たぶん、シャドーロールの怪物? 作:はー!
日盛りの光を浴びたターフは、柔らかな春風に揺れた。
一歩、地下バ道から踏み出した影が天を仰ぎ見る。
抜けるような群青の空は雲一つ無く、やや肌寒い気温は今の抑えきれない興奮の火照りを鎮めるようで、どこか心地良い。
漆黒の長髪を後頭部で束ねたウマ娘が目前に拡がるレース場を一瞥した。
遠くに見える観客席には、無数の群衆が観客席を埋めており、地鳴りのような歓声が感じられた。
トクゥン、トクゥン――と心音が鳴る。
緊張しているのだろうか――――自嘲気味に口元に微笑を浮かべて左右に首を振る。程よい緊張感が体内から漲っている。
深呼吸。
ワザと観衆から意識を逸らし、右腕を挙げて中天の太陽を手庇で遮る。
「……今日は特に眩しいな」ポツリと呟く。
普段であれば何気ない自然現象さえも、レース前は機敏に感じ取ってしまう。頭の中をクリアにしなければ、レース中に雑念となって冷静な判断力を奪うのだ。
金色の目を眇めて引き締まった大腿部の右足を大きく前へ進めた。
3月9日。
――――第44回阪神大賞典(GⅡ)
阪神競バ場には約6万近くの人々は世間的な注目を集める「ふたり」のウマ娘の対決を観戦しようと詰め掛けた。立錐の余地もない観客席が大波のように蠢き、期待の籠った熱気が会場を静かに満たしていた。
芝3000m。
長距離レースとなる今賞は、ウマ娘たちに一層のタフさを要求するコース構成となっていた。このキツさは実際に出走した者でなければ理解できないだろう。……無論、その栄光を掴む瞬間の喜びも。
(――懐かしいな)
つい昨年駆けたばかりなのに、もう随分と昔の事にさえ思えた。
艶やかな黒髪の印象的なウマ娘は俯き加減に右足の股関節に目線を向けて――苦い表情を浮かべた。数々のレースで酷使した脚だ。右手で自らの股関節をスカートの上から優しく撫でる。
(せめて、この一戦だけでいい。もってくれ……)
頭頂部のウマ耳を沈ませて内心で強く祈る。
今、どうしても負けたくない相手がいるのだ。
……頼む、と小声で口にしていた。
『おーーい、ブライアン』
と、遠くで男性の呼ぶ声がする。
耳をピーンと立てたナリタブライアンは、顔を上げて大歓声の中から男一人の声を明瞭に聞き分けた。
凛然と黒髪を翻し、声の方角に向かい芝生を踏みゆっくり近寄ると、コースとバ場柵を一つ隔てた関係者席にブライアンのトレーナーが居た。
ガリガリに痩せて、病人みたいな風貌の男はブライアンと目を合わせると柔和に微笑む。
「どうだい?」
と、一言だけ問いかける。
「ああ、問題ない」
涼やかな目元を細めたブライアンが短く応じる。周囲の関係者たちはふたりのやり取りの簡潔さに驚いた。他のトレーナーであれば、故障から復帰したウマ娘の体調をアレコレと確かめるだろうが、ブライアンのトレーナーはただ微笑むだけで細かい点を気にする様子もない。
……大丈夫だろうか?
思わず、ブライアン陣営以外の関係者たちも心配になった。
だが他人の危惧をよそに、ふたりは一瞬だけ目を合わせて小さく頷きあった。
「行ってこい、シャドーロールの怪物」
男は、拳を握って左腕を伸ばす。
「――ああ」
ブライアンもそれに合わせて拳を突き出した。
ふたりの間に距離はあるが、二つの拳は確かに重なるように見えた。
ガシャ、と踵を返すブライアンは足元の重い金属音を響かせ、コースへと舞い戻ってゆく。
◇
「もーっ、遅いよー」
コースの上でひとりの小柄な相手が、子供っぽい口調で文句を言う。
「ふっ、すまない」
不意に苦笑いを零したブライアン。
「今日はよろしく頼む〝マヤノトップガン〟」
背の低い相手を意識して目線を下げ真正面から見据えた。
栗毛が特徴的なマヤノトップガンは、満面の笑顔で強く頷いた。
「うん、今日はぜっったいにマヤが勝つからね!」
「望むところだ」と返事をした黒い尻尾が左右に揺れる。
……勝つ。
普段からクールな表情のブライアンは現在も平静を装う。しかし、彼女の内に秘めた熱く滾る闘志は一向に衰える気配がない。
「行こう」
「うん!」
二つの影が並び立ってゲートへ赴く。
――第44回阪神大賞典
いま、ふたりの役者が揃った。
一方は「シャドーロールの怪物」ナリタブライアン。
一方は「変幻自在の脚質」マヤノトップガン。
早春のもと、3000mの戦いが始まろうとしていた。
随時、加筆修正します。