平穏な日々は遥か遠く   作:石門 希望

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第12話 さりとて安息に潜む分岐点Ⅱ

 夏休み期間中のある日。

 私、堀北鈴音は水筒を洗いながら夏休み前半にあったバカンスと称した特別試験実施期間を終えて船を降りた翌日のことを思い出していた。

 

「先生、話とは何でしょうか?」

 

 その日、何故か茶柱先生から呼び出されて休み期間に入ったというのに制服で学校に登校することになった。そして指定された時間通り来てみれば、その場に呼び出されていたのは私だけじゃなくて、平田くんも先についていて先生を待っている様子だった。

 だとするならば、彼も呼ばれているのかしら? 

 そんなことを考えが過ることがありつつも、私と平田くんが呼び出された理由について考えながら先生を待つ。

 しばらくすると茶柱先生が「おまえたち。よく来たな」という言葉とともに現れたので、私が疑問を投げつけたのが先のセリフだ。

 

「……学校にはもう慣れたか?」

「……一応。5月までに比べれば……」

「……そうか。平田、おまえはどうだ?」

「そう、ですね。あの頃からは、少しずつ慣れてきたかもしれません」

「そうか……」

 

 私たちの様子を知るためにわざわざ呼び出したのだろうか? 

 確かに客観的に見て私と平田くんの2人は心配される要素が多い。わざわざ呼び出してでも調子をうかがうのは教師という立場を考えれば当然のように思える。入学直後は生徒に興味がない様子だったし、男子生徒3人の退学を告げるときも淡々としていたから全く情がないのかもと思っていたけれど、そういうわけでもないのかしら。

 ただ、どうにもこれが本題というようには思えない。

 これは本題に切り出す前の世間話のようなもの。そんな様子に見て取れる。

 そして、意を決して口を開く様子を見るにその予感は間違っていなかったのだと悟る。

 

「おまえたちは綾小路清隆をどう見る?」

 

 切り出されたまさかの話題に内心少し動揺する。その動揺を決して表に出さないように、努めて冷静に返答を返す。

 

「それは……どういう意味でしょうか?」

「率直な感想で構わない。おまえたちの意見を聞かせてくれ」

 

 彼は……私にとって恩人で……期待を寄せてくれている人。寄せてくれている期待に応えたい相手。

 ……そんな恥ずかしいことを言う気にはなれなかった。

 私が返答に迷っていると、平田くんが先に質問に答えていた。

 

「僕は……正直彼のことが怖いです。

 僕が知る以上の底知れない闇を彼は知っている。そんな彼が僕はとても恐ろしい。

 同時に頼もしいとも思っています。

 本当は彼にクラスを率いてほしいと思っていますし、そのことに不満も覚えています。でもそれ以上にいまの僕を支えてくれて、贖罪の道のりで手を引いて歩いてくれることに安心感も覚えています」

「……そうか。堀北、おまえはどうだ?」

 

 話を向けられてどう答えるべきか詰まってしまう。

 平田くんがここまで彼についての本心をこの場で打ち明けるのは予想外だった。茶柱先生に打ち明けたこともそうだし、私がこの場にいる状況で語るのも予想外だった。

 だから私も正直な本心を打ち明けるべきかと悩むけれど、別にこの場の流れに流される必要もないとも思う。

 結局私は本心を覆って、客観的な評価を答えることにする。

 

「彼は優秀です。

 崩壊していたDクラスをクラスとして最低限機能する程にまで立て直した手腕と言い、無人島での特別試験での作戦といい、貢献は計り知れません。勉強、運動においても好成績を残しています」

 

 ……もし彼がこのクラスに編入してくれていなかったら、今頃は……

 

「そうだな。奴は優秀だ。

 能力だけを見ればAクラス、否、この学校においても最上位になるだろう。

 だが、私はDクラスで一番の不良品は綾小路だと思っている」

 

 彼が不良品……? 

 

「編入が認められたのにも関わらず、Dクラスに配属されたのには理由があるということだ」

 

 確かにずっと気になっていた。

 編入が認められるほど優秀な彼が、どうして不良品の集まりとされるDクラスに配属されたのか。

 私は自分が不完全であることを彼に諭されるまで認められなかった。自覚もなくて、あのクラスに入れられたことを不満に思うばかりだった。それも私があのクラスに配属された理由の1つだといまはわかる。

 けれど彼は? 

