こんな明日はいかが?   作:ケット

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第12話

 もやいを解くオレを見つめる、泣くことができず思いつめた目。

 古くろくな屋根もないボート。雲一つない空、三百六十度ひたすらな水平線。風さえない。

 葉波が海水を飲もうとするのを、取っ組み合って止める。オレの首を絞める赤く焼けすぎた手、悪魔の形相。

 

 体をがくがくさせて、古い二段ベッドで目覚める。深く、短い眠りだった。

 あまりにも宿題が多く、予習復習もしなければならない……いつもの授業はぼんやり波任せで漂ってるようなもの、この講座は全力で長距離漕ぐようなもんだ。

 それに、どうもみんなに溶けこめない。どうにも、悪意ばかり感じる……特に岡野に話しかけると。

 だれに話しかけても無視されるし、からかうようにオレの歩き方をまねて大げさにふらふらしたり、オレたちはとっくに卒業したレーザーガン……おもちゃの銃で、遠くからでも狙い撃てば命中判定がケーコに出る……を至近距離から撃ってきたり。

 でもそれ自体は一カ月もない話だし、講座がきつすぎてそれどころじゃない。

 それこそケーコ自体いじっていない。音楽だけで、メールもネットもオフにしている。葉波からはたぶん何もないだろう……オレたちはあまりにもお互い知りすぎている。

 いや、勉強しないと……葉波のことを考える余裕はない。まったく、なんなんだこの宿題は。

 ああ、みんな頭が悪いわけじゃない。めちゃくちゃいい。

 みんなガンガン、すごく鋭い質問をする。教授陣がまたものすごい……どんな突拍子もない質問も、真面目に受け取ってその深さを褒め、それを理解するために学ばなければならない分野を段階を追って示し、各段階の標準教科書を紹介してくれる。

 特に岡野にはびっくりさせられた。ただ先に進んでいるだけじゃない……質問の深さが違う。

 

 野村たちの話で、ちょっと岡村という名前が出てきた。

「そんな子いたっけ?」

 と、つい首を突っこんでしまった。

「知らなかったのか?」

「一月も同じ屋根の下で暮らしたんじゃ」

 木田がバカにした声を出す。

「同じ屋根?」

 ぴんと来ない。オレたちにとって、屋根は居住メガフロート全体を覆う太陽電池幕だ。

 あれ、オレはだれにも、岡野と暮らしてたなんていってないはずだぞ?

「ふん、たらい生まれの根無し草じゃわからないか」

 明らかにバカにしている。あっちのほうが住み心地はいいぞ、このクソ暑い本土より。石炭火力発電は排気を海やビニールハウス農場に出してるからもうCO2フリーだし、温暖化は一時喧伝されていたほどひどくはなかったけど、農業から出るメタンはどうしようもない。

