あの街を離れてから三年目の夏。進路希望の用紙を眺めながら、水粘水斗は窓の外を眺めていた。
「響香。俺は……」
誰もいない教室で水斗は、あの約束を思い出していた。
何も知らない無垢な頃。誰にでもある。
あの約束を果たすべきか否か。葛藤で水斗の心は揺れていた。
「まだいたんだ」
髪をサイドで束ねた少女が、教室の入口で立っていた。
腰に手を当て、呆れたように近づいてくる。
「拳藤か」
「拳藤か、じゃない。水粘だけ提出してないから、様子を見てきてくれって頼まれたんだからな」
そう言って彼女――拳藤一佳は、机に置かれた用紙を覗き込む。
「やっぱり、水粘も雄英高校を受けるんだ」
「そんなつもりは……」
「何回も書いたり消したりしてたんだろ? 跡が残ってる」
言われた通り、雄英高校ヒーロー科とうっすら書かれている。
「俺は……」
唇を噛み締める。
雄英高校を受けないということは、響香との約束を破ることになる。
だけど――。
「俺はヒーローになれないよ」
あいつを救えなかった人間が、ヒーローなんてものになれるわけがない。
ましてや、復讐しようとしてしまう人間には。
水斗の様子を見た拳藤は、ため息をついた。それから、諭すように口を開いた。
「私が言える立場じゃないけど、それであんたは後悔しないの?」
「…………」
「幼なじみとも約束してるんだろ?」
拳藤の言葉に返答できなかった。
後悔なら嫌になるほどした。
こんなに苦しいのならヒーローなんて目指さなければ――。
「これだけは言うつもりなかったけど」
水斗の思考を遮るように、拳藤は言葉を続ける。
「あの娘の――由貴の願いを思い出して」
「……天道の願い」
思い出されるのは、彼女――天道由貴(てんどうゆき)の笑顔。
あの笑顔に隠された真意を読み取れなかった自責の念。
そして、もうひとつ。
――わたしの代わりにヒーローになってくれる?
水斗は顔を上げた。視線の先には微笑を浮かべた拳藤がいた。
「水粘は由貴にはなれない。でも、あの娘の願いを叶えることはできる」
目の前の少女を呆けた顔で見ていたのは間違いない。
すぐにでも零れそうな涙をこらえ、水斗は進路希望に『雄英高校ヒーロー科』と記した。
「……代わりに、提出してくれないか」
「わかったよ」
文句も言わず、拳藤は用紙を受け取った。
背を向けた彼女は、少し振り返って笑いかけてくる。
「私も水粘の夢、応援してるからさ」
「……ありがとう」
それには応えず、拳藤はひらひらと紙を振って教室を出ていった。
再びひとりになった教室で、水斗は決意を新たにする。
「もう一度、頑張ってみるよ」
呟いた言葉は、窓の外へ消えていった。
◇
件の用紙を担任に提出して、拳藤は帰路についていた。
「由貴。これで良かったんだよな」
涙をこらえていた少年を想う。
きっと彼はヒーローになるだろう。自分と同じように、過去を引きずったまま。
拳藤一佳が水粘水斗と知り合ったのは、ひとりの少女がきっかけだった。
『一佳ちゃん。ありがとうね』
記憶にあるのは儚げな笑みを浮かべる女の子。
同じ小学校から進学してきた、天道由貴(てんどうゆき)という少女がいた。
彼女は無個性であることを理由に、いつもひとりで過ごしていた。
そんな彼女を元気づけようと声をかけたのが、中学に入ってすぐの出来事だった。
『一佳ちゃんは、わたしと一緒にいて楽しい?』
あの日の彼女は、どうにも元気がなかった。
なぜそんなことを聞くのか。理由を聞いても、何も話してくれなかった。
あとで水粘に聞いた話では、夢について悩んでいたという。
それに気づけなかった自分を恥じたし、真意を受け取れなかったことを後悔した。