 以前、彼とかわした会話を思い出す。

 

『…………あなたには…………私の問題が見えているの?』

『まぁな。だが教えてやるつもりはない。自分で見つけることに意味がある』

『随分と上から目線ね。

 それを言うなら、あなたにはあなた自身の問題がわかっているの?』

『ああ。オレはオレ自身の欠陥を誰よりも理解しているつもりだ』

 

 私と違って彼は自覚がある様子だった。自分の問題点を理解し認め、Dクラスに所属させられたことを受け入れている様子だった。

 でも、だとしたら余計にわからなくなる。

 彼は優秀だ。能力においては問題ないと先生にまで言われている。そうなると私と同じでそれ以外に問題があると考えるべきなのだけれど、その問題がわからない。それに、優秀な彼が自覚もあるというのにその問題を解決しないというのもわからない。優秀だからこそ、彼の問題点が見えてこない。

 

「奴は編入初日、私にこんな質問をしてきた。クラスを移籍するには何ポイント必要だ? と」

 

 茶柱先生から予想もしていなかったことを言われて瞬間、頭が真っ白になる。

 彼が……クラスを……移籍? 

 

「奴に伝えられている情報はおまえたちと変わらない。プライベートポイントの用途も使用法もな。

 にもかかわらず、奴はこの学校に来た初日にしておまえたちの誰も思いつきもしなかったプライベートポイントの使い方を編み出した」

 

 ……自分が本当に情けなくなる。

 彼よりも長くこの学校で過ごしているというのに、私はプライベートポイントに日常の買い物以上の価値を見いだせていなかった。もし、プライベートポイントにそんな使用法が認められるなら他にも様々な権利を購入できる可能性が高い。

 隣で話を聞いていた平田くんの動揺も激しい。彼のことだ。きっと退学してしまった3人をどうにかできていたのではないかと、今更どうしようもない事に思い至ってしまったのだろう。

 

「奴はおまえたちのクラスに必要不可欠な存在だ。

 いまのうちに綾小路清隆という男を把握しておけ。さもないと手遅れになるぞ」

 

 この言葉は、私の心の奥深くに沈み込んだ。

 

 私は彼に────見捨てられたくない。

 

 

 ******************

 

 

「え?」

 

 そんな記憶が頭に浮かんでいたからだろうか。

 いま私は、予想外の事態に見舞われていた。

 

「…………抜けない」

 

 自分の身に起こっている異常に信じられない思いで呆然とつぶやく。

 …………洗っていた水筒が腕に嵌って抜けない。

 でも、水で流せばすぐ済むことだ。そう思いなおし蛇口を捻る。

 けれど──―

 

「水が出ない……」

 

 蛇口を捻っても水が出なかった。

 しばらく悪戦苦闘していると携帯に通知が来る。届いたメールを確認すると、よりにもよってこのタイミングで水道局のトラブルのせいで寮全体の水が出なくなっているとのことらしい。復旧作業にはしばらく時間がかかるらしく、長引けば早朝までかかるとのことだ。

 

 …………最悪ね。

 

 1人で水を得るにはどんな形であれ一度外に出る必要がある。水を求めている人も多いことだから必然、こんな姿を衆目にさらすことになってしまう。

 それはいくら何でも私のプライドが許しそうになかった。

 

 ……どうすればいいのかしら? 

 

 1人で何とかできない以上、必然的に誰かに頼る必要がある。

 でも誰に……? 

 誰かに頼るとなると真っ先に浮かんだのは彼の──綾小路清隆の顔だった。というより、自分には他に頼れる相手がいない。

 けど────

 

「……こんな情けない姿を見せるのかしら」

 

 期待に応えたい相手に、こんな情けない姿をさらすことに抵抗を覚える。けれど……他に方法も思い浮かばない。1人で何とかできないかと試しているものの、一向に成果が出そうにない。

 苦渋の果てに耐えかねて、嫌な気持ちを押し殺しながら慣れない左手で携帯をもつ。

 そして──―送信する。

 

 1コール、2コール…………

 

 ……出ないわね。

 たった2コールの時間が果てしなく長く感じられて、押し殺していた抵抗感に押し返されて気づいたらコールを切っていた。何も解決しなかったけれど、すこしほっとしている自分がいる。

