私は、望まれて生まれた。
世界は、私を望んだ。
私は、望まれて生まれたのだ。
世界は、私の中にあった。
世界は私のもので、私は世界のものだった。
オルフェは、歴史を感じさせる壮大な宮殿の前庭で立っていた。
その背後には、このファウンデーション王国を代表する無数の兵士達と、それを統率する近衛師団“ブラックナイト”が彼女を歓迎するために整列していた。
彼らは誰もが皆、厳かな沈黙を保ちながら、この重要な出迎えの儀式に臨んでいた。
「ようこそ、姫。私はファウンデーション宰相、オルフェ・ラム・タオです。此度のご訪問、心より歓迎いたします」
オルフェは力強く、しかし暖かみのある声で言葉を紡いだ。
その丹精で繊細な表情は、彼女に対する敬意と慈愛に満ちていた。そしてその立ち姿は、弱冠20歳ながらファウンデーション王国の政治を一手に任されている絶対的な為政者としての威厳を漂わせていた。
「コンパス総裁、ラクス・ディノです。お目にかかれて光栄に存じます」
オルフェはタラップから降り、落ち着いた声で応じたラクスに視線を向けた。
こちらも弱冠20歳ながら、世界平和監視機構“コンパス”総裁の重責を担う彼女の佇まいからは、平和を求める強い意志と柔軟な思考が感じ取れた。
そんな彼女の声には、コンパス総裁としての自覚と、この新たな出会いに対する期待が込められていた。
オルフェが指輪をはめた右手を差し出すと、ラクスもまた指輪をはめた右手を差し出した。手が触れ合う寸前、オルフェはその指輪に視線を向けた。
母上から託された運命の指輪──やはり彼女がそうなのだ。
オルフェは一瞬ためらうように宙で止まったラクスの手を、強く握り締めた。
その瞬間、オルフェは自身を貫く奇妙な衝撃を感じ取った。
ラクスと触れ合った手から、全身を包むような柔らかい光と、かぐわしい香気のような空気が流れ込んで来た。それはどこか温かな安らぎを感じさせられるものだった。
その直後に彼の周りの世界から全てが消え去り、重力さえも感じられなくなった。
まるで天国に迷い込んだような感覚の中で、オルフェはラクスが“運命の相手”だと確信した。
──ようやくお会いできましたね……。
それは言葉ではなかった。触れ合った手から、自らの思いを流し込んだものだった。戸惑いながらも返答しようとするラクスに対して、オルフェはこうして語り合うことが至極当然であるかのように応えた。
──私は貴女の運命……。ともに世界を導く者……。
その思いを伝えた瞬間だった。
2人を温かく包み込んでいた世界が突如吹き飛ばされ、その空間は一変した。
オルフェはこの精神世界を侵食する、闇のようなものを感じ取った。それはまさに地獄の業火を思わせる醜悪なもので、温かな光を呑み込む黒い炎に対する恐怖が彼を支配した。
それは単に痛覚を刺激するような実際的な恐怖ではなく、まるで魂を揺さぶられるような根源的な恐怖だった。
──これは……?
オルフェはこの突然の変化に混乱し、何が起こったのかを理解しようと躍起になった。しかしこの感覚は今までに経験したどんなものとも異なり、説明がつかないものだった。
そして混乱に包まれる最中、黒い炎がさらに勢いを増し、身動きの取れないオルフェを一息に呑み込もうとした。
「ラクス」
アスランの声が響いた瞬間、オルフェは自分を侵食しようとしていた闇が突如晴れたことを知覚した。
一瞬で現実世界へと引き戻されたオルフェは、周囲を警戒するように視線を走らせた。するとラクスの後方から、アスランが自分たちをじっと見つめているのに気づいた。その顔は、直感的に何かが起こったことに気付いたような険しい表情をしていた。
「大丈夫です。少し疲れが出たのかもしれません」
ラクスの声には微かな震えがあり、彼女が表情を取り繕っている様子は明らかだった。しかし何事もなかったかのように振る舞おうとするラクスの姿からは、内心大きな動揺を抱いていることが伝わってきた。
オルフェはこの一連の出来事を振り返りながら、溜息を吐いたアスランに視線を送った。
アスラン・ディノ。
プラント評議会初代国防委員長パトリック・ザラの息子であり、優れた才能を有している者が多い第2世代コーディネイターの中でも際立った能力を持った天才として知られている。
特に純粋な戦闘能力に関してはあの“フリーダムキラー”をも凌ぐと噂され、白兵戦に関しては匹敵する者すらいないらしい。
クライン派とザラ派を結び付ける政治的な背景があったとはいえ、ラクスの父シーゲル・クラインにその才能を高く評価され、ラクスの婚約者として選んだ人間だ。
オルフェは、アスランが自分たちアコードに対して無力だと考えるのは短絡的かもしれないと感じた。
