雨池空という少女は呪術師の家に生まれた。
両親ともに古くから続く家柄の呪術師、その中でも空は父の家の術式を継いで生まれた。
呪力量もそれなりに多く、術師としての潜在力はある。
だが彼女の人生においてそんなことはさして重要ではなかった。
見えないはずのモノが見える、人とは違う存在だということ。
古典的な呪術師の家は幼少期に他の子供と関わらせることをせず、家庭内で教育を施すところが多いが、雨池家は違った。
幼い時分に人と違うということは子供にとっては残酷な結果をもたらし得る。
人は自分と違う人間を排斥したがる。話が合わないから、理解できないから、そしてわからないものは恐ろしいから。色々理由はある。一つ言えるのはそれが人の本質の一つだということ。
見えないモノが見えるといい、人にはない力をもっている少女は嘘つき呼ばわりされ、周囲の子供に嫌われた。
彼女は特別利口な子供ではなかった。自分が見ている世界が絶対だったから、嘘つきと呼ぶ他の子供に対して反発した。案の定訪れる孤立。
呪術師は呪霊という一種の『生き物』を狩る仕事。生易しい精神ではやっていけないが、別に最初から特別な精神を持っているわけじゃない。誰だって幼い時は友達と普通に遊びたいし、一人は寂しい。けれど圧倒的多数である非術師との出会いを重ねていく内に自分の方が世界の異端なのだと感じ取り、悪意への耐性を身に着け、世界との折り合いをつけていく。
空は簡単にそんな真実を受け入れられるほど素直じゃない上に器用でもなかった。絶対に自分を曲げない。気に入らないやつには迎合しない。幼稚園生や小学生という年齢でも、いや純粋だからこそ子供はどこまでも残酷なことを言えるし出来る。自分たちの行い、徒党を組んだいじめや暴言に何の疑問も抱かない子供は多い。当然のようにいじめられたけれど、彼女は中途半端に強かったから耐えられた。
いじめに対してやり返すことはしたけれど、呪術を使ってやり返すようなことはしなかった。そんなことをしたら非術師は簡単に壊れてしまう。誰にもバレることはないけれど、そんな卑怯な真似をして悦に浸るようなのは下衆のやることだ。嫌いな相手以下の下衆になるのだけは嫌だった。現実では惨めな境遇にあっても、心持ちだけは高くありたいと考える、そういう子供だった。
一人は寂しいし、いじめは嫌だったけれど、耐えられる。でも惨めさは変わらない。こんなのは親には言えない。いじめを素直に親に訴えられる子供は多くない。みじめさが子供の行動を制限するのだ。親は子供が限界になってようやくそういう事実があったことを知ることになる。
だけどそんな彼女にあるとき一つの転機が現れた。
そのとき空は敵対女子から教科書を隠され、授業中にも関わらず学校中探し回っていた。もうその時は半分グレていた。授業中だろうが知った事か。もう諦めて学校もサボってどこか行くかと。空は利口ではなかったが利発だったため、このときには彼女自身いじめの原因は半分無駄に攻撃的な自分の性格に問題があるかもしれないと気づいていた。だからいじめと言うよりは一対多数の敵対状態といったほうが正確だった。だが自分を変える気にはならなかった。くだらない理由で自分を攻撃してくる気に入らない奴らに取り入りたくはない、そんな棘々したささくれだった気持ちが少女を鬱屈させて、余計周囲との軋轢を招いていた。
気づけば一人の少年がいた。なぜか授業中の校舎内を自分と同じくうろついており、空の方に話しかけてきた。
「君、なんでさっきからうろうろしてんの?今授業中だよ」
「別に、あんたには関係ないでしょ。あんたこそサボりかよ」
「いやさっきからずっと廊下を行ったり来たりしてたらそりゃ気になるって」
「見てもないのに何でそんなことわかるのよ」
「あー、俺って人より気配とかに敏感なんだよね。エスパーだから」
馬鹿馬鹿しい。よりにもよって呪術師の自分の前で軽々しくそんなことを言うか。こっちは呪術師であることで今まで苦労してきたっていうのに。
