たぶん、シャドーロールの怪物? 作:はー!
春の空を覆う雲が太陽を隠す。冷たい風が頬を撫でゆく。
(一体、何が目的なんだ……)
ナリタブライアンは、不満そうな顔でスタートラインで呼気を整えた。
ピカッ、と薄い陽光が周りで反射する。遠くから不意に聞こえる葉音たちが妙に騒がしい。ふと、音の方角に頭を向ける。
陸上コースを囲繞する防風林――その緑が眩くて、思わず目を細める。
「ブライアン。落ち着いて走ってくれればいい」
コースの柵越しに佇む男が、声をかけた。
彼の名は、大滝耕作。冴えないトレーナーで一見するとホームレスと見紛うばかりの恰好をしている。
彼は生気を感じられない濁った瞳で、ブライアンを見詰めていた。
(歴史を一緒につくる? まさか)
ブライアンは内心で笑い飛ばし、
「――どんな考えがあるか分からないが、一度きりだ」キッパリと言い放つ。
「ああ、それでいい」
ふーっ、とブライアンは息をゆっくり吐いて白線で引かれた地面を確認した。ターフの緑が瑞々しい。先程の野良レースの影響で、所々に蹄鉄で抉られた痕跡が認められた。
『じゃあ、準備はいいな?』
大声で確認する耕作。
ブライアンは、露骨に仏頂面で頷く。
(こんな鼻にテープを貼っただけで変わるワケがない)
耕作の指示は一つ、
――――鼻に匂いのするテープを貼ること
彼女には、およそ見当がつかない。
しかし、耕作の異様な熱意に圧されて思わず承諾してしまった。
(まあ、いい)
どうせ、駄目なんだ。
体の底から疼く「走りたい」という欲望と、それが出来ない
原因すら分からない。
金色の瞳で、耕作を窺う。
(どうせ、諦めて消える存在だ)
長い睫毛に漆黒の前髪が重なる。
スタートする姿勢のまま、体に程よい緊張を滾らせる。
『スタート』
耕作の合図が聞こえた。
◇
(なんだ、これ……走りにくいっ!!)
ブライアンは度肝を抜かれた――それも悪い意味で。
鼻に貼ったテープから匂うベリーの甘い香りが集中を妨げる。
チッ、と舌打ちしながらもブライアンは走り続ける。予定では2000mだが、こんなにも走りにくい状況は初めてだった。
(これのどこが妙案なんだ……)
走りながらブライアンは、耕作を恨んだ。
彼は自身ありげにテープを寄越したが、イップスを克服させるどころか、悪化させている気すらした。
「くそっ!」思わず、苛立ちが募って怒鳴る。
本来、レース中に喋る事など無く、また無駄な呼吸にも繋がる愚行だが、今だけは我慢できなかった。
周囲に見える景色は全て滲んで、物の輪郭線が歪んで見えた。
足が重い………まるで、泥の中を走っているようだった。
ブライアンはひどい孤独の闇に包まれた気がした。
◇
「と、トレーナー! ブライアンさん大丈夫なんですか!? あれ、絶対おかしいですよ!」
ボブカットのウマ娘が、遠くのブライアンを指さしながら慌てた様子で耕作に詰め寄る。
しかし、当の耕作はニィと口端を曲げて何かを確信している様子だった。
「ああ、アレでいい。いや、寧ろ確信した。アイツの本当の実力を」
爛々と、耕作は目を輝かせてストップウォッチとコースを見比べている。……まるで、新しい玩具を与えられた子供の様だった。
「…………トレーナーは、分かるんですか? 隠された実力とか」
小さな声で、ボブカットのウマ娘が訊ねる。その声音はどこか寂しそうだった。彼女もまた自身の怪我が理由で強豪チームを離れ、野良選手として耕作の下で練習を重ねている。
ブライアンの潜在能力は、同じウマ娘の目から見ても凄まじいモノだと思う。
だからこそ思うのだ。
万全の状態になった彼女は、おそらく自分よりも強い走者になるだろう……。
耕作は、コースを眺めながら小さく頭を振った。
「いや、確信なんてないんだよ本当は。でもな、俺は信じたいんだ。アイツの中に燻ってる本音を」
「……本音なんて、本人にしか分からないじゃないですか」
拗ねたような口調で、ボブカットのウマ娘が言う。
「いいや、少なくともレースに関しては分かるさ。走ってる時なんだ。本当の自分を語るのは走ってる瞬間だよな? だから、お前の本音……少なくとも、レースに対する思いは理解してるつもりだ」
なんとも傲慢な内容だったが、ボブカットのウマ娘は、彼の言葉を聞き終えると何度も頷いた。
そして俯き加減に、
「あ、ありがとうございます」小声で感謝した。
「はいはい。お、それより走り終わったみたいだ。迎えにいくぞ」
耕作は相手の反応を適当にあしらい、ブライアンの方へと駆け寄った。
痩身の男の背中を見ながら、
「えぇーーーー!!」
ボブカットのウマ娘は、少し悲しくなって思わず叫んだ。
◇
「はぁ……はぁ……っ、どういうつもりだッ!!」
物凄い剣幕で、ナリタブライアンが耕作に詰め寄ってきた。蹄鉄の質量のある金属音が迫力を加えた。
だが、耕作は一切物怖じせず不器用に笑いかける。
「ああ、お疲れ。走りにくかっただろ?」
最初から予想していたらしく、彼は首にぶら下げたストップウォッチの数字を見せる。
「ああ、そうだ! 言う通りにしてみたらこのザマだ!」
――お前は一体何が目的なんだ、そう怒鳴るつもりだった。しかし、耕作は何度も頷き、原因を確信した様子だった。
「――――っ」
思わずブライアンは、喉元まで出かかった抗議を寸前で呑み込む。
彼女の反応を観察しながら、耕作は呟くように口を開く。
「ブライアン。君は走っている時に、何度も集中力が切れただろ?」
「ああ、当然だ」
「視界の全てが滲んだり……それに物の輪郭がボヤけたり、風景をうまく認識できない、そんな感じなんだよな?」
「――ああ、そうだ! ソレが一体なんなん……えっ?」
ブライアンは文句を言いかけて、止まった。
(どうして、私のレース中の感覚が解るんだ?)
コースを一緒に走っていたワケでもないのに何故?
ブライアンは困惑した表情で、頷いた。
「そうか。大体君の問題は理解したつもりだ。その上でもう一度頼みがある。今度は匂いのないテープ。これを鼻に貼って走ってくれないか?」
耕作はテーピングテープを差し出す。
「――次は後悔させない、そんな走りが出来る筈だ」
ボブカットのウマ娘ちゃん、名前あった方がいいかな・・・