手を引く音階   作:ととと

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わたしは、エンドロールを知らない。





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 わたしがあの人に会ったのは、わたしがまだ小学生の頃だった。

 

 凍えるような冬。リビングでピアノを弾いていると、母と一緒に貌の知らない人が歩いているのを見た。楽しそうに、懐かしむように話す両親に対して、あの人は少し困ったように笑っていた。

 わたしは、それをぼんやりと見ていた。たぶん、口を開けて。

 

 青年だった。白磁のような白い肌に、雨の夜のような黒髪。この辺りでは一番頭のいい高校の制服に身を包んでいた彼は……美しかった。この世に存在する絶景、美女、美術。それらよりも彼は美しく、尊く、綺麗に見えた。まるで雪月花のような……そんな人だった。吸い込まれそうな漆黒の虹彩がわたしに向けられたとき、わたしの頭が熱くなるのを感じた。あの人に、わたしは母性を感じていた。

 

 ──────久しぶりね、元気にしてた? 

 

 ──────はい。

 

 ──────しばらく見ない間に大きくなったね。

 

 ──────成長期ですから。でも、もう終わってしまいました。

 

 そんな会話をバックミュージックに、わたしはピアノを弾いていた。おそらく、両親の旧友の子どもか、親戚の人だろう。懐かしむように話す母と、あまり記憶にないのか困ったように笑うあの人。

 音階を弾く指先と、わたしの頭。その2つは全く別のことを行なっている。メロディに乱れはなく、むしろ最も綺麗に弾けていると胸を張れる。でも、頭は、視線はあの人に向いたまま。

 

 ──────なにか不自由はしてない? 

 

 ──────特には。お気遣い、感謝します。頂いた花も備えさせてもらいました。父母も、きっと喜んでいます。

 

 ──────何か困ったことがあったらいつでも言ってね。

 

 大人びている、と思った。受け答えや、雰囲気が。色気、とでも言うべきものだろうか。何処となくふわりとしていて、芯はしっかりと。蜃気楼でありながらも、実体を持つ。現実の虚構。わたしには、少し刺激が強い。

 

 わたしには母がいて、父がいて、友人がいて。何一つ不自由のない生活を送っている。両親から愛され、厳しく優しく大切に育てられ、沢山のものを与えられた。それでも、わたしはあの人に確かに母の面影を見た。わたしの母とは何もかも似ていないのにも関わらず。

 わたしは、母の旧知の仲である年上の青年に母性を見出した。

 

 あの人の笑顔は、昔使っていたブランケットのようだった。いわゆる、おひさまの匂い。或いは、寝る前の絵本。暖かくて、いい匂いで、誰もが安らぎを覚えるもの。何もかもを包み込み、溶かして、許してしまいそうな……魔性とは口が裂けても言えない、まるで聖女のような貞淑と清廉さが内在していた。

 わたしはまた、ピアノを弾く。あの人の胸の中で眠りたいな、なんて事を考えながら。

 

 あの人は、あれから時折家に来た。一月に一回くらいの時もあれば、間を置かずに来た時もあって。リズムというものが存在しないあの人の来訪が、わたしには眩しく覚えた。あの人にはあの人の生活があって、人生がある。それはわたしのものと交わることがないはずなのに、この場所では交錯する。まるで人生の交差点みたいだった。

 

 あの人はよく陽だまりを好んでいた。リビングの真っ白なソファ、その右端にいる。あの人の正面にはクッキーと紅茶、またはコーヒー。なんとなく大人だな、と思うような組み合わせ。わたしには手の届かない世界を、あの人と両親は見ている。クッキーは甘くなかった。

 そんな陽光の溜まり場で、あの人は決まって本を読んでいた。白いブックカバーと、栞。文字列に目を落とすあの人は風景画のように美しく、話しかけることも憚られた。わたしが演奏をやめると、静寂な空間にはわたしの鼓動と、呼吸音。そして、あの人がページを捲る音だけ。時間から切り離されたような世界が、わたしの全てだった。

 ピアノの練習が終わると、わたしは静かにあの人の隣に座り、微かな期待を胸に気を引こうとしていた。そうすると、あの人はわたしの頭を撫でてくれる。わたしの頭の形を覚えるように、優しく。それはわたしの狙いが当たった瞬間でもあり、打算がばれた瞬間でもあった。頭を撫でてくれた喜びと羞恥心で、わたしの顔は熱くなった。

 

 あの人が訪れるのは、決まって晴れの日だった。おひさまがみんなを照らす良い天気。そんな日に、あの人は本を読んでいる。そうして次の日には痕跡も残らずいなくなってしまう。まるで煙のように。そして、また次に訪れるまであの人は幻想の存在になる。