責任転嫁だということはわかっていたが、空は無性に苛々して、柄にもなくこの初対面の少年に意地悪をしたくなった。
「あそこに悪い霊がいるんだけど、エスパーなら当然見えるよね」
指差す先には木っ端呪霊の蠅頭がいる。術師が触れれば消えてしまうような儚い存在だ。多少霊感がある程度では見えるはずがない。呪術師であることにほんの僅かの暗い悦びを見出していた。
そう言った後今の自分を見つめ直して空は無性に恥ずかしくなった。普段自分が嫌っている奴らと同じことをしていることに気づいたのだ。呪術師であることで優位性を保とうとしている、普段から溜め込んでいる苛立ちを赤の他人で発散しようとしている唾棄すべき人間。空が恥ずかしさで死にたくなっていたとき、その少年が声を上げた。
「え、マジ?君も見えるの?」
「は?」
そう言って少年は呪力を飛ばして蠅頭を消し飛ばしてみせた。
雨池空と神凪真の最初の出会いは実はそんな感じだった。空が小学3年生のときの出来事だった。
それから二人はたまに会うことがあれば話す程度の仲になった。学年も違い性別も違うから頻度は決して多くなかったが。空は彼と話したくてストーカーのごとく一方的に出待ちして偶然を装っていた。だが無理もない、彼女にとっては自分以外の呪術師の子供との関わりはそれまでの経験上で一番新鮮なものだったのだから。きっと自分と同じような苦労や悩みを抱えているに違いない、共感してもらえるにちがいない、と期待をかけて少年を追いかけた。少しして、それが間違いであることに気づいた。
少年はお人好しといっていい人間だった。困っている人がいれば手を差し伸べる。それが呪霊絡みであってもなくても。結局あのとき自分の教科書探しも授業をサボってまで最後まで手伝ってくれた。その時は無くしたと嘘をついて誤魔化して、恥ずかしさからそっけなくしてそれっきりまともにお礼を言えずにいたが、その後も会えば向こうから話しかけてくる。
そんな男の子だから、皆彼のことを好いていた。霊が見えるということを公言しているのに排斥されることなく、皆何かあれば彼を頼った。空はあまりにも自分にないものを持っている、そんな彼のことが好きではなかった。嫌いにもなれなかったが。
彼を見ていると自分が情けなくなる。何で同じ術師の子供なのにこうも差があるんだろうかと、それまで以上に悩むようになった。多分、心の底から自分自身の在り方について悩んだのは後にも先にもこのときが一番だった。彼は誰かに褒められたくてそうしてるわけではないと思う。なんでそんな在り方が出来るのかわからない。
羨ましいと思う。本当は自分も誰かに好かれたい。一人はやっぱり寂しい。少年に会ってからそういう思いが強くなった。そう思うっていうことは自分にとって今の自分の在り方は間違っているということだ。
悩みに悩んだ末、空は大胆にも直接少年に尋ねることにした。なんでそうやって誰でも彼でも助けたがるのか。
「え?そんなの考えたこともないなぁ。あー、人助けするとなんかすっきりするからじゃね?たぶんそう」
「いい子ちゃんかよ、ぺっ」
「ひどっ、自分から聞いといてそれは酷くね!?てか廊下につば吐くなよ!きたねーな!」
つまり天然。自分には無理だなとあっさり切り替えられた。ただ見習うところは当然ある。人の幸せを喜ぶこと、人を好きになること。人から好かれるためには人を好きにならないといけないと教えられた。そういえば自分から他人に歩み寄ったことって全然なかったな、と思った。彼にはなれないけど、彼みたいになりたいとは思う、憧れというやつだった。
少年はそれから間もなくして引っ越してしまい、転校した。下の学年の子供に聞いてみると、たぶん会いに行こうと思えば会える距離だけど、自分たちは友達でもなんでもない。学年も違う。挨拶もせずにいなくなってしまう程度の関係。でも、縁があればまた会えるだろう。きっと会える。その頃には自分も少しは変わっているだろうか、変わってたらいいなと思った。
