キス……熱く、深く甘い……葉波? そして、岡野と……かわるがわる……
「由! 起きなさい」
うわあっ、葉波が至近距離に。いつものことだけど、こんな夢の直後だとどうも……
「今日出発でしょ? 早く支度しなさい」
うう、夢ではあんなに可愛かったのに……
「あ……もう五時か」
「だから早く起きろっ!」
と、布団をはぎ取られる。前みたいにおねしょ呼ばわりされたら……さらに悲惨なのがこの前みたいに、黙って生ぬるい視線を向けられることだ。
押しのけるように風呂場に飛び出す。幸い下着は無事だった……が、岡野とはちあわせし、また葉波と二人がかりで叩きのめされた。
朝食もいつもより少し豪華で、オレの好物の鶏のから揚げと、オヤジの好物の鯖の味噌煮といろいろな魚を入れた汁、美香が大好きなモンブランと相原家自慢のパパイヤ。
「ちゃんと朝は食べなきゃ駄目よ」
「うるさいな」
「素直になったら?」
岡野の一言につい手が出そうになるが、思いとどまる。もう女の子を叩くことはできない……出会ったのがもっと昔ならよかったのに。葉波みたいに遊んだりケンカしたり……
しばらくはうちで食事をすることもない、などと思ったら弱虫扱いされる。船で、そして本土では何が食べられるか楽しみにしないと。
「じゃ、行ってくる」
なんだか照れくさかったので、食べ終わってすぐに出かけた。
集合時間〇八〇〇、出港時間一五三〇。
待ちきれず三十分前に着いた。オフクロは向こうの埠頭から出る高速艇に、オヤジと美香を見送りに出ているはず。こっちには来るな、と必死で頼んだ。
順風で、空もいい感じだ。波も落ちついている。これなら船酔いも……う、考えるな、今から吐き気がする。せっかくのごちそうを海に戻したくない。
オレが乗る筑波丸はやや古い中型貨客船で、大型の煙突にガスタービン=スクリューと帆走の併用型。化石燃料に世界全体で高額の税金をかけるようになってから、ほとんどの船に帆がある。
艦尾のキャビンから通信用マストが一本、甲板から帆走用のマストが二本そびえている。ずんぐりして積載量と安全重視。揺れるけど。う……くそっ。
帆だが、本当に使われる船は、オレたちが普段学校に往復しているような古典的洋艤装ではなく、先進素材を使った異様なコンピュータ制御の帆だ。簡単に甲板の収納所にたたむことができる。
塗装はくたびれているが整理整頓は行き届いている……よく見る船だが、乗員として乗るのは今回が初めてだ。
短期だし学校での荷物は別に送ったから、オレ自身の所持品は少ない。
もう一度確認するか……七つ道具、安全ブーツとヘルメット、革手袋とゴム軍手。タオルと下着と洗面セット、ジャージ上下とエプロン。コンパスと六分儀、ぼろぼろでずしりと重い船実習のしおりと海図帳(チャート)、航海日誌帳、夏休みの宿題が少々と……いつもなら本はケーコに入れていくが、去年はケーコを没収されてすごく退屈だった。今年も多分そうだし、荷物に入れておこう。あと当然、オレには必須のエチケット袋。
オレたち海育ちの実習生(アップ)が、外洋船で働きながら航海するのは去年の冬も、片道二週間のハワイ往復でやってる。峰とリック、金さんは去年の後半休んで、それぞれの専門を勉強しながら、マラッカ海峡からスエズ運河を通ってイタリアまで往復してきた。世界一周を経験した強者も木村など何人かいる。
「おーい!」
「今いくよ!」
「くーるよ」
何人か集まって、そわそわしながら待つ時間が……いるいる、安里のおふくろさん、隠れてるよ。
なぜか釣りセットを背負った峰が来た。
「よう、どうしたんだ?」
「ついでだよ、釣りの」
そこに岡野も来た。見送り? いや、荷物? 今夜出発のはずなのに、ずいぶん気が早いな。
「見送り、行ってあげたら」
「親父と美香? ああそれは」
「え、本当に知らな」
峰が口にし、はっと口を押さえた。その視線の先で、岡野が真っ青になっている。峰が岡野をにらむ。
「何が?」
そろそろ集合時間なのに。
「ハナがおじさんたちと中国の植林に出発する、って……今から予定変更して追いかけても」
岡野の言葉に、頭が一瞬真っ白になる。なぜ……わけがわからない。
「由と行くつもりで、だよ。口止めされてたはずだよな、岡野」
峰の言葉が現実のものとは思えない。
「そ、そんな……」
ばかな! 葉波は春おじさんのことを、ずっと想ってきたはず……オレが百合姉を想っていたのと、同じように。
同じように……同じように、とっくに振り切っていたのか?