 しかし、岡野は別の名字? あ、離婚か何かかな? じゃあ余計なこと言っちゃいけないか。

 実際、つい「岡村」と言ったら案の定めちゃくちゃに怒って、だれがその名をオレの前で言ったのか問いただし、その日一日野村は皆に無視された。

 オレにももちろんしわ寄せが着たが、まあこれ以上悪くはならない。

 と、帰って久々にケーコでメールでもと思ったら、ケーコが壊されていた。徹底的に。

 他の荷物も荒らされていた。

 少なくともケーコを壊すなんて……オレたち海の人間はやらない、七つ道具は命に関わるのだから。ここでは、してはならないことなどないのか。

「おい、誰がやったんだ。決闘なら応じるぞ!」

「それより、なんだこれは」

 MPTとロープカッターなどが突きつけられた。あ……そういえば日本本土には持ち込み禁止だから港湾事務局に預けること、だっけ。

「それ? 道具だよ」

「道具? ナイフじゃないか! 誰を狙ってきたんだ?」

 おいおい……

「海じゃ全部必要なんだよ、いつでも。荷物関係の仕事だってあるし、いつ海に放り出されるか」

「ここは海じゃない! ここじゃ、こんなものを持ってちゃいけないんだ」

「何かあったら」

 おいおい、大震災で懲りたはずだろ? どうするんだよ。

「いいわけになるか、やっちまえ!」

「船乗りめ!」

「彼女を狙う刺客か?」

「刺客だ!」

 それから先はいきなり、押さえこまれ、殴り倒され……ルールも何もない、めちゃくちゃだった。恐怖で狂ってる、って感じだった。

 気がついたときはどこかのクローゼットに閉じこめられていた。

 七つ道具がないから明かりもない……参ったな。それにあちこちかなり痛めつけられた……野村と木田は明らかにみんなやってる護身術だけじゃなかった……

 闇の中、どれだけの時間が経ってからか……岡野の声、「言ってあげる義理なんてないけど、陸上のルールは一つだけ、『空気読め』よ。『和をもって尊しとなせ』ともいうわ」

 十七条憲法……そんな意味だったのか、ちくしょう! もちろん船でも“和”は必要だが、何かが違う。船では誰かを徹底的に追いつめることはしない……自殺ついでに船に火をつけられたらみんな死ぬから。

 オレはどこの船でもやっていける自信はあるが、陸上ではなにもわからない。

 ぐっと怒りが荒れ狂うが、同時に恐ろしく冷たいものを心臓に当てられたような感じもある。

 それで、ふと分かった。そうか、岡野にとって海は……オレにとってのここと同様、外国同然……それで海もここも客観的に理解したのか、一人で、誰もそばにいないのに!

 まして女だ、同い年の男と暮らすなんて何をされるか、という恐怖も……くそっ!

 葉波……峰……オヤジ、オフクロ……春おじさん、百合姉……帰りたい、声を聞きたい……ケーコが、端末がほしい……海……涙がとめどなくあふれてくる。去年ハワイへの船上実習でもケーコは取り上げられたが、あの時は……みんなもいた……白状すると、ちょっと泣いたけど。

 だが、泣き出すと思い出す。五年も前か、激しい船酔いで船乗りになんかなれるはずがなかった小さいオレ……苦しいよ、怖いよと泣きじゃくっていたオレを見て、みんな舵だけ自動にして船室に引っ込んだ。

 助けて助けて、と悲鳴を上げた……オレは必死で甲板口を叩き、激しい横揺れに翻弄されたが、開かないという嘘に騙された。オレが縮帆しなければ船が沈む、みんな死んでしまう、と……

 もう吐くものもなく痛いだけ、震える足、大小ともちびったズボンが波しぶきに濡れ、くさい液が脚を伝う……それでまた泣き出すけど、泣きながらでも吐きながらでもやるしかなかった。笑う人も、抱いてくれる人も、叱る人もいなかった。

 必死で、大きいみんながやっていることを真似て帆脚索を引き、何度も落ちながら……本当は一メートルもない、子供用の安全な帆桁だが……帆をまとめて縛った。

 そしていろいろ帆をいじって、それに船が反応するのを知って夢中になり、いつか船酔いもおもらしも涙も忘れていた。

 そうだ、あの時に“げぼゆー”“泣き虫ゆーぼー”はどこかに行って、“嵐の長谷川”が生まれたんだ。

 そういえば、峰もあの手の荒療治で高所恐怖症を克服したんだったな……葉波は……

 泣いても何も変わらない、ここは嵐の船だ……逆らうな、風を体で感じて波に任せろ。いかに理不尽でも海に文句を言うな……『空気読め』が唯一のルールなら、勉強に支障が出ないようそれにあわせればいい。

 オレはここに勉強しに来たんだ。おかものとなかよくしに来たのでも戦いに来たのでも、革命を起こしにきたのでもない。

 そう思うと、別の焦燥感も感じる。もしかして、葉波も……ここは言葉は通じるが、中国の奥地はまだニュインも通じていない。頼りになるのはオヤジだけだが、そのオヤジだって忙しい。

 昔の、自分が役立たずなのに気づいたときの痛みも思い出す……葉波がそんな目に、と思うと心配でならない。

 声を聞きたい、画像でも顔が見たい。やはり端末が欲しい……

 でもないものはない。海ではいくら泣いてもわめいても、清水も食料もタバコも酒も燃料も、なくなればないものはないんだ。

 食べものや水がなくても、あの時は葉波もいた……それもないものはない。あいつも今頃、表には出さないけどいろいろ辛い思いをしているだろう。

 とにかく、今やることは……課題だ。

 あいつらに、学校の力関係では勝てなくても、宿題は負けない。

 課題は覚えている……公式も……忘れていたら作ればいい……ケーコはなくても、閉じこめられていても紙と鉛筆でやればいい。

 何度もやったじゃないか、難破を前提に細索と天測、紙と鉛筆だけで現在位置を計算し、地図海図を作るのは。

 落ちついて手探りで捜すと、小さな手回し懐中電灯、半分も使ってないノートがいくつか、コピー用紙と鉛筆があった。ナイフはない……くそ、最後の一本を岡野にやるんじゃなかった……が、がらくたをよく捜すとカッターが転がっている。

