こんな明日はいかが?   作:ケット

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第6話

 ひたすら飢餓と伝染病、原始的な戦争。廃墟。砂漠と荒野。

 それが、いつしか別の夢になる。

 巨大な、工場のような研究所。

 無数のラット、シャーレ、試験管、いくつものビルを埋める当時最強のコンピュータ……巨大光子コンピュータと量子コンピュータ、パソコン数十万台の複合体。

 若い美女が白衣を脱いで震える手の注射器を見つめ、自分の腕に刺してゆっくりと透明な液体を注入する。

 それから優雅なドレスに着替え、空の旅を愉しむ。猥雑な空港。カイロ、ニューデリー、シンガポール、上海、成田……

 一年後、人々が一斉に、苦しみもがいて死んでいく。全身に赤と黒のできものを浮かべ、高熱に錯乱して。

 世界中で。白人以外すべて。

 アメリカでも黒人やアジア系、混血のヒスパニックが、もう白人より増えていた人たちが次々に死んでいく。

 NBAの試合が中止された。

 

 あ……夢か。よかった。あらためて、円卓騎士団に感謝するな。くそっ、岡野があんなことになって、つい同情して葉波と『何もしなかった未来』、ついでに『円卓の騎士たち』を見ちまったから……

 もうすぐ夏休み。その前に稲刈りと期末。

 本土では稲刈りは九月ごろだが、亜熱帯のメガフロートでは三月下旬に田植えをして七月には収穫できる。

「もう、飛行機とっとく? 父さんのところに行くんでしょ?」

 オフクロが聞いてくる。

「ああ……」

 どうしようか。やっぱりゴビ砂漠でオヤジを手伝うか、ずっと見てきた防風林がどんなふうに育っているか……

 でも、僕らは緑前線を進めるだけで、一年中毎日面倒を見るのは現地の人だ。

 あそこのように環境、交通に恵まれていない地域では自給自足と緑の維持を優先、具体的には大きな地域全体の半分は森に、そして残りの農地も木をたくさん植えて燃料や肥料、金になるものを確保する、という原則は守られてるだろうか。

 原則自体は正しいけれど、現地の人たちと触れあってみればその格差を、どれほど彼らが不満に思っているかは伝わっているんだ。

 しょせん子供は足手まといだ、と最近ようやく分かってきた。あっちの、まだ貧しいところではまだ子供が労働力になってはいるけれど。今年は少しはものの役に立てるだろうか……

「おはようございます」

 相変わらずどこか他人行儀に岡野が……うわ、トレーナーが汗に濡れて、肌にくっついてる。

「由、あっちで食べてなさい」

「だいっきらい」

「お兄ちゃんのスケベ」

 余計なことを言う美香の頭を軽くはたいた。今朝は煮魚と海藻汁と……

 

 先生が来る前にテスト勉強で先週の復習をまとめていると、ふとなにかひっかかりを感じた。

 あの太陽電池の、いつも見ている柱……発泡コンクリートの断面……

「“泡を正四面体を集めた構造に”」

 録音の一語に、何かがおかしい気がする。

 そう思っていたら、もう授業が始まっていた。

「EUは、地中海周辺から中東にいたる、古代文明のせいで砂漠化した地域の緑化に力を入れています。最大の問題であった若年失業者を振り向けることで、社会不安を解消する努力がすすめられ……

「まずEU内部の緑化で当時若者の30%を越えていた失業者に植林、緑化、アグロフォレストリーの素養を学ばせ、後にギリシャ、アルバニア、トルコからイランにいたる広大な地域を緑化……

「ユダヤ、キリスト、イスラム三大宗教が協調し、文明が破壊した荒野を緑に変えるという思想は多くの反対がありましたが、円卓騎士団事件をきっかけにローマ教皇が……

「アフリカ大陸全体について、EUが大きな責任を持つことになりました。そのかわり大西洋に多くのメガフロートを建設する権利を得て、それは今EUの汚水処理、食糧、バイオマスエネルギー増産に活躍……

「北海、バルト海全域に二十四時間日光が宇宙の鏡から与えられています。それは生物生産量を五倍に増やし、二酸化炭素を吸収すると同時に産業革命以来の膨大な汚染の分解に寄与して……

「EU北側の海の栄養は飽和しており、メガフロートを用いた下水処理は非効率的です。日光を追加して海藻と貝を養殖するのが優先され、また大河流域のあちこちに、大規模な水質浄化用の湿地を回復させ、そのバイオマスを有効利用して……」