少しずつ空は変わっていった。最初から疑心や敵意を持って人と関わるのをやめて、人を信じることから始めた。今までのように傷つくことは多かったけれどそれも徐々に少なくなっていき、人並みに学校生活を送れるくらいには成長した。友達と呼べる間柄の人間も少ないながらもできた。そうやって社会との折り合いをつけていけるようになった。
中学生2年になり、入学式であの時の少年を見つけた。背は伸びていて雰囲気も変わっていたけど、ひと目でわかるくらいには彼女の中で大きな存在だったということだろう。空はいてもたってもいられず、半ば私物化している自分の部活に速攻で引き込んだ。
だが、再び会った少年は昔とは変わってしまっていた。
まず空にとってショックだったのが、小学生の時自分と面識があったことをすっかり忘れてしまっていたことだった。幼い頃のことをよく覚えていないということは往々にしてあると思う。真は周囲の人気者であったからその他大勢のうちの一人である自分を覚えていないということは仕方ないかもしれない。でも簡単に納得できるものではない。自分の方は一目見てすぐ思い出したのに、と今の今まで根に持っていることは秘密だ。
そしてもう一つ、義務のように人を助けているということ。心の底から人の幸せを喜んでいた少年が、自分の気持ちに嘘をついてまで人助けをするようになっていた。真を便利屋として食いつぶそうとしているような輩もいた。彼はそんな奴らにまで手を貸す。本心ではどうでもいいと思っているくせに。
だから一番気に喰わなかったのは、自分の気持ちをどうでもいいと思っているような真の態度。一番大切なものを蔑ろにして本当に助けたいものが助けられるはずがない。そんな行いは誰も幸せにしない。
はっきり言って幻滅したし、苛つきもした。同時に幼い自分は憧ればかりでこの少年のことをちゃんと見ていなかったのだと反省もした。
どうしてこうなったのかは空には何となく想像がついた。結局神凪真という人間も自分と同じような普通の子供で、人の波に揉まれてしまったということだろうと。
それでもこの少年の心根自体は変わっていないこともわかった。どうしても困っている人には自分から手を差し伸べるし、やっぱり自分は少年のそんな優しさが好きなのかもしれなかった。
実際、真が問題なのは呪術という異物に対する考え方だけだった。自分と非術師を区別して、非術師を力なき者として見下している。それはある意味しかたないことだろう。術師と非術師では生物としての強度が違う。呪霊という脅威を前にしたとき、非術師は圧倒的に無力だ。
加えて、真の術式は非常に特殊だった。呪霊を祓うことで呪力量、運動能力や五感、誰も気づいていないことではあるが、脳自体が強化されることで記憶力や思考速度など基礎思考能力にまで微量ながら成長が及んでいる。難易度の高いはずの結界術や式神術でさえあっさりと習得してみせたのはそれが原因だった。誰かにできて真にできないことはそのうちほとんどなくなるだろう。
真は意図せず人を傷つけてしまったことがきっかけでそれを意識するようになったが、遅かれ早かれ自分が『持てるもの』であると意識するようにはなっていただろう。
だからといって、その精神は別だ。人の本質は術師と非術師で変わりはないと真は自覚している。持てるものとしての義務を果たそうとはしているが、その理由は術師と非術師は本質的に差はないとわかっているから、逆に不公平だと感じているからこそ。本人にとっては『人より不当に恵まれている』という、いうなればズルしているみたいだという負い目のような感覚。非術師という『弱者』に対する負い目、人とは違うということに対する恐怖、それは完全に凡人が持つべき精神。力と心のギャップが真を苦しめていた。