 そんなとき、彼から折り返しの電話が来る。

 

 ……やっぱりもう少し独りで…………

 

 そんな誘惑に流されて、結局折り返しの電話に出ることはなかった。

 

 

 ******************

 

 

 時間が経って落ち着くと、やっぱり一人ではどうしようもないことに気付く。

 折角彼から折り返しの電話をしてきてくれたのに、無視をするのは感じが悪かっただろうか。彼からの印象を悪くしてしまったとしたら少し心が痛い。

 ともかく、もう一度頼ることにしよう。そう決意する。

 

 1コール、2コール、3コール、4コール…………

 

 …………出ないわね。

 今度は先ほどよりも長く耐えた。けれど、彼が電話に出ることはない。

 再び誘惑に流されてコールを切ってしまう。そしてまた、折り返しの電話がかかってくるが、どうにも電話に出る勇気が持てない。結局コールには応えられなかった。

 

 どうにもタイミングが悪いわね。

 

 これは一人で解決すべきという天啓かしら。そんな根拠もないらしくない考えすら過る。

 

『2回電話を掛けてきたみたいだが、何か用だったか?』

 

『料理をしててレスポンスは悪いかもしれないが、連絡くれたら対応する』

 

 チャットにそんなメッセージが届く。

 どうやら絶妙にタイミングが噛みあわなかったようだ。

 連絡しようと思うも、もう少しだけ一人でどうにか解決したい欲が出る。それに、2度も折り返しを無視してしまった罪悪感もある。3度目にもう一度同じことを繰り返す気にはなれない。もしもまたタイミングが噛みあわず、折り返しにも反応できなかったらと思うと頼るというのは先延ばしにできないかと思ってしまう。

 結局私は限界まで1人で解決しようと決めた。

 

 

 ******************

 

 

 どうにかできないかと水筒と悪戦苦闘を繰り広げていると、携帯に電話の着信が届く。確認すると着信には綾小路清隆の文字。

 

 …………もう潮時ね

 

 1度目の呼び出しには応えられたかったけれど、2度目の呼び出しには応えることができた。

 

「もしもし……」

 

 自分の出した声に疲れがあることがわかる。

 

「よう、何度も鳴らして悪いな。連絡貰ってたから気になってな。寝てたのか?」

「そういうわけじゃないわ。悪いわね返事してなくて」

 

 いい加減、1人で解決するのはあきらめるべきだろう。

 現在抱えてしまっている問題を打ち明けようと────

 

 カツン

 

「今のは?」

 

 瞬間、沸き上がる羞恥心。彼に相談するということは、この情けない姿を彼に見られてしまうということ。さすがにこんなことで失望されるということはないでしょうけれど、変なイメージを持たれたくないという考えが過ってしまう。

 

「別に何でもないわ。それじゃあ」

 

 半ば無意識にそう言って電話を切ってしまった。

 そのことに少しずつ後悔が募る。

 こうなってしまった以上、一人でどうにかするしかない。

 私は再び右腕の水筒と向き合った。

 

 

 ******************

 

 

 結局、かれこれ2時間以上。午後9時を回っても右手を咥えた水筒は離れてくれることはなかった。

 もうどうにもならないことがわかった以上、チャットで連絡を取ることにする。

 

『起きてる?』

『起きてる』

『少し話したいのだけれど、今時間はあるかしら?』

『こっちからかけるぞ』

 

 彼からかかる電話に1コールででる。

 

「どうした」

「あなたに、少し聞きたいことがあって……」

 

 素直に抱えている問題を打ち明けようと口を開くけれど、どうにも言葉に詰まる。しばらくそのまま黙り込んでしまう。電話口の向こうで私の出方を窺っているはずの彼。

 あまり待たせるのも悪いと思って、浮かんできた例え話を話すことにする。

 

「例えば一匹の亀がいるとするわ」

「え?」

「その亀は非常に頭が良くて優秀よ。

 でも、アクシデントに見舞われてひっくり返ってしまったとしたら、それはとても大変なことだと思わない? 自力で起き上がれないわ」

「そうだな。

 ただ普通の亀は起き上がれないように思えるものの、首を伸ばして足でバランスを取ることで大抵は元の大勢に戻れるんだけどな。

 ちなみに自力で起き上がれない亀はゾウガメかウミガメだけだ。どちらもひっくり返る状況が生まれにくい生き物だからな」

「…………」

 

