大天使エイスリンちゃんに罵倒されながら国際交流する話 作:アライ
さて、困った。
順番の違いはあれど、一日のルーティーンは基本的に決まっている。特に日が降りてからの流れは一年を通してずっと一緒だ。ご飯を食べた後は風呂に入って、その後布団で寝る。何てことはない、シンプルな生活だ。
しかし、ここで問題が発生する。
「
エイスリン先生はそこそこの広さがある我が家のバスタブを、珍しい物を見るかの様にまじまじと観察していた。何故それ程までに珍しがっているかと言えば、深ーい各国のお水事情が関わってくるらしい。父から聞いた。
まず、日本では当たり前の様に水道の蛇口からそのまま飲める水が出てくるが、これは世界的に見てもとても珍しいモノだと言われている。およそ二百種類もある厳しい水質検査により水道の水質基準が守られ、安全な水として各家庭の生活用水や工業用水に用いられているという訳だ。
水道水が安全な国というのは、世界には数える程しか存在しない。だいたい日本を含め15か16ヶ国あたりか。お風呂で使う水は飲まないから関係無いだろうと言われれば確かにそうなのだが、浴びる水にも最低限の水質管理は必要だ。ここである程度の水質基準が求められる。
それで、エイスリン先生の祖国であるニュージーランドはというと……。
なんと日本と同じ様に水道水が直接飲める数少ない国の内の一つである。
えっ、そこは飲めない国だからじゃないんかい、と父から聞いた時は思わずそう返してしまったが、やはりそこにも深ーい各国のお水事情が関わってくるらしい。ここでいう事情とは、安全性よりも温度の話だ。環境の違いとは難しい。
ニュージーランドでの温水は日本の様に赤い蛇口を捻れば自然と出てくる物では無く、予め大きな貯水タンクに貯めていた物を取り出して使うという方式らしい。それ故に、一度に使うことが出来る温水には限りがある。上水道の設備の関係上、上水道そのものに温水を作り出す設備を各家庭に取り付けるのは難しいとか何とか。一家庭に置かれるこの貯水タンクはだいたい150Lくらいだろうか。大きくても200Lいくかいかないかというワケだ。
この貯水タンクに温水を貯める方式は、別にニュージーランドだけで見られる物では無く、アメリカやヨーロッパでもごく一般的に受け入れられている方式らしく、別に珍しい物では無いとのこと。
温かい風呂に全身を深く沈めるとなると、最低でも170L程は温水が必要になるか。これだけでもう貯水タンクの水は無くなってしまう。このため浴槽に温水を張るという行為が忌避され、ニュージーランドの人達は自宅ではシャワーのみを使って身を清めるのが普通らしい。
だからエイスリン先生は、物珍しい物を見るかの様な目で浴室設備一式を見ているのだろう。
まあ、バスタブが普通にある家庭も有るらしいのだが。
こういう家庭に日本人がホームステイしに来て、初日に家主に何も聞かずに温水をたっぷり使ってしまい、ドン引きされるのはよくある失敗談らしい。罠かな?