 ……授業を聞きながら、頭の中では何かが形になれずにいる。

 

 夜、感じた引っかかりを考えてみた。何だろう。

「由、由?」

 あ、うわ! 至近距離で葉波がのぞきこんでいた。目がぶつかりそうで、心臓が跳ね上がる。

「どうかしたの」

 その瞬間、わかった。

 パズルのピースがぴったりはまった、いやはまらない。

 頭を抱えて想像するが、それではもどかしい、何か言ってくる葉波を押しのけ、机に飛びついてノートを二、三枚引きちぎる。うーっ……あ、コンパスと定規で正三角形は作れる。

 自分の繭に飛んでいき、ドアを開けるとそこには岡野がいた。

「悪い、コンパスと定規」

「え、え」

 強引に手を突っ込み、奥の壁の棚を探って文房具をあさり、そのまま机に引き返す。

 呆然としている葉波を無視していくつか、もどかしい手で正三角形を作る……、切って正四面体をいくつか作る。はじめはまだるっこしかったが、大きい正三角形を作ってから各辺の中点をとって結べばそれも展開図になることに気がついた。

 正四面体をいくつか組んでいくと……やはり!

「あれ」

 葉波も気がついたようだ。

「ほら、正四面体じゃうまく組み合わさらないんだ!」

 思わず、葉波を抱きしめていた。

「ちょ、ちょ……」

「いや、ちゃんと証明しなくちゃっ」

 と、また繭に飛んでいくと、まだ映画を見ていた岡野を強引に押しのけた。

「な、なにすんのよ」

「悪い、ちょっと使わせてくれ」

「わたしの……いや、そうね、でもこれが終わるまで」

「待てない!」

 岡野を抱え上げて外に下ろし、そのまま繭に入りこむ。ええと、これに関して……ああ、確かおいらの証明だっけ、正多面体が5つしかないのは角度が、だから……ネットで調べてみるか。面同士の角度は、そういうことか。うわ、情報が多すぎてよくわからん……正四面体を縦に切れば……ああ、索具(リギン)を思い出せ。ロープと滑車(テークル)が……

 

「由!」

 強引に繭が開けられた。

「葉波?」

 あ……くそっ、徹夜しちまった。ケプラー予想か……軍艦の砲弾から生まれたとはな。くそっ、もっと前に生まれていたら。

「もう学校よ、早く! そろそろ期末でしょ……やっと勉強してるの?」

 う、忘れてた。『人間は忘れたいことを忘れる』とコンピュータ、うるさい。

「また、えまちゃん泣かせたでしょ?」

「え?」

「え、じゃないわよ! 強引に下着で寝てる女の子の繭に手を突っ込んで! それから引きずり出したって?」

「あ……」

 そんなこともあったな。人の繭を勝手に開けるのは……いや、元はオレの繭だぞ。というか下着姿だったんだ! もったいないことをした。

「おばさんに言われたわ、かわりにしっかり叱っといてね、って」

「え」

「いい、えまちゃんがどれだけ気を遣ってるか、心細いかわかってる? 最低。あんたは守ってあげる立場でしょ」

「あ……」

 それどころじゃなかったんだが。

「それに、女の子の繭を勝手に開けるなんて、スカートめくりよりたちが悪いんだから!」

「悪かったな、久々にめくってやろうか?」

 手を動かすと、葉波は冷ややかに微笑み……悔しいが見とれてしまう……

「いいわよぅ、どうぞごえんりょなく。ほれほれ」

 と、ぎりぎりまで自分でスカートを引き上げて……たまらずそっぽを向いてしまった。勝てない。

 

「さて、今週はメガフロートがどこにあるか、地図で見てみましょう。

 まず日本の近くから。最初にできたのは東京湾と大阪湾で、港湾・工業・娯楽施設としてです。それらの用途もかなり重要で、現在もニューヨーク沖に世界最大規模のメガフロート群が建造中です。