 彼の余計な一言に出鼻を挫かれる。

 基本優秀な彼だけれど、日常のコミュニケーションには難があるようね。すべてとは言えないが、これこそが彼が認識していても解決できない問題点の1つなのかもしれない。

 

「余計な一言ね。素直に起き上がれない想定で話を聞いてくれればよかったのに」

「悪かったな」

 

 素直になれないのは自分もだけれど、それを棚に上げて憎まれ口を言ってしまう。

 

「で、その起き上がれない状況がどうかしたのか」

「もしもそんな状況にあなたが遭遇したらどうする? 参考までに聞いてみたくて」

「遭遇したら多分起こしてやるだろうな。それほど手間でもないし」

 

 そうでしょうね、と思う。編入初日で隣席の私を助けてくれたのだから。

 

「それで……何を困っているんだ?」

 

 彼の方から本題に切り込まれる。

 いい加減私も潮時だと観念するべきだろう。

 

「その……少しだけ困ったことになっているわ」

「今どこだ」

「部屋よ」

「まさか黒い虫でも出てきたか?」

「違うわ。それなら自分で対処できるもの」

「対処ってどうやって? 洗剤か? 熱湯か? スリッパか? 

 ってそうじゃないなら何だ?」

 

 観念して伝える。

 

「私が困っている理由は……そうね。今から私の部屋に来てもらえないかしら……」

 

 言っている内容に恥ずかしさと気まずさが込み上げる。

 

「今からって、もう9時を回ってるんだぞ」

「それは分かっているけれど……来てもらうしか解決する方法はないの……っ」

 

 体力的にも限界で、声音に苦痛が混じってしまう。

 

「少し抵抗はあるけどな。この時間に女子が住む上の階に上がるのは」

「わかっているし、申し訳なくも思うけれど、あなたに直接動いてもらわなければ解決は難しいわ」

 

 言うべきことを伝え終えた勢いで彼との通話を切ってしまう。

 後は彼が来てくれることを願うしかない。

 

 

 ****************

 

 

 チャイムが鳴る。その後に彼がドアを開いて部屋に入る気配がする。

 私は扉越しに彼へと声をかける。

 

「1人よね? 中に入ってくれて構わないわ」

「いくら寮の中だからって物騒だな」

「大丈夫よ。もし不審者が入ってきたら、今の私なら右手の破壊力だけで十分だから」

 

 扉が開かれ、いよいよ背中越しに綾小路くんの気配がする。

 

「来たぞ。何に困っているんだ?」

「……見ればわかるわ」

 

 立ち上がって振り返る。

 彼の表情からははっきりと見て取ることはできなかったけれど、困惑しているのはなんとなくわかってしまう。

 

「なるほど……そういうことか」

「そういうこと、よ」

 

 情けなさに彼を直視できずに視線を逸らす。逸らした先は水筒に包まれた右腕だったから余計に情けなくなってしまったけれど……

 

「なんていうか……おまえらしくない惨状だな。まさか遊んでいたのか?」

「バカ言わないで」

「いや、ありえるだろ。とんがりコーンを指に挟んで食べたりする感じだろ?」

 

 ……彼は私をなんだと思っているのかしら? 

 ムッとしたのが伝わって綾小路くんが慌てて否定する。

 

「じょ、冗談だ」

「冗談は言って面白いものでなければ意味がないわ。いまのは面白くない、落第よ」

「それはオレの冗談が面白くないんじゃなくて、おまえをからかったからだろ」

「これは洗っていたからこうなっただけ。だからその……早く抜いてもらえないかしら」

 

 綾小路くんに水筒を引っ張られる。けれど、水筒に引っ張られてついていってしまう。

 

「自分で抜けないってことは結構きっちりハマっているってことだ。少し踏ん張ってくれ」

「結構疲れているから、手短にお願いするわ」

 

 改めて引っ張られる。踏ん張る力を強くするけれど、腕の痛みが増すばかりで抜ける気配がない。

 

「これはダメだな。このままじゃ多分抜けそうにない」

「そう、やっぱり……」

 