「じゃ、じゃあ、なんでずっと……春おじさんにばかり……」
峰がなんともいえない目でオレを見た。岡野の目には、憎悪すら混じっている。
「わかってないのか? 嫉妬させたくて、だ……このバカ野郎!」
拳がまたぎゅっと固まっている。このあいだ殴られたときよりショックだ。
嫉妬? いやというほどしてきたさ!
「っ……かやっ!」
「長谷川、乗船時間!」
走り出したオレに、後ろから先生の声がかかる。
船での乗船時間は絶対だ……だが、数分だけ、ぎりぎり……ええいっ!
汽笛が鳴り、出港していく船が見える。
ケーコ連絡を取ろうとするが、通じない。電源を切っている?
「葉波!」
マストが見えた、それに必死で叫ぶ。逆風が目に痛い。
「ゆうちゃん!」
誰かに抱きとめられたのがわかる……振り払おうとして叩いた感触から、何かを感じてぞっとした。
百合姉?
体がすくむ。大事な体なのに……大好きだった女性(ひと)を……
「だめ……あの子が好きなのは、海と宇宙が大好きで、嵐にも負けないゆうちゃんなんだから」
ぎゅっと、暖かい胸に抱きしめられたのがわかる。直後、何かが爆発するように涙が溢れた。
ひとしきり泣いて、心がおさまった……百合姉に涙を見せたのは何年ぶりだろう。この女性に涙を見せたくなくて、どれだけ頑張ってきたか……いつ、この女性より、葉波にこそ涙を見られたくなくなったのだろう……
いつか、少し離れて立って、オレは涙をぬぐった。
パシッ、とオレの頬が鳴った……これも何年ぶりだろう……
「可愛い妹を泣かせたんだから」
と、微笑んでオレの顔をのぞきこむ。
「帰ってきたときは、二人とも……きっと違っているはずよ。どうしても大きくなるんだから……こんな小さかったゆうちゃん」と、おおきくふくらんだおなかぐらいに手をかざす。「……や葉波が、こんなに大きくなるなんてね。もう、背伸びしなきゃ届かないか」
と、頬にキスが鳴った。
「あと伝言。岡野さんのこと、しっかり守ってあげて、って。いってらっしゃい」
何も言えず、船に向かった。
言いたいことは山ほどあった……大好きだった、いい子を産んでくれ……でも何も言えない。
船に着くと、船員が……上級船員、この間あった……
思い出す間もなく、拳の一発。目が覚めたら甲板上で、海水をバケツでかけられたのがわかる。すごいパンチだった。今のは当然船には必要だし、邪悪な支配ではない。そうだったらどこかから制裁が必ずある。
「二度とやるな! 時間厳守だ」
「はい」
ジョンソンさん、だった……吸い込まれるような、深海のように深い目だ。
「いいわけもなしだ」
「はい」
「掃除!」
「はい!」
甲板を見回すと、ちゃんと束ねられていないロープがあった。
すぐ片づけよう、と思ったがまず、
「すみません! ここでの処理は」
無言で、ジョンソンさんが飛んできて一見ゆっくり、それでいて恐ろしい的確さでロープを処理した。
聞いてよかった……去年も同じことをしようとして、やり方が違うと怒られた。船によって組み継ぎ(スプライス)のやり方も違う。同じ失敗は二度しない……
しかし、このロープ処理……やはりこの人は本物だ。なんとか真似て、今はゆっくり丁寧にやってみる。
ふと後ろを見ると、岡野が乗船しているのが見えた。あれ? 予定と違う……いや、今は船員なんだから下船するまで船客も港の人も、たとえ家族でも関係ない。船に集中しなければ……去年それでえらいめにあったし。
出港まで時間がない、やることは山ほどある。
ケーコが取り上げられていることにも気がついたが、去年もそうだった。あの時は泣いたけど、今はそれどころじゃない。とにかく忙しい。
コンテナの積み込みは大人の仕事だから、安全なように離れて……もっと危険なのは穀物や液体の積み込みだ。
「近づくな、見て盗め!」