 そうだ、ソロバンがあればいいんだが。いや、なければ作ればいい。ずっと習っていたのに、いつもケーコを使っていたから忘れていた。

 これでできるはず、まず……

 あ、ソロバンって自分で作れば、何進法にするか自由に変更できる! 今日やった、十進法は級数にすぎない、ってのはそういうことか。それさえわかれば……これは楽だな。

 

 今は何時だ? 目の前には紙の山ができている。

 ふと触れるとドアは開いており、もう夜は明けていた。サンドイッチとスポーツドリンクが置いてある。

 誰だ? 岡野か?

 彼女の部屋をノックすると、

「何? バカ、今何時だと思ってるの」

 岡野の不機嫌な顔、可愛いパジャマ姿。相変わらずの口調の刺に、なんともいえずほっとする。

「ありがとうな」

「何がよ! いい、今日から絶対話しかけないでね」

「ああ」

 一人だ……海に放り込まれたような寂しさと、開放感を同時に感じる。

「いう暇なかったんだけど、伝言がたくさん来てるわ」

 と、ケーコと旧式パソコンをつなぎ、映像や音声メールを流し、プリントアウトを渡してくれた。海のみんなからたくさん来ていた。

 やはり葉波からはなかったが、特に峰の『お前は誰にも負けない』という言葉に涙を抑えるのが大変だった。

 一人じゃなかったんだ。みんな……

 ケーコがないことも、七つ道具を放り出して葉波と海に乗り出したとき……バカな漂流事件……のような解放感もある。そうだ、小さい頃は七つ道具もケーコもうっとうしくなることがあったっけ……

 というかみんな六人部屋なのに、なんで岡野だけ一人繭なんだろうな。運がいいのか?

 

 昨日の事件は結局、何事もなかったように……七つ道具がないだけ。

 みんなの、そして岡野の無視は続いているけど授業がどんどんきつくなるからそれどころではない。

 第一ケーコがないから、大量の計算を主に紙と鉛筆、せいぜい古い物がいっぱいある店で買った電卓でやらなければならない。先生は事情を理解してくれ、データの回覧では不都合がないようにプリントをくれるけど、特に三次元映像がないのは不便に思える。だれも何も貸してくれない。

 ただ、計算があまり必要でない、ケーコがいらない授業のほうが多いし、大変だ。

 基礎準備校の最後にやった、集合の概念……それがこんなに深く、数学のあらゆるところの本質だったなんて。ゼロと無限大も、これだけのことが……まださわりでしかない!

 そしてガロアの原論文の対訳! あの若さで……なんだか背筋が寒くなる。負けてたまるか! 我も人なり、彼も人なり!

 一日十時間の授業、予習復習も暗記すべきことも多い。睡眠時間は四時間切っているし、ケーコがあったとしてもネットも電話も無理だろう。もうみんな口をきく暇も、オレにちょっかいを出す暇もない。

 後に知ったが、全然連絡がなくケーコが発信する位置情報さえ絶えたことで、オフクロはすごく心配していたらしい。岡野が安心させていたが。前もバカやっちまったから、心配もわかるけど……

 まあとにかく講座に夢中だった。何か考える暇があったら、指数関数の複素数での意味を追求され、いやというほどの演習問題を無茶な時間でこなし、さらにそれを純粋数学の言葉に訳すほうが先だ。

 記号論理・集合論の言葉でちゃんと定義する、それだけで、今までオレは何をやってきたんだろうというぐらい世界が変わる。そうなると物理の見方も全然変わり、結晶とかだって群の考えを使うとこんな……。

 今回の小テスト……集合論などと、数学オリンピックの過去問……は二位。岡野との差がありすぎたのは納得するが、悔しい。

 このクラスのみんなは、こういうのがわかる連中ばかりなのだろうか?

 

 そんなある日、突然寮監に呼び出された。

「悪いが、今日中に退寮してくれ」

「は?」

「どうも……な、それにちょっと急に、別の講座で人数が増えた。君以外にも五人ほど退寮する予定だ。他に」

 どうも? お前らが排除しようとしてるんじゃないか!