 さすがの彼でも無理ならば仕方がない。それに1人だとは言え2時間以上挑戦してもできなかったのだから、薄々無理なのではないかと悟っていた。

 

「石鹸を流し込んでゆっくり抜くしかないな。台所に行くぞ」

「けれど災難は続くものよ。断水してるって連絡があったのを忘れた?」

「ちょっと食堂に行ってくる」

「ええ。お願い」

 

 そして彼は食堂に向かって行ってくれた。

 

 

 ******************

 

 

「で、手土産もなしに帰ってきたのね」

 

 しばらくして戻ってきた彼は、結局何の成果もなしの報告をするだけだった。

 食堂はともかく自販機まで全滅してるだなんてね……

 

「俺の部屋から持ってきてやりたかったんだが、全部使ってたんだよな水」

「じゃあどうするの?」

「おまえさえ良ければ、平田に水を分けてもらえないか聞いてみるが?」

「彼に借りを作るのは気が引けるのだけれど……」

「建前上はオレが必要とすることにするつもりだ。お前に問題はない」

「……あなたには借りを作ってばっかりね」

 

 既に私は彼にいくつもの借りがある。それなのにこんな間抜けなことでまで借りを作ってしまったことが余計に情けない。

 

「じゃあ早速連絡してみる」

 

 綾小路くんが平田くんへと電話を掛ける。けれど、今日はとことん不運が重なるようでどれだけコールしても通話がつながる様子はなさそうだった。チャットの既読にすら反応がないようだ。

 

「気づいてないか、寝てるか、とにかく反応がない」

「そう。喜ぶ気持ちと悲しむ気持ちが混在していて複雑だわ」

「あとは佐倉でもいいか?」

「仕方がないわね」

 

 彼がチャットで佐倉さんに連絡を取る。

 けれど──―

 

「ダメだな。寝てるかはわからないが、気づいてもらえないようだ」

「今日はどこまでもついてないわね……。もう一度チャレンジしてくれないかしら? 今度は私が痛がっても続けてもらってほしいの」

「わかった」

 

 覚悟を決めて右手を差し出す。さすがに本当に辛くなってきたから、一刻も早く抜け出したい。先ほどの倍近い力で引っ張られて水筒との軋轢に腕が痛い。なんとか根をあげずに痛みに耐えるけれど、水筒は吸い付いたように離れてくれなかった。

 

「やはり水は不可欠のようだな」

「……そのようね。その……他に頼れそうな友人はいないのかしら? 他クラスだから嫌だったけれど、この際、坂柳さんでもいいわ」

「そうだな……」

 

 坂柳さんは既読がすぐについてくれたようだ。

 けれど──―

 

『すみません。私もあまり余裕がないので今回はお力になれそうにありません』

 

 との返事をもらったそうだ。確かに坂柳さんの場合、食堂などで水を調達するのは難しいだろう。自分の分は確保できても、人に配るほどの量がないのにも納得がいく。

 

「他にはいないの?」

「後はおまえからすれば複雑かもしれないが篠原に佐藤、松下に森あたりだな。それとこっちはオレの気が進まないんだが井の頭とみーちゃんもいる」

「随分と女の子の連絡先が多いのね。どうして彼女たちの連絡先を知っているの?」

「一応勉強会であいつらの担当だからな。その時に交換した」

 

 ……どうしてこうモヤモヤするのかしら? 

 それはともかくとして、彼女たちからは虐められたことはあるけれど害がなくなった今では恨むようなことはしていない。

 けれど……1つだけ懸念がある。

 

「何か変なものを混ぜられたりしないかしら?」

「しないだろ」

「そう……あなたは知らないものね。一時は本当にひどかったのよ。くだらないいたずらだけれど、水筒に異物を入れられたこともあった」

「マジかよ……」

 

 建前上借りるのが綾小路くんだというのにも懸念があった。なんせ彼も私同様に虐めの被害にあっていた。それに加えて彼の編入後から平田くんが再度の変貌を成しえた事実に、彼が何かしたのかもと根拠はないけれど疑念に思う生徒は多い。実際にそうなわけだけれど、そんな彼に小さなことだとは言えあまり妙な形で彼女たちに借りを作らせたくはなかった。

 