──邪魔な奴め。
晩年はナチュラル回帰論を訴えていたシーゲルが自分を差し置いてまで指名した男が、自分達アコードに対抗する能力を有していないと考えるのはあまりにも早計だ。
先程の不気味な黒い炎は、この“邪魔者”が何らかの形で関与している可能性が高い。
──ラクスを汚したな。
オルフェは他のメンバーと共にアスランへの憎悪を込めた禍々しい思念を放ったが、アスランはそれを全く認識出来ていないようだった。
アコードどころか、その製造過程でアコードを部分的に参照した“スーパーコーディネイター”ですらないアスランには、リンクを確立していない状況下での精神攻撃は無意味らしい。
再び悪意を込めて思念を放ったが、やはりアスランは何も感じていないようだった。
オルフェは自らの魂を脅かした黒い炎に対する一抹の不安を抱えながら、ラクスを先導することにした。
シュラは宮殿の中庭の中央に設けられた練習場で、同じブラックナイトの一員、リュー・シェンチアン相手にサーベルを振るっていた。
言葉を交わさずとも意思疎通が可能なアコード同士が試合をする際、非アコードにはない読心術の優位性は役立たずだ。
ただ求められるのは純粋な身体能力と、その身体能力を支える剣術の熟練度だ。
搦手なし、力のみ、勝者あり。
シュラとリューは互いの動きを瞬時に読み取り、次の一手を予測しながら剣を交えた。
やがてシュラはリューが放った単調な剣閃をかわすと、わずかに生じた隙を縫うように鋭い刺突を放った。不完全な姿勢でその一撃を受け止めようとしたリューのサーベルは弾き飛ばされ、少し離れた芝生の上に転がった。
「やれやれ、シュラには勝てませんねぇ」
リューは敗北を認めながらも、特に悔いはない様子で肩をすくめる。
シュラはアコードの中でも特に“戦士”の運命を望まれたものとして、女王親衛隊“ブラックナイトスコード”の隊長を務める他、この国の軍事機関の最高責任者を任されるなど宰相オルフェとも実質的に対等な関係にある。
事実、その戦闘能力は精鋭揃いのアコードの中でも突出しており、今までモビルスーツ操縦や剣術において敗北した記憶などなかった。
戦いはシュラにとって最大の生きがいであり、勝利は彼の最大の誇りだった。そんな彼にとっては、同じアコードであろうと勝利は当然の結果に過ぎなかった。
しかし、リューとの戦いはシュラに物足りなさを感じさせた。
誇り高きブラックナイツのメンバーでありながら、あの日邂逅したレジスタンスに純粋な戦闘技術で劣っているとは情けない限りだ。
シュラはリューに対する軽蔑を心の奥に隠しながらサーベルを拾った。そしてアウラとの謁見を終了し、イングリットに宮殿を案内されているらしいコンパスのメンバーとその先頭を歩いていたアスランの前で立ち止まった。
「一手、ご指南願えますか、ディノ司令?」
シュラは冷静に問いかけると、手にしたサーベルをアスランに差し伸べた。
掴んでいる情報によれば、別行動だった“フリーダムキラー”と“キラ・ヒビキ”の到着は少々遅れているらしい。
そんな状況下でアスラン・ザラを打ち負かすことは、自らの実力とアコードの優位性をコンパスに証明する最良の方法だ。
「いや、俺は……」
しかしアスランは少し躊躇したように言葉を詰まらせた。すると、シュラの後ろからブラックナイトスコードのメンバーたちの嘲笑が飛び交った。
「へぇ。司令さんは怖いのかい?」グリフィン・アルバレストが挑発し、
「コンパスって、案外たいしたことないんじゃない?」とリデラード・トラドールが大声で笑い、
「それはこないだ実証したし」とダニエル・ハルパーがぼそりと付け加えた。それは先日起こった、ジャスティス強奪事件のことを揶揄したものだった。
すると自分達に対する挑発と受け取ったのか、アスランの背後にいた者達が反応を始めた。
「冗談は髪型だけにしとけよ」と
「ガキや病人よりはマシだ」と
「お客人に失礼ですよ、貴方達!」
一触即発の雰囲気を察した案内役のイングリットが割って入ろうとする中、アスランは憤慨して飛び出そうとしたシンを静かに止めた。
「分かった。だったら手合わせさせて貰おうか」
「そうこなくては」
シュラはアスランの意思を認めると、練習場の中央でサーベルを手にした彼と対峙した。
どうやら自分と、ブラックナイトスコードの実力を量ろうとしているらしい。
如実に読み取れるアスランの意志に、シュラは自分の剣技とブラックナイトスコードの威信を高める絶好の機会だと嗤った。
「近衛師団長、シュラ・サーペンタイン」
「コンパス司令、アスラン・ディノ」
静かに名乗りあげると、アスランも合わせるような口調で名乗った。