 といってもどうしようもないので、かなり呆然としてオフクロに電話しようか……と思っていると、しばらくして岡野がやってきた。

「わたしも退寮組だし、あとちょっとだからうちに来てよ」

「え? いいのか?」

「まあ仕方ないじゃない」

 苦笑が妙に可愛くて、どぎまぎした。

「じゃ、荷物の手続きしようか」

 彼女が部屋に入ると、ざわっと騒ぎが起きた。連中の、憎悪の視線が突き刺さる。

 可愛いから人気があるのは分かるし、どうやら木田とかは本土のクラスメートだったらしいけど……

 海育ちのオレの荷物はすぐまとまる。いつ身一つで救命ボートに乗るか分からないし、またトランク一つだけOKといわれても慌てないように、というのがたしなみだ。

 授業が終わり、一時間ほど宿題をやって……まだまだ山ほど残っているが、やってもやっても終わる気がしない……坂を下りて大きな本屋で待ち合わせる。そして第二次関東大震災で一度壊滅し、風情は残しながら大きな耐震ビルの形になった古書店街を抜けて地下鉄に降りた。

「何駅?」

「何でそんなこと聞くの? 黙ってついてくればいいじゃない」

「はぐれたらどうするの?」

「メールくれればいいでしょ」

 ま、そりゃそうだな。ってオレにはケーコがないんだ。

 何度か乗り換え、駅にアーケードでつながる少し古い超高層マンション。

 普通なら入口で手続きなどをするところだが、何もなしでオレの掌紋が受理された。

 体内ケーコ一つで? どうやったんだろう。

 一階は銭湯や大きなロビーが主。

「なんだか老けた感じだな」

「そりゃ前は、本土のマンションなんて半分は老人ホームだったんだから」

“皆で皆を食わせ、介護し、育て教え、文明と自由を保つ”という当たり前のことが、実行となるととてつもなく困難だったらしい。新しい社会契約だ、と神谷さんに聞いた。

 まず財政とか予算とかが問題になり、そして高齢化での労働力不足、とかなんとか……

 日本など一時期はあまりの高齢化に、老人介護に国力の大半が費やされた時代があったとか。

 今は中国やインドがものすごい高齢化だが、幸い情報・ロボット技術の発展でそれほど大変ではないようだ。

 まあそんなことより、本土では岡野はどんな部屋に住んでいたんだろう。オフクロと親しいとかいう両親は……

 かなり高い階の部屋に入る。うちより広い、そう思うと急にうちが恋しくなった。 

「おじゃまします」

 うちにはじめて入ったときの、岡野の気持ちが何となくわかった。

「悪かったな」この一言を言うのに、嵐の中帆桁を渡るより勇気が必要だった。

 うちよりは広い、古い感じの3LDK。

「荷物はここ、この繭を使って。本土での水道とかいろいろ、使い方はわかる?」

「ああ、テレビとかでよく見てるから。ご家族は?」妙に改まった声になってしまう。

「今日は帰りが遅いから、食べて宿題すませちゃお」

 と、ラーメンの出前を待ちながらも宿題に取り組んだ。

「あのさ、計算は頭でやってる? それともケーコで?」

「もう別々じゃないんだけど」

 あきれたような口調。どうなってるのかな。

 ふと、

「ふたりっきり、だね」

 と、いたずらっぽい口調で彼女が口にした。

 心臓が跳ね上がる。大波のように高鳴ってとまらない。制御できない。息が苦しい。もしここに葉波がいたら、どうからかわれたことか。

「おい……」

 どうしていいかわからない……こんなときケーコがあれば、葉波の『帆桁端から逆さ吊り』という警告があるのに。

「ああ……持ってるよな? あのナイフ」

 オレの最後の一本、チタン合金の小さなワンピースナイフ。人魚の操作感、亜熱帯の海風が強くよみがえる。強烈に帰りたくなる。

「え?」

「なら大丈夫だ、もしオレが理性を失ったら遠慮するな」

「バカ! 順序数の復習から始めましょ」

 やっといつも通りになったか、と思ったけど、前は葉波もいた。そして、今は心臓がうるさくて集中できない。切れそうだ、早くご両親が帰ってきてくれれば……

「なあ、無限の順序数って絶対両端がくっついてる気がするんだ。それでメビウスの輪みたいに、ぐるぐる……」

「複素数空間のコンパクト化? うーん、どうかなあ……」

 岡野の両親は想像していたより普通の人。ただ、なんだか違和感がある。

 その日は宿題もあったけど、あまりにドキドキして結局眠れなかった。

 

 それから、どうも家では、彼女の顔を見るとドキドキして胸が苦しい。でも、予習復習や課題をやりながら色々話すのは最高に楽しいんだ。

「うそ、フェルマーの予想にも間違いがあるんだ」

「そりゃあるわよ。オイラーが二の三十二乗+1は素数じゃない、ってちゃんと示したのよ。こうやって……」

 伸びた黒髪が、はらりと耳からこぼれる。胸の谷間が……あ、そうか!

