「既に退学届は用意させてある。
校長とも先ほど話がついた。
後はおまえがイエスと言えばそれで終わりだ」
目の前の男は、結論は見えているとばかりにオレに問う。
それに対してオレは…………
「わかった。イエスだ」
そう答える。
すると男は満足げに口元を歪ませて、意地悪いことを言ってくる。
「大袈裟に施設を抜け出した割に、随分あっさりと引き下がったな。
やはりこんな学校はおまえにはくだらなかったらしい」
心底嫌気がさすことに男の言葉はオレの本音をついていた。
数か月の短い期間だったが、こんな環境で学べることは既にないと思っている。
編入直前まで抱いていた外への憧れも、自由への興味も、平穏な日々を望む気持ちもいつの間にか色あせて、ここで学びたいことは特にない。いままでは切欠がなく惰性で留まっていたにすぎない。
オレの意識は既にあの場所へと向かっていた。
「遅めの反抗期は過ぎたようだな。つくづく無駄な時間を過ごした。
今すぐあの場所に戻るとしよう」
「そうだな」
オレは男についていく。
失望と絶望を胸の奥深くに抱えながら。
***********************
「待ってください! 綾小路くん」
振り返る先には少し息の乱れた坂柳有栖と、その父親である坂柳理事長がいた。
オレの退学を知って急いで駆けつけてきてくれたのだろうが、体は大丈夫なのかと心配になる。
黙って坂柳へ視線を向けて彼女の続ける反応をうかがっていると、呼吸を落ち着かせた彼女は顔をオレへと向ける。
「どうしてですか?
どうしてこの学校をやめてしまわれるのですか?
ここから去れば、あなたは…………」
坂柳が言いたいことは理解した。
オレはここを去ってしまえばもう一生あの場所から離れて自由に過ごすことは叶わないだろう。
普通の感性を持っているならばここから去ってあんな場所に戻ろうとするなんて理解できない行動だ。この学校にはあの場所にはない人並みの自由があるのだから。平穏も安寧もあの場所では決して学ぶことはできない。
だが…………
「悪いな坂柳。オレはもう、この学校で得られるものに興味はない」
それがオレの出した結論だった。
オレの答えを聞いた坂柳はとても悲しそうな、哀しそうな表情を浮かべる。理事長も同様だ。
「まだ、私との約束は果たせていませんよ」
どこか縋るような声音だった。
基本的に泰然自若、常に余裕をもった態度をとる彼女がいま珍しく感情的に見える。
「すまないな。あの契約はなかったことにしてくれ」
これ以上話すこともないだろう。
オレはこの場を去ることにする。
「もしも、この学校であなたを取り巻く環境が違えば…………違う道もありえたのでしょうか?」
去り際にきこえたこの疑問にオレは答えずに歩みを続ける。
想像できない仮の話だが、それこそがその疑問の答えな気がした。
******************
「綾小路は家庭の事情で退学した」
この知らせに多くの生徒が動揺する。
私、堀北鈴音も動揺せずにはいられなかった内の1人だ。
どうして?
そんな疑問が、悲痛を隠せない叫び声が意識せずに口から小声で洩れる。
────どうして彼は退学してしまったのだろう?
────家庭の事情って何?
────私を必要としてくれていたんじゃなかったの?
疑問が私の望みとない交ぜになりながら次々とあふれでてくる。
捨てられてしまったのか?
だとしたらなぜ?
────私は彼の期待に応えることができなかったのかしら?