 そして総合エネルギー・下水処理の人工干潟・海藻養殖型が野島崎沖など、黒潮にそって多数あります。

 沖縄ではエネルギー・農業複合都市型も多いのですが、米軍基地としても数多くあります。そもそもメガフロート自体、米軍基地の受け入れ先として発達した面が」

『由』

 葉波からテキストメール。どこにどんなメガフロートがあるか、毎日船で通っているオレたちは先刻承知。

 だから、今はひたすら昨日の続きをやっていた。

『なに?』

「他に中華連邦、韓国、フィリピンも主に日本と共同で、北西太平洋各地に多数のメガフロートを作っています。皆さんはご存知だと思いますが、日本の領海は地球儀で見るとこんなに広いんですよ。

 北太平洋は元々好漁場が多く、増やす余地は少ないのですがアメリカ・カナダが外洋海藻養殖場を作っています。

 赤道付近は名義は島嶼諸国、実際の建造・管理は日本で水田稲作・合鴨魚複合型が急速に増えています。わたしたちのメガフロートと同様にアゾラの空中窒素固定能力を利用し、合鴨や魚に雑草、害虫を食べてもらいます。低コストの人工珊瑚礁や、マングローブや塩生植物をラクダに食べさせるところも多いです。

 南太平洋ではイギリス・オーストラリア・ニュージーランドが中心になってみなさんと同様のエネルギー・総合農業複合型を主に……」

『由、夏休みどうするの? あのさ』

「インド洋ではインドが中心になって赤道周辺に、水田稲作・合鴨魚複合型や人工珊瑚礁がかなり作られています。南インド洋は現在未開拓の外洋ですが、高緯度の南氷洋は鉄と珪素さえ供給すれば光合成が増えるので、メガフロートこそ少ないものの海藻養殖設備が大量に造られており、世界のバイオマス生産の……」

『今話しかけないでくれ、勉強中』

「北大西洋はEUが主で、娯楽・産業型が多いです。海藻養殖も大規模ですね。北アフリカ沿岸でEUの汚染処理メガフロートが数多くあり、南大西洋は主にブラジルがラクダを大規模に飼育しています。メキシコ湾でも汚水処理マングローブ・海藻養殖設備が多数あり、水深を浅くし、宇宙の薄い鏡から日光を添加することが広域化してから、問題とされていた富栄養化が逆に膨大なバイオマスエネルギーをもたらしています」

『何の勉強? 音楽? 美術?』

 オレはもう答えなかった。やることが多すぎる。

「再来週から期末テストです。がんばってください」

 授業が終わるのももどかしく、先生に聞いた。

「先生、正四面体では空間を覆えません! ピラミッドが必要です!」

「あら……あ、ちょっと待って」

 わたわた、と先生は机を探り、小冊子を差し出した。表紙の、軌道エレベーターの予想図や冒頭の帆船写真に目が釘づけになる。

「長谷川君の受けている授業は……そうね。もし自分で気がついたのなら、よかったらこの講座を受けてごらんなさい」

 基礎数理工学夏期特別講座?

「天分があるのよ、理科や数学の成績も抜群だし。ちゃんとした証明については……そうね、大内先生に聞いたほうがいいわ。メールでアポ聞いてみるから」

「え……」

「そして、発泡コンクリートは自然がエネルギーを最小にしようとする力のおかげで、それぞれが少しだけ正四面体からずれて組み合わさることで、充分に強い構造を作るのよ」

「どうしたの由、次の授業始まっちゃうよ」

「ほら、行きなさい。期末テストの勉強、しっかりね」

 

 …………

 さっき渡された講座についてケーコで見てみる。

 本土で夏休み中、生存公役も免除で徹底的に数学、理科、工学の特に深い基礎を学ぶらしい。

 受講に必要な単位と成績もかなり高い。数学はなんとかなるが、期末で英語をちょっとがんばらないと。

 いや、何が悲しくてわざわざ勉強しなきゃならないんだ? オレは将来、船乗りか農業か緑化事業か……

 それだけだろうか?

 軌道エレベーター計画が始まるのに。

 木星や水星、冥王星やアルファ・ケンタウリだっていけるかもしれないのに。

「由、あの」

「なあ」

「え?」

 風がぶつかり合い、裏帆を打って帆桁が震えた。

「これ、どう思う?」

 出したパンフレットを見た葉波の表情が凍りついた。

「え、それ受けるの? まいったな」

 岡野の声がデクレシェンドする。

「えまちゃんも?」

「うん……」彼女の顔がはっと変わり「あ、でも、違うからね! こいつが受けるなんて知ってたら、絶対違うクラス」

「わかってるわ」

 と、葉波がなんだか寂しそうに。

「う、この……バカ!」

 岡野がオレを、憎々しげににらみつけた。

「由」

 葉波の、とんでもなく迫力のある声に、つい直立不動になってしまう。

「それを受けるなら、本土までの船で航海術実習をついでにとれば便利よ」

 口調は穏やかなんだが……でも、その通りだ。往復で二週間みっちり実習でき、船賃もただになる。

「ずっと……せっかく……」

 葉波?

