──マジかよアイツ!!
シンは心の中で叫びながら、緊張感に満ちた足取りでミレニアムの静まり返った廊下を駆け抜けていた。
突如自分に迫ったルナマリアから逃げ出したばかりで動揺していた彼の心は、その現場を目撃したというシャニの報告で更に大きく揺さぶられていた。
幸い未遂に終わったものの、アグネスがクロトに過激な悪戯を仕掛けたというのだ。
普段は怠そうな表情を崩したことのないシャニが妙に真面目腐った顔をしていることからも、アグネスの引き起こした事態がいかに深刻なものであるかを示しているようだった。
シンはアグネスの軽率な行動に失望しながら、要領を得ない報告を続けるシャニと別れた。そしてアグネスが事件を起こしたらしい格納庫へと急いでいた。
するとその途中で、格納庫から離れたのか正面から歩いてくるクロトとキラに遭遇した。
恋人同士であるクロトとキラの異様な姿を目にした瞬間、シンはシャニから聞いたアグネスの悪戯が現実のものであることを痛感した。
特にクロトの状態は衝撃的だった。無数のベルトで身体を縛られたような状態にあり、それはまるで奇妙な拘束具を着せられているかのような姿だった。
クロトの顔にはその厳重な拘束への疲労と屈辱で沈んでおり、一方でキラの顔にはアグネスに対する怒りと、この非日常的な状況に興奮している様子も僅かに感じられた。
「す、すみません! 俺の監督不足で……!」
シンは直感的に、このクロトの奇妙な状態がアグネスの未遂に終わった悪戯の結果だと直感し、深く謝罪しながらクロトの身体を縛っているベルトを外そうと試みた。
するとキラは、反対にそれを咎めるような口調で言った。
「あ、
「キラさんの!?」
シンはキラの言葉に驚き、困惑した声を上げた。
なんとクロトの身体を拘束しているベルトがキラの私物だということに、シンは驚きを隠せなかった。確かにキラは普段からベルトを多用するスタイルを好んでいるが、今の彼女は腰にだけベルトを巻いており、残りのベルトはクロトを拘束するために使っていた。
なんとこのあまりにも奇妙な光景は、キラが引き起こしたものだったのだ。その異様な執着心と独占欲に取り憑かれているような少女の姿は、普段の控えめで温和な彼女とはあまりにも真逆の印象を受けた。
「自由って、大事だよね……」
「分かってるから」
クロトが疲れた声で呟くと、キラは恍惚とした表情で優しく応えた。そして二人はクロトの部屋へと続いている廊下を、キラが先導する形で歩き始めたのだった。
この状況はある意味で、コンパスの任務以上に複雑な何かを含んでいるようだった。
シンはこの異様な光景に、平凡な恋人同士と思われた彼等の関係に対する自分の理解が浅かったことに気付かされた。
「流石だな」
するとシンの背後から三人の状況を伺っていたらしいアスランが、感心した声を投げ掛けた。
悠然と腕を組み、二人の後姿を静かに見送っているアスランの真意が理解出来ず、シンは慌てたような口調で尋ねた。
「な、何が流石なんすか? 止めなくていいんすか?」
「あぁ。キラは昔から
シンは二人の関係性への深い理解を示唆した意味深な言葉を飲み込めず、その場に立ち尽くした。そして目の前に展開されている不可思議な光景に、さらなる動揺と混乱を隠せなかった。
私は何を見せ付けられたのだろうか。
蹴落とそうとしていた女に一蹴され、その上狙っていた男の唇をあっさり奪われた耐え難い光景。
一瞬だけあの女と目が合った。
私はあの地味な女に、まるで毒虫を見るような冷たい瞳で見下されていた。自分達はお前など最初から眼中にないのだと言わんばかりのその視線に、私は思わず怒りに震え、正気を保つのがやっとだった。
そして私も誰かとあんなふうに、全てを肯定されるような口付けをしてみたいと心を過ったことに強い憤りを感じた。
──世界平和監視機構“コンパス”には、ブエル隊と並んで双翼と謳われる精鋭部隊“アスカ隊”が存在する。
その白き遊撃手こと“月光のワルキューレ”アグネス・ギーベンラートは、クロトとキラが最終調整を終えたばかりの“ライジングレイダー”を収容した格納庫で清掃作業に従事していた。
普段、お付きの整備士達に雑務を一任しているアグネスが、こうした作業を自ら行うのは極めて珍しいことだった。しかしたった彼女がたった二人で作業に没頭しているのは、彼女と彼が上官に対して不適切な行動を取ったため、その処罰としてこの清掃任務を課されたからだった。