「一休みしようか」

「そ、そうだね」

 心なしか、彼女の無表情が少し柔らかくなっているようにも見える。そのたびに胸がドキドキして、頭がカーッとして……逆に冴えてくる。問題に逃げたい。

「でも、よくあんなややこしい証明についていけるわよね。みんな混乱してたわ」

「レマク・シュミット? ああ、オレは一級海技士(航海)試験に、年齢が足りないから資格はないけど学科は合格してるんだぞ?」

「それが?」

 怪訝というか、ちょっと表情が曇る。

「自分がどこにいるか、目的地はどこかがわかれば、適切な針路を選べばちゃんと着くよ。あの証明は、目的がはっきりしてたから」

「間違ったら?」

「なぜ間違ったか調べ、また自分の位置を調べて目的地への最適航路を割り出す、そうすれば修正できる。それに」

 と、いつも持っている細索を取り出していくつか複雑な結び方をして見せた。

「やだ、何しに紐なんて持ってるのよ」

「色々固定したり、太索が切れてたら端止めしたり、他にも……」

「もういい。あくまで海なのね、まともな直交座標より赤道座標のほうが慣れてるんじゃない? あ、お茶入れるね」

「だから、海の辞書にややこしいなんて文字はないのさ」

 

 ある夜。ちょっと厄介な群の宿題で、詰まって気分転換にと台所でなにか飲もうとしたら、岡野とはちあわせした。

「どうしたの?」

「ちょっと気分転換、何か飲もう」

「そう」

 それっきり黙って台所に向かい、二人分クッキーを取り出そうとして、少し迷っていた。

「どこにしまったっけ」

 自分の家なら普通全部わかってないか? 何かおかしいんだよな……

「おばさんを起こしちゃ悪いからな」

 苦笑し、自分の荷物からハーブティーと、七つ道具の氷砂糖と海難クッキーを取り出した。

「このティーバッグ」

「うちの庭でできたんだ、といっても世話してるのは葉波ん家だけどね。結構人気あるんだぜ、百合姉がブレンドしたやつで」

「うん……おいしい」

「こっちのクッキーは、お世辞にもうまいとはいえないけどな……あの時は本当にうまかった」

「あの時?」

 あ、しまった。

「ごめん、聞いてない? 葉波と流されたというか勝手に海に乗り出したことがあって、その時、丸二日我慢してからボートの底でみつけて、半分」

「聞いてる、みんなに」やるせないような、苦笑したような表情を浮かべ、「すごい結びつきよね、お互いの……」

「しょんべんなんて飲んでないぞ、海水同様、水分としてはマイナスになるから」

 よくからかわれるんだ。

「どう?」

「難しい! 今まで、可換じゃない計算があるなんて考えたこともなかったんだぜ?」

「まあね、ここは覚えて慣れるしかないわ……」

 立ち上がって、別の何かを探そうとして表情を歪め、頭を押さえた。

「どうした、故障か?」

「大丈夫、ちょっと……」

 立ち上がったオレにふらりと、倒れこむように抱きついてきた。

 しばらく目を閉じ、息をつくと、深呼吸をして、

「もう……大丈夫、ありがと」

 そう見上げる彼女を、オレは抱きしめてしまった。

 彼女は悲鳴も上げなかった。抵抗しなかった。ただ、驚いた、それでいて悲しそうな目で見つめ返した。

 どうしたんだ、オレは……バカな、冗談じゃない……

 暖かい、なんて柔らかくて……強靱なのに、壊れそうな感じ……こんな……

「それで、どうするの?」

 その言葉で、日が昇って霧が晴れた。

「ごめん……明日にでも」

「出て行くことないわよ、同罪だし……わかってて? それとも……なんでもない。ずっとましよ」

「え?」

「おやすみ」

 なぜオレはあんなことを……なぜ彼女は抵抗しなかったのだろう……なんで、あんなに悲しそうに……

 

