雨池空は前後不覚だった。
夏油という呪詛師に連れられてからの記憶が曖昧だった。いや心の奥ではちゃんと理解している。そういうことにしておきたいのは、自分にとって残酷な事実をただ思い出したくなかったから。現在とあの時との記憶の連続性を持っていたくない。少しでも思い出そうとすれば精神に異常を来してしまいかねないほどの心的外傷。
だが思い出さずにはいられない。
真は、死んだ。無理だ、あの状態からはどうやったって助からない。遠目からでもそう思ってしまうくらいひどい傷。手足がちぎれ飛んで、人が達磨みたいになっている姿なんて初めて見た。ちぎれた手足が散乱している様子、傷口からとめどなく流れ出る血液、次第に弱っていく呼吸。
でもまだ生きている、せめて形だけでも残してほしいと、あのときは自分の身を投げ売って懇願したけれど、今思えばさっさと楽にしてあげたほうが苦痛なく逝けたかもしれない。
その残酷な最期を思い出して何度も嘔吐した。嘔吐した胃液で喉が焼けそうだ。
真に降り掛かったすべての災厄が自分のせいだった。
自分さえいなければ、彼は今も人好きのする笑みで、皆に囲まれて幸せな学生生活を続けていられた。
憎しみは当然ある。だが全ての責任を自分の手を引くこの男に転嫁する気にもならない。この男がいてもいなくても、いずれ似たような結果になっていた気がしてならない。だって自分は真の足枷にしかなれないのだから。
あのとき、さっさと自分から夏油と縛りを結べば良かった。真が自分を見捨てて逃げるなんてありえなかった。自分が憧れた少年はそんなことをするような人間じゃなかった。
そもそも自分と仲良くならなければ、入学式で声をかけなければ、あのとき出会わなければ、自分がいなければ、と。あのときああすれば、こうすれば、といつまでも思考のループから逃れられずにいる。
だが、もう全部終わったことだ。もう取り返しがつかないことなのだと思い返して、絶望する。
何もやる気が起きない。縛りでこの男の命令に従わなければならないが、それを破ってどんな災厄が降り掛かっても、もうどうでもいい。
記憶すら曖昧になっている。好きにすればいい。非術師を皆殺しにする?知ったことではない。明日世界が滅びるとしても、今は何の感慨も自分に与えない。
「予定よりだいぶ急で申し訳ないけど、早速最低限の仕事はこなしてもらうよ」
未だ形を為していない特級仮想怨霊を呼びつけるというのが自分の仕事。
だが例え無事に解放されたところでどうなる?自分の大切な人はもういない。自分が殺してしまったようなものだ。生まれてこの方死にたいとまで思ったことはなかったけれど、初めて今心の底から死んでしまいたい気分だった。
煮詰まった、どうしようもない自暴自棄の精神の中。
ふと、少女の脳裏に邪念がよぎった。
自分が死ぬ覚悟であれば、この男に一矢報いることはできるかもしれない、と。
空の降霊術式、それ単体は霊体を霊媒に降ろすだけで制御することまではできず、普段はあまり役に立たない。だが別に制御する必要がないのならば、準備は必要だがそれ次第であらゆる霊体を降ろすことができる。幸いにも準備自体は全てこの男が整えてくれている。
夏油は単に呪霊を呼ぶ術式だと勘違いしているのかもしれないが、媒体は呪力に限らない。適性の問題もあるが、人の霊であれば、本来は人間に降ろすのが一番理にかなっている。ただ、霊媒の魂より格上の霊体を降ろしてしまえば、ほぼ確実に霊媒となった人間の魂は消し飛ぶ。だから普通はやらない。
だが自棄になって何もかもがどうでも良くなった人間にとって、その恨みを晴らすにはうってつけの術式でもあった。
鍵は、自己犠牲を前提にすることによる降霊対象の強化。
自分の命を犠牲にするという事実が縛りとなり実際の実力を遥かに超えた飛躍を実現する。
最悪の暴走状態にもなりかねないため相伝の術師たちが予てより禁術の対象としてきた秘術だ。
特級呪霊に対して使用すればどれほどの効果が出るのかは計り知れない。確実に夏油に泡を喰わせることが出来る妙手に思える。
自分が生み出した恨みの大きさ、人に恨まれるということはどういうことなのか、この夏油という男に教えてやりたい。
仇討ち、それをすることで少しも報われることはないが、自棄になった少女の自殺の手段としては最上のものだった。
夏油と空は本物の殺生石があると言われる洞穴の奥へと進んでいく。
本来ここは呪術師が管理、秘匿しているはずの洞穴であったが、その存在を聞き出すための過程で夏油が殺した。長い時を経て全国に散らばった殺生石の破片と呼ばれる呪物を集めるのにもだいぶ手間取った。
そして洞窟の奥、開けたドーム状の空間に、一つの呪物が封印されていた。砕かれ、全盛期の禍々しさは残っていないが、本物の殺生石と呼ばれる呪物。それは今や砕かれて小さくなってしまっている。
夏油の仲間はそれに集めた殺生石の破片を繋ぎ合わせ、呪霊を喚ぶための縁として完成させた。
