「ぐぅぅ……痛ぇ……」
梅雨の時期、雨の日のとある朝、久美子は布団から出てくることなく腹を押さえて悶えていた。
「どうしたの?大丈夫?」
「大丈夫……じゃない……。こんなに重い生理痛は久しぶりだ……」
「生理痛か」
こんなに弱っている久美子はとても珍しい。
先程までリビングで朝食を食べていた茉莉も、僕の横に来て珍しく久美子を少し心配そうな目で見ている。
「その様子じゃ、仕事は無理そうだね。今日は休むか?」
「そうだな……蓮花、私の代わりに出勤してくれ……」
「いいけど、授業内容は?」
「各教科の進める範囲をメモする……茉莉、書くものを持ってきてくれ……」
「うん」
茉莉がリビングに戻って紙とボールペンを持ってくると、久美子はゆっくりと身を起こしてメモを書き始めた。
「……それから、格闘術の訓練の時間は好きに使ってくれ。あと……友奈の訓練も見てやってくれ……うぅ……」
「わかった」
メモを受け取り、家を出る準備をする。すると久美子もリビングにやってくる。
「せっかくだ、この白衣も着てくれて構わない……チョークを使っていると服が汚れるからな……」
「ありがとう」
久美子の白衣の袖に腕を通す。サイズは問題ない。
「久美子の朝ご飯もできてるから、食べられるようになったら食べてくれ」
「ああ……」
「昼ご飯は……茉莉、自分で用意できる?昼に戻ってこようか?」
「大丈夫だよ。もう半年くらい一緒に晩ご飯作ってるから」
「そうだね。じゃあ久美子のことお願いね、行ってきます」
「「行ってらっしゃい」」
珍しく久美子にも見送られて家を出る。
そして丸亀城に到着してから、白衣は着いてから着ればよかったと思った。白衣を着て街中を歩いていると、道行く人々から不思議そうな目で見られるのだ。
──────────
「今日も雨かぁ……こうも雨が続くとさすがのタマでも滅入っちゃうぞ」
「梅雨だから仕方ないね」
雨に対する球子の愚痴を聞きながら、ホームルームの時間を待つ。
雨の日は洗濯物を外に干せなかったり、普段外で訓練している子達も道場に集まるので場所を広く使えなかったりと、色々困ることがある。
じめじめとした嫌な湿度を不快に感じていると、廊下から足音が聞こえ、教室の扉が開かれた。
「皆おはよう」
「……え?れんちゃん?」
「一瞬烏丸先生が髪を切ったのかと思った」
教室に現れたのは烏丸先生ではなく、烏丸先生の白衣を着たれんちゃん。
「烏丸先生はどうしたんですか?」
「今日は体調不良でお休み。今頃布団の中で苦しんでるよ」
「体調不良?」
「生理痛が重いらしい」
「「「「ああ……」」」」
ゆうちゃんと球子がキョトンとしている中、私を含め生理痛を経験した事のある子達から納得の声が漏れた。あれは辛いものだ。
「だから今日は、代わりを頼まれて僕が来た」
「なるほど」
そんなわけで、いつもとは少し違う一日が始まった。
いつものように教科書と問題集を広げ、自分で学習を進めていく。授業の最初に進める範囲を伝えられ、早く終われば他の子を教えに回ったりもする。
「杏はもう五年生三学期の内容に入ったんだね……凄いなぁ」
「はい、だからもう少しで学年も皆に追いつきます」
昨年の秋頃から、杏は他の子に追いつく為に倍くらいのペースで学習を進めている。放課後も毎日自分の部屋で自習しているようで、成績は落としていない。
「ほら、球子起きて。杏を見習って頑張ろう?」
「んにゃ……あと五分……」
「えぇ……いつもこうなの?」
「最初はやる気があるんですけど、教科書を読んでいたら眠くなるらしくて……大体夜に私の部屋で宿題としてやってます……」
「う〜ん、そうか……わからないでもないけど」
困り顔を浮かべるれんちゃん。
「今だから許されているけど、普通の学校に戻った時に困るよなぁ……よし。ほら球子起きて?今日一日寝ずに頑張ったら、今週末に皆で骨付鳥を食べに行こう」