想定外の絶望に襲われながら、ふと希望を探すように、縋るように周囲を見る。
その様子は誰もかれもがひどいものだった。
特に顕著なのは平田くん。
彼は寄る辺をなくした迷子の子どものような表情でただただ茫然としていた。
それも当然だろう。
彼は一人も退学者を出さないためにこれまで辛く感じながらも暴君を振る舞っていた。
彼にそうするのを強いていた人物は、いつの間にか彼の心を支える唯一の人物になっていたはず。その唆した張本人が、唯一の心の支えが彼の覚悟も望みも正面から打ち砕いてしまった。
久しぶりに見る覇気を感じない平田くん。
まだ一時ほどではないけれど、あの頃のように、いえ、あのころ以上になるのも時間の問題に見える。
────私がなんとかしないと
私だって成長した。
期待してくれた彼はもういないけれど、捨てられたのではなくいなくならざる理由があったのだと根拠もなく信じることにする。
────いなくなった彼が驚くような成果を
────私の力でAクラスに
そう決意することにした。
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綾小路くんがいなくなってしまってから、Dクラスの状況は一変してしまった。
彼がいなくなってから挑む特別試験。
私はそこで完膚なきまでの大敗を喫した。
彼と親交のあった坂柳さんからは八つ当たり気味だとわかるほど過剰にDクラスを攻撃される。彼に目をつけていたらしい龍園くんからもついでとばかりに手ひどくやられてしまった。
気づけば毎回のように最下位。
そのおかげで盤石だと思えた平田くんの体制にも陰りが見え始める。
暴力で支配していた側面がある故に、これまでは彼についていけばAクラスに上がれると希望を見いだしていた生徒に徐々に不満が高まる。いや、高まるように誘導されていた。
平田くん自身も一時は持ち直していたようだけれど、綾小路くんの退学以降どこか覇気がなく試験でひどい結果を残す度に擦り切れてしまった。
それでも、まだ彼には契約があった。
綾小路くんが結んでくれたAクラスとの毎月プライベートポイント譲渡の契約。クラスポイントは0になってしまったけれど、安定した収入を供給してくれるこの契約が活きている限り、彼の体制はそう簡単には崩れない。
たとえ、彼自身にクラスを率いるつもりはなくとも、みんな彼には逆らわない。
それを利用すれば私がAクラスに上がる手段はきっとある。
そう思っていた。
******************
「平田くん、ちょっといいかな?」
******************
平田くんは突然自主退学した。
彼の退学を契機に坂柳さんから契約の破棄を言い渡された。
これでDクラスは彼が編入する前の無一文の状態に戻されてしまった。
バラバラのDクラス。
不安に思う生徒がこの先誰に従えばいいのか疑問の声をあげる。
なんだかんだいって平田くんに恩恵を受けてきたと感じる生徒は多い。これまでは彼に従ってさえいれば少なくとも落ち着いた日常を手に入れることはできていた。だけど、その彼はもういない。
5月ごろを苦い記憶として持つ生徒は少なくない。
そんな人たちが無責任に新たなリーダーを求め始める。
「みんな。新しいクラスのリーダーなんだけど、堀北さんにしてもらうのはどうかな?」
櫛田さんからそんな言葉が飛び出て、私だけじゃなくDクラスの全員が驚く。
私のクラスの地位はあのころに比べれば高くはなっている。それは綾小路くんから功績の一部を譲り受けて平田くんのもう一人の参謀としての立場に収まっていたからだ。けれど、平田くんのいない今そのような立場に大した力はない。
いまの私はせいぜい頭が少し切れる元いじめられっ子として認識されている。
そんな私を櫛田さんはリーダーにふさわしい人物として押し上げる。
曰く、堀北さんは頭がいいから。
曰く、堀北さんは責任感が強いから。
曰く、いまのクラスメイトの中でリーダーを務められるとしたら、堀北さんしかいないから。
彼女の説明にDクラスの生徒たちは納得の色を見せ始める。
実際、私以外にリーダーを務められる人物が他に考えられないのも事実だ。私とこの人たちでは能力的に比べるまでもない差があるし、平田くんがいた頃に参謀をして間接的にクラスを導いた経験も大きい。
男子にはこれといった人物もいないし、女子のリーダー的な存在に返り咲いた篠原さんでは特別試験を戦えるほどの実力はない。
必然的に私がこのクラスのリーダーを務めることになる。
櫛田さん、あなたの狙いは読めているわ。
なら、私はリーダーとして特別試験で結果を残して、不要な生徒は切り捨てながらAクラスを目指すまでよ。
櫛田さん、あなたもね。
******************
結局、私は何もできなかった。
坂柳さんにも龍園くんにも片手間とばかりに潰されて、それがとても悔しかった。
リーダーとして全く成果を出せない私への不満はあっという間に高まり、私は再び虐めの標的にされた。けれど、今度はただ大人しく虐められてあげるつもりはなかった。即座に証拠を押さえて学校に抗議して篠原さんたちを退学に追い込むことにまで成功した。
でも、どうしてかしら?