古代インド~中国に起源を持つとされる伝説上の妖怪。時の為政者、権力者を誑かし人の世を大いに狂わせたという大妖怪。日本三大妖怪として酒呑童子、大嶽丸とともに数えられる一体。
その妖怪、白面金毛九尾の狐。日本の伝承での名を玉藻前という。
玉藻前が単なる伝説なのか、元となる存在がいたのかどうかはさして重要ではない。必要なのは大妖怪として悪行を為したという逸話。今でも多数の非術師がその名を知っている非常に有名な存在だ。畏れは恐れでなくともいい。とにかく凄い妖怪なんだという曖昧な共通認識ですら呪霊に力を与える。故に名というものは呪霊にとって重要な概念となる。
「一体の呪霊を手に入れるためにも結構な手間が必要なんだよ。ああ、大嶽丸についても今と同じような方法で降ろしたのさ」
言うまでもなく例の空の親族のことだ。
ただその人は空がこれからしようとしているように無駄な抵抗はしなかったに違いない。でなければここまで無警戒に術式行使を許すはずがない。
儀式の場は整っている。
縁となる呪物、術式を持つ人間。そして夏油が用意した多くの呪霊を一つにまとめた呪力塊。
降ろす霊がどこに向かうのかは術師のさじ加減次第。
縛りに従い、躊躇することなく空は術式を行使する。
「降霊、白面金毛九尾の狐、玉藻前」
縁を頼りに漠然としていた人々の畏れが収束し、呪力を使って魂を構築する。肉体は魂という情報をもとに形作られ、特級仮想怨霊が降臨するという。
だがそれを良しとしない人間がこの場にはいた。
空は更にそこで自分自身を肉体の器として提供した。呪霊の魂が構築されている最中である今だからこそ出来る荒業。
人間を器とする特級呪霊の受肉。これは呪霊操術の術式対象外になるかもしれないという一種の賭けも含まれている。あわよくば夏油をそのまま叩き潰してしまえればよし。それが適わずとも、どちらにしても縛りを破らず夏油の思惑を破ることが出来るかもしれない最良の方法に思われた。
死んだはずの一人の少年が乱入してくるまでは。しかしもはや止められない。
術式は発動してしまった。
儀式が開始されたと見て突入したは良いが、肝心の空の様子がおかしいことに気づいた真は当初予定していた不意打ちのプランを全て放棄した。
全力で敬愛する先輩の元へと駆けつける。殺したはずの天敵の乱入に気づいた夏油が追撃を加えてくるのにも全部無視して。
しかしその甲斐もなく、真は全てが水泡に帰したのを感じた。
呪霊は降臨した。平安貴族を象徴するような十二単に黒髪、狐を模したような白い面を形作っている呪霊。特級仮想怨霊・化身『玉藻前』は誕生した。空の肉体を依り代として。
『うふ、うふふふふふ、あーはっはっはっははははは!!』
祝福されるべき産声すら聞くに耐えない悍ましいものに成り果てている。少なくとも人間だった頃の面影は既に保っていない。
その魂は高すぎる呪力放出のために観測できない。だが現状を見れば元の魂がどうなったかなんて簡単に察せられる。
存在の格としてあの大嶽丸よりも上。それが何を意味しているのか、聡い真にはわかってしまう。
夏油すらあまりに予想外の出来事に対処を忘れて呆然となっている。真が感じている衝撃はどれほどのものか。
自分は間違ってしまったのか。万全を期さずに最初から夏油の方に特攻して一か八かの勝負を仕掛けるべきだったのか。
それとも一時とはいえ夏油と同じ外道にまで堕してしまった自分への罰なのか。
誕生の悦びを全力で表していた『呪霊』が急に笑い声を上げるのを止め、周囲を一瞥する。
呪霊は人類の敵。その欲望とは、人間に対する害意。この呪霊、玉藻前は生まれた時からそれを心底理解していた。まずはこの場に存在している人間の殺戮。
力を確かめるかのように、呪力を手に握りいじっている。
そしてその呪力をおもむろに丸めた。
真は寸前感じた悪寒に従い、反射的に頭を下げた。すると、脳天があった空間に一筋の黒い光条が走った。後方で破壊音が鳴り響く。
高密度の呪力を射出するだけの単純な物理攻撃。だが速い。あらかじめ来ることがわかっていなければ避けられなかっただろう。
すぐ間近に凄まじい呪力を感じ、冷や汗が湧き出る。喰らっていたら確実に頭を撃ち抜かれて即死だった。
媒体無しのただの呪力圧縮による攻撃でこれだ。どれだけの呪力出力があればこんなことができるのか。
そして今度は呪霊の白面が割れ、口元が開いた。そこから呪霊からは聞こえるはずのない意味を持った人語が漏れ出す。
『おお、今のを避けるか。童よ、其方はもしや強いな』
絶対に当たると思っていた攻撃を真が瞬間的に回避したことに呪霊は驚いていた。
呪霊が人間の言葉を喋ってコミュニケーションを図る、そんな事は今までなかったことだ。特級呪霊の特権か、それとも人間を器として受肉したことによるものか。どちらにしてもその知能の高さは戦う上では厄介でしかない。
高い知能を持つ凄まじい力を持った呪霊、誕生時点でこれだ。放置すればどんな災厄にまで発展するかは未知数。
最終的には五条悟が全てを収めるかもしれない。だがそれまでにどれだけの人が死ぬ?
