骨の大地 ―東北地方地獄変―   作:穢銀杏

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外伝

 

 

 橘南谿が訪れたとき、黒川村ではちょうど池の一つが売りに出されたところであった。

 

「いくらだね」

「五百両でさァ」

「……」

 

 ――馬鹿げている。

 

 と、ここが黒川村でさえなかったならば、南谿もあきれたに相違ない。

 それだけの金を積んだなら、良田がいったい何枚買えるか。考えるだに愚かしいほどの額だった。しかも当の池ときたらどうだろう、田んぼ一枚ぶんにも満たない、小池と呼んで差し支えない規模ではないか。

 本来ならば(はな)もひっかけてもらえぬどころか、

 

「おのれ我を無礼(なめ)るか貴様」

 

 取引する気が無いのなら無いとはっきり言えばいい、それをなんだ、迂遠な皮肉をかましやがって、どんなつもりだこの野郎、曲った性根を叩き直して欲しいかよ――と。

 挑発として受け取られ、喧嘩になってもおかしくはない発言だった。

 ところがしかし、くどいようだがここは黒川村なのだ。

 自然じねんと原油の湧き出す、日本最古の油田地帯なのである。

 

 江戸時代も戦国時代も室町時代も鎌倉時代もすっとばし、平安時代さえ超えて、古色蒼然神さびた奈良・飛鳥朝のむかしから。この地に棲まう人々は油と水の分離法を心得て、その成果物を時の朝廷に献上し、恭順の意を顕していた。

 

 そのあたりの消息は、橘南谿訪問の、この江戸時代中期に於いてもさして変わらず。村人たちは「カグマ」と呼ばれるシダを束ねた道具で以って採油を行い、一つの池から毎日およそ二升ばかりの油を得ていたということである。

 

 これがいい商売になるのだ。

 

『東遊記』から南谿自身の言葉を引くと、

 

 

…されば此辺の人は、他国にて田地山林などを持て家督とする如く、此池一つもてる人は、毎日五貫拾貫の銭を得て、殊に人手もあまた入らず、実に永久のよき家督なり。此ゆゑに池の売買甚だ貴し。

 

 

 まず、このような具合であった。

 今も昔も、エネルギー資源は巨万の富を齎すらしい。

 

 

 

 南渓はまた、同じく新潟県内で、天然ガスの発火現象をも目撃している。

 

 

 

 というよりも、順番的にはこちらが先だ。如法寺村の火井(かせい)こそがすなわちそれ(・・)で、黒川村から南西に、だいたい65㎞ほどの地点に位置しているから、そのぶん旅の出発地点の京に近いことになる。

 以下、再び『東遊記』の文章から該当部分を拝借すると、

 

 

…此村に自然と地中より火もえ出る家二軒あり、百姓庄右衛門といふ者の家に出る火もっとも大なり。三尺四方ほどの囲炉裏の西の角にふるき挽臼を据ゑたり、其挽臼の穴に箒の柄程の竹を一尺余に切りてさし込有り、其竹の口へ常の火をともして触るれば、忽ち竹の中より火出で、(中略)此火有るゆゑに庄右衛門家には、むかしより油火は不用、家内隅々までも昼の如し。

 

 

 噴出口に石臼を据え、節を抜いた竹を刺し、パイプ代わりに用いることでその切り口に火を燈す。

 なんともはや、日本的な道具立ての眺めであった。

 

「これは、いつの頃からこのように?」

 

 南谿の疑問に、

 

「正保二年三月と、そのように伝えられておりまする」

 

 淀みない口ぶりで、当代の庄右衛門は返答(こた)えてのけた。

 

「正保というと、家光公が、たしかまだ」

「へえ、百と四十二年前になりますな」

(なんと、それほどむかしから。……)

 

 流石に目を見張らずにはいられない。

 改めて火に視線を向ける。我ながら現金と知りつつも、謂れを知る以前より光芒が増したようだった。

 

 ついでながら正保二年は西暦換算で一六四五年。

 二〇二二年現在から観測すると、三七七年前に相当する。

 

 

 

 如法寺村の火井については、やがて葛飾北斎もその有り様を描き写し、『北斎漫画』に加え入れるなど北陸屈指の名勝として声威をいよいよ逞しくした。

 明治十一年にはなんと、至尊――天皇陛下のご来臨にさえあずかっている。北陸巡幸の道すがら、めでたくも鳳駕を寄せられ給い、ご観覧あそばされたとのことだ。

 

 幸福な火としかいいようがない。

 

 

 


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