広報部から支給されている洗練されたデザインの制服を脱ぎ、芋っぽい作業着に着替えて床にこびりついた汚れをモップで嫌そうに擦り取っている彼女の姿は、クロトから与えられたこの処罰と、この予想以上に散らかされたまま放置された格納庫の状態に強い不満を感じていることを物語っているようだった。
「あのクソチビが……。このわたしになんて屈辱を」
「聞こえてんぞ」
アグネスは格納庫の反対側から発せられた、ブエル隊の蒼き狙撃手ことオルガ・サブナックの声を耳にした。
彼女が清掃作業に没頭している間、オルガはクロトが散らかしたまま放置した整備用の機材を元の場所に戻していたのだ。
翠の突撃手ことシャニ・アンドラスとは異なり、アグネスの不適切な行動に関与したオルガも、アグネスと同様に清掃の罰則を言い渡されていたのだ。
こんな育ちの悪い不良と誰からも愛される筈の自分が、どうして同じ罰を受けているのか。
不満を聞き流しながら軽薄に笑いながら作業を続けているオルガに、アグネスは無性に苛立ちを感じた。
「ザフトじゃどうだったか知らねーけど、上官に対する暴行未遂にしちゃ大甘だろ」
「どういう意味? あんたも私が悪いって言いたいの?」
「どうだかな。でもアイツはお前みたいなタイプが一番嫌いだと思うぜ」
アグネスが反論すると、オルガは意味深な口調で言った。
やがて清掃作業を終えたアグネスが格納庫の出口に足を踏み出そうとした瞬間、彼女の背後からオルガの声が冷たく響いた。
その掌には、何の変哲もない外見とは裏腹に厳重なプロテクトが施されたデータディスクが握られていた。
「なにそれ?」
「アイツがコソコソ集めてた捜査データ。お前も見るか?」
アグネスの不審そうな視線に、オルガは少し間を置いてから返答した。その口調は平穏なものだったが、どこかアグネスの反応を試しているような響きがあった。
その捜査データは本来厳重なセキュリティに守られているものであり、アグネスのような階級の者には決して開示されないものだった。しかしクロト直属の部下であり、かつてオーブの特殊部隊に所属していた過去を持つオルガは、その数少ない例外の一人だったのだ。
アグネスの心はこのディスクに秘められた情報を入手する潜在的なリターンと、それを利用するリスクの両方で緊張した。オルガの提案の背後にある真意を探ろうとしたが、冷たい瞳をした彼の意図は掴めなかった。
それでも未知の情報への好奇心と、現状を打破する強い願望がアグネスを前に進ませ、オルガの不可解な提案を受け入れる決断を下させた。
オルガの部屋へと足を運んだ彼女は、彼がディスクを専用のノートパソコンに挿入する様子を、静かな緊張感を胸に秘めて見守った。
画面に瞬く間に展開されたのは、明日コンパスと共同作戦を展開する一方で、潜在的な敵対勢力の可能性が高いファウンデーション王国に関する重要な情報だった。アグネスは画面に映し出される内部情報に目を奪われると共に、この情報が自分の未来にどのような影響を及ぼすかを考えながら、同時に新たな可能性に胸を膨らませた。
「これで、アイツに一泡吹かせることもできるんじゃねーの?」
オルガの嗤うような言葉に、アグネスは薄く微笑んだ。
この重大な情報が自分にとってどれほどの価値があるか、アグネスは誰よりも深く理解していた。彼女は心の中でこの情報を活用して自分の地位を確固たるものにすると共に、コンパス内での自分の価値を証明する機会として利用することを誓った。
しかしその直後、静かな水面に石を投じられたように、アグネスの心の奥底に秘められた過去の記憶が蘇り始めた。
それはかつて“月光のワルキューレ”と讃えられ、月軌道艦隊でその名を馳せる以前からの記憶だった。
プラントの高官でコーディネイター至上主義のザラ派に所属する彼女の両親は、アグネスに生まれながらの才能を与えるために、巨額を投じて彼女の製造に遺伝子操作を施した。
こうして獲得した才能を世界に示すことで自己の価値を証明するため、アグネスは両親の反対を押し切ってザフトへの入隊を志願した。
アカデミーでは常にトップクラスの成績を保ち、最終的に次席で卒業したアグネスの配属先は月軌道艦隊だった。
そこで彼女は自らの腕前と優れた容姿を理由に軍の広報として宣伝され、月戦線で活躍したことから“月光のワルキューレ”の異名を獲得した。