誰も私についてこなくなってしまった。
もともと頼りにしていなかったとはいえ、Dクラスの生徒は私の指示には従わなくなり、足手まといばかりが増えていく。
そして…………
******************
「堀北、おまえの退学が正式に受諾された」
どうやら私はクラスから不要な存在として追い出されてしまったらしい。
あんな人たちに不要とされてしまうなんて、という思いが捨てきれない。
これで私は一生兄さんの恥として生きることになってしまった。
去ってしまった彼が向けてくれていた期待にも応えることはできない。
────わかっていた。
もうずっと前にAクラスには上がれないって。
────わかっていた。
私にはまだ決定的な何かが足りてないって。
────けれど、わからなかった。
結局私は何も成長できていなかった。
成長できたと思えていたのは全部彼の力があってこそだった。
それが本当に悔しくて、辛くて、認めたくなかった。
ただの意地だけでみっともなく学校に残り続けて、しまいにはあのクラスからも邪魔な存在として追い出されてしまった。
誘導したのは櫛田さんだけれど、みんなも薄々邪魔に思っていないとこの結果にはなりえなかった。
────私の居場所はどこにもない。
もう一生兄さんに顔向けできる気がしない。
きっと家族からも不肖の娘と内心思われてしまうことだろう。
私自身が、誰よりも自分に失望しているのだから間違いない。
────こんな私でも、あなたは認めてくれるかしら
つくづくみっともない願望が脳裏を過ぎる。
誰からも不要に思われていた時、唯一私の存在を認めてくれた彼。誰からも邪魔に思われていた時、唯一私に期待していると言ってくれた彼。
そんな彼なら、自分ですら見いだせなくなってしまった私の価値を見つけてくれるのではないかとほのかに願わずにはいられない。
彼が私を必要としてくれたのはこの学校という特殊な環境だからなのかもしれない。
この学校の外で出会ったところで、彼が私を必要としてくれるかはわからない。
けれど…………
縋るように望まずにはいられない。
外でも彼が私を認めてくれる存在でいてくれることを。
だって…………
────私の居場所はそこにしかないのだから
私は外での彼との再会に縋って生きていく。
自信を失いほんのわずかな希望にみっともなく縋りつきただ生きるのみの抜け殻として。
******************
「坂柳さん、協力してくれてありがとう」
「いえいえ。この程度お安い御用です」
人気の少ない特別棟。
そこには2人の少女がいた。
1人は坂柳有栖。病弱な体で杖を突きながらも堂々とした立ち振る舞いは崩さない。
もう1人は櫛田桔梗。明るく誰に対しても親切に振る舞う人気者の美少女だ。
「坂柳さんのおかげで、平田も堀北も追い出すことができたよ」
だというのに、彼女の浮かべる笑みは暗くて狂気的な歓喜に満ちていた。
「これも坂柳さんが誰よりも私を特別に優先してくれるって言ってくれたおかげかな。
私も、坂柳さんなら信じられるから」
櫛田桔梗は坂柳有栖と共謀を重ねるうちに、彼女にほんのわずかに心を許し始めていた。
それは、わずかに見せる自分の裏の顔の肯定。あるいは、誰よりも優先してくれるという自身の抱える巨大な承認欲求を満たしてくれる存在だからか。
真相は櫛田自身にしか断言できない。
「ふふ。もう気は晴れましたか?」
「うん、これで私の過去を知る奴はこの学校にはいなくなったしね。
0ポイントは辛いし、他にも問題はあるけれど、ようやく再スタートすることができる」
「ふふふ。それはどうでしょうか?」
その返答に怪訝な表情を浮かべる櫛田桔梗に坂柳有栖は携帯端末を見せる。
それに表示された内容は…………
「な!?」
櫛田は絶句する。
それは、学内ネットに投稿された彼女の裏の顔。それと過去に起こした事件の暴露だった。彼女の裏の顔の証拠には心当たりがある。それは、幾度となく重ねた目の前の少女との交流の時のもの。
「おまえ!!!」
坂柳につかみかかろうとする櫛田は瞬時に何者かに取り押さえられる。
「ふふふ。いい働きぶりですよ橋本くん」
そう言ってクラスメイトを労う坂柳。
その様はまるで部下と上司。対等には程遠い。
「生で見ると迫力あるな。