大声で注意される。ここでふざけたら、米や小麦粉でも溺れる。ましてメタンに高圧水素、アンモニアやエタノールなどは浴びただけで即死だ。それに火が出たら……
一昨年、荷揚げ中にふざけた奴が糖蜜に蹴落とされるのを見た。細いワイヤーを命綱として引っかけていたから命は助かったが、あれを見てからみんな目の色が変わった。海に放り込まれるよりずっと怖い。
こっちに揚げるものも多い。コンテナから機械類や雑貨、鉄鋼、セメントや泡コン用炭素繊維……どれも危険物だ、油断せず慎重に扱え、と去年からさんざん叱られている。
今になるとわかるが、こうして子供たち……去年の実習でそれが事実だ、と受け入れるには、実習が終わってからさらに二月かかった……がいると、古参の船員も模範を示さなければならなくなる。結果損失が減って喜ぶのは船長と船主と保険会社だ、とわかってみるとなんだか悔しいのだが。
でも少しでも役に立ちたい、とつい前に出たくなる。
「出過ぎるな」
ジョンソンさんに肩を押さえられた。ぐっと悔しさが胸を締めつける。ついでに忘れていた船酔いも……う、でもこの人には見られたくない……何か仕事はないだろうか?
「パレット持ってこい」
「はいっ!」
わかってくれてるなあ……背中が熱くなる。
船上でパレットが足りなくなったので、サイパンから乗ってきていた神田さんと一時下船。
本当は手続きがいるが、荷揚げ作業中はそれどころじゃない。
「“嵐の長谷川”がこんなかわいい子だったなんてね。いくつ? あたしは十七」
やめてくれ。
「十四です。パレットはこっちです」
神田さんは小太りで小さく優しそうで、船での動きもしっかりしている。頼りになりそうだ。
倉庫にちょうどいい山がなく、あちこちに散っていたパレットを集めて積む厄介な作業があった。だが去年は二人でなければ持てなかったパレットを、一人で持てたのが無性に嬉しかった。
積んだらそのままフォークリフトを神田さんが操縦し、船に直行。いつ、オレもフォークを使えるようになるんだろうか。
気がついたらもう出港の時間だ。全部片づけて甲板を磨き上げるのはぎりぎりだった……ジョンソンさんの腕がなければ無理だったと思う。
このときがいちばん誇らしい。全速でいちばんいい服に着替え、船乗り帽をかぶって舷側に整列する。
音楽とちょっとした儀式、そして待ちに待った号令に合わせて帆が展開される。
もちろん古典的洋艤装の帆がぱっと開くほど華麗ではないが、コンピュータ制御の帆が開くのもそれはそれで壮観だ。
そして錨が引きあげられ、揺れの周期……考えるな、酔う。直立不動だ。
「敬礼!」
いちばん晴れがましい瞬間。港を見てはいけない……見送りに応えるな、任務に専念しろ、船全体に気を配れ……去年どんな目にあったか思い出せ……
「解散!」
もう一度敬礼し、とりあえず次の当直は……でもオレたち下っ端の子供に当直もクソもない、二十四時間仕事と思った方がいいが。
とりあえず、この航海で自分が何をするか知ろうと……そこでなにか、違和感を感じた。
海面下の船艙と客室の間……本当は船員食堂に集合すべき、違和感は上に報告すべきだが……去年、探検して海に放り込むぞと怒られたんだが……
そこに岡野がいた。顔を知らない男、大人の船客ともみ合っている。なんとか……
「お客さま」
「なんだ、ボーイのガキか。口出すな!」
くっ……だが……
「おそれいります。失礼ながら、いま危険な海域でございます。なにとぞお部屋にお戻りになって」
「失礼!」
ぱっと、ジョンソンさんが飛んできた。
「申しわけありませんでした、こちらでお話をおうかがいします」
きれいなニュインで船客をなだめ、巧みに連れていく。
岡野とジョンソンさんが、オレにふっと目を向けた。
あとで怒られるな……と思ったが、何事もなかった。余計怖い。
不思議なことに、その船客の姿はその後見ていない。すぐに降りたのか?