 眠れるとは思えなかったが、気がつくと寝てしまって目が覚めるとぎりぎりだった。彼女もで、顔をあわせると気まずいよりまず苦笑が出たのがほっとした。

 傘を手に駅の乗り換えで、テレビで知っていたネオン街というのが見えた。

 メガフロートにも、そういうところはある。下手に狭いから、それが見えてしまうんだ。港にそういうのはつきものだし。

「どこにでもこういうのってあるんだな」

 なんとなく、あえて普通に話しかけたかった。彼女も自然に答えてくれる。

「でも、今はそれが害じゃなくって富を生むようにしてるわ。“森は常に腐敗があるが、豊かな生命には必須”が基本方針だから」

「海だってそうさ」

 違法な稼ぎはできるだけ合法化する……二十世紀後半、ヨーロッパではじめられた知恵だ。大麻などの禁制品は“地獄”など場所を限定して許可し、犯罪より合法的な商売のほうが儲かるように誘導する。

 どこであっても闇を社会の部品として活用し、闇の力で重大犯罪を制御、最低生活保障と予防精神医学、心理教育で犯罪の動機を減らす……どうしても社会そのものに適応できない者は“地獄”でそれなりの幸福を得られる。

 円卓騎士団にマフィアの若いボスと、そのボディーガードがいたことも重要な影響がある。

 二十一世紀初頭はテロが重大な問題になったけど、コンピュータと闇、両方の目から逃れてテロをやるのはほとんど不可能、わずかな反円卓テロがあるぐらいだ。

 あの時代……人類史上のいつどことも違い、少なくとも飢餓はないし、世界のほぼ全員が最低限の教育は受けている。

 今は多様な共同体が許されている。どんな集団にも、無茶な資源の浪費や環境汚染をしない、全員に最低限の衣食住と教育、医療、介護を与える、情報に触れることを禁じない、邪悪な支配をしないなどの最低条件はあるけど。だから本来ならそんなに不満はないはずだ……でもオレもわけのわからない不満はあるし。

 なぜか戦争もほとんどない。“人類の幸福な生存のための総力戦”はあるけど、武力を使う戦争じゃない。『第二次世界大戦』をあれから少し気分転換に手写ししたけど、逆になぜ今戦争がないのかが不思議なぐらいだ。

「難しいのは、配給や生存公役システムに入ってくる腐敗よね。それをプラスに利用するのって大変なの」

「そうなんだ」

「特に邪悪な人間、誰だって邪悪はあるけどそれがいっちゃってる連中って多いからね……腐敗を利用するの自体は江戸時代が参考になってるようね、あれは闇もうまく利用してたから。二十世紀後半、反腐敗ヒステリーで一度壊れたんだけど」

 彼女はなぜか、円卓などのシステムについても妙に詳しい。

「そういえば、前読んだ本じゃ、昔の人って今みたいな……ほら」

 と、街角の監視カメラやカメラなどがついた虫型ロボットをあごで指し、

「ああいうのって監視国家になるって、みんなすごく心配してたみたいだけど」

「ああ、『1984年』コンプレックスね」

 岡野がちょっと不愉快そうに表情を歪めた。

「ビッグブラザーが自分は見られないでみんなを見たらそうなるけど、見てる人もその後ろから監視されてるの。誰でも何でも見ていい、その気になれば誰だって、もちろん円卓騎士団を見てもいい」

「それをのぞきに悪用するヤツがいたらどうするんだ?」

「ああ、それで知らされてないのね、あなた考えなしにやりかねないから。残念だけど、見る者は見られる……まともにしていれば誰も気にしないけど、変に誰かのプライバシーをのぞこうとしたら逆に注目を集めて、名誉を失うの」

「やだなそれ」

 名誉はオンラインの現金になるし、他にも……すごく痛い。

「邪悪な人間は厳しく監視されてるしね。第一見てるのは円卓だし……いい、円卓は一人一人の人間なんて興味ないの。一人一人の人間そのものだって、わたしたち人間と同じようには認識してないのよ。わたしがあなたに話してるとき、あなたのここの」

 と、岡野はオレの額に触れて、

「右から何番目の神経細胞に話しかけてるわけじゃないわ。それと同じで人類全体、ううん地球(ガイア)……宇宙全体と接触してるの」

「ど……どうやって?」

 なんだそりゃ?

