…卯年(筆者註、天明三年)飢饉に及び、五穀既に尽て千金にも一合の米も得る事能はず、草木の根葉其外藁糠或は、犬猫牛馬鼠鼬に至るまで、力の及程は取尽して食尽して、後には道路に行倒、みちみちたる死人の肉を切取食ふ事になりけるに、是も日久しく饑て、自然と死したる人の肉ゆえ、既に腐たる同然にて、其味甚あしく、生きたる人をうち殺し食ふは味も美なれば、弱りたる人は殺して食ふも多かりしなり。
宿の主人は訥々と語った。まるで腹の底に溜まった「何か」を、少しづつ千切り捨てでもするかのように。
それも仕方ない――話す内容が内容である。
「この近くにも家人ばたばたと死に続け、とうとう父と息子だけになった家というのがございましてな」
こんなことを
南谿も、そこは同様だったらしい。石を呑んだように重苦しい主人の貌に、彼はむしろ好意を抱いた。
「窮すれば通ず、と申しましょうか。この父親が、ある日ひとつの計策を案じたのです」
「ほう、策を」
「へえ。策といっても、碌なものではございませんが」
南谿は続きを促した。
聞いてみると、本当に碌な話ではない。
父親はまず、拳を振り上げ隣家の戸板を乱打した。朽木のように黒ずんで、静脈の浮きもまた甚だしい腕だった。
「何じゃい」
ぐわらりと戸が開かれる。
隣人の姿も、負けず劣らず凄まじい。頬の肉がごっそり落ちて、落ち窪んだ眼窩の底で、黄ばんだ目玉がぎょとぎょとと、胡乱な具合に揺れていた。
「さても御互いに空腹なることなり」
かすれ声で切り出した。
幽鬼に相応しい音色であった。
「我家にも既に家内みなみな死うせしに、御覧の如く今は男子一人のみ残れり、是も殊の外にかつへれば、二、三日の間には死すべし、とても死にゆくものいたづらにせんよりは、息ある間に打殺し食せんとおもへども、さすがに親の恩愛手づからうち殺すにしのびず此故に
が、続けざまに持ち出した、「本題」の凄まじさときたらどうであろう。息子もどうせ救からぬ、近々死ぬに決まっとる。ならばいっそ早めに殺して味が落ちるのを防ぐべきだが、流石に人情がそれを許さぬ。わしの代りに、どうかこの作業をやってくれ。報酬は肉の半分だ――。
幽鬼どころの騒ぎではない。
冥府の獄吏、牛頭馬頭どもも
彼はさっそく鉈を手に取り、「獲物」の下へ馳せ向かう。消耗し、既に意識が朦朧としている少年に、抗う術などある筈もなく。
ただ一打ちで、息子は死んだ。
(これでまた、暫くの間は喰いつなげよう)
ほっと胸を撫で下ろす隣人。罪悪感など身体のどこを探しても、厘毫たりとて見付からなかったに違いない。本当にうまい話であったと口の端を三日月に吊り上げたところで――その顔面が、二つに割れた。
「ひゃっ、ひゃっ」
音もなく忍び寄った父親が、後頭部に
死体が、二つになった。それを見下ろす父親の顔は、つい数秒前まで隣人が浮かべていたそれと、寸分違わず同一である。
(馬鹿め、まんまとかかりおったわ)
彼の目的は、最初から
いや、人によっては飢えが募ると頭の中がへんに冴え冴えとしてくるものだ。
こうなるともう、理性などまったく当てにならない。平素であれば彼自身、「鬼畜の所業」と蔑んだであろう行為でも、鼻唄まじりに平気の平左でやってのけるようになる。
この父親は、まさにそういう人間だった。
彼が如何に周到だったかは、なんとこの惨劇を説明するに、「隣家のもの餓たるあまり此の子をうちころし食はんとせしゆえに、仇を報ぜり」――空腹のあまり錯乱し、獣に堕ちて家の息子を殺しやがった不届き者を成敗した。雄々しく仇を討ったのだと、一場の美談に仕立て上げ、盛んに吹聴して廻ったということである。
(何をこの、白々しい)
むろん、こんな作り話を真に受けるほど村人たちはおめでたくない。
が、程度の差はあれ誰も彼も似たようなことをやっているのだ。ひどく疲れ切ってもいる。父親を糾弾するだけの気力を持ち合わせている輩など、一人たりとて居らなんだ。
斯くして彼は公然と、二人の肉を手に入れる。
塩漬けにしたそれにより、一ヶ月ほどは凌げたようだ。
が、天明の大飢饉そのものを乗り越えることは叶わなかった。彼は死んだ。十万を超える死体の山、それを構成する名前もない一粒になった。
(地獄だ。……)
死体にはなれっこの南谿も、これには戦慄せざるを得ない。
胸糞の悪さに、胃が逆立ちして黄水がこみ上げそうだった。
今にいたり東北の事を思ひ出せば、心中測然として気分あしくなる事を覚ふ。只此所に記せるは百分が一なり。
残すところの九十九を、南谿はついに生涯記していない。