 それっきり、葉波は向こうに行ってしまった。岡野も、オレと眼をあわせようとしない。

 

「風、強いね」

 岡野が外を見上げた。

「えまちゃん、今日は学校に泊まるよ」

 葉波がちょっとケーコをいじり、空を見上げた。

 天気データを見るまでもない……この間のオレと同じ基準なら船は出せない。かなり大きくスピードのある台風が接近している。

「へえ、そんなこともあるんだ」

「よくあるわよ、あたしたちは大体泊まる部屋が決まってるけど……いっしょでいい?」

「え、いいの?」

 なんだか、岡野が葉波に借りがあるような目をしている。海では借りは早めに返したほうがいいんだが。

「今日は帆走だけで帰るぞ、気合入れろよ!」

 ドラ声が響いた……うわ、今日の帰り、三本マスト大型船で船長は春日じゃないか! 最悪。『考えないようにしてただろう』と、常駐ソクラテスの一言。

「うそでしょ? あたしなら船は出さない……あ、カスが(春日)……」

「他の学校船も出てないぞ」

「運が悪かったな、死体が出れば上等だよ」

 ざわつきながら岡野たちおかもの、航海術コースを取っていない連中を船内に収容する。

 だが、かなりの、ある程度わかっている子は乗船を拒否して学校に泊まることにした。

 オレもできたらそうしたいよ……と呪いながら、必死で重い円材(スパー)を持ち上げ、はめこむ。

「当直員は艦尾甲板(コーターデッキ)に集合! 整列、直立不動!」

 春日……本当は一つ上だから、先輩をつけるべきなんだがつけたくない……が、嬉しそうな表情で勤務表を発表した。

「木村、シグナル・ハリヤード、左舷。長谷川」

「はい」

 胸がむかつくが、今は奴が船長だ……

「メン・トップヤード、右舷直」

「はい」

「アイ・アイ、サーだバカモン!」

 いきなり蹴りが飛んできた。何がアイアイサーだ、そんな慣習ここにはねぇぞ勘違いしやがってこの……他の誰にも同じようなことは言ってねぇじゃねえか……

「アイ・アイ、サー」

「声が小さい!」

「アイ・アイ、サー!」

「もう二十回!」

「アイ・アイ、サー! アイ・アイ、サー!……」

「声が小さい、三回メンマスト上り下り! 全速!」

「アイ・アイ、サー!」

 唇をかみしめながら、固くもやわれているのに激しく揺れている、伸ばす手も見えない嵐の中を必死で駆け上がり、駆け下りる。マスト・トップが埠頭にぶつかりそうになる。

 心臓が爆発しそうになる……なにくそ!

 下りる一瞬、無表情を保っている葉波と、客室に入ろうとしている岡野が見えた。

 その表情が目に焼きつく。イルカのような……

「そのままヤードにつけ!」

 春日……今は船長の声が響く。

 くそ、オレが何をしたってんだ! 前もひどかったが、あのときは凪だった……

 風で顔がゆがんでいるのがはっきりわかる。まだ五時なのに空が暗いぞ!

