、
「それにしても……どんな心境の変化があったんだい? 僕はとても嬉しいけど、まさか本当に日向くんがFCに復帰してくれるとは……なんて聞くのは野暮だよね?」
「いえ、全然大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
俺は真藤さんに向き直って、
「今、俺は乾沙希のコーチをしています。その中で俺にFC選手としての知識や経験が足りないことは勿論、何より覚悟が足りないことがわかりました。才能を打ち負かす情熱を知らないままの俺じゃ、選手としての沙希に本気で寄り添って指導してあげられません」
「うーん……だから日向くんが実際に選手の立場で僕と試合して乾くんに指導する、ということかな?……つまり日向くんは乾くんのために試合するわけだ」
真藤さんが複雑そうな顔を浮かべた。
それに俺はキッパリと否定する。
「確かにそれもありますが、全部が全部沙希のためじゃないです。一番は俺のためですから」
「うん?どういうことかな?」
「沙希を見て、俺も本気でFCがしたいと思いました。俺は沙希のコーチですが、同時にライバルだと思っています。時間はあまりありませんが、
それでも次の大会は本気で優勝を狙って練習するつもりです。明日香も……沙希も倒したいと思っています」
「そのことは、乾くんに伝えるの?」
「いえ、今のところは真藤さんにしか明かす気は無いです。大会当日まで誰にも伝えません」
「……本気で、FCをするつもりなんだね?」
「はい。そのつもりです!」
真藤さんは真剣な表情で俺に一つ頷いて、
「日向くんの覚悟はよくわかった。僕も出来る限り、力にさせてもらうよ」
「すみません。こんなわがまま聞いて貰って……」
真藤さんはいやいやと首を振る。
「本当はうちの部員にも、他の誰にも、FCを教えるつもりはなかったんだけどね……」
真藤さんはそこで言葉を切って、
「言っただろう? 僕は本気になった日向昌也とずっと試合がしたかったんだ。日向くんは僕にとって神様の一人だからね」
「今の俺は、ご期待に添えるような実力じゃありませんよ?」
「ブランクがあるのは仕方がない。それより、これから本当の日向昌也を見せてくれるんだろう?」
「もちろんです。次の大会は誰にも絶対に負けられませんから」
「わかった。そういうことなら、僕もベストを尽くそう……」
真藤さんが俺に向けて手を差し出す。
俺はゆっくりとその手を握り、握手を交わす。
日本最高のスカイウォーカーと呼ばれる男の手は、女性の手のような綺麗な外見と違って想像以上に無骨な感触で……長年の努力の跡に溢れていた。
俺がFCを放棄して、毒にも薬にもならないことをしている中、この人は決死の努力を重ね続けていたのだ。
今から始める俺が、真藤さんや沙希に追いつけるとは、とてもじゃないが思えない。けど、諦めるつもりはなかった。
全力で、本気で努力して。俺は限界まで強くなる。
沙希のためだけじゃなく、何より自分のために――。
こうして、夜は真藤さんとの秘密の練習が始まった。
久しぶりに競技用グラシュで飛んだ空は想像以上の速さで、少し恐怖を感じた。
久しぶりに自分で引いた蒼色のコントレイルは、想像以上に綺麗で夜の星空に映えた。
こんな事すら知らずにコーチをしていたことに、愕然とする。
……そりゃ、FCを舐めてるよな。沙希に指摘されて当然だ。
今まで俺はコーチとしての役割を何も果たして来なかったのだと気づく。俺はコーチごっこをして遊んでいただけだ。
だから。ここから、また1から。俺は反省して新たに始めるのだ。
今度は本気になって、FCに取り組む。
時間の許す限り、FCのことを考え続ける。
沙希のためにも。
俺のこれからの人生を、あの過去と決別させるためにも……。
翌朝。起きると俺の身体は筋肉痛でバキバキだった。
日常生活すら満足にこなせる気がしない。明らかなハードワークだ。
「練習やりすぎた……」