「
エイスリン先生が何やら呟いた。
温かい春……? 温泉だろうか。
良く聞こえなかったが、まあ恐らく温泉だろう。
その代わりにニュージーランドでは温泉やスパリゾート(サウナや岩盤浴を擁する入浴施設)が多く、キーウィ達はそこに挙って通っているらしい。
日本も相当数温泉がある方なので、こういう所は似ているのだろうか。
ここ岩手で有名な温泉と言えば花巻温泉なのだが、宮守の地からでは少々遠いのが残念な話である。
で、問題は何かというと……。
この風呂を家族共用で使うという事だ。勿論、その中には目の前にいるホームステイしている留学生も含まれる。
エイスリン先生も含まれる。
どうすんのこれ。
「
まあ、先に入って貰う事になるのだろうか。一番風呂というヤツだ。
追い焚きは出来るとはいえ、客人を後にするのも変な話だ。ここはおもてなしの心を表す事にしようか。
「
そう意思決定すれば、エイスリン先生が態とらしくにやにやと笑った。
こ、コイツ……あまりそういうのは考えない様にしていたのに……。
わざわざ馬鹿にする様な態度で接してくるとは、一体何事なのだろうか……。
このままだと決まりが悪いので、さっさと彼女に先に入れと促す。
「
そうすれば、先程とはそのまま。感情を全面に出しながら煽ってくる。翻訳はせずとも流れで分かる。
くっ……誰か覗くか。
「
エイスリン先生は遥々ニュージーランドから持ち込んだ荷物の中から、何やら一つの衣類を取り出した。
見せつけてる様に動かすものだから、自然と目がそちらへゆく。
えっと……この可愛らしいフリフリの布切れは一体何なのでしょうか。
「
水を通す事が考慮された、普段着では無いだろう特徴的な衣服。
ちょっ……
これ、水着じゃないですか……
な、なんてもんコチラへ見せつけて来ているのでしょうかこの人は……!
「
驚愕の念を全面に押し出して答えれば、頭にハテナマークを浮かべた様なエイスリン先生が表れた。
ああ……分かった。何となく聞いた事がある。
外国の人達は温泉の様な公共の場で湯に浸かる時、水着を着用すると。それで、殆どの所で混浴なんだっけ……?
日本で言う市民プールの様な物らしく、そんな場で水着を披露するのはそれほど抵抗がある物では無いらしいとか……。
いや、ここ公共の場じゃないからね。
……でも風呂に浸かる事と温泉に入る事を同義と考えるなら、何もおかしな事じゃ無いのか。
う~ん、難しいものだ。
「
「
環境の違いによって引き起こされる価値観の相違について悩んでいれば、後ろから間延びした母の声が聞こえてくる。
一連の流れをずっと見てたんですね。びっくりしました。
何かエイスリン先生に言ってやってください。
「
そんな願いも通らず、エイスリン先生は水着を持ってすたすたと風呂の手間にある脱衣場に入っていってしまった。
その動きや、至って迅速であった。
何か、どっと疲れた気分である……。
取り敢えず、炬燵まで戻ってゆっくり揺蕩う事にしよう。
「
そんな事を考えながら踵を返せば、扉の中から英会話が聞こえてくる。
誰が覗くか。
◇
今日はもう駄目だ。風呂で一瞬寝かけた。
入浴中に何やら柑橘類が持つ甘やかな香りが漂ってきて、眠りに誘われてしまった。
風呂で意識を失うとは、死ぬつもりなんですかね。
「
「
母とエイスリン先生が会話をしている。相変わらず流暢な事で。
それはそうと、お風呂に何か入浴剤の様な物が入っていた気がする。あれは一体何なんだろうか。
「シトラスの香りがする入浴剤だって」
そんな事を考えていれば、図らずも母が疑問に答えてくれた。
シトラス……? シトラスって何なのでしょうかね。横文字は分かりません。
「う~ん。簡潔に何かって言うのは難しいけど……柑橘系の総称かな」
なるほど。シトラスとはそんな意味を表しているのか。
柑橘系と言えばみかんやスダチ、それにレモン等を含む様々なミカン属常緑樹の総称を示す言葉だ。まあ、確かにそんな香りはした。
ニュージーランドと言えば南国だ。毎日たっぷりと陽光が降り注ぐその南国の地は中々に栽培地として適している事だろう。
その入浴剤に使われているシトラス……それはニュージーランド産なのだろうか。
「
「どうだったかってウィッシュアートちゃんに聞かれてるぞ」
脳内で感覚を思い浮かべていれば、座ってテレビを見ていた父からお声が掛かった。
何かこうして翻訳されていると申し訳なく感じてくる物が有る。早く英語を学んで上手くなれる様に成らないとなあ。
……いや、エイスリン先生に日本語を学んで貰う方が先か。その為にホームステイしに来たんだろうし。
日本語は難しいぞ。カタカナやら漢字やら敬語やらで、世界で見てもトップクラスに面倒くさい言語だ。
頑張って日々邁進してくれたまえ。
「早く答えろって」
「はい」
急かされた。とりあえず、本心のままに心地良さを述べる事にしよう。
思わず寝てしまう程良かったです。
そんな風な感想を翻訳してエイスリン先生に伝えて貰った。
「もうちょっとな、良い感想があっただろう……」
「
「ちょっとそれはね~……」
そうすれば、何故か三人全員に微妙な顔をされてしまった。
ええ、なんで……?