 オレが出なかったときよりやばいぞこれは……

 峰は錨索(ケーブル)からメン・ハリヤード、葉波が機関次席……くそ、せめてどちらかが舵を取っていれば。

 金さんと安里以外最悪なメンバーばかり中心に、こりゃ凪でも沈むな。

 と、思ったらいきなり、

「大横帆(コース)展帆!」

 冗談じゃねぇぞ! 今の帆は昔と違って、強靭すぎるからたちが悪いんだ……

 鉄板ロールのように固く巻き締められているのに暴風にもぎとられそうだった帆を、歯を食いしばって……少しずつ、だましだまし……

「何やってるんだ長谷川、一気に開け!」

 ふざけるな、帆がどうなると思ってる、オレに吹っ飛んで向こうの校舎に首から突っ込め、と? 船を転覆させろと? だが……

 船では無条件に服従しなければならない。しかし、船の安全だって……うわあっ。

 恐怖に歯の根が合わず、気持ち悪くて気を失いそうなのに耐え、げろをかみ殺しながら……風が一瞬緩むタイミングを計り、鋼の鞭のように跳ねる作業端をつかみ、一気に引く。

 そのとたん、爆発音がして船が大きく傾き、帆桁端(ヤードアーム)が海面に触れそうになった。船が砕けたか。

 同時に、すさまじい力がオレを帆桁からもぎはなそうとする……足が足場索(フットロープ)から外れ、左手一本でぶら下がる形になる。体が砕けたか。

 かろうじて体勢を立て直すと、船が恐ろしい勢いで横にずれ、左右に激しく、不規則に揺れながら埠頭にぶつかりそうになる。

 おかものよりたちが悪いぞ、中途半端に航海術をわかってるつもりで何をわかっていないか考えたことがない、サドのクズは。

 船が沖に無事に出たのは奇跡、いやオレも含め何人かが、微妙な命令違反をしたからだ。

 暴風はますますひどくなり、船は今にも沈みそうな、危険な縦揺れ(ピッチング)をしながら倒れそうな詰め開き(クローズホールド)で風に逆らい、また船首をおとして脇腹を波に殴られ、ふらついて船尾を波に食われる。雨だけで沈みそう、波に甲板が洗われる。どうみてもぶざまな動きだ。

 一時もマストから降りることを許されないオレは、船がどこにいるかも知らなかった。もう吐くものなどないし、それどころじゃない。ケーコに触れる暇などなく時間もわからない、暗黒しか。

 次の大波と突風に……いっそ、命令に従うだけの機械になっちまったほうがどんなに楽か。だが……またカスが、上手回しのタイミングが……くそ……

 たのむぜ、峰、金さん……二人がかろうじてタイミングを修正しているのが、帆脚索から伝わる。葉波が船長か、せめて操舵長(コーターマスター)だったら!

「長谷川、なにをしている! さっさとそのロイヤルを展(ひろ)げろ!」

 本気で船を沈める気かよ。もう真夜中で服が風をはらんで、空を飛べそうなのは慣れてるからいいが。

「遅疑や反問は許さん、実行しろ!」

 死ぬのか……みんな……

「そこまで、緊急事態発令、実習中止! メン・トプスルを縮帆(リーフ)して下りろ! 機関半速!」

 やっとだ、監視員の木村さんが声をかけてくれた。

 オレは手早く縮帆をすませ、がっちりと留まっているのを確認して後支索(バックステー)を滑り降りた……また、甲板口(ハッチ)から顔を出している岡野と目が合った。

 ばかな、閉めろ! 海水が流れ込む!

「春日。君を船長から解く、長谷川と交代」

 え、オレ? こんな状況で? 今日帰路の副長は金さんでは……

「学校側と連絡は取った。できたらこのまま、荒天帆走訓練を続けてくれると助かるのだが?」

 う……おおっ、

「はいっ!」

 オレはできる限りの声で叫ぶと、

「機関微速、ミズン・トプスル二段縮帆! ゆっくり、当て舵少々、左舷二人メン・ハリヤードにつけ!」

 矢継ぎ早に指示を出す。とにかく船を安定させ、風に向かわせなければ。エンジンを切って帆走に切り替えるには……

「楊、海図と現在位置! エンジンそのまま……ゆっくり下げて」

 現在位置はここか……エンジンうまく下げろ葉波、好きだ……信じてる。

「舵戻せ、針路このまま……ジブ、上手回し用意! 風上下隅索(タック)」命令しようとした瞬間、直感で吼えた。「取り消す! 総員体を固定! 取舵いっぱい、機関全速!」

「機関全速!」

「取舵いっぱい!」

 甲高い声。波しぶきで視界がきかない目の前に、突然塔のような三角波がそそり立つ。

 斬れるか? きわどいところで推進力が効き、鋭利な舳が波の裾を切り開き始める……胃袋が、いや意識しちゃいけない……ぐっと傾いた船体自体が、風を受けて三角波に押しつけられる。