絶対にそんなことを彼女にさせるわけにはいかない。だが自分に止められるのか。実力的な意味でも、精神的な意味でも。一体どうすればいい。真はこの呪霊を攻撃することができない。傷つけることを魂が拒んでいる。
しかし思い悩んでいるような暇はない。現状を解決するための糸口に思いを巡らせるべきだ。
そして思い至る、先程の攻撃の違和感。一瞬魂の揺らぎを感じた。
(いや、まだ終わっていない。俺はまだ確かめてすらいない)
本当にさっきの攻撃は呪霊が仕損じただけなのか。確かめる必要がある。まだ希望は失われていないかもしれない。
好機は必ず訪れるはず。今はただ耐え忍ぶ時。
夏油は現状を観察して努めて冷静に思考しようとしていた。彼我の戦力の分析。
受肉した特級呪霊、予定とは違い今感じている力は自分の切り札たる大嶽丸よりもおそらく強い。しかしただ受肉しただけではこうはならない。少女が自ら死を賭したことで本来の実力を大幅に飛躍させていると考えるのが自然。
受肉についても夏油の予想では術式の対象内だ。肉体の檻を壊せば中身の呪霊を使役することは出来るだろうが、その場合は本来降霊させる予定だった実力の呪霊を手に入れることになる。見立では大嶽丸と同等以下のレベル。
それを手に入れるために現状最高戦力を今みすみす危険にさらす必要があるか。ここは一旦様子見に徹して、消耗を待つのが得策ではないか。そのためにはうってつけの人材が都合よくこの場に来てくれた。
しかし玉藻前はそんな夏油の思惑を見越していた。
『生臭坊主、一人だけ離れたところで静観とは、いい身分よなぁ』
そう邪悪な笑みを漏らして、玉藻前がとある術式を発動させた。
宙に浮く呪力の玉、その数九つ。それらは玉藻前のもとを離れ、無軌道に、縦横無尽に、空間内を飛び回る。そしてあらゆる角度に配置されたものから真と夏油に向かって先程と同じ光線が射出された。
黒い光が断続的に点滅している檻が形成される。その光の線上にいた者がその身を貫かれるということは言うまでもない。
(おいおいファンネルか!私はガンダムじゃないんだぞ!)