「だとしたら、井の頭さんかみーちゃん? かしらね。ところでみーちゃんって?」

「ああ、王美雨。同じクラスの中国から来た留学生だ。英語が得意な」

「彼女、そんな渾名で呼ばれているのね。でもどうして気が進まないのかしら?」

「……どうにもオレはあの2人からは苦手に思われてしまっているようでな」

「……そうなのね」

 

 だとしたら望み薄かしら。苦手な相手にわざわざ水を恵んでくれるかは怪しい。

 

「一応、聞いてみる」

 

 結局、井の頭さんにも王さんにも連絡がつかなかったらしい。寝ているのか、はたまた別の理由なのかは知らないけれど不運は重なってしまうものね。

 結局のところ、水筒の問題はなにも解決していないわけだけれど。

 

「今すぐ抜きたいんだよな?」

「この格好のまま日付が変わるのを待つつもりにはなれないわ」

「だとすれば、これはもうおまえも相応のリスクを負うしかないな」

「……相応?」

 

 あたまにうかぶ相応のリスクを伴う方法。片隅にはあったけれど、どうしてもその気にはなれなかった手段。

 

「この部屋を出て、水が使えるケヤキモールまで行く。それしかないだろ」

「やっぱりそういうことになるのね……」

「今の時間帯は食事、風呂と色々やることは多いしチャンスだ」

「なんて日なの……」

「パッと済ませるために行くぞ」

「ちょ、ちょっと待って。流石にこのまま外には出られないわ」

「だったら何かで手を隠すか? もう水筒で隠れてるけどな」

「そういう余計なツッコミは不要よ」

「わ、わかった。謝罪するから怒らないでくれ」

 

 慌てた綾小路くんが本題に戻す。

 

「何か布みたいなものはあるか?」

「布……? ハンカチなら」

 

 棚から取り出したハンカチを綾小路くんに渡す。それを水筒の上に被せられるけれど──―

 

「露骨に怪しいわね。というか尺が足りてないもの」

「もっと大きなものは?」

「そうなると、バスタオルくらいになるけれど……」

 

 バスタオルを取り出してもらって被せられてみる。

 

「まぁ、これならなんとか……」

「目立つし、少し不安定で歩いたらバスタオルが落ちるわ」

「空いたほうの手で押さえるほうがいいんじゃないか?」

 

 確かに安定はしたけれど……

 

「この私の状況を第三者が見たら、どんな感想を抱くかしら?」

「そうだな……場合によっちゃ……どうかな。例えばオレの部屋に風呂を借りに行くように見えるかもな」

「………………」

「「………………」」

 

 気まずい沈黙が流れる。

 

「つまらない冗談はいわないでって言ったわよね」

「そ、そうだな。オレが悪かった」

 

 結局バスタオルは却下することにした。その後、鞄でなんて言う馬鹿な代案を彼がしてきたけれど当然それも却下。最終的にはそのままいくことになった。

 

「よし、今のところ人の気配はない。行くぞ」

「ちょ、ちょっと待って。うまく靴が履けないわ」

 

 ややもたついてしまってから彼に続いて廊下に出る。

 

「通学路の途中に蛇口があったよな? あそこまで行けば何とかなるだろ」

 

 エレベーターの前まできて彼がそれに乗ろうとしているので私はそれを制止する。

 

「ダメよ綾小路くん。エレベーターは使えない」

「なに?」

「1階ロビーに監視カメラがあるでしょう? あれで誰が見るかわからないわ」

「なら階段を使うか?」

「こんな無様な姿を見られるくらいなら階段を選ぶわ」

 

 2つある非常階段はどちらも現在地から離れた位置にある。もう一度生徒たちの部屋の前を通る必要があるけれどそれも受け入れる。

 綾小路くんの背中に隠れて歩いて階段へ向かう。

 その途中────

 

「ま、まずいわ。前園さんよ」

 

 Dクラスの前園さん。知ってる顔にこの無様はさらしたくない。

 そう思っていたのだけれど────

 

「ありがとう櫛田さん。この借りは今度返すね」

「ううんいいよ。気にしないで。お休み前園さん」

 

 よりにもよって一番この姿を見せたくない相手が出てきてしまう。幸い、櫛田さんは扉が閉まると私たちに気付くことなくエレベーターに向かった。

 