その夜、眠れず舷側で吐くものもなくなってうめいていると、また岡野がいた。
「余計なことしないでよ」
「ぐ、申しわけ、ありません」
かっと怒ったように目がつり上がる。
「なによそれ、なんで敬語」
「着くまでは船員と船客」
ちょっとびっくりした目。そう……クラスメートとかとして普通に口をきけるのは、この短い航海が終わってからだ。それまで、オレはひたすら船員なんだ。
ふと、岡野が周りを見て
「ここにいて」
「え?」
鼓動が烈しくなり、頭がぼうっとする。いや……酔え、船に。
「う……」
「ひどい船酔いね」
***! 去年の実習でフィリピン出身のベテランから習った卑語が出……損ねて、海にまた胃液を少し吐いた。
船が大きいと揺れが、ゆっくりだけど大きくなるからな……慣れるまではたまらない。
「すごい星、本当に見たのははじめて」
東京など湾の大都市で育ったとしたら、星なんか見たことがないだろう。
メガフロートは太陽電池膜があるから、その外に出なければあまり星は見えない。それに水蒸気があるから、いくら空気がきれいでも星はぼやけてしまう。
「ゴビ砂漠の星空はこんなもんじゃない」
正四面体について思いつかなければ、今頃オレもその空を見ていた……オヤジと美香、そして葉波と。
そうだったら、とおもうとちくりとする。
ひたすらな地平線と星空。荒野をまぶしいほど照らす満月。
背後に広がる丈の低い灌木とそびえる風力発電塔、太陽電池。そして目の前の、あまりにも広い砂漠。
その地獄にも結構いる生き物。雨が降ったときに見せる、砂漠の凄まじい生命。
いろいろな、多くはニュインもできない人たち。円卓が全員に配った端末の使い方、ニュインと算数を教え、ケーコや古いノートパソコンを貸してやると大喜びする、でもふだんはすごく意地悪な子供たち。
陽が出てから沈むまで、一日中穴を掘ったり重い苗や水を運んだりする重労働。疲れきって宿題もできず、倒れて寝るだけ……帰ってからぎりぎりで宿題を片づける苦労。
入浴なんて夢のまた夢、濡れたタオルで体を拭くだけでも贅沢。
自分の手で育て、儀式で涙をごまかして殺した羊肉の匂い、焼き上がった種なしパン。たっぷりの、もちろんオレたちの手が入ったバターやチーズ。
汁気たっぷりで青臭い瓜のうまさ。
仕事でのオヤジの厳しさ、みんなの敬意。夜の色々なお話や歌。みんなのいろいろな……そこで葉波は……
「ハナちゃんも見てる、そんな星空……へえ、すごい」
しばらく黙って空を見上げ……たぶん脳直結ケーコで葉波と連絡を取り、星図やあっちの画像を調べたりしているんだろう、興ざめだ……
「宇宙で見た星空とも違うわね」
という言葉にびっくりした。
「宇宙って?」
「さあ?」
それっきり沈黙。オレはひたすら舷側から海を見て吐き気に耐えていたが、突然背中を叩かれた。
ジョンソンさん……しまった。
「彼女を客室に送って、寝なさい。すぐ当直だ」
何か文句を言おうとした岡野が、また目を細める……ケーコでジョンソンさんと話している。ジョンソンさんのケーコはファッションじゃない実用一点張り。太いバンドが縦横に頭を覆い、しっかり固定されている。接眼ディスプレイもヘッドホンも小さいがしっかりしている。補助カメラアイが四方に突き出しているのがかっこいい。
ふと、オレは舷側から海をちらっと見て、何か嫌な気がした。
「どうした?」
「ここの波……」
「心配するな」
「はい……」
「ちゃんと処理するから心配するな、と言っているんだ。忘れていい」
「はい」
ジョンソンさんは信じられる。
それより、正直足腰がふらつく……
「つかまって」
「いいよ」
「いいから」