「え、骨付鳥!?ほらタマちゃん起きて!」
「起きて手を動かせ球子。私が寝かせん」
竹刀を片手に球子の席の隣に立つ若葉。それはどこから取り出したのだろうか。
机に突っ伏していた球子も何とか身を起こし、鉛筆を手に取る。
「うう……しょうがない。骨付鳥のためだ、タマ頑張る……」
「しょうがなくないぞ」
「スパルタ若葉ちゃんもいいですねぇ……」
ひなたがスマホを取り出してカメラを若葉に向ける。普通の学校では授業中にスマホを使うのは駄目なのでは。
「……久美子は毎日頑張ってるんだなぁ……」
一応、今日一日は球子が寝ることはなかった。というより、寝かせてもらえなかった。
昼休みには皆で食堂に移動し、昼食をとる。普段はこの時間は私達だけでなく、警備員のおじさんや職員も昼食の為に食堂に集まるので意外と賑やかだが、今日は人が少なく少し静かだ。
「いやぁ頑張った後のうどんはうまいなぁ」
「ならこれからも毎日頑張れるな」
「お、おう」
談笑しながら食事をする中、ひと足先に食べ終えたれんちゃんは、スマホを取り出して耳に当てた。
「もしもし久美子、生きてる?」
『……一応な。今は少しマシだからうどんを食べている』
「烏丸先生の声、弱ってますね」
食堂が静かなため、れんちゃんのスマホから出る久美子さんの声が私達にも聞こえる。確かに普段より弱っているようだ。
「今日の晩ご飯はどうしようか。どんなものがいい?」
『そうだな……お前のおじやが食べたい』
「わかった。帰る前に買い物してくるね」
『ああ』
「あと、本当にいつもお疲れ様。じゃあね」
『……ああ』
れんちゃんは電話を切ってスマホをポケットに入れると、立ち上がり水を取りに行った。
「……弱っている久美子さんを見に行きたいけれど、弱っているところを煩くするのは良くないわよね」
「同意です」
久美子さんといえど、さすがに体調不良の人はそっとしておくべきだろう。
──────────
『今日も雨で嫌になっちゃうわね』
「そうだな、こちらも雨だ」
放課後、僕は若葉と共に放送室にいた。今日はちょうど勇者通信の日で、せっかくなら歌野の声を聞いてから帰ろうと思ったのだ。
『雨の中でも関係なく敵は来るから本当に嫌だわ』
「襲撃があったのか?」
『昨日ね。あまり被害は出なかったけど、ちょっとドジって怪我しちゃった』
「大丈夫なのか?」
『これくらい平気よ、かすり傷だわ』
「ならいいんだが……」
歌野の声音は強がっている様子は感じられず、怪我は大したことはないようだ。しかしこちらは声でしか情報を得られず、どうしても心配は拭えない。
『まあ他に変わったことは無いし、いつもの……始めましょうか』
「そうだな、始めよう……」
「ん?」
『「うどんと蕎麦、どちらが優れているか!!』」
「いつもしてるんだ……仲良いね」
そして始まる怒涛の討論。うどんと蕎麦、それぞれの魅力を互いに熱弁し合う。
面白いので動画を撮って楓さんに送ってあげよう。あなたの娘さん、うどんを語る時が一番生き生きしてますよと。
夜、食器洗いを済ませてソファでくつろぐ。先程までは千景と通話していたが、風呂に入ると言われて通話を終了した。ちょうど茉莉も今入浴中だ。
「はぁ……女の体は不便だ……どうして私は女に産まれたんだ……」
「僕と巡り会う為じゃない?なんちゃって」
「…………そんなわけないだろ」
「ちょっと納得しかけなかった?」
家に帰ってからというもの、ずっと久美子にくっつかれている。人にくっついていると暖かくて生理痛がマシになるらしい。
「……家に帰ってきてから浮かない顔だな。何かあったか?」
「……僕が何かあったわけではないけど。昨日、諏訪で敵の襲撃があったんだってさ」
「ほう?」
「それで、歌野が軽い怪我をしたらしい。歌野は平気って言ってたし、平気そうな声だったんだけど……」
