たぶん、シャドーロールの怪物? 作:はー!
――ゴォゥ、と風圧が変化した。
ターフが激しく捲れ上がり、コースに土面が露出する。
ナリタブライアンの大腿部に青筋が幾つも浮かぶ。コーナーに設置された吹き流しの角度が真横に揺れる。軽く風速10m以上を記録した。
俄かに、足運びのリズムが速くなる。
先輩のウマ娘の背中を絶えず目前に捉えながら、ようやく
(――ここだ)
金色の目を細め、ブライアンはつま先へ更に力を籠めた。美しいフォームのまま、加速が続く。
自然、ブライアンの姿勢が前のめりになった。
◇
「えっ、うそ……あのスピード。ありえない」
ボブカットのウマ娘が、茫然としながらブライアン達のレースを眺めていった。
「ああ、やっぱり本物かもしれんな」
耕作は生唾を呑み、双眼鏡を握る手を強くした。
……――想像以上の加速だ、と耕作は瞬きすら忘れて、ただひとりのウマ娘を見詰めていた。
その彼女の長い黒髪が外気に激しく揺れる。
これまでの走りは、あくまで様子見だったらしい。いま、エンジンの掛かり始めたブライアンは本気を出しつつある。
コースを一直線に定規で線を引くように速度を上げてゆく。……見惚れるな、という方が無理な話だ。
「いいぞ、そのままペースを落とすなよ」
無意識の内に耕作は乾いた唇を舐め、呟く。彼はすっかり、双眼鏡に映る遠い景色に熱中していた。
◇
――――3バ身
――――2バ身
随分と距離のあったふたりは、突如発揮されたブライアンの加速により、距離の差が縮まりつつあった。
……――猛烈な気配が背後から感じる。
それは、音。
それは、地面の振動。
それは――――確かな気配。
五感すべてが、先輩ウマ娘にブライアン接近を知らせる。
(……っ、うそ……完全に私のペースだったのに! 新入生の娘に追いつかれる……そんなわけ……)
息が苦しい。まるで、灼熱に焼かれるように、緊張で肌が痛い。
こんな感覚は始めてだった。
どれだけペースを上げても、どれだけ気力を絞っても、距離は広がるどころか、ブライアンの追走を振り切っている感覚がしない。
「ここで負けるわけには……」
先輩ウマ娘の表情が、短い時間で絶望へと塗り固められつつあった。
先輩ウマ娘の背後を追うナリタブライアンは、陽光の加減によって変わる瞳の色を最大限に輝かせ、徹底したマークから追い抜く道筋を決めていた。
(――頼む、お願いだからもう〝あの感覚〟だけは来ないでくれ……)
相手の葛藤など知らず、その間にも加速を続けるブライアン。だが、彼女もまた、焦りを隠すように頬から冷や汗を一筋流した。
ピュー、ピュー、と柵の間から伝う笛に似た風音。
目前を舞い散るターフの残滓。
視界の全てが、徐々に色褪せて
一瞬、自分が「何をしているのか」分からなくなった。
ブライアンの視界には、すでにコースが見えず、真っ暗な世界へ身を置いているような錯覚がした。
例えようもない圧倒的な『孤独』が精神を蝕む。
……そして、視界の端には絶えず
(――あぁ、また駄目だ)
ブライアンの表情は、諦めと恐怖の混ざった無機質な顔になった。
先輩ウマ娘との距離はもう残り僅か……半バ身となった所で、ブライアンのテンポが次第に遅くなった。
墜落した飛行機みたいに、ブライアンの身体から力が抜けていった。
『また、私は――……駄目なままだ』
心地よかった興奮も失せ、ブライアンは自然と脱力してゆく感覚に苛まれた。
◇
「えっ……ブライアンさんのペースが一気に落ちちゃいましたよ?」
再び、ボブカットのウマ娘が、耕作の袖を引っ張る。
「ど、どうしたんですかね!?」
心配そうにコースを眺める教え子をよそに、耕作は苦々しく口端を歪めた。
(ありゃ、何か理由ありだな)
首元のストップウォッチを押してタイム計測を終える。
双眼鏡から目を外し、ふーっ、と息を吐く。耕作は隣の教え子であるウマ娘を一瞥して、
「なぁ、悪いがもう少し付き合ってくれるか?」
真剣な顔つきで言った。
「……? はい?」
いまいち、彼の考えていることは分からない。ボブカットのウマ娘は、耕作のこんな表情を初めて見て困惑した。
◇
『ナリタブライアンが、ゴール直前で失速、最後の最後でスタミナ切れ、か』
レースを観戦していた誰かがポツリ、と呟いた。
――レースに勝ったのは、先輩ウマ娘だった。
その彼女は、
「はぁ……ッ、……ッ、はぁっ………」
ゴールで膝をついて、盛大に息を吸い込んでいた。
勝利を得たというのに、彼女の顔色は青白くて瞳には怯えのようなモノが浮かんでいた。
『ちょっと、勝手にレースなんてして!!』
先輩ウマ娘の女性トレーナーが駆け寄ってきた。
自身の大切なウマ娘が後輩相手に野良試合を受けていた。その事自体も叱るべきだが、女性トレーナーは二の句が継げずにいた。
先輩ウマ娘が、まるで何かに怯えるようにして、
「ど、どうしたの? あなたは勝ったのよ? まぁ、後輩相手だったけど2000mでこのタイム。やっぱり素晴らしい――」
「やめてください!!」
間髪を入れず、先輩ウマ娘が怒鳴った。
「私が勝ててた? 全然、そんなことありませんでした……いえ、あのレースの時ですら私なんて眼中にない」何かを嫌悪するように、先輩ウマ娘が言った。
滝のような汗を滴らせた先輩ウマ娘が、袖で汗を拭いながら背後のブライアンへと目線を向ける。
「――私が競っていい相手じゃなかったんです」
消え入るように、そう呟いた。
◇
野良レースの一部始終を観戦していた野次マたちは、水を打ったように静まり返った。
その人垣を縫うようにコースへ近づく耕作たち。雑踏を無理やり押しのけ、異様なコースを目撃した人々の浮かない表情が無数にあった。
「なんですかね、この空気……」
ボブカットのウマ娘は、周りをキョロキョロ眺めながら周りの空気の違和感に言及した。
「さぁ、どうでもいい。それよりも――ブライアンだ」
パイポを銜えた口をモゴモゴ動かし、耕作はナリタブライアンへと接近する。
彼女は緑のターフの上、陽光で艶やかに照る長い黒髪を、風に任せていた。
その彼女は、己の右掌を強く睨む。
まるで、深い憎しみでも抱えるような目だった。
――ブライアンが失速する直前、耕作は彼女の顔が恐怖に戦慄するのを視認した。
「アイツの失速はスタミナ切れなんかじゃない……」
耕作は憎々し気に呟く。
「ど、どういう事ですか、トレーナー?」ボブカットのウマ娘は、頭上に疑問符を浮かべる。
「ブライアンの失速はおそらく――」
「「心因性のイップス」」
耕作と、もう一人の声が揃った。
「!?」
驚いて、耕作が後ろを振り返ると、そこには学園の実力者、ビワハヤヒデが腕を組み佇んでいた。
赤縁のアンダーリム眼鏡をかけ直し、ビワハヤヒデは耕作を一瞥する。
「大滝トレーナーの言う通り、我が妹は心因性のイップスだ」