たぶん、シャドーロールの怪物? 作:はー!
――……鼻腔の奥を擽る緑の匂い。
入学式の終わった午後の閑散とした時間。
トレセン学園校舎裏エリアに拡がるトラックコース。
夕陽の斜光に照らされたミネラルウォーターのボトルが、芝の地面に侘しい影を落とす。
この日ばかりは、自主練をする者も少なく閑散としている。――しかし、ゼロというワケではなく、むしろ数人は自主練など走り込みを行っていた。
式の直後、この場所に来た新入生たちは皆、羨望の眼差しでこのトラックコースを眺め、そこで走るウマ娘と己を重ねたであろう。
コース見学は毎年の恒例行事だった。――華やかな走者、魅了されるようなスピード。
すべてが、華麗な舞台や画面越しに見たことがある光景のはずだ。
カァ、カァ、と鴉の鳴き声が聞こえる。
茜色に校舎を染める時刻。
ほとんどのウマ娘たちは、午前に練習プログラムを終えている。今ごろは身体の疲労のケアに当てる時間だろうか。しかし、それは――――
「……選ばれた奴だけだ」
憂鬱な顔の男はコースの外柵に肘をかけてパイポを齧り、小さく吐き捨てた。
彼は誰に語り掛けるでもなく、ただ練習する何人かのウマ娘たちを見ていた。
午前中の――つまり、新入生にアピールできる時間にこのトラックコースで走ることを許された者は、大手のチームに所属する者だけ。原則としてウマ娘同士の衝突事故防止などの理由により、1つのコースで走る人数は制限されている。
当然、レースで実績を残したチームは優遇されるワケで、自然とコースを使用する権利交渉でも優遇措置が図られる。
(――それは自然なことさ)
と、男……大滝耕作は思う。
実績のあるチームが優遇される……それ自体はごく自然なことだ。レースには常に勝者/敗者があるように、実績を否定することはレースの存在自体を否定することだ。
……子供でも分かる理屈だ。
『はぁ、はぁ、…………っ、トレーナー。どうでした? 今の走り?』
ひとりのウマ娘が、息を切らしながら耕作の方へと駆け寄った。
夕陽を背景にしたボブカットの彼女は、純朴そうな笑顔で問いかける。
「……ん? ああ、スマン。ちょっと考え事をしていて見逃したわ」
肩を竦めた耕作は幼い子供のように舌をペロッと出す。
「もーっ、どうしてキチンと見てくれないんですか!?」
可愛らしく頬を膨らませたボブカットのウマ娘は、批難の怒りを示した。
「ははは、スマン。――なぁ、ところで脚――いいのか?」
と、耕作の目線は自然と、彼女の左足太腿に向けられた。
「えっ? あ、はい。……いまは全然」
一言、質問されたウマ娘は困惑したように曖昧な笑顔で答えた。
彼女の太腿の皮膚は赤くかぶれていた。テーピングを剥がした跡が残ったのだろう。湿布の匂いが耕作の鼻に感じられた。
「……そんなに急がなくていいんだぞ。――お前は」
「分かってますっ! 大丈夫、大丈夫ですから」
間髪を入れず耕作の話を遮ったウマ娘は、気まずくなって足元へ視線を落とした。
「無理だけはしてません」念押しするように、彼女は言った。
唇を噛みしめている彼女は、まるで叱られた子供のようだった。
耕作は、彼女の後ろに拡がる芝生へと意識をやる。
数多くの足跡に抉られて芝の捲れあがった地面は、ボコボコと穴が開いていた。コースの使用権で最後に使う者の宿命だ。
とてもではないが、良い練習環境ではない。
当然、このトレセン学園では潤沢な予算によって毎日コース整備が行われる。
しかし、たった一日で何度も整備されるワケではない。何より整備に当てられる時間を惜しむように多くの者が練習の予約を入れるのだ。
必然――――穴ぼこだらけのコースが完成する。
こんな劣悪な環境で練習を強いられるのも、ひとえに力のない耕作の責任であった。
だから、彼はコースを一瞥して罪悪感を抱え、パイポを噛む力を強める。
「それより、喉渇いただろ? ほら」
耕作は芝の上に置かれたボトルを手渡し、無理やりな微笑を浮かべる。
「ありがとうございます」
「しかし、お前さんも頑張るな。もう今日はいいんじゃないか?」
「そんなことありません。もう一回だけ、走りたいんです」
「…………。」
悲痛な叫びに似た言葉に、耕作は暫く押し黙った。
「お願いです」と、ウマ娘は蚊の鳴くような声で頼み込む。その手に握ったボトルは小刻みに震えていた。
ふーっ、と息を吐いた耕作は「分かった。ただし怪我に気を付けてな」と同意した。
ありがとうございます、そう言い残してコースへと駆け戻った彼女の背中を見送りながら、耕作は一人、拳を強く握った。
彼のチームに名前はない。