「ネット全体、ものすごい数のカメラ、あらゆるコンピュータのデータとか観測機器。ネットの、世界中の人が作るテキストさえそのごくわずかでしかないのよ、むしろ人の呼吸数とか細胞の電気……ケーコと連動したペースメーカーとかのデータ、それに街角のカメラに映る人の表情の、人間は意識しないパターンのほうが大事だったりするの。それを通じて、昨日熱力学で習ったでしょ? 一つ一つの空気の分子はわからなくても、統計的にわかることはできる。それと同じように……ううん、人が人の顔色を、ものすごい量の情報を瞬時に処理して読むように、あれは人間の大集団の、ヒトラーを生み出したような意識みたいなもの、太平洋戦争を起こした空気と直接交渉してるようなものなの。

 人間を動かす力が、いちばん強いのはなんだと思う?」

「道徳、法、利害、宗教……」

「あなた、本当にそれで動いてる?」

 ぎく。

「あ、ええカッコしいだけか」

 悪かったな。

「“みんながどうしてるか”“全体の空気”、“飼主(カリスマ)の指導力”よ。人間なんて七割は羊みたいな群れ動物だから。あれはそれを制御、少なくともそれ、空気そのものと対話してるの。ううん、カトリックやイスラム教の、神はともかく教団の空気とは対話してると言っていい……科学、近代文明に反対してた宗教さえ、おおかた思い通りにしてるんだから」

 なんだそりゃ?

 彼女の口調がなんだか激しくなる。

「それに人間なんてごく一部でしかない、あちこちで進んでる、木や草、土や海の微生物にすごく小さな機械を入れて電気信号とかチェックしたり、それに大規模な天文、地球観測! パパが解析してる波や海の細かな」苦々しげに顔をゆがめ、オレの胸に針のような痛みが走る。「そんな情報全部が今の聖杯になってるの。人間なんかには想像だってできないわよ!」

「なんだそれ」

「このURLをチェックしてみなさい、“円卓は何も隠さない”……あ、ケーコ持ってないんだっけ。面倒ね」

 いいながらメモしてくれた。

 徹底した情報公開が、円卓騎士団の結成以来の基本方針の一つだ。騎士などの情報は、人間がチェックするには何万年もかかる偽屑情報の海に紛れさせる、という形で隠すけど。

「人間って、超知能とか神とかも、結局人間に似たものとして考えちゃうのよね……でも、違ったの。あれが人間を殺さないのは、単に運がいいだけよ……いつ方針を変えるかわからないから怖いの。たまたま善に見えるスカイネットだもの」

 スカイネット? ああ、去年3Dにリメイクされた《ターミネーター》か。オレはまだ子供版しか見てないけど。

「でも、すごく寛容で、ほらこんなことしゃべっても大丈夫なんだ! 自由じゃないか」

「文明の基盤を崩さない程度に自由、寛容を崩さない程度には寛容、ね。第一プライバシーなんて実際にはないも同じじゃない。情報公開とみんながみんなを監視してるから、国とかいろいろな機関はコントロールできてるけど……

 それにこうも環境税が高いと、財産の自由なんてないも同じ、少なくとも反円卓派はそう考えてる。それに今は、最低限しか求めてないからなんとかなってるけど、百年後はどうかな……あれが今後どうなるかなんて、誰にもわからない」

 ふと、彼女が寂しそうな表情をして、オレの手を取った。

 心臓が猛烈にドキドキし、口から飛び出しそう。

「わたしは、円卓が……この世界がだいっきらい」

「でも、別の世界がいいのか? あれを止めてなかったらオレも……どっちも、みんな死んでたし」名前を呼べなかった。なんて呼んでいいかわからない。だから間が持たないんだ……「前にひどいめにあったろ『何もしなかった未来』で。あっちのほうがいいのか?それとも『天国と地獄』?」

「他にも考えられない? あ、そろそろ誰かに会いそうだから、駅に着いたら水道橋側から来て」

「OK」

 岩波ホール側から上がり、新後楽園球場に向かう方向から……このへんのややこしい道は一度探検してる。羨ましいのはたくさんの古びた小さな稲荷の類だ。震災も乗り越えてしっかりとこの土地を守ってる、って感じがする。

 メガフロートにも寺社や教会はあるけど、特に老人はちゃんとした神社がないから嘘の土地だ、と文句をいうことが多い。去年歴史と同時に主要宗教の教義はやったし、日本では小さい頃から「古事記」などは読まされるから、その文句がわからないのは怖い、というのはわかる。

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