物語によっては皆様のご存知の作品が元となった物もあるかと思いますが、何卒暖かい目で見守り、楽しんで頂ければと思っております。
小雨の降る夕暮れ。
予報を知りながら傘を忘れ、宛もなく町を歩いた。髪もコートも濡れそぼり、肌を伝っていく水滴の感触もいつしか気にならなくなる。そのまま溶かされてしまいたいとさえ思った。
妻が去った日も、曇りガラス越しにこの景色を見たのをよく覚えている。
艶のあるくすんだ灰の曲線。その上に赤い糸が広がり、ぽっかりと開いた銀色の口の中へと流れていく。
垂れ下がった真っ白な腕からは絵の具のように紅い血が流れ、何度も触れ合った細い指を不気味に彩っている。
窓の隙間から聞こえる雨音がいやに鮮明で、目に映る彼女の状況をよりはっきりと認識させる。
バスタブに身を垂れ、右の手首から血を流す妻。
どれほど隠していたのか。肌には硬く鱗のように腫れ上がった直線状の傷痕がいくつも浮かび、生々しい自傷行為の痕跡を露にしている。
妻の手を取る。氷のように冷たく、持ち上げた途端にだらりと垂れ下がる腕に、力が入っていないことは明白だった。
彼女の名を呼んで体を揺すれば、手の中でキラリと鈍く光るモノが目に入る。
赤濡れたカッターナイフ。彼女が自傷に使った凶器だろう。
リビングに走り、充電中だった携帯をひっつかんで救急車を呼ぶ。
パニックを起こして電話越しに怒鳴り散らしていた。到着した隊員の怯えた顔を見て申し訳ないと思った事を覚えている。
数時間後に医者に掴みかかって再び怒鳴った。
妻が死んだ。その事実を信じられず、医者の言葉も聞かず一方的にまくしたて、警察の世話になった。
苦々しい思い出に顔を歪め、ふと立ち止まると見知らぬ路地が眼前に口を開けていた。
冷ややかな風が顔を撫で、身震いを一つする。
不気味な空気に寒気を覚え、その場を立ち去ろうとした時、その路地の奥に人影を見た。
長い黒髪にベージュのセーターとロングスカートを着た姿は、見間違う筈もない妻の姿だった。
彼女の名を呼ぶが、その後ろ姿は声を気に止める様子もなく遠ざかっていく。
消えた妻を追い、吸い込まれるように路地に足を踏み入れる。
瞬間。それまでの空気が一変し、刺すような寒さが肌に襲いかかる。
何度も妻の名を呼ぶが、彼女の歩幅は思いの外広いようで、すぐに見えなくなってしまう。
気付けば路地の奥深くまで進んでしまっていたらしく、町では見掛けないような看板の掛けられたバーやスナックが並んでいる。
雨に濡れた体に吹き付ける風は身を切り付ける小さな刃物のようで、一刻も早くこの場から逃げ出さなければと心を焦らせる。
洒落た酒を呑むような気分ではなく、怪しい店に入る気分にもならない。
風邪を引く前に立ち去ろうと振り返った所で、暖かな光を湛えた赤い提灯が目に入った。
焼き鳥、田楽、等とかすれた文字で綴られた木製の立て看板。居酒屋のように見える。
他の店に感じていた警戒心がすっと抜け落ち、寒さを凌ぐためにと店の引き戸に手を掛ける。
立て付けが悪いのか、ガタガタと少し騒がしい音を立てて戸が開く。中では数人の客が楽しげに談笑しており、正面のカウンター席の奥で店主とおぼしき男性が厨房を行き来している。
一つ不思議な事があるとすれば、それはこの空間に何の音も無いことだ。
客の笑い声の一つもなく、ただ寂しいだけの店を進み、空いていたカウンター席に腰を掛ける。
流し目でこちらを見た店主がフライヤーから料理を取り出すと、席の前にやって来てメニュー表らしき用紙を置く。
席に着いておいて何もせず帰るのも気が引けて、その中からいくつか揚げ物を注文する。
店主は何も言わず厨房に向かい、材料を切り始める。
どれだけ耳を澄ましても店内の音は聞き取れない。周りの客は赤らめた顔をだらしなく綻ばせ、大口を開けて笑っていると言うのにそこにある筈の声は全く聞こえず、店内は異質な静けさに包まれている。
説明し難い不安感に居心地の悪さを感じる頃、テーブルに落としていた視界に天ぷらが盛り付けられた皿が置かれる。傍らには雪のように白い塩の小山が乗った小皿と、湯気を立てる緑茶が淹れられた湯飲みがある。
割り箸を二つに割って天ぷらに伸ばす。
塩を付けて口に運ぶと、不思議な味が広がる。上手く説明は出来ない味。形こそ良く見る野菜の天ぷらなのだが、それがこの世の物ではないような独特な味がする。
最初にかぼちゃの天ぷらを完食し、続いてごぼう、海老と黙々と食べていく。最後に残った緑茶を口にした時、それまで聞こえていなかった店内の音がラジオの電源を着けたように騒がしく鳴り出した。