まさかここまで黒いとはびっくりだ。
表のキャラが優しいぶん、姫さんよりもおっかねぇ」
橋本は感慨深げにそうこぼす。
「神室さん、動画はちゃんと撮れましたか?」
「ん…………」
現場に現れ短く返す神室真澄。
「彼が去ってしまった原因の多くはあなたにあるように思えますからね。私の憂さ晴らしに付き合っていただきましょう。
退学することは許しません。
あなたには生き地獄を味わっていただきましょう」
坂柳は言葉の反面、どこか寂し気な笑みを浮かべる。
それは、いなくなってしまった彼を思い浮かべてのこと。
坂柳有栖は櫛田桔梗を破壊する機会をうかがっていた。
櫛田桔梗に好意的に近づき、コールドリーディングで彼女の心を徐々にほどき、彼女の承認欲求を満たしうる存在となるまでに至った。彼女が望む平田、堀北の退学も自分から告げることで彼女の共感を引き出し、協力関係を結ぶに至った。そのうえで彼女に派手に行動させ、疑念を生み出し、周囲に確信を持たせる引き金を引く。少なからず信頼を寄せていた相手として。これからは彼女に誰からも認められることのない存在だと知覚させていくつもりだ。
坂柳は行動の真意は明かさない。
ただ、この学校を去った彼が大きく関わっていることは間違いない。彼がいなくなったことへの憂さ晴らしか。彼がいなくなる要因への復讐か。彼に温もりを教えられなかったことへの八つ当たりか。
なんにしても、この行動で坂柳の失望を拭うことはできないだろう。
彼が去った時点で、坂柳の退屈は変わらない。
二度と再会も叶わない。
温もりを教える機会は、もう二度と訪れてきてくれることはないだろう。
そんな諦念を覚えずにはいられない。
「綾小路くん…………」
そのつぶやきに、この学校を去ることを望んでしまったかなしい思い人への感情がこもる。
────いま、あなたは何を思って過ごしているのでしょう
その疑問の答えを知る術も、機会も、この先訪れることはないだろう。
******************
「綾小路、平田、佐倉、篠原たちに、堀北まで退学したか」
目から光を失った茶柱紗枝は独りでにつぶやく。
粒ぞろいではあった。
始まる前は、もしかしたらと期待した。
だが、結果は最悪のものとなった。
「私は神に嫌われているらしい」
自嘲する。
ここまでつきに見放されてなお、あきらめきれない自分に嫌悪する。
「綾小路、もしも、おまえが…………」
その先の言葉を茶柱紗枝は飲み込んだ。
それを口にしてしまえば、どうしようもない願望を望まずにはいられなくなるから。それでも乾いた口から洩れそうになる。
「もしも…………」
自分の醜さを自覚しながらも、茶柱紗枝は縋りつきたくなる願望を吐き出すのを必死に抑えるのに精いっぱいだった。
******************
「おまえが変わらない限り、おまえのくだらない望みだったものが叶うことはない。
だが、おまえが変わることなどありえない。
おまえの望んだものが叶う日は永遠にこない」
結局はあの男の言う通りなのだろう。
平穏を望む一方で、勝利への欲求を抑えられない。
人の温もりや感情を知りたくても、それ以上に自分は心がないことを思い知らされる。
短い学校生活で、平穏とも呼べる時間を全く過ごせなかったわけじゃない。
坂柳とのチェスの時間、堀北との昼食。
辞書に明確に乗っているわけではないが、客観的に見て平穏と呼べる時間はあったように思える。
だが、オレの心は動かなかった。
何も感じることはなかった。
あの場所から抜け出して、自由を得ても何も変わることはなかった。
オレは、どんな場所に居ようが変わらない。変われない。
オレが変わらない限り、平穏と呼べる時を過ごそうが平穏を感じることなどできはしない。
────────―平穏な日々は遥か遠く
オレがそれを知ることができる日はきっと永遠にないのだろう。
なぜなら、オレとそれはあまりにも遠く離れているのだから。
船上試験の更新に時間がかかりそうなのでとりあえず現時点からありえる結末を書いてみました。
このルートは大体最悪から2,3番目くらいの結末を想定しています。
8割くらいでこのルートになりそうです。
残り2割はこれよりひどいのもあるあたり、ハッピーエンドには綱渡りです。