と、岡野がオレの手を取って肩に導く。細いのに、変にしっかりしている。
情けない……いっそ、今回が初めての実習だったらよかった。あのときはただ必死で、余計なことを考えないでいられた。
一瞬、体内ケーコを通じて葉波に伝言してもらおうか、とも思ったが、言い出せなかった。もちろん通信室でメールやテレビ電話を借りることはできるけど、こんな短期の実習で陸と連絡を取ろうとしたら軟弱者扱いされる。まして岡野に頼むなんて……。
「なんなのこいつ」
岡野の、ごく小さなつぶやきが聞こえた気がした。
台風を縫って北上し、青ヶ島接続メガフロートで“地獄”行きの船などと連絡を取る。
“地獄”とは青ヶ島から東南東五十キロほどにある、人口五十万を超える超大型居住専用メガフロート。同様のメガフロートはほかにもいくつかある。
正式名称は自由保護島だが“地獄”と呼ばれている。刑務所を補完するところで、どうしても社会に順応できない人たちが、そこでほぼ自由に暮らす。麻薬もどんなひどいCGアニメも自由だが、逆に自分の身は自分で守るか閉じこもるしかない。
なんであれ……愚かな自由でも……それが本当に必要な者には与えるのが幸福追求権、ということだ。他にも社会に順応できない人のための隔離施設はいろいろある。
普通の世界と違うのは小さい子供がいないこと。
潮流や異常に多いサメなどのため脱出は不可能だし、外より中の方が居心地はいい。極端な自由ゆえに、さまざまな病的芸術もすごく発達し、十分な収入源になっている。
オレたちにとってはとても危険で、魅力的なところだ。
よく脅しで、行きたいならそこにやるぞ、といわれるけれど……
普通の船、とくに子供がいる船は立ち寄れないが、いろいろな荷物や手紙を本土に届けるためちょっとボートの荷役を手伝った。
“地獄”の人々はどんななのか見てみたいけれど、その連絡船の人もメガフロート地元の人だった。
あ、岡野とジョンソンさんが、その船の人と色々話していたのが何となく気になる。
まあそれより、オレたちは船の仕事を片づけて、ヘリで青ヶ島に行ってみたのだが。
何度も見てるけど、やはり天然の島の眺めはすごい。
他にも老人介護専用の百万人規模の居住メガフロートとか、レジャー専門とかさまざまなメガフロートが伊豆・小笠原列島にはあるため、しばしば別の船とすれ違う。
その警戒も忘れちゃいけない。それら当直の仕事も多いが、時間外も料理や船員の世話で何かと忙しいし、非直のときも勉強だ。
世界中を回る経験豊富な船乗りからさまざまな話を聞き、直接座学で色々教わり、実地で航路計算や帳簿、航海日誌などを記入、天測や船荷の点検、喫水やビルジなどの点検も実際にやる。これほど密度の濃い勉強はめったにできない。
世界中の実習生同士で仲良くなるのも忘れちゃいけない。釣りやボート競争、料理比べ……そして卑猥な言葉を教えあうなど実にいろいろとある。
富士山と東京湾の光柱が見えそうなところで、急に進路を変えた台風につかまった。まともに黒潮のまんなかだ。海の色がすごく深い。
横揺れだけでなく、縦揺れも大きい。空は青いが、匂いがなんか違う。少しずつ波頭が砕ける。わくわくする。
「気合い入ってるね」
神田さんにからかわれたが、それよりとにかくふるえが止まらない。
「今のうちにちゃんと食べて、寝ておきなさい」
ジョンソンさんが落ち着いた顔を出す。
今日はオレと安里が食事当番で、安里のおふくろさん譲りの黒糖ホットケーキ、昨日釣ったシイラのムニエルと刺身、たっぷりとやわらかめの船乗り粥(バーグー)。
とにかく体力勝負だ。みんなもわかってるし、オレもバーグーを無理に詰めこむ。