空は真がただの子供であると見抜いた。それだけ真のことを見ていた。だったら何も考えず、子供らしく自分の心に従えばいい。人を助けたいなら助ければいい、傷つけたくないなら傷つけなければいい。自分の心に従えない状況になれば、せめて自分が損をしないようにすればいい。少なくとも自分はそうしている。
気づいたときには我慢できなくなっていた。自分の考えを押し付ける行為だとわかってはいたけど、偉そうに講釈するのを止められない。言い終わった後に偉そうなことを言ったな、と恥ずかしくも思ったけれど、後悔自体はしなかった。幸か不幸か、真は無理をしなくなった。昔みたいに誰も彼も助けようとはしなかったけれど、底抜けのお人好しが普通のお人好しになった程度の違い。人の世で生きていくなら多分そちらのほうがいいだろう。
それからなんだかんだと放課後は部活で同じ空間で過ごしたり、毎日のように送ってもらったり、自宅に呼んだら空の父親に真が大変気に入られて稽古つけられるようになったりで、同じ時を過ごし、あっという間に2年近くが過ぎてしまった。
当然喜びの他に新たな悩みも生まれた。真の隣では自分こそが凡庸。特別になってしまったからこそ、余計に差異が浮き彫りになり、大切だからこそ足かせになりたくないと願ってしまう。
だから雨池空という少女にとって神凪真という少年は何かと問われたら、ただ、大切な後輩である。自分の心、その半分に従って、それ以上は望まないようにしてきた。
今は玉藻前と呼ばれるようになってしまった肉体の檻の中、空の魂は健在だった。
これは本来あり得ないこと。圧倒的に存在が格上である特級呪霊の魂の媒体となったことで、もとの魂は瞬時に消滅してしまうはずだったのだから。そうなっていないのならば、当然それだけの理由がある。
空自身にその要因がないのならばつまりは第三者の介入。庇護者の存在に他ならない。
今、真の術式によって呪霊の影響力は低下している。眠っていた空の意識が目覚める。
「ここは…?」
神聖さを感じるほど静謐な空間。仙人が修行していてもおかしくなさそうな。見かけはもといた洞窟の中のような雰囲気、だがすぐ近くに透き通った湖が広がっており、水は上に向かって落ちていっている。明らかに現実ではない。
「ここは我の生得領域。お主の魂と自らを匿うために構築した空間。ようやくお目覚めか、寝坊助め」
急に背後から声がして振り向いた。そこにはこの空間の主と思われる存在がいた。
呪霊ではない。だが人でもない。不可思議な存在だった。
金糸の髪、金の瞳、青白い肌、そして恐ろしく美しい、正しく傾国の美女。
「永遠の安穏たる浄土の地より我を呼びし娘、わざわざ主の嘆願に応えて降りてきてやった上、こうして匿ってやったというのに、礼の一つもなしか?現代の若い術師は無礼者しかおらんのかのう」
目の前の美女が薄笑いを浮かべながら呆れた調子で語りかける。そんなこと言われても何が何だかわからないというのに、向こうもそれを承知しているのか楽しんですらいるようだ。
「あなたが、私を…?」
自分の記憶を思い返す。夏油に従って呪霊を降霊させようとしたけれど、奴への恨みから魔が差してしまったことは覚えている。そして直前になって、真が飛び込んできて…
「思い出したか。お主は助けを求めた。消えたくないと願った。そしてあのときは全ての条件が満たされていた。意を汲んだ自分の術式に感謝せよ」
全てを知ったような口で話す。だがまだその正体に思い至らない。あの時降霊されるべきは呪霊の他にいなかったはず。
「まだわからんのか、存外鈍いやつだ。これならわかるか?」
少し苛立った様子を見せながら女がそう言うと、その身は少しずつ形を変えていき…。
それは狐だった。もちろんただの狐ではない。光り輝く金色の毛並みに金の目をして先程の女の特徴を残している。そして特筆すべきは、その尾の数。尾裂。九本の尾を持つ狐。その魂がここにあった。
「白面金毛の狐…」
『その通り。で、礼は?』