『一佳ちゃん。わたしね、男の子の友達ができたんだ!』
嬉しそうに話す由貴を見て驚いたのを覚えている。
それから三人で一緒に過ごすようになり、楽しい毎日がずっと続くと思っていた。
けれど――。
彼女は自ら死を選んだ。
それは、二年目の春が遠のく出来事だった。
すぐにいじめとして認定された。嫌がらせをしていた奴らは転校していった。
だけど、そんなに単純なことでもなかった。
彼らが転校する数日前、水粘はクラスメイトの胸ぐらを掴んでいた。
「お前、ヒーローを目指してるんだってな?」
「あんたには関係ないだろ。今重要なのは、これが事実かどうかってことだ」
掴まれている他に四人の生徒がいたが、誰もがニヤニヤと笑みを浮かべていた。
一佳がそれを影から見ていたのは、水斗に事前に聞かされていたからだ。
天道を死に追いやった五人を告発するために。
「この写真に写ってるのがお前らなら、お前らがあいつを殺したも同然だ」
写真に映るのは、由貴を殴るクラスメイトの姿。
これを撮ったのは、他ならぬこのグループにいた少年だった。
心無い言葉を浴びせ、暴力を振るい、物を隠し、罪悪感を抱かせた。
その報告を水粘にしたのは、ある種罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。
「お前が守ってやれば良かったんじゃねぇのか? ヒーロー志望さん」
だけど、水粘の前にいるクラスメイトには、罪悪感のかけらも見えなかった。
小馬鹿にしたように顔を近づけてくる男子。それを見て、周りの女子を含む四人が笑う。
「そうか」
その時の水粘は、理性が薄れていたように見えた。
「そうさせてもらうよ」
「がっ!?」
胸ぐらを掴んでいた男子に頭突きを食らわせた。灰色の粘液が飛び散る。
それを何度も、何度も何度も繰り返す。
水粘の顔が変形する頃には、周りにいた奴らは彼の粘液を浴びていた。
「はっ、ははっ、お前ボロボロじゃねぇか」
衝撃はあっても水粘の個性の性質上、彼の体は柔らかい。
「そうだな」
あざ笑う周りの連中を一瞥する。その風貌はすぐに元の顔立ちに戻る。
外から見ていた一佳は気づいた。水粘から放たれた粘液が蠢いているのを。
「じゃあ、爆ぜ――」
水粘は何の感慨もなさそうに口を開いた。
自分よりも荒れている人間を見て一佳は逆に冷静になれた。
「水粘! やめろ!」
砕けた水粘の体の一部をすくい取って、彼らの間に割って入る。
「……拳藤? お前は俺の個性、知ってるだろ?」
その声音は、邪魔をするなと言っているようで。
「ああ、知ってる」
「だったら――」
「こいつらに構う必要なんてない。明日になれば、こいつらの悪事は全部明らかになる!」
「じゃあ、誰が! 誰が天道の無念を晴らすんだよ!」
水粘が血走った目で拳藤を睨めつける。
少しばかり恐怖を感じた。それでも、彼の個性で復讐を遂げさせてはいけない。
だから――。
「あの娘の無念は、あんたがヒーローになって晴らせ!」
水粘の目が大きく開かれる。
すとん、と彼の体から力が抜けた。
「ヒーローになりたかったあの娘の。ヒーローになれなかったあの娘の夢をあんたが叶えろ!」
一佳の心からの叫びだった。
彼は呆然とその場に立ち尽くし、糸の切れた人形のように倒れ込む。
「俺は……」
その様子を見ていた主犯格の生徒たちは、拳藤の呼んだ教師によって安全な場所へ連れて行かれた。
もっとも、翌日には学校にいられなくなったのだが。
この一件以来、水粘は完全に孤立したが拳藤だけは傍にいた。
なぜ一緒にいるのか、と聞かれれば放っておけないからと答えるだろう。
それだけ、彼の精神状態は不安定だった。
これを書きたかった。
しばらくお休みします。