「始め!」
団員の合図とともに始まったアスランとの試合は、シュラが予想したものとは異なる方向へと進んだ。
戦いが始まった瞬間から、シュラはアスランの動きを先読みし始めた。
対するアスランは落ち着いた表情を保ちながら、自信を秘めたエメラルドの瞳でシュラを直視していた。
そして想定以上の身体能力と技術でシュラが思考を読んで放った筈の攻撃を防御すると、時には鋭く反撃した。それはシュラがこれまで直面してきた、どんな対戦相手をも上回る驚異的な戦闘能力を示していた。アスランの卓越した戦闘技術はシュラの攻撃を的確に回避し、適切なタイミングでの反撃を可能にしていた。
僅かな動きで斬撃を払い、下がりながら鋭い刺突を繰り出すシュラに対して、アスランは雷光のように素早い踏み込みを見せた。
その突撃に合わせて宙を舞い、背後に着陸しながら放った斬撃の軌道が見えているかのように、半回転しながら繰り出された強烈な一撃がシュラの刃を阻んだ。
それでも読心術の優位性は大きく、最初は互角に見えた戦いも、徐々にシュラが優位に立ち始めた。シュラはアスランの攻撃意図を察知し、それを踏まえた戦術を展開していった。その精密無比な剣の動きは、常に対応が一歩遅れているアスランを圧倒するかのように見えた。
しかし、試合が進む中で異変が起こった。
「だから夕方集合はおかしいって言ったのに」
「いやー、時差の存在を完全に忘れてたよ」
遅れて到着したキラとクロトが目の前に現れた瞬間、不意にシュラの集中力が乱された。
この一瞬の隙を見逃さなかったアスランは、まさに剣筋を見切っていたシュラの絶対的な防御を破り、その顔に軽い切り傷を与えた。
「くっ……」
動揺を隠し切れないまま剣を振ろうとしたシュラの喉元に、アスランは鋭く走らせた剣先を突き付けた。
それはアスランの勝利を意味していた。
するとその瞬間、ブラックナイトスコードのメンバー間に緊張が走った。特にグリフィンが強く反応し、息を整えているアスランに拳銃を抜こうとホルスターに手を掛けた。
「ブラックナイツもたいしたことねーなぁ」
「よくもった方だろ」
それを見た
「いい加減にしないか、お前達は!」
しかしアスランは興味を失ったかのように剣を引くと、シュラを嘲笑していた青年たちを叱責した。
「すまない。君ならかわすだろうと思っていた。俺のミスだ」
アスランはシュラの方に振り返ると、自分が頬に付けた傷を見ながら謝罪した。
これが母上とオルフェが第一に警戒していた、アスラン・ザラに秘められた
「世界を統べる資格があるのは、力のある者だけだ。君の指揮で戦うのが楽しみだ」
シュラは自身の頬に滲む鮮やかな血を意に介さずサーベルを収めると、アスランを見透かすかのように冷ややかに笑った。その瞬間、再び二人の間の緊張感が最高潮に達したが、その重苦しい空気は長くは持たなかった。
「アスランこそ、いい加減にしてよ」
それは先程から様子を見ていたキラが介入し、シュラの治療を始めたからだった。キラは慎重に傷口の様子を確認すると、慣れた手付きでハンカチを当てて止血した。
「まったく用意がいいやつだな、キラは」
アスランが感心したように言うと、シュラは目の前の可憐な少女を見て驚きの表情を浮かべた。
「君がキラ・ヤマト──“フリーダム”か?」
「え、あ、はい。……一応内緒にしてるので、黙っててくださいね?」
キラは唇に手を当てながら、遠慮がちに笑った。
あくまで世間的には“フリーダム”は第2次大戦でギルバート・デュランダルを支持した末に、隣の“フリーダムキラー”に敗北して討たれたと言いたいのか。
シュラは得心したように頷くと、思わぬ敗北に動揺の隠せないブラックナイツを連れてその場を立ち去ることにした。
──それにしても、いったいどういうことだ。
最後尾を歩きながら、シュラは心の中で静かに呟いた。
キラが現れた瞬間、それまで激しい剣戟を交えていた
それは高度な集中力を必要とするシュラの読心術を妨害し、一時的に無効化してしまったのだ。そうでなければアスランの言った通り、あの程度の攻撃は容易に防げた筈だ。
アスラン・ザラは、ラクス・クラインと結婚した。
今はプラントを追放されたこともあって別性を名乗っているが、少なくとも2人の関係は第1次大戦の末期を除いて基本的に良好だった筈だ。
しかしアスランの心の奥底には、キラに対する深い感情のようなものが実際に存在するのは事実だった。
もしもあのビジョンが真実だとすれば、
──破廉恥な連中だ。
シュラは再び心の中で2人を冷ややかに評した。
そして怪我の治療を受けたシュラは汚れたハンカチを手に取ると、そのまま無造作に懐の内ポケットに仕舞い込んだ。