前に高藤学園で真藤さんとみさきが練習試合をした時を思い出した。あの頃から薄々感ずいてはいたが……やっぱり真藤さんは間違いなくドSだ。
数年ぶりで思うように身体を動かせない俺に、これでもかと言うほどの鞭を浴びせかけてきた。今思い出しても身震いがする。
……だが、ここまでやらないときっと俺は明日香にも沙希にも絶対に勝てない。いや、ここまでやっても勝てるかわからない。
真藤さんは、他の人間にあそこまで苛烈にFCを教えられるのだ。きっと自分にはもっと厳しい規律を強いている。
真藤さんが天才たる所以はきっとそこにあるのだ。なら、俺も決死の覚悟で着いていくしかない。
俺はパンと両手で頬を叩いて気合を入れると、痛む体を必死の形相で起こして、通学用のバッグを持ち、呻きながら学校へと向かった。
始業まであと少しの時間。自分の机に着くと、
「昌也さん!」
ドンと明日香が机に手を乗せて身を乗り出すように聞いてきた。
「乾さんのFCはどうでしたか?!」
そのあまりの気迫に、俺は思わず咄嗟に椅子と身体を後方に引いた。明日香から逃れるように軽くのけ反って。しかし、明日香は止まらない。
「いっ乾さんとどういう練習をしましたか!」
「乾さんが強い確たる理由が私は知りたいんです!ね、昌也さん! 乾さんは一体どんな凄いテクニックを使ってましたか!!私にも教えてください!!晶也さん!!!」
「い、いや、それは、その……」
ドンドンと顔を近づけ、キラキラした目で聞いてくる明日香に……俺はなんというか、気圧されて何も言えなくなった。
「明日香~その辺にしときなよ」
困り果てる俺にそこでみさきが口を挟んできた。
みさきが助け舟を出すなんて意外だ。
「昌也が何も教えてくれないのなんて分かりきってたことじゃない。裏切り者の晶也のことだし、きっと理由を聞いても、明日香を負かせるための甘言しか言わないよ?」
俺は少しむっとした。
俺たちがそんな卑怯な手で勝って何が嬉しいというのだろうか。
みさきの冗談なのだろうが思わず否定の言葉が口から零れ落ちてしまった。
「――いや沙希は……」
「「「沙希?!」」」
しかし、俺がその先を続ける前に、3人の大きな声が教室内に響いた。
いつの間にかまどかも混ざって驚いている。
みさきはわざとらしくしなを作りながら、
「ちょっと~昌也ったらもう乾さんともうそこまで進んじゃったの~?」
「不潔!不潔だよ、日向くん!」
「昌也さん??乾さんと昨日一体なにをしたんですか……?」
「い、いや、違……これは、お前らの時と同じだろ?コーチとしての円滑なコミュニケーションのために名前呼びにしてるだけだよ」
「へぇー…ほぉー…なんか怪しいなぁー。まどかもそう思わない?」
まどかは即答した。
「思います!」
「思うな!そんな事実はない!」
みさきとまどかにキッパリとツッコミを入れる。
朝のホームルームが始まるまで、この騒がしさは続いた。
そして、何となく授業に集中出来ない気持ちのまま、日が暮れ始め、帰りのホームルームが始まった。
「明日から夏休みだからなー!気を引き締めろよー!じゃ、さよなら!」
教師の合図とともに一斉に生徒たちが下校を始める。俺もカバンに教科書類を詰め、帰る支度をする。
今年の夏は朝から晩までFCずくしになりそうだ。真藤さんとの練習のことを考えると、これまでで一番過酷な夏になる。
俺は戦々恐々としながらも、しかし、少し楽しみでもあった。
俺がリュックを手に取り、教室の出口に向かおうとすると、みさきが珍しく明日香に話しかけていた。どうやら一緒に帰るらしい。
って、ん? 明日香は今日はFCの部活があるはずだよな?
「みさきちゃんとの試合、久しぶりです!楽しみです!」
「そんな期待されてもなー。あー私FC辞めて、ブランクあるしぃ~」
当てつけのように俺を見てくるみさき。
そっか。良かった。復帰したのか。やっぱりみさきは強いな。
……みさきは次の大会にも出るのだろうか。少し楽しみだった。
俺はみさきに笑いを込めた頷きを返して、下校口へと向かった。