夏油は咄嗟に大嶽丸を繰り出し、自分の身を護らせる。大嶽丸はその呪力出力でなんとか光線をガードすることが出来ているが、確実にダメージは負っている。そして四方八方あらゆる角度から撃ち込まれているために全てはカバーしきれない。夏油はその他の呪霊も盾として使うが簡単に貫通してしまっている。呪霊を一度に大量展開しようとしても出現した端から夏油まで攻撃が到達するように器用に撃ち抜かれる。
この攻撃では大嶽丸相手には致命傷を負わせることはできないが、夏油本体は別。大嶽丸を守りに使わなければすぐに夏油は蜂の巣になってしまうだろう。チラと真を一瞥すると、奴は変態のような機動と身のこなしで器用に肌一枚ですべての攻撃を躱している。昔よりさらに体術も磨き上げたとはいえ夏油にあんな真似はできはしない。その姿を見て、脳裏にかつて最も嫌悪した
しかし一向に攻撃が止む気配がない。呪力量は見立てよりも遥かに多いかもしれない。今は自分もかすり傷程度で済んでいるけれどこのままではすぐに痛手を被ってしまうのは火を見るより明らか。
この規格外のオールレンジ攻撃に対して本体の安全を保ちつつ状況を覆すための一手を打つには、あれをやるしかない。
大嶽丸は無数の光線攻撃に存在する僅かな隙に乗じて呪力を練った。そして印を結ぶ。
これより為すは呪術の秘奥、術式必中必殺の支配空間。
だが玉藻前は、誕生したてだというのにその奥義について把握していた。伝承を元にした仮想怨霊であるため、自分の術式というものを生まれる前から知っているのだろうか。だが大嶽丸が使えるならばこの呪霊が使えたとしてもなんの不思議もない。夏油は僅かな焦りを感じ始めた。
そして二体の特級呪霊が同時に領域を展開した。
氷雷を呼び、火剣の雨を降りそそがせる天災が支配する領域、そして人を堕落に堕落させ、最期には毒を振りまいたという傾国の妖怪の逸話が支配する領域。二つの世界が互いを侵食し合い、これを制したものがそのまま勝利を手にする。
だが大抵の勝敗は戦いの前から既に決しているもの。
領域の押し合いは術式理解度、制御の練度に加えて純粋な呪力量と呪力出力が物を言う。
呪霊操術によって使役されている呪霊は、一部制限をかけられた状態での一定の自律思考によって夏油の命令を遂行する。その制限とはすなわち自我の封印。これにより呪霊は夏油に操られた時点で自己の術式を理解する機会を奪われ、その成長は永久に止まる。だから両者が領域の綱引きをしているこの段階においても、玉藻前だけが術式を成長させ得る。それに加えて呪力出力においても水を開けられている以上、大嶽丸がこの領域戦において勝利する可能性は皆無であった。
先に大嶽丸の領域が打ち負け、術式が焼き切れる。暫くの間術式の使用が不可になった。夏油はかつて高専時代に味わったきりの焦燥感を抱いていた。
大嶽丸に比べて他の手持ちで玉藻前に対抗できるだけのものがいない。それ以前に現在自分は敵の領域の中、まずはこの危機的状況を脱する必要がある。領域で対抗出来ない以上、単純な肉体性能と呪力操作だけで敵の必中必殺に対処しなければならない。夏油にとっては絶望的な状況に思えた。
しかしまだこの場には両者が現状取るに足らないと無視していた第三者が残っていた。領域戦においてその支配を免れる方法は非常に限られている。今の少年が耐えしのぐことが出来るとは夏油も考えていなかった。
その予想を裏切り、真は領域の侵食を耐え忍ぶための手段を持っていた。そうして気配や存在感を絶ち、好機が訪れるのをずっと待っていた。玉藻前が大嶽丸に勝利したと確信し、その意識に空白を作る一瞬の間。自分の術式の射程範囲にまで一気に接敵した。
「領域展開」
『無相円輪』
呪力、そして魂とは何か。それはこの世に生まれた差異。世界の混沌から魂は生まれ、魂の揺らぎから呪力が生まれ、呪力が澱となり呪霊が生まれる。魂円呪法とは分かたれたそれらをつなぎ合わせ、自らの内の混沌へと還元する。
空間に付与される術式は、あらゆる呪力の支配。敵は術式はおろか呪力による身体強化も許されず、呪霊に至ってはその存在すら満足に保つことができない。
だが今の真の実力では他者の呪力の影響力を最低限に留め、自分の力を底上げするという程度の効果しか発揮できなかった。しかし現状においてはそれで十分。
先の領域同士の衝突においては、呪力の節約のために肉体の表面上にだけ領域を薄く展開し続けることで乗り切ることができた。術式が焼ききれないように脳を反転術式で補完しつつであったためかなりの呪力を既に消費してしまっているが、真は自分の目論見が成功したことを確信した。
(射程範囲は俺自身の魂の容量に応じたもの、現状では約3mが限界)
だからこそ十分に対象に近寄らないと空振りとなり、呪力を無駄に消費するだけで終わってしまう。
だが一旦射程に入ってしまえさえすれば、敵の領域ですらものの数ではない。領域の辺縁を構成する呪力自体を端から無力化していくためだ。現に玉藻前は呪力量、出力ともに真に勝っているにもかかわらず、既に領域で押し負けてしまっている。
そしてついに玉藻前は真の領域内にその身を囚われた。
天地開闢以前の混沌。世の全てが満ち足りながらも形のない灰の世界が真と玉藻前を中心として広がっていく。
真の目的、呪力の影響が取り払われ、その内に宿る魂が顕になった。
先程から続いていた玉藻前の攻撃、まるで避けてくださいと言わんばかりに、あまりにも意図が見え透いていた。生まれたばかりで感情の操作が未熟だといえばそれまでだが、それにしても避けやすかった。あれならばおそらく自分より感知や身体能力で劣る夏油であっても避けられたはず。なのに避けるという選択肢を取らなかった。
真はその魂をみて困惑した。だが得心もした。
彼女の内に存在する魂は、呪霊の魂の他にもう