沼を越え 谷を超え
山々 森 雲 海を越えて
太陽を横切り 天空を横切り
はたまた星の彼方をも横切り
我が心よ 汝は生き生きと動き回る
勝ち誇った波乗りのように
えもいわれぬ喜びを以て
無限の深淵をはぐくむ汝よ
(シャルル・ボードレール『悪の華』より「飛翔」)
空に憧れたのは、いつからか。多分ずっと幼い頃だろう。澄みきった広大無辺の青を鳥が飛んでいる。悠然と、何に囚われることもなく。あんなふうに自由になりたい…高みに上がったきり、二度と帰って来れなくていい。そう願って小さな手を伸ばす。でも…ああ、やっぱり高すぎる。毎日空を見上げては、届かぬその密かな夢に溜息をついていた。
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──貴様…
璽永地はじっと実弥を見据える。今や実弥の身体は風の噴射点となり、そこから吹き荒ぶ暴風が辺りの石を巻き上げていた。猛威を振るう嵐の唸りが、空をも揺るがすほどの轟音と化している。刀身のない刀を手に立ち上がるその漢は、血の涙を流しながら白刃のように鋭い眼光を放っていた。獰猛な獣の如き荒々しさや、剥き出しの闘志は感じられない。静かな、それでいて迷いのない目をしている。
──何の真似だ。
「俺も執念深いんでね…」
実弥は口元に不敵な笑みを浮かべる。
──笑わせるな。命運尽きたやつが何をほざいている。地に堕ちたならそれらしく地面に這いつくばっていろ。
「ふふ…」
実弥が目を閉じて笑う。やがてゆっくり目を開けると、こう言った。
「四の五の言ってねェで、かかって来いよォ坊主。まだ
生贄が悶え死ぬのを信じてやまなかった璽永地は、その想定外の復活と挑発に怒り狂う。
──おのれ…今すぐこの場で殺してやる!!
鋼の枝を一斉に鋒のように尖らせ、実弥を襲った。枝群は実弥から放出される向かい風に煽られながらもじりじりと迫り、対する実弥は、璽永地を真っ直ぐ睨んだままその場に留まる。まもなく枝群が実弥の眼前まで押し寄せた。
その刹那、向かい風がはたと止む。抵抗を失った枝群は勢い余り互いに激突し、土埃がもくもくと舞い上がった。何も見えなくなる。
──ハッ…
獲物を捕まえたかに思えたが、まるで手応えがない。土埃に視界を阻まれ、必死に実弥を探すがその姿は見当たらない。気配すらも。やつはどこに…焦りと迷いが次第に募る。
!!!
瞬間、土煙の中から白銀の閃光が躍り出て、疾風の如く距離を詰めてくる。狼狽えた璽永地はもう枝を引く余裕すらない…。そのうえ、束の間と言えど土埃の闇に慣れた彼の目は、実弥の強烈な光を間近にして眩んでしまった。
苦し紛れにあらん限りの触手を浴びせるが、実弥は勢い失わぬままそれらを全て躱し、目前まで迫る。そして思い切り地面を蹴った。彼が宙に舞い上がった直後、背後の負圧で巻き上げられた無数の石が、猛風とともに璽永地の幹に激突する。
──ギャアアアッ!
無数の生贄の顔が悲鳴をあげ、転がり落ちていく。璽永地が怯んでいるその隙に、実弥は全身に
「
振り抜いた渾身の一撃は、枝群の覆いを突破。実弥は勢いそのまま外へ出て、空に飛び立つ。璽永地はすぐさま枝群を蛇のようにうねらせ、一際大きな枝の先を自分の頭部に変化させた。そして猛然と実弥を追っていく。鋭い牙の生える口を大きく開け、上を行く実弥を喰らおうとするが到底追いつかない。ならば、と口内から小さな頭部、さらにその口内から一回り小さな頭部が次々飛び出し、実弥を呑み込もうとする。
しかし…
とうとう限界がきてしまう。璽永地の枝はもはやそれ以上伸びることなく、止まってしまった。一方実弥は、白き雲の裾に抱かれ、その渦の中へと吸い込まれていく。
高みへ、さらにその高みへと…
雲の中を飛ぶ。
いや、導かれている、と言った方が良いのか。何かに呼ばれている。そして自分は、迷うことなくそこへ向かっている。
爽やかな冷たい風が顔に当たる。地上のあらゆる汚濁や嘆きから解き放たれ、清浄の大気に身も心も清められていくようだ。人生を超越し、果てしないこの大空、この世ならざる世界を、ただひとり飛翔している。それでいて孤独を感じない。
──あのさァ…
不意に自分の声が雲の中で
──んー?