 あの人は白いシャツと黒のスラックスを纏っている。家に来るときは決まってその服装で、ある種のシンボルになっていた。靴はプラダのローファーを履いている。その3つと本で、あの人はこの家に訪れていた。

 

 それから、わたしは本を読むようになった。あの人は、本は人生を豊かにする、言葉は生活を彩る色彩だよ、と言っていた。まるで学校の教師が言うような言葉で、あの人はわたしに読書を勧めた。

 

 ──────君の音楽が、君の経験になって血肉になる。それと同じように、本から得たものは言葉になって君の脳に記憶される。それは衰える事のない血肉になって、君の人生を豊かにする色彩になる。たまには信条を曲げて、読書に耽るのもいいんじゃないかな……。

 

 あの人はどんな世界を見ているのだろうか。あの人の視界でわたしはどの様に見えて、どんな音を聞いているのだろうか。それを知りたくて、あの人と同じ目線に立ちたくて……わたしは本を読んでいる。

 

 あの人は電子書籍が普及しはじめている昨今に逆行するように、紙媒体の本を勧めてきた。ずいぶん古風な人だな、と思った。あの人らしいとも。あの人と出会って5年以上経った今でも、わたしは紙の本を読み続けている。

 

 ──────電子書籍はデジタルなもので、基本的には0と1の羅列で表される情報媒体だ。それはSDGsが意識されてる今ではとてもクリーンで、環境に優しい本だけども……本は、ただ文字を読むものじゃないからね。紙の本にはページを捲る感覚が指先にあって、紙の匂いがする。それは電子書籍では得られない感覚であり、紙の本だけに許される特権さ。だから、君には紙の本を読んでほしい。電子書籍は味気ないからさ……。

 

 ペラペラとページを捲る感覚、指先から伝わる紙の質感。確かに、電子書籍では得られないもの。わたしが本を読み始めてからは、わたしがあの人を呼ぶこともあった。なんとなく、あの人に本から得たものを聞いてほしくて。読書感想文とはまた違う、内容のディスカッション。その本で思ったこと、感じたことを言葉にして。それをあの人は同じように言葉した。わたしでは考えが及ばなかった事を言ってくれたり、新しい側面を見つけてくれたり。あの人とする本を使った対話は、楽しかった。そうして新たに得た知識で、もう一度同じ本を読む。わたしの世界は、そうして拡張された。

 

 最近はあの人が知らない事を知りたいと思うようになり、映画を見始めた。学生割引で安くなったサブスクを契約して、近場のレンタルショップでサブスクにない映画を漁る。深夜にわたしは紅茶とクッキーを片手に、上映会を始める。夜更けまで。

 

 沢山の本を読んだ。恐らく、1000冊は超えている。映画も古今東西のものを年代問わず見た。音楽も続けていて、最近は新しい趣味を通じて友人もできた。

 わたしは、あの人の話についていけるだろうか。

 

 だけど、それを確かめる術はない。あの人は蜃気楼のように消えてしまった。あの人は本当に幻想になってしまった。あの人の高校卒業を機に、すっかり疎遠になってしまった。まるで結びつけていた糸を鋭利な鋏で切られたように。両親も、あの人の正確な行方は知らないようだった。

 ルールや決まりといったものをすり抜けるように、わたしたちの認識の隙間を通り抜けるように、あの人は消えてしまった。思えば、あの人自身のことをあの人は何も話してくれなかった。わたしがあの人について知ってるのは、あの人の両親に不幸があったことくらい。わたしの母や父も、あの人の事はあまり知らないだろう。あの人は、ひどく透明だった。

 

 それから、わたしは夢を見るようになった。休日の晴れた日……あの人が訪れたであろう日の夜に。

 いつものように、ソファに座って本を読むあの人の向かいにわたしは立っている。言葉はなく、ただ静寂が流れるだけ。わたしもあの人も全く動かない。でも、その均衡をわたしは崩す。わたしはあの人を押し倒して、全身の力を込めて首を圧迫する。優しい陽だまりのようなあの人を、わたしは欲望のままおぞましく汚していく。白いシャツを、美術品のようなあの人を、赤黒く染めていく。あの人は微笑を浮かべたまま。

 あの人が動かなくなるまで細い首を圧迫したあと、わたしは声をあげて泣きじゃくる。わたしが壊したあの人の屍を抱き締めながら。

 

 夢の最後、わたしはあの人の心臓と脳を抉り出して、必ず食べる。あの人の命を、わたしの血肉に変えていく。

 

 ──────今夜も、晴れだった。

 

 

 

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