「……白鳥歌野が心配か?」
久美子の方に顔を向けると、久美子もこちらを向いていた。紅い瞳が僕を見据えている。
「……そうだな。心配だ」
「諏訪に助けに行きたいのか?」
「行きたいけど、今は行けない」
「何故だ?交通機関は止まっているが、お前なら走っていけるだろう?」
「それはそうなんだけど……」
諏訪までの移動については問題ない。今は助けに行けない理由はそこではないのだ。
「バーテックスがどんどん進化するのは知ってるよね?」
「ああ」
「僕が時々、四国の周りのバーテックスを片付けているのも知ってるよね?」
「ああ……なるほどな」
「え、もうわかったの?」
時々久美子の聡明さには驚かされる。一を聞いて十を知るとはまさにこの事だろう。
「四国の周りのバーテックスはお前を超える為に進化を続けて強くなっているんだな?だが進化させない為に放置していたら数を増やして攻め込んでくるから、定期的に片付けるしかないと」
「わぁ、凄い。本当に全部わかったのか」
「そしてお前が四国を離れたら、敵からすれば四国に攻め込む絶好のチャンスになるから、お前は四国を離れられないと」
「久美子との会話はとてもスムーズで助かるよ」
理解が早い、理解したことを的確に言語化できる。巫女の才能があるのではないだろうか。もう少し幼ければ巫女に選ばれていたかもしれない。
「……四国の周りのバーテックスは、今の友奈達では勝てないくらい強いのか?」
「勝てない。勝てたとしても誰かが命を落とす」
「時々四国に戻ってきて周りのバーテックスを片付けるのは?」
「駄目だ。僕が諏訪で戦うことで、諏訪周辺のバーテックスが進化してしまう。そして僕が四国に戻ってきている間に諏訪が襲撃されたら終わる。安易に諏訪を助けに行くことは、却って諏訪の危険が増してしまう。それに……」
「それに?」
「もしも僕が諏訪にいる間に四国が襲撃されて帰ってきたら誰かが死んでいた、なんてことになったら、きっと僕は諏訪を助けに行ったことを後悔してしまう」
「……なるほどな」
テーブルに置いていたアイスコーヒーを入れたグラスを手に取り、一息つく。
最初の見通しが甘かったのだ。バーテックスの進化速度を舐めていたかもしれない。
「だから、僕は諏訪を助けに行けない」
「それなら、次の春に四国に避難させる時はどうするんだ?」
「早めに対策を考える。避難は長期間ではなく数日で済むから、なんとかなると思う」
僕が四国を離れる少しの間だけ神樹に結界を強めてもらうとか、できないだろうか。今度大社に行った時に聞いてみよう。
リビングの扉が開いた音を耳が拾う。茉莉が風呂から上がってきたのだ。
「次どうぞ」
「ああ。久美子は風呂どうするの?」
「私は最後にシャワーでいい」
「そっか」
着替えを持って脱衣場に向かう。今日は久美子が後に控えているので、少し早めに入浴を済ませるとしよう。
翌朝。いつものように朝食を作っていると、久美子が起きてきた。茉莉はまだ寝ているようだ。
「おはよう。今日は出勤できそう?」
「ああ、今日は大丈夫だ。……蓮花」
「ん?」
久美子はキッチンに入ってくると、僕を後ろから抱き締めた。
「……お前にしかできない事が沢山あるのかもしれないが、一人で背負い込み過ぎるなよ?私はお前のようには戦えないが、戦闘以外のことなら私を頼れ」
「……ありがとう」
久美子の手に僕の手を重ねる。触れ合ってみないとわからない優しい手だ。
朝から甘い雰囲気になりかけたが、それは廊下から聞こえた茉莉の足音により霧散した。
「おはよう……久美子さんどうかしたの?」
「おはよう茉莉。なんでもない、気にするな」
リビングに射し込む朝日により、久美子の頬や耳に差した朱は紛れた。
今日の郡家
ボクがお風呂に入る前と後で、蓮花さんの表情の明るさが変わっていた。久美子さんと何か話したのだろうか。