ファントムペインに代表される精鋭部隊や、当時は“天帝墜とし”などと恐れられたエース級の敵と遭遇しなかったことから、アグネスは真に危険な戦場をほとんど経験することなく、井の中の蛙としての生活を送っていた。
誰よりも優秀で美しいアグネスは、しばしば自分に言い聞かせている。
もし自分が"インパルス"のパイロットに選ばれていたら、彼女はデュランダルの贔屓に過ぎないシンを遥かにしのぐ戦果を挙げていただろうと。
しかし、この自負は彼女の深層にある自己の価値への不確かさと相反するものだった。
それを彼女に鮮明な形で示したのは、第二次連合・プラント大戦の顛末だった。人類史上二度目の絶滅戦争が意外な形で終結したことは、アグネスにとって、自分が物語の中心ではないことを痛感させる出来事だった。それどころか彼女の全く関与しない形で終わりを迎えたことで、彼女はまるで自分は脇役ですらないかのように感じた。
あと一歩で世界を支配する筈だったデュランダルが何者でもなかったナチュラルに討たれ、彼の運命計画も失われた後、世界は混沌としながらも新しい時代の幕開けを迎えようとしていた。
──私だって、好きで──。
アグネスは、自分の魅力を駆使して欲しいものを何でも手に入れる術を持っていた。彼女は関心のない相手には冷たく接し、魅力を感じる相手には相手が望むタイプに無意識のうちに擬態する。しかし、その真の姿を理解している人はほとんどおらず、彼女の本性を知った多くの人々は、彼女の我儘さを嫌い去っていった。
心理学ではステータスを追求する人の背後には、自信の欠如や自己価値の喪失への恐怖があるらしい。
アグネスはふと、自分もその心理学的な見解に当てはまるのではないかと考え始めた。自己価値に対する強迫的な執着が、彼女の恋愛関係にも明らかに影響を及ぼしていた。彼女は自分を選ばない男性、特に恋愛において自分の価値を認めない者に対して、本能的な警戒心と深い不満を感じていた。
恋愛における彼女の“擬態”は、彼女が自分の価値を安売りすることなく目的を達成する手段だった。しかしこの徹底した“擬態”が、彼女の恋愛経験を制限し、ある意味で最も重要な能力である男性を見極める力を養わなかった。結果的に、アグネスは人生で何度も誤った選択を繰り返してきた。
あの世間を騒がせた“ジャスティス強奪事件”が起こったのも、アグネスに異性を見る目がなかったからだ。
またアグネスは人の彼氏を奪うことで、自分がその男性の元の彼女よりも上であるという事実を証明できれば満足してしまう。この行動は、彼女に一時的な優越感を与え、自己価値の確認に繋がっていた。しかし彼氏ができると、アグネスはもはや相手に擬態する必要性を感じなくなり、関係は短期間で終わることが多かった。擬態することなく本来の自分をさらけ出すと、彼女はすぐに興味を失ってしまうのだ。
コンパスへの加入は、アグネスにとって自らのエリートとしての地位を不動のものにし、これまで抱えてきた不安や疑念を一掃する絶好の機会だった。
アスラン、あるいはクロトのような陣営・人種を超えた英雄の心を手に入れることができれば、自分の価値を証明できると確信していた。
しかし現実の自分はキラに女性として完敗し、オルガの甘言に誘われるまま彼の部屋に足を踏み入れている。
アグネスはオルガの冷ややかな視線を受け流しながら、室内に並んでいる無数の書籍に目を向けた。単純な娯楽小説どころか専門書、哲学書に至るまで、彼の知的好奇心の広がりを示す書籍が転がっていた。
遺伝子操作を施されていない下等種族──ナチュラルとはいえ、そこらの有象無象とはそもそもの出来が違うということか。
「口説き文句の出来が良ければ、ご褒美をあげてもいいわよ」
「大昔の貴族かよ」
アグネスは嘲笑うように返答したオルガを挑発するように、自信満々な口調で言った。
「私、綺麗じゃない? 魅力ない?」
とはいえ、所詮は無名の三下だ。どれだけ美辞麗句を連ねたとしても、手酷く拒絶してやる。
そう思っていたアグネスに、オルガは罠にかかった獲物を見るような視線を向けながら、そっと赤い髪を掻き上げた。
「どこかの馬鹿に合わせた化粧以外は完璧だ。月光のワルキューレ」
その意外にも甘い言葉を聞いた瞬間、不意にアグネスの瞳から涙が溢れた。
何やってんだよ、団長ォ!(オルガ違い
でもオルガくんも育ちが悪いことを除けば、そこらの赤服とは比較にならないくらいぶっ飛んだステータスを持ってるからセーフです。