いや、そもそも耕作自身が所有するチームはない。
今こうして耕作の目前で走る数人のウマ娘たちは、勝手に耕作を「仮の」トレーナーに仕立て上げ練習をしているのだ。
この場に居るのは、いわばチームに属さない、あるいは追い出された「野良」のウマ娘たちだった。
トレセン学園の伝統なのかは分からないが、実績のあるチームなどは惑星や彗星など夜空の天体をイメージした煌びやかな名前を冠している。
……――だが、耕作の「チーム」はどうだろう? 正式にチームとして認められていないばかりか、一部の者からは「ドッグタグ」と呼ばれている。
ドッグタグとは、戦場の兵士を識別する金属の小さなプレートであり、戦死した場合、遺品として家族などに届けられる代物だった。
つまり、耕作の受け持つ「野良」のウマ娘たちは、皆、怪我を負ってチームに居づらくなった連中の集まりだった。
中央のトレーナーの中でも、怪我をしたウマ娘たちだけを受け持つのは、耕作だけだった。
良識のある一般的なトレーナーであれば、怪我から復帰しようとするウマ娘たちの状態を見ながら、レースの引退を勧めるか、もしくは、敢えて厳しい言葉で現実を教えるだろう。
しかし、大滝耕作という男はどこまでも「甘ったれて」いた。
彼は、ただ最後の駆け込み寺のように、どんな怪我をしたウマ娘でも受け入れ、練習に付き合う。それは、彼が中央のライセンスを取得する前からの癖だった。
彼がまだトレーナー駆け出し時代の頃、中央のトレーナーたちの下で助手をしながら実際の練習や必要な知識を蓄えていた頃から、怪我をしたウマ娘たちの世話をしていた。
必然として、チームの一軍選手よりも二軍三軍……もしくは怪我をした者たちと関わる時間が増えた結果、耕作なりに彼女たちへのコーチングを行う機会が増えた。
普通のトレーナーであれば良い顔はしないが、コーチング相手がチームの落ちこぼれであれば話は別だった。
耕作の教えたウマ娘たちは、華々しい成果こそ収めなかったが、「それなり」の結果を残したので、お咎めもなくコーチングすることを黙認された。
「最高」の指導ではなく「最善」の指導方法を耕作は学んだ。
しかし、所詮それは付け焼刃の代物であり、気休めでしかなかった。
のち、正式に中央のトレーナー免許を取得した後も、彼の悪癖は治らず、結果として力あるウマ娘たちは彼のやり方にそっぽを向き、代わりに怪我などでチームから弾かれた者だけが彼の下に集まるようなった。
『ほどほどに……怪我さえしなければ、いいんだ。とにかく、無茶だけはするなよ』
これが、耕作の口癖だった。
実際、彼に教えを受けるウマ娘たちも解っていた。『自分たちは選ばれた存在ではない』ことを。だから、彼の「勝てないけど負けない戦い方」を学び、ほどほどの結果を残して――レースを辞める。
その時のウマ娘たちの表情はいつも決まって、踏ん切りのついたような、キレイに諦めのついた爽やかな笑顔を浮かべて、ただ「ありがとうございます」という挨拶をして耕作の前から去っていく。
……――ああ、お前も元気でな
いつも、耕作は別れ際に言う言葉だった。
仕方なかった、彼女はこのまま怪我で引退するより「ほどほどの結果」を残せてよかったじゃないか――そう言い訳することが耕作の習慣となっていた。
『お前は、なんだ?』
耳の奥に甦る声。
ふと、耕作の瞼の裏に稲妻の走ったような衝撃が全身を駆け抜ける。
圧倒的な存在感を放つ、ひとりのウマ娘が刃物のように鋭く強い眼差しで、桜の花弁越しに耕作を睨んだ。
彼女の印象をどうしても忘れることができなかった。
あんなに、圧倒的な力を感じさせるウマ娘は、トレセン学園の生徒会長であるシンボリルドルフ以来ではないだろうか? と、耕作は内心で自問する。
「いや、まさかな」
しかし、概してあのようなウマ娘は大手チームに所属する。それが自然な摂理だ。
彼女のような強い存在感のある者は、まさしく選ばれた者だ。自分のような三流以下のトレーナーはお呼びじゃない。
現に、彼女とは一瞬だけ目を合わせたが、すぐ不愉快そうに目線を外し、耕作の傍を通り過ぎて行った。――歯牙にもかけない様子で。
『トレーナー、計測お願いしまーす』
スタートラインからボブカットのウマ娘の声が聞こえた。
夢から醒めたように耕作は、現実に意識を戻す。
「おーう」
首にぶら下げたストップウォッチを握って右腕を大きく挙げる。遠くから駆け出した姿を確認するのと同時にストップウォッチを押した。
一秒、二秒……数字を刻む画面。
地平に没しようとする太陽が眩くて耕作は目を細めた。