 一瞬宙に浮いたような、甲板が壁のように傾いて……くる、ショック……きた! 転げ落ちそうになった誰かをつかまえ、手摺りに押しつける。

 手摺りに腕を絡ませ、甲板を膝まで洗う余波にかろうじて耐え、

「舵戻せ、機関停止!」

 もうエンジンは危険なだけだ。

「面舵少々……いっぱい! 戻せ!」

 船体がずれた背後で、間一髪波が立つ。船首が落ち、風を受け波を追い越す状態になる……危険だ、早く……焦るな……

 空と海がきれいだ、何も見えないけど。不思議と笑みが浮かぶ。

 まだだ……まだ、ここで……

「金、メンスル一段展帆! フォアおさえろ、もうすぐ峠は越える、気合入れろ!」

「おおっ!」

 皆の、腹の底からの声が響く……見回す、全員無事だ。

 心臓がつかまれる感覚を抑え、一瞬空が見えるが、その分風が荒れる空と海を再び見つめる。一面のしぶきに視界をふさがれる。そろそろ次の雲に入る……安定するはずだ。

「面舵もう少し! 帆脚索少々……よし、取舵」

 やっと風とつきあえるようになってきた。波も、危険な三角波は……今だ。

「まわすぞ! 優しく逃がせ、舵気合入れろ!」

「おうよ!」

 操舵手の安里、声変わりでかすれた声。

「機関微速前進、転桁索気を抜くな、……」

 ぐっと前が上がって……のりこえた、一瞬風が強まり……波が船首を押してくれる。

「ヤードまわせ! 面舵一杯!」

「面舵一杯」

 ふわっと、船が回った。

「舵戻せ、メンコース少し絞れ、ジブ用意!」

 ここで油断しちゃだめだ、気力を振り絞れ!

 いやというほど傾いて詰め開き、ここで気まぐれ波が一発来たら……目の前で波が弾ける。しぶきがシャワーのように注ぐ。ジブのすさまじい力が、巨人の手のように船首を風に向けて押す。船体が、バウが悲鳴を上げるのがわかる。

 大丈夫だ、いい舵……最高だ……風と波に乗るようだ……最高だよこいつら、この船、海と風と波……

「このまま南硫黄島九番に向かう。針路北北東、取り舵少々……よし、メン・トップマスト・ステイスル展け、ジブ縮帆!」

 風が味方になり、鋭い舳が波を裂いて船が安定する。ここで気を抜くな、また三角波が来る……真っ黒で、ところどころ青が交じる空……

 

「だいじょうぶ? 嵐の長谷川、って呼ばれてるんだって?」

 なんとか最寄りのメガフロートが見えた頃はもう朝、台風一過のいい天気が広がっていた。トビウオが脳天気に飛んでいる。腹がきゅるっと鳴る。

「それ、やめてくれ」

 岡野に答える……船室で誰かに聞いたのか。

 まだ波が残ってはいる。ここからが危険だ、メガフロート群の海域は海面下施設が縦横にあり、ブイを一つ見逃しただけで……ブイが一つなかっただけで終わりだ。一応李に交代したはずだが、甲板を離れて寝るわけにはいかない。

 第一眠れる訳がない、この横揺れ……船酔いで。

「まだ出るな、港に錨を入れるか繋留するまで危険は続いているんだ」

「錨?」

「メガフロートの周りにはよけいに底がある。船着き場には錨を入れられる」

「そう、もうこんなに天気もいいから、ちょっと上がらせてよ」

「いいから、今はオレが船長なんだ……船長命令は絶対だ」

「だからあんな、めちゃくちゃな命令にも従ってたの?」

「ああ」

「バッカじゃない? それで自分が死んだり、船が沈んだら」

「その話は後でする、峰! 船客を船室に」

「はい、船客を船室に収容します」

 峰が岡野の腕を取り、連れて行った。

 何か言いたそうだったが、無視。

 確かにめちゃくちゃだった。オレも、岡野も含め船のみんなも危険にさらされた。

 だが……規律と服従がない船は、ずっと致命的なんだ。まあ、あいつは二度と船長はやらないだろう。向き不向きが早めに分かるのは幸せだ。

 灯台と大風車は見えているが、まだ波が荒く風も強い……今港に入るのは賭けになる。

 だが、みんなの体力も限界だ。オレ自身も。だが……葉波と漂流したときは、もっとひどかった。まだいける。

「よくブイを見ろ、波の異常も! オンライン海図(チャート)もブイも絶対じゃないぞ!」

 声をふりしぼる。風をよく見て、なんとか無事に入港しなければ。訓練にはならないが、帆をたたんでエンジンを使うか?

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