星が瞬く姿がくっきりと見える程、空が暗く更け渡った頃。
エイスリン先生は北側にある一室を寝床として与えられた。ここは恐らく、祖父母のどちらかが大昔に使っていた部屋だったか。推測なのは、自分が産まれて物心が付くよりも前に二人が死んでしまったからである。
小さな書斎も同時に兼ねているこの部屋は様々な蔵書が収められているが、もう人の手によって開かれる事はあまり無いのだろう、少し寂れた雰囲気がする部屋だった。
正直、幼稚園位の歳の頃はこの部屋が怖くて仕方なかったが、天国に居る祖父母にして見れば失礼な話である。何十年も霊が住み着いているとか、そんなオカルト有り得る訳が無いのに。
エイスリン先生をそこに向かい入れるに当たって、父と母は場を整えていたのだろう。数日前に、この部屋は大掃除がされていた記憶がある。
そんな訳で、この部屋が彼女の仮の住居という事になる。少し暗い印象はするものの、窓からは満点の星空を眺める事が可能なので中々いい場所だ。
「
白と薄い桃色が織り成す、儚い彩色のパジャマを着たエイスリン先生が荷物を持ちながらやって来た。
多分そうみたいですと、身振り手振りで答えた。
「
エイスリン先生は書斎に置かれた本の題名をすらっと上から下まで流し見ると、少し感慨深い物があると言わんばかりの表情で何やらそう答えた。
母国の第一言語で書かれた本を、遠く離れた異国で見つけた時の気分はいかに。
「
読んでみてもいいか、だろうか。まだ一日が経っただけだが、何となく彼女の言いたい事が分かってきた様な気がする。
う~ん……多分、良いんじゃないでしょうか。正直、このままだと誰にも読まれずに放置されると思うんで。
まあ、何か有って怒られたら、自分がけしかけたという事で責任を取ればいいや……。
そんな感じの事を頑張って伝えた。
いや、頑張っては嘘だ。実際はオーケーしか言っていない。
「
そうやって伝えれば、彼女は手放しの喜び様を全身で表していた。
やっぱり、言葉は分からずともボディーランゲージは全国共通の言語なんですね。ジェスチャーは大事だ。
「
しかし流石に今から本を読む気力は無かった様で、エイスリン先生は小さな欠伸を上げていた。
彼女の視点では今日だけで色々な出来事が有ったはずだ。よく今に至るまで、その疲れを外に出さなかったモノである。
つられて自分も眠くなってきてしまった。これ以上はもう耐えられないだろう。さっさと自分の部屋に戻って寝よう……。
「
そう決意すれば、エイスリン先生が何かを喋った。
ああ、これは……おやすみの挨拶をすれば良いのかな。多分そうだろう。
「
それくらいは英語で言えますよ。
思考を回さずとも出てきた言葉を呑む事無く発せば、返答が聞こえてきた。
「オヤスミナサイ」
そう言って、彼女は部屋へと戻っていった。
あれ、何か日本語が聞こえた様な気がするが……気のせいかな……。
その後、考える間もなく眠りに落ちた。
やっと一日目が終わったぞ……
書き溜めが無くなったのと、忙しくなるので不定期更新になります。