匡近の声。妙に懐かしい感じがする。おそらくこれは、以前あいつと任務帰りに交わした会話だろう。
──俺、夢見つかったかもしンねェ。
──へぇ、どんな?
──拾ノ型を体得する。
目を丸くする匡近が、瞼に浮かぶ。
──拾ノ型ってお前…あの幻の奥義だぞ!
──そうさ。だからこそお前と完成させるんだァ。
あいつ、まじまじと俺を見てた。
──誰も成し遂げてねェことをやってみてェんだ、俺は。お前とならできる。そう信じてる。
空には大きな鳥が飛んでいた。陽光を浴び、羽をいっぱいに広げて、雲を横切っていく。
──空を飛ぶってのはどんなだろうなァ、匡近。雲の中はどうなってんのか見てみてェ。誰も見たことがねェ景色。
そう言って、また小さい頃からの癖で空に手を伸ばしちまったな。
──…ぶぶッ。
──何がおかしい。
──お前、何かすげー子供っぽい!
──チッ。うるせェなァ。
──いやいや違うんだよ、俺はさ〜。
目元を拭いながら、匡近はこう言ったっけ…。
──すげー嬉しいんだよ。お前がはじめて夢を語ったから。そんな無邪気な顔して、内に秘めたものを語るなんて…今まで見たことなかったからさ!
──フン。何言ってやがる…。
──いいよ。その話、乗った!
──?
──俺たち二人で双翼だもん。きっと出来るさ!
──ああ…。
──抜け駆けすんなよ?
──ったりめーだろォ。なめんじゃねェ。
屈託のない笑い声。こんな何気ない会話、何でもない日常が、俺にとってはかけがえのないものだった。そう…二人で双翼だったんだ、俺たちは。
急に寂しさが込み上げる。隣にあいつがいない。
──匡近…会いてェよ…。
呟いた言葉が、寂しく風の中にかき消えていく。
──…言ったろ?
また匡近の声が響いてハッとする…。
──お前が呼べば、俺は必ず…。
急に風の音が消え、雲の中が静まり返った。少し離れたところでぼんやりと光明が差す。白く輝き、人の形をしていて、自分と並ぶように飛んでいる。はじめそれは、雲に反射した己の姿だと思った。だがその横顔があらわになるや、我が目を疑う。ずっと会いたかった兄弟子が、そこにいたからだ…。
隊服を着ていて、短髪の…
見覚えある左頬の深い傷。
短めの眉毛に、快活そうなよく動く大きな瞳。
誰よりお人好しで優しく、
実の兄のように慕っていたかけがえのない存在。
同じ時を生き、
同じ夢を語り合い、
同じ空を見上げていた、魂の片割れ。もうひとつの翼。
横を行くその姿に釘付けになる。色素が抜けて白んでおり、朧げだが、確かにあいつだ。これは夢なのか。
ふと、向こうがこちらを見る。凛々しい顔つきで、目が合うと微笑んだ。いつも合同任務で鬼を討伐する前そうだった。悲壮感のない、力強い眼差しで「大丈夫だ」と励まし、背中を押してくれる。それにずっと救われていたんだ、俺は。
彼は何事かを語る。声は聞こえないが、何を言わんとしているのか分かる。表情から口の動きまで、あの時と同じだ。討伐前…いつもやっていたあのかけ声と。
──行くぞ、実弥!気を抜くな!
鞘から抜いた日輪刀を高く空に掲げ、声高に叫ぶ。
──今日も俺たちは勝つ!必ず生き延びる!