「危なかったわ……」

「だな」

 

 本当に早く非常階段に出たいものだわ。もし振り返りでもされてたら……。

 

「櫛田さん! 忘れ物忘れ物!」

 

 ……本当になんて日なの。

 

「あれ綾小路くんに堀北さん。こんばんわっ」

「お、おう」

 

 櫛田さんは忘れ物の確認に前園さんのもとへ向かう。結果、前園さんにも私たちが見つかってしまう。

 櫛田さんと前園さんの視線を受けて身動きが取れない。

 

「携帯忘れてたよ」

「あーごめん、ありがと。助かったー」

「行きましょう綾小路くん。ここに長居は無用よ」

 

 忘れ物を取りに向かっている瞬間を好機に水筒を押し付けて彼を促す。もう少しペースを上げてほしいと焦って彼の背中をグイグイと押してしまう。

 やっと非常口にたどり着いて、綾小路くんが扉にてをかけた。けれど──―

 

「開かない」

「冗談でしょう。非常口が開かないなんてことがあるわけないでしょう」

「いや、マジで開かない」

 

 信じられない。いや、信じたくない。

 

「二人ともどこに行くのかな?」

 

 目の前が真っ暗になりそうだった。私たちの様子が気になった櫛田さんが近づいてきてしまった。

 

「あ、いや。ちょっと階段を使って下りようと思ってな」

 

 彼女とのやり取りは全て彼に頼るしかない。正直かなり苦しい言い訳だけど。

 

「確か東口の階段の電気が切れてるとかで、今は使えないんじゃないかな。真っ暗で危ないから。西口の方だったら使えると思うよ?」

「なるほど、そういうことか」

 

 なんとか彼の背中に隠れてやり過ごす。

 

「堀北さんいつもと感じが違うけどどうかしたの?」

「別にどうもしないわ」

 

 やや上ずった声が出てしまう。

 

 立ち止まって! 

 

 そんな心の叫びが通じたのか、櫛田さんはこちらに来る前に立ち止まる。

 

「そっか。何か困ったことがあったら言ってね。さっき前園さんも、断水で水が使えないから困ってたみたいで。私はお水とか余ってるから」

 

 水は欲しい。けれど、それ以上に櫛田さんからそれをもらうことは絶対に許したくない。水筒を綾小路くんの背中に当てて私の意思を汲み取ってもらう。

 

「それじゃ堀北さん、綾小路くん。二人ともお休みなさい」

「おう、お休み」

 

 

 ******************

 

 

 非常階段で13階から1階へと時間をかけて下りてきた。幸い、断水騒ぎによってロビーに人が集まっているなんてことはなくて、生徒の管理人の気配も感じられなかった。

 

「今ならいけるぞ」

「……ええ」

 

 綾小路くんの陰に身をひそめながらついていく。一緒に玄関を出て外へと出る。

 けれど──―

 暗闇がひろがる前方から複数の生徒が雑談しながら近づいてくるのが見える。Dクラスの生徒はいないようだけれど、そんなことは私にとって大差がない。

 綾小路くんが振り返る。それに合わせて私も彼の後ろへ。

 寮に近づく気配は大きくなる。一度諦めて非常階段に戻ることを決意したようで、非常階段の方へと戻って彼はその扉を開く。けれど、こんなところでも不幸は重なるようで真上から声が聞こえてくる。

 

 ……本当になんて日なの

 

 今日何度目ともわからない言葉が浮かんでくる。

 上に上がることさえできないで、私たちは急いでロビーへと引き返すこと余儀なくされる。

 ここでまた意地を張ってしまえば目に見えるのは最悪の結果。絶対に引き際を間違えたくない。だから──―

 

「もうエレベーターしかないわ」

「いいのか、モニターを見られるぞ」

「あなたにカバーしてもらうしかない。カメラの位置はわかっているのだからできるはずよ」

 

 逃げ道がないのだから仕方がない。やるしかないのよ。そう自分に発破をかけて急ぎ止まっていたエレベーターに乗り込む。素早くカメラの位置を確認してくれた綾小路くんが塞がるように立って、その後ろに回って腕を隠す。

 綾小路くんがボタンを押してエレベーターが上昇する。

 

