東北にはサイクルがある。
五年刻みの、悪夢のようなサイクルが。
この地方――特に岩手・青森・秋田の三県。ここらに於ける農業は、五年間のうち一年はまず大飢饉、二年が飢饉、残り二年で漸くのこと平作あるいは豊作と、こんな周期をいついつまでも繰り返す定めにあるのだと。呪いめかしい、さても不名誉な認識が、ほんの百年以前まで罷り通っていたものだ。
理由は何か、いったい何時の頃からか、調べるのも億劫になるほど古い古いこの因縁――。
だが、なればこそ彼の地には、他に見られぬ特異な食文化が根付いてもいる。保存食の発達が著しいのだ。干し菊などは、今でも青森の名産として名が高い。
秋、黄菊の花を採取して、蒸し上げたあと型に入れて天日に晒し干しあげる。蒸し過ぎると黒く変色してしまうので、そのあたりの加減がなかなかどうして難しい。慣れを要する。
出来上がった干し菊は胡桃や胡麻の和え物にしたり、ひたし物にしたりして、特に冬から春にかけての食物になる。栄養価は意外と高い。
「菊は菊でも、東北の菊でなくちゃあだめだ」
他所の土に生えたのは、苦くてとても口に運べたもんじゃないとは古老の言。
この評価には、長年喰い続けたゆえの、舌の慣れもあったろう。
出来上がったモノは
水に浸しただけでも喰えるし、乾いたまま口の中に放り込み、唾液で湿らせよく咀嚼して呑み込んでも構わない。腹持ちも優れているという理由から、兵糧としても好まれた。一升程度を携えて出陣する国人が、戦国期には多かった。
まこと、喰えるものは何でも喰って苛酷な年を凌いだのである。
が、しかし、如何になりふり構わず足掻こうが。
それでもなお乗り越えられない飢餓の大波が来ることがある。地獄の底が更に抜け、無間の闇を果てしなく落下し続けるような絶望の
他領退散者 3330名
空家 10545軒
天明の大飢饉に於いて、南部藩が被った損害である。
当時、南部の総人口は三十万前後と目されていたから、ざっと五分の一を失った勘定になるだろう。
悲惨どころの騒ぎではない。
潰滅的――存亡の危機といっていい。
この悪夢のまさに最中に、東北を歩いた文人がいる。
彼の名前は橘
その京都にも、東北地方地獄変の噂は盛んに流入していたという。「五穀は尽き、草木の根も葉も藁さえも、あるいは犬猫牛馬鼠鼬に至るまで、糧になり得る限りのものはとうの昔に獲り尽くし、住民はもはや互いの肉を喰らい合う段階にまで至っている」、と。
(まさか。――)
にわかには信じかねる話であった。
噂はしょせん噂、実態から五割増しで語られるのが普通であろう。
が、南谿、後に紀行文たる『東西遊記』を草して曰く、
予が奥州に入りしは午年(筆者註、天明六年)の春なれば、もはや国豊かに食も足るべく思ひしに、卯年(天明三年)の飢饉京都にて聞しに百倍の事にして、人民大かた其餓死し尽して、南部津軽の荒涼なる、誠に目もあてられぬ事どもなり。
どうであろう、肩を落として、疲れた顔で、
「わしの予想は甘すぎた。前評判どころではない。あれを、あんな光景を、天はなにゆえ許すのか――」
痛惜する彼の姿がまざまざと、目蓋に浮かぶようではないか。
南谿は秋田から岩手に入った。
入って早々、髑髏や手足の骨が路傍に散乱すること夥しく、その白さがいやに鮮やかに目についたという。
(
「異やうなるもの」に直面したショックで
「顔をそむけて通り過つる」ような可愛げは、すぐ南谿から失われた。
一里々々進み行くほどに甚枯骨多く、朝の間は五つ見しひるすぎて十四、五も見しといふほどに、その翌日は二、三十も見つれ、又翌日は五、六十もありといふにぞ。
進めば進むほど、遭遇する骨の数がどんどん増えてゆくのである。
(わしはいつ、賽の河原に迷い込んだか)
そのあたりの草むらから鬼が飛び出して来ないのが、いっそ不自然に思われた。
とにかく、死骸をいちいち恐れていては当時の東北は一歩だって歩けない。
南谿は慣れた。杖でしゃれこうべを突っついて多角的に観察し、
火葬せし髑髏と違ひ生骨の事なれば、牙歯も全く備り、婦人の頭あり、小児の頭あり、老人荘者皆それぞれに見わけつくべく、肩肘其外腰眼等の骨の模様逐一に
医術の達人はたとえ骨だけであろうとも、生前の生活習慣や持病の有無を見透すという。
経験を積むにはもってこいの環境じゃあないか、と。
ほとんどやけくそのような心境にまで到達している。
だが、地獄めぐりはまだ始まったばかりなのだ。
外が浜を目指して北上するうち、一泊した女鹿澤村のある宿で、南谿はついに「窮極」と出逢う。
「最初は皆、道に行き倒れた死体の肉を切り取って喰っておりました」
人道に於ける最大の禁忌、
「しかしなにぶん衰弱の果てに死んだわけでございますから。水っ気も失せた、そんな肉が美味いわきゃない。生きてるやつを率先して殺しだすまで、そう長くはかかりませんでした、はい」
人間、ぎりぎりまで追い詰められれば何でもやらかす、本当に限界は無くなるのだと。
想像を絶しきったその有り様を、厭というほど思い知らされる破目になるのだ。