そして前を向く。その瞳は何をも恐れず、未来だけを見つめ、生き生きと輝いていた。
──まさ…ちか……。
胸いっぱいになりながら呟くが、声にならない。その名を口にするだけで、もう精一杯だった。
やがて前方の雲の切れ目から眩い光が差し込み、傍で飛ぶ我が友は、その光に溶けて見えなくなる。
気がつけば、雲の渦の中心にいた。視界が開け、誰も見たことのない景色が姿を現す。
雲のない空洞部分──いわゆる雲の目だ。
上は緋色の空…その空を囲うように、光り輝く雲が壁状を成し、輪舞が如くゆっくりと渦巻いていた。地上でのあの激しい闘争が、まるで嘘のよう…静けさに満ちている。
穏やかな無風帯のその中心に、いっそう眩いものが見える。白銀に煌めく光源だ。この天空を統べる、全ての力の根源…まるで来るべき人が来るのをずっと待ち続けていたかのように、それは時空一如の諧調に昏々と眠っていた。
吸い寄せられるようにその中へと入る。まどろむ光に包まれながら刀を頭上にかざすと、不思議にもまだ誰も知らない神技の名が、自然と口をついて出た。
風の呼吸 拾ノ型……
もうひとつの片翼、匡近の声が自分の声と重なり、天空一帯に力強く響き渡る。
奥義
目覚めし風神の力。
光源が直視できぬほど強烈に輝き出す。周囲の大気を巻き込んで激しく回転し、爆ぜるような轟音が
我が刀に集まる風の力は、まさしく荒れ狂う自然そのもので、こんなちっぽけな自分ではとても制御できそうにない。いつ木っ端微塵になってもおかしくないだろう。それでも刀を離さないのは、あの少年の悲痛な表情を見てしまったからだ。あの少年は、今まで自分が抱いてきた鬼像とは違う、哀しくも美しい存在に思えた。世に見捨てられ、人生に失望し、自分さえ見失ったその目には、色彩のない景色が映し出されていた…生きる喜びを忘れた、空虚な世界だ。それはあの日、日常を突如失って以来、自分が目にしてきた世界と何ら変わりなかった。あの少年を苦しみから解放するまで、ここで死ぬわけにはいかない。その決意だけが、自分と刀を結びつけていた。
やがて、刀の一点に集中した天空の息吹は鋭い白刃となり、手元で輝く。自らの力が解き放たれるのを今か今かと待つように、その切っ先から凄まじい風圧を発していた。世界をまるごと破壊してしまうかのような威力を予感し、全身がただ震え慄く。だが怯むことなく、本能の命ずるまま刀を大きく振りかぶり、前方に宙返りした。
眩い閃光が環を描いたその瞬間、大きな衝撃が起こり、見たことのない怪鳥が姿を現す。
キィィヤアアアアア
空を覆うほどの大きな翼を広げ、頭をもたげながら、夜闇を切り裂かんばかりの高い声で鳴く。長い角の生えた雀頭に豹文の鹿身、蛇のような尻尾。鋭く射抜くような視線を地上に注ぎ、我が身とともに急降下を始めた。怪鳥は加速するにつれ翼をしまい、恐るべき天槍と化していく。あっという間に雲の中を突き進み、雲の裾まで達した。
その矛先が向かう地上では、大木の鬼が待ち構えている。天からの襲撃を前に、分離していた生贄たちを全て吸収し、樹冠に巨大な人面を据えていた。雲の切れ目にこちらの姿を認めるや、牙を剥き、地鳴りのような叫びを上げ、辺りの岩々を槍状に変えて放ってくる。だが恐れてはならない。逃げてはならない。迫る岩群をものともせず弾き飛ばし、真っ直ぐに降下していく。狙うはただ一点──やつの喉奥。そこに、あの少年がいる。
「チ…キショー…が…」
場面変わって観音堂。紫万と愛生はなおも刀を回し続けていた。けれどもう、もたない。枝に絡まれ、隊服が血に染まり、意識が遠のいていく。
本堂は既に木に覆われてしまった。中がどうなっているかわからないが、悲鳴のような軋み音が聞こえる。押し潰されているのだろう。
「紫万…愛生!」
そう呼び続ける樹の声に、もう力がない。忌子の頸はあと五分の一残っているのに、霊験の光がなくなっている。防壁前の樹の分身はみるみる薄くなり、ひとつ、またひとつと消えていく。観音経の音波も途切れ始め、いつ止むともわからない。
もう、だめだ…
恐怖も痛みも感じなくなった。身体より先に、心のほうがまいっているのだろう。
──俺、今何してるんだったっけ。
紫万の目が虚になる。
──腹減った。こんなことならメシいっぱい食っときゃ良かった。
防壁がどんどん薄くなる。壁の向こうの人影はさらに色濃く、激しく歪んでは変化し続ける顔が見え隠れしていた。血に飢え切った狂える魂が、取り憑かれたように呻き声を上げている。
──ごめん、さーやん。俺もう頑張れない…後は頼んだよ…。