「ひとまずは安心だが……振り出しだな」

「もう諦めるわ。とても外に出られるような状態じゃないし、これ以上あなたに付き合わせるのも悪いもの。断水が治るまで大人しく我慢する」

 

 本当は今すぐ外したいけれど、もうそれ以上に諦めがついた。引き際を誤りたくないし、苦渋ではあったけれどそう結論付けることにする。

 

 もうこれ以上試練は訪れないはず。

 

 そんな安堵を私も綾小路くんも覚えかけたその時、それは前触れもなくやってきた。

 急上昇していたエレベーターの速度が急速に落ちる。いやな予感がする。これは──―

 エレベーターが5階で止まる。5階にいた生徒がボタンを押してしまった。

 

 私のこんな醜態を見られてしまう……。

 

 不安と羞恥と恐怖心、そんな私の内心なんかに構わず扉は開かれてしまう。立っていたのはたった一人の男子生徒。それも、見覚えのある人物だった。

 彼は私たちに気付いているのかいないのか、優雅さを漂わせながら乗り込んでくる。

 こちらに全く視線を向けずにエレベーターの鏡に向かって一直線で近づいてきた。そして鏡を覗き込みながら自分の髪に異常がないかチェックを始める。

 

「「………………」」

 

 その光景に唖然とする。完全に自分の世界に入り浸っている。常に持ち歩いていると思える串を取り出して彼は髪のセットを始めた。

 だからこそ────不意打ちだった。

 

「綾小路ボーイ。最上階を頼むよ」

 

 鏡に映った自分を見つめながら彼……Dクラスの生徒高円寺君はそう言い放つ。綾小路くんは何も言わずに……言えずに大人しく最上階のボタンを押した。再びエレベーターが上昇する。

 高円寺くんは自分の髪のチェックに余念がない様子で、こちらに一瞥もくれないでいる。

 けれど、そんなことはどうでもよかった。彼は言った。「綾小路ボーイ」と。視線を向けてきた気配は一切なかったけれど確かに言ったのだ。ということは現状少なくとも綾小路くんがボタン前にいるということは認識できていて、それだけの空間把握ができているということ。

 すなわち、何も言ってこないだけでいまの私の姿を……。

 

 私の頭は真っ白に染まった。

 

 

 ******************

 

 

 気がついたら私は自分の部屋にいた。あの後自分がどうしたのかははっきりと思い出せない。けれど、結局今も右手に水筒が嵌っているのを見るに何も事態が好転していないことだけは確かだった。

 すると玄関から呼び出しのチャイムが鳴る。

 時計を確認すると、まだあれから大した時間は経っていない。

 いつの間にかしまっていた玄関扉の鍵を開けると、やはりというべきか彼がいた。

 

「あの後佐倉から水を分けてもらえてな。これで水筒をはずせると思ったんだが……」

「そう……」

 

 ありがたい話だけれど、もう遅い。

 断定はできないけれど、高円寺くんにあれを見られてしまった可能性がある以上もう遅いのだ。

 

「まぁ……その……元気出せよ」

「無理よ。あなたは他人事だからそんなことが言えるのよ」

 

 黙り込む彼──綾小路くんは心底困った様子で頬を指で掻いている。

 

「どうすれば立ち直ってくれるんだ?」

「絶対に無理」

 

 自分でもしばらく立ち直れる未来が見えなかった。立ち直れる手段なんて思い浮かばない。こっちが聞きたいくらいだった。

 けれど──―

 なんとなく目の前で困った様子の彼へと目を向ける。

 

「どうした? ちょっと目が怖いんだが」

「ねぇ綾小路くん。そもそも外へ行こうといいだしたのはあなたなわけだから、今回の責任はあなたにあると思わない?」

「……はい」

「だとするなら、私だけが恥をかくなんておかしいと思わないかしら?」

「…………」

 

 こんなことで立ち直れるとは到底思わないけれど、少なくとも憂さ晴らしはできる。自分でもなぜこんなことをしようとしているのかはわからないけれどいまはその衝動に身を任せて頭の中を空っぽにしたい。

 

 

 私は綾小路くんの水筒が手に嵌って抜けない間抜けな写真を手に入れた。

 

 少し落ち着いた今になって思う。

 

 こんなものを手に入れて、私は何がしたかったのかしら……? 

 

 

 

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