「助けてくれて、ありがとう」
『それでよい』
そう、呪霊や仮想怨霊ではない、一人の『生き物』の魂。自分の術式で呼ばれたということは、正真正銘玉藻前の伝承の元になった存在なのだろう。
本当に実在したのか、という衝撃と、なぜわざわざ自分を助けるような真似を、という疑問。そういった思考は置いておいて、いま胸の内にあるのは、圧倒的な感謝だった。自分の軽率な行いの尻拭いをしてくれた存在、彼女がいなければ今の自分は存在しない。全く頭が上がらない。
だがそれでも疑問は消えない。伝説では人を堕落に堕落させ、争いを呼び、世を大いに乱した邪悪として伝わっている。神聖な雰囲気さえある目の前の存在とは全く一致しない。
『良かろう。どうせここでは時間はほとんど流れない。その疑問に答えるために少し昔話をしよう』
まず術式を持つのが人間だけ、高い知能を持つのが人間だけという固定観念を排除するところから始めよう。
その狐はどちらも持っていた。『不死』ではなく、『不老』の術式を持つ狐の一族の一個体。古代インドあたりに起源を持つが、その時代そのあたりの土地は正真正銘の人外魔境、不老などクソの役にも立たずに狩られていくものたちが多かった。多くの同胞は山奥に引きこもり、生きるために術の修行を行い、白面狐もそういった道士の一体だった。
人間の尺度では一生の内に術式一つ極められれば良い方だが、長生きすればそういった術式の一つや二つ覚えるのはワケがないこと。人に化けられるようになるのは初歩の初歩。といっても術式を会得するのに100年は掛かるが。
そうして道士として修行する中、白面狐は己の凡庸性を嘆き、力を求めた。そしてある禁術に手を染めた。すなわち呪霊の性質を備える術。呪霊、とりわけ仮想怨霊が人々の畏れをそのまま力に変えるという点に着目した。
半呪霊と化した白面狐は心まで呪霊となり、大いに人の世を乱し、国を傾け、畏れを集めるために奔走した。象徴としての名前が知られなければ意味がなく、悪事がバレるところまでは予定通り。悪事が、国が大きければ大きいほど人々は畏れた。当時の術師や戦士たちも然るもので、白面の狐はその都度退治された。それでも有名になるに従い強大な力を手に入れることができたため満足していた。
だがそんな試みはある程度までいったところで効果を失った。毎回退治されるとなれば人に対処可能な存在として限界が来るのは当然のこと。
その頃は平安、呪術全盛の時代だった。術師たちも強力無比であり、今で言う特級レベルの術師がそこかしこに跋扈している時代。そういう天才たちに奸計を用いられるでもなく素の実力で敗れたことで狐は限界を悟り、術を放棄した。呪霊としての抜け殻は殺生石となり、呪いを振りまくことになった。
だが呪霊としての自分と分離したことで、狐ははからずも我に返ってしまった。そして自らの残虐非道を思い返すことになった結果、大いに後悔した。始めは単なる実験のつもりだった。少しいたずら程度の悪事を働いて、人を困らせてみればすぐに力が手に入った。歯止めが利かなくなり、呪霊との親和性を増した結果だった。
以降、魂をすり減らしながら殺生石という呪物を削り、封印を続けることだけを贖罪の道としたが、それすらも身から出た錆。後にもうほとんど力を失った呪物を人間の術師に完全に砕かれたときに役目を終え、狐は救いとして共にその命を終えた。
『なぜ力を求めたのかなぞもはや覚えておらぬ。どうせ下らぬことだろう。今の我はそんな擦り切れた魂の成れの果て。今やこの体の支配者となっている呪霊からお主や自分自身を匿うので精一杯の身よ』
狐は少し寂しそうに昔語りを終えた。
本当の話なのかどうかは空には判断できない。悪事を企むために嘘を言っている可能性はある。だが今自分の身を守ってくれているということは確か。今の自分にはその事実だけで十分だった。