でも台風だって冬の北太平洋よりはましだ、一度経験はある。喜望峰やホーン岬、冬の北大西洋はもっとひどいというけれど……春おじさんは南氷洋で……
今は眠りたいけれど、体の奥が熱い。絶対に船を沈めはしない……でも今は一番下っ端の自分に何ができるというんだ……悔しい。
「大丈夫だ、よく寝とけ」
ジョンソンさんの一言にふっと安心し、気がつくと……目が覚め、もうすぐ当直時間だった。
夢も見ないでよく寝たもんだ、と自分にあきれながら着がえ、七つ道具を確認、しっかりベルトを締める。揺れがかなりひどい……なのに酔いを全く感じない。逆になんともいえない胸騒ぎがする。
集合が待ちきれないで船員食堂に向かう。握り飯とサンドイッチの山が用意されていた。
「さて、ちょっと揺れるぞ」
船長が軽くいう。
「おかしくなくても笑え、気が楽になるから」
それに今度こそみんな笑った。
「横浜入港は明日の昼になるな。今日はここで一時停船(ヒーブツー)する」と、壁にある大型ディスプレイに海図、天気図などを表示する。「安定させ、押し流されないよう注意する。海上、海中の設備に十分注意せよ。万一の時もあわてず、適切な対応をとれ。気持ちが切れないよう適度に張って、各自の本分をしっかりと尽くすように」
結構近くの風下にブイや小さな浮き施設があり、タンカーがいくつか、下手をしたらこっちに押し流される航路にある。それを見て、猛烈な空腹感のようなものを感じる。
各人の仕事がもう一度確認される。
「長谷川、第二班」
船客誘導が主で、余裕があるときは船内巡回と船荷の確認、状況に応じて消火・船倉整理などだ。
「舵取りと同じ大切な仕事よ、ちゃんと気合入れなさい」
神田さんに表情を読まれた……胸に冷たい刃を刺されたような感じがする。
その通りだ、万一の時には確実な船客誘導は助かる人数を左右するし、船荷が崩れたりしたら即転覆につながるから、その点検、必要に応じての再固縛は船そのものを助ける仕事だ。消火ももちろん。
「はい」
胸騒ぎがおさまらないけど。
持ち場につき、リラックスして船の揺れを受け入れ、船のあらゆる音に耳を澄ます。
ちゃんと適度な帆で風を受け、一杯開きで黒潮の流れを横から受け止めているのが伝わる。腕はいい。
外を見ると、もう風力8にはなっている。
これからもっとひどくなるぞ……ほら! ものすごい揺れがきた。
雨と波しぶきで外が見えなくなり、昼なのに空が暗くなる。
胸騒ぎがおさまらない。じっとしているのが辛い……でも、船客が、岡野がこっちを見ている。
オレが不安そうな表情を見せたら、最悪パニックが起きて人命に関わる。
「ご心配なく、念のために第二食堂に集合してください。お荷物は最低限に!」
あえて笑顔を保つと、妙に気持ちが落ち着く……でも、船全体に、海と空にはりめぐらせた神経が何かをささやいてくる。
「お部屋に備え付けてある救命胴衣をしっかりつけてください、つけかたをご存じない方はどうかお申し出ください」
「し、沈むのか?」
ごく、っとつばを飲み込んでしまう。この胸騒ぎは……いや、大丈夫。
「大丈夫です、混乱を避け、万一の際にも全員が確実に助かるためです。どうか」ぐっと腹に力を入れる。「落ち着いてください」
目に最大限力を込め、特に岡野を見つめる。大丈夫だ、と必死で伝える……オレの体内にもケーコが内蔵されているかのように。
そのとき、何かがぴんと来た。
「長谷川、次は」
「すみません、第三船倉点検します。ついて来てください!」
ジョンソンさんがぱっとついてきてくれた。
ぐわっと鋭い船首揺れ、窓を見ると白く波しぶきが渦巻く……風力10?