ついに両腕に枝が絡まった。枝は太くなり一気に木に成長し、無慈悲に紫万と愛生を吊し上げていく。
紫万の手から刀が離れた。刀は地面に弾かれ、火花を散らし、宙を舞う。
キー…ン…
金属音が鳴り響き、その余韻がやけに長く続いた。すべての現象が、死を目前にした濃密な時間によって、非常にゆっくり進み始める。
旋風が止み、防壁が消えた。
ついに結界を越える闇の群勢。
待ちに待った晩餐に幼子たちは狂喜し、木に吊し上げられた町人や紫万たちに群がっていく。
光を失い、力尽きる樹。
その樹を忌子が捕える。
勝ち誇った表情を浮かべて罵倒し、自らの片腕を刃物状に変化させていく。そして「死ね!!!」と叫びつつ、その腕を大きく振りかぶる。
樹は抵抗することなく、これから起こることを静かに受け入れている。
──できることはやった…悔いはない。
寂しそうに微笑み、ゆっくり目を閉じていく。
しかし…
自分を刺し殺そうとする忌子の肩越しに、ふと眩しい白光を感じ、閉じていくその瞼が止まった。
樹だけではない。紫万や愛生、町人たちの目にも、自分らの運命が定まるその瞬間が映っていた。
谷の上空に白く燃ゆる雲。それを突き抜けた怪鳥が、天から放たれた矢の如く地上に降りていく。喉元には小さき光の粒──風の申し子、不死川実弥。白銀に光る刀を振りかざしている。
谷には空を仰ぎ、地鳴りの叫びを上げる黒鉄色の人面巨木。すべての希望を断ち、この世を闇に葬り去るため、血の涙を流しながらその漆黒の口を開く。
風に乗る雲の子ら。
巨木の喉奥へと飛び込んでいく。
果てしないその深淵、悲しみのなかへと。
[裏解説]
1.谷の瘴気
璽永地は「瘴気」という抽象的な表現を用いたが、その実態は空気中を漂う微細な胞子である。像や璽永地の幹、枝に胞子嚢が隠されており、攻撃するとこの胞子が拡散される。毒性が強く、体内に入ると、初期症状として目眩、頭痛、息切れを起こし、重症化すると幻覚、精神錯乱に至る。末期は体内の胞子が根を張り巡らし、爆発的に成長することで、宿主の身体を植物化させる。この際宿主は自我を失い、全身に人面が現れる。その後璽永地の幹に吸収され、生ける屍、つまり像と化していく。
2.雲の中を飛び、匡近の幻を見る場面のBGMは、Hans Zimmerの《Angels and Demons Complete Motion Picture Soundtrack》より〈God Save Us〉をイメージ。高音のラが伸びていく先に、合唱がニ長調の音階(レミファ♯ソラシド♯レ)を歌うところで雲の目に出、光源を見つける感じ。奥義の力を得る場面は、同じくHans Zimmerの《Angels and Demons Original Motion Picture Soundtrack》より〈503〉をイメージしている。
3.色彩としての黄金と白銀
黄金は「神秘、魂、生命」、白銀は「純粋、無垢、守護、魔除け」の意味合いで用いている。
金は古より太陽の象徴であり、主に「豊穣、成功、権力」を表すものであった。貴金属を用いた最古のジュエリー文化が誕生するエジプトでは、太陽神ラーは「高き魂」、「永遠なるもの」、「光り輝く者」、「神聖な目」、「力の主人」の別名を持つ一方、「暗闇の主人」、「運命」、「隠れたる者」、「暗い顔」など相反する別名を付与されている。これは、太陽が朝に東から昇り、夕べに西の空へ沈んでいく習性から、一日のうちに死と再生を繰り返す不死の存在であったからである。そのため『死者の書』では、夜明けとともに復活する太陽が如く魂も復活するように、との願いを込めて最初の呪文は太陽賛歌となっている。本作ではこれを意識し、金=人知を超えた霊的な力を持つ者、善にも悪にもなり得る二重性として用いている。
銀(しろがね)は古来より、その白い輝きが月光を思わせることから「純粋、無垢」の象徴であるとされてきた。ゆえに邪気をはらう神聖な光を放つと信じられ、例えば吸血鬼には銀の十字架やナイフ、狼男には銀の弾丸が有効であるとされている。ヨーロッパではカトリックなどの宗教儀式でも用いられてきた。
銀の神性はヨーロッパのみならず、アジア地域でも広く認識されており、例えばミャオ族の銀細工のアクセサリー、中国の乳幼児の足環、鏡、悪魔祓いの鈴など、多くの装身具や生活用具が生み出されている。日本でも黙阿弥作『しらぬひ譚』(1853)に小さな鏡が登場するが、この鏡は、妖魔を退ける護符の役割を果たしている。