突然の事に辺りを見回すと、前で険しい顔を浮かべていた店主と目が合う。
なるほどと何かを納得した様子で頷くと、店主が口を開く。
あんたも不憫だな。
その言葉の意味が分からず店主の顔を見ていると、彼はその頑固そうな顔でふっと笑って続ける。
あんたはこっち側の住人になった。
さらに訳が分からなくなって眉をひそめる。
ここは元いた町ではない全く別の場所であり、それが霊界らしい。
霊界の空気を吸い、霊界で食事をした事で霊界との繋がりを持ってしまったらしく、突然驚いて周りを見ている姿で、店主はこちらが人間であると気付いたらしい。
ならばここにいるのは全員霊なのかと聞くと、店主は当然だと頷く。
どうやらとんでもないところに来たようだ。
店主が言うに、黄昏時や逢魔ヶ時とも言われる夕暮れ。その時間には彼岸との境界が薄れ、度々生者の世界と繋がる事がある。
それ自体はさして問題ないのだが、悪いのはこちらの状態にあったらしい。
妻の死。つまり身近に死を経験したことで霊界と近付いていた為に、本来は見える筈のない綻んだ境界を目にしてしまったらしい。
妻の事を店主に話すと、それが原因だと指摘される。
死んだ妻を惜しみ、彼女を強く意識することで霊界に干渉しやすい状態になっていたとのことだ。
人間とは知らず要らない事をしてしまったお詫びに代金は取らないと店主は言う。
そうは行かないと財布を取り出したところで、どうせ使える金だって無いんだからと店主が笑う。
無性に腹が立ち、意地になって中に手を突っ込んで掻き回すが、確かに空っぽだ。
こっちには持ち込めないようになっている。金なんてここじゃ何の意味もないんだからと笑う店主。
客が立ち上がり、勘定を申し出る。
店主の前にやって来た客が開いた手をカウンターに向けると、淡く輝く水滴が落ちた。
客は感謝の言葉を告げると店を去っていき、再び本当の意味で静寂が訪れる。
ここでの通貨は客の命で、霊としての命が消えた時に新しい命として生まれ変わる。ここは死者の心を洗う為の場所だと店主は語る。
商売は成り立つのかと聞けば、彼は何も言わず息を吐く。
食材はこちら側とは異なる調達方法があり、そのためには命が欠かせないのだと言う。
店主は時計を見ると、店じまいだと言って片付けを始める。
早く帰りな。
夕時を過ぎればここは夜市となる。そうすれば人間は客ではなく売り物になると告げ、店主は帰り道を記した紙を手渡してくる。
面倒な生活になるだろうが、達者でな。
店主はそれだけ言うと店の奥へと消えていく。
戸を潜って来た道を辿るうち、路地の景色が塗り替えられるように変わっていく。
田舎の宵祭りが都会の狭い路地で開かれているようだ。
聞いたこともない筈の囃子の音が何故か懐かしく立ち止まりそうになるが、足を前に出して歩き続ける。
ちょいとお兄さん?
すれ違った背の低い人物に呼び止められる。
翁のお面を着けたその顔の縁には、髪のような細い何かがウジャウジャと蠢いている。気味の悪さに顔をしかめながら答えると、その人物はククと笑いながら人の物とは思えない細く尖った手を面の口に当てる。
人間さんかい?珍しいお客も来るもんだ......にしても、こんなところに迷い込んじまうってこたぁ......ふむ。どうだいお兄さん。どうせ死ぬってんならあんたの心臓をアタシに譲ってくださらねえか?
まじまじとこちらを観察した相手が喜びの色を含んだ声で質問を投げ掛けてくる。
突然訳の分からない事を言われ戸惑うが、事情を説明するとそれは残念そうに呻く。
そうかい.....難儀なこったねぇ。ま、死にたくなったらいつでもここに来るといい。そん時にゃ是非アタシに声を掛けてください。他より贔屓にしますんでね。
あっさりと再び気味悪く笑ったそれはヒラヒラと手を振りながら路地の奥へ歩いていく。
何とも奇妙な体験をした。思い出したようにカバンからカメラを取り出し、夜市の風景を撮影する。祟られたりしないだろうかと不安にはなりながらも、売れない記者の危機感から、珍しいモノを前にしてはシャッターを切らずにはいられなかった。
そこから歩いてすぐ。ふっと生暖かい風が吹くと、小雨の降る町の景色が目の前に広がる。
どうやら戻る事が出来たらしい。
日が暮れたばかりの町は薄暗く、店主とお面の何かの言葉を思い出し、次に続く恐ろしい出来事があるのではないかと嫌な予感に急かされて帰路につく。
思えばそれからだった。今の仕事を押し付けられたことに、夜に町を出歩くようになったこと。そして日常生活の端々で奇妙なモノを見るようになったのは。