船倉に降りる途中でもう、体が凍りついた。壁に穴があいており、それに……固定バンドが切れた鉄骨が当たっている。このまま開きを変えて波をかぶったら、一気に水が流れ込んで転覆間違いなしだ、それも瞬間的な……誰も助からない……
「緊急! 第三船倉に、動ける人をよこしてくれ! 絶対開きを変えるな! 長谷川、やるぞ!」
「!」
もう無言でオレはそっちに走った。照明をつけて大丈夫か? ここの貨物に爆発する可能性のあるものはなかった……はず!
毛布、いやそれじゃ足りない、向こうの……そうだ、
「ゴムボート持ってきます!」
「よし、パドルも、それに2インチロープ、それに」
「バールやワイヤー」
ぱっと飛び出し、救命ゴムボートや救助用浮き輪の予備を自動で膨らませ……もどかしい! その一瞬の時間にも、穴から見える波間に何か恐ろしいものが、すさまじい波しぶきを通して見えた気がした。
「右舷(スターボード)船尾側も警戒させてください!」
指差し、ゴムボートを引きずって駆け寄りながら叫び、あとは暴れる鉄骨を……やっと助けが来た、ゴムボートで押さえつけ、さらに養生資材や防舷材を穴に詰め……いきなり急に船がジャンプするように、壁に叩きつけられる。
「大丈夫か?」
「はい」
今のはぶつかってくる別の船をかわしたんだ、となんとなくわかる。いい腕、いい船!
二人助けが来た。
次に、あの船をかわすのには開きを変えなければならない……逆に傾いて、ここに海水が流れ込む!
恐怖以前に、感覚がめちゃくちゃに研ぎ澄まされている。
「行くぞ!」
もう坂道というか崖のように傾いた中を、最低限の機材で……
だが安定している、大丈夫……いや!
「全員体を固定して!」
叫んだ瞬間、ものすごいのが来て隙間からどっと水が流れ込んだ。
何とか排出しないと……いまだ!
暴れる荷物は、まるで象だ。オレたちはアリだ。だが、チームワークとちょっとした道具で、その暴れ象を……
「よし、いまだ安定するぞ!」
どんな嵐にもある、一瞬の安定。悪魔のような一瞬、オレは駆け寄ってロープを投げた。
みんなも手伝ってくれる……ぐっと、体が熱くなる。
他にも船や海のあちこちから危険を感じるけど、とにかく一つ一つ潰していかないと……
やっと固縛して次は、なぜ岡野が危ないんだ? と思う間もなく、「船客を見てきます、右舷第二船客甲板」と叫んで走り出し、消火器と鳶口をつかんだ。
台風が通りすぎて本土をかすめ……だが油断はできない、余波で前線が頭上を覆い、猛烈な雨が降っていて視界が全然ない。みんな疲れすぎて口もきけない。船客も緊張の一夜でかなり疲れているようだ。
みんなが、オレを変な目で見ている。仕方ないじゃないか、わかるんだから。
この状態で東京湾入りか……台風より怖いんじゃないか?
朝一瞬の晴れ間に富士山と、東京湾などに突き刺さる光の柱がちらっと見えた。やはりこれが本土に着いたという実感だ。
汚染がひどい大都市がある湾の一定範囲に、宇宙から鏡で三百六十五日二十四時間日光を浴びせ、海底からは大きなプロペラや火力発電の余熱と排気で海底の栄養を巻き上げ、海面では海藻と貝を大量に養殖している。
そのせいで周囲は雨が多くなり、また星空が全く見えなくなる。それは船乗りにとって、言葉にできない感覚を狂わせることにもなるらしい。
ここからが危険だ、島や中小のメガフロート、そして船が非常に多い。
野島崎灯台が見えるといつもほっとするが、逆に……もし船長だったらぞっとしないな。しかも水先案内人(パイロット)に色々任せなきゃいけないし。