狐がこの身に降り、空の魂を守ったのは、空が願ったからだけではなく、狐自身も自分の遺した悪行の後始末を望んでいたためだった。縁は十分、呪力も、呪霊が人の身という依り代を得たことで多少は余剰があった。降霊のための素地は揃っていた。
『ちなみに呪霊が本来より強化されて誕生しているが、これはお主が身命を賭したからでもなんでもなく、この領域を安定させる代わりに我が少し力を貸してやっているからだ。まあその御蔭で多少細工も施せるわけだし悪く思うなよ』
細工というのは、呪霊の攻撃の際に真に対して攻撃の意を伝えたり、少し軌道を反らせたり、とそういった類のものだ。これがなければあの射線の嵐の中を真がほとんど被弾ゼロで切り抜けるのは不可能だっただろう。
とはいえ、この擦り切れた魂では呪霊の魂本体を抑えるのには至らない。自力で体の主導権を奪うことは適わなかった。
「…これからどうなるの?」
『心配せんでも、真がじきにケリを付ける。何で知っているか?ああ、お主の肉体の記憶は見たからな。あれは稀に見る英雄の器だ。我が憎々しく思うほどの才能、お主が気後れするのも無理はなかろう』
人の記憶を勝手に見るなと物申したいが、肉体を共有している以上は仕方ないことだろう。
だがこの身は既に呪霊が受肉したことで作り変えられている。もはや呪霊ごと葬るしかないのではないだろうか。
『肉体は魂の形に引きずられる。呪霊の魂だけ葬ることができれば元に戻ることは道理。そのための手段をあやつは持っているようだしな』
「反転術式…」
あの酷く傷ついた状態からこの場に現れている時点で真がそれを習得しているのは自明だった。だから狐は真が呪霊だけを祓う可能性に賭けてこの体の内でそれを待っていた。
『さあそろそろお喋りはお終いにして、少し手伝ってやるとしようか』
「そうだね」
真の領域内。
境界はおろか、天地すらはっきりとわからない灰色の空間。
玉藻前は満足に呪力を扱うことが出来ず、その実力は十分の一以下に落ちてしまっている。そして真は玉藻前の呪力を使うことで自分の力を大幅に増している。その大部分は領域の維持にそのまま回してしまっているが、既に優位な状況にある。
それでもまだ玉藻前には少しの抵抗をするだけの余力はあった。人間を依代としていることで純粋な呪霊より領域の影響が低下しているということもあるが、元々の地力の差が大きかった。
玉藻前は肉体の記憶を読み、真が自分を傷つけることが出来ないのを知っていた。ジリ貧なのは変わりないが、逃げ回って抵抗を続ければ好機は訪れるはず。
なぜなら領域外には夏油がいる。奴が真に自分を祓わせることを良しとするはずがない。もうしばらくすれば大嶽丸も領域展開によって焼ききれた術式も回復する。何らかのアクションを仕掛けてくる可能性は高い。
だから自分はただその時を待てばいい。
真自身その事は承知していた。混ざり合う魂の核を捉え、受肉した呪霊を祓うには本当にゼロ距離で正の呪力を注ぎ込む必要がある。こうも逃げ回られては難しい。
知るものと知らぬもの。焦りは真の方が大きい。
だが玉藻前もまた自身の内に宿るものの意思を知らなかった。
突然、玉藻前の手が、足が、その意に反して勝手に動く。完全にその身を静止させる。
『う、動けん!なぜ、自分の身が惜しくはないのか!?』
玉藻前が初めて明確な焦りを見せ、吠える。だが答えるものはない。
力を借り受ける代わりに自身の内に生得領域を安定させることを約束していた。これを破れば魂が安置されている生得領域は消え去り、格上の呪霊の魂に侵されることは必須。
だがそれはそんな間もなく呪霊が祓われるだろうという確信があってのこと。すべては真を信じるが故。
ついに訪れた絶好の好機を逃すことはない。
真は動かなくなった玉藻前に近づいていった。そしてその面に両手を添え、優しく口付けた。
腕が四本あって目がいっぱいついている人間もいることだし、このくらい許されるでしょ、ということで出した。後悔はしていない。たぶん。