恐れ谷に吹く風   作:がじゅ丸     

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あれは希望か、絶望か。
この行く末に待つのは新たな未来か、それとも破滅か。天地の激突に人々は──。


天つ風吹くとき

遠く北方の嵐を聴きつゝ…

弧状光を描く夢魔の(うるは)しきかな

 

現身(うつそみ)を破つて、鷲は内より放たれたり

自らを啄み啖ふ、刹那の血の充実感(みちたらひ)

 

(吉田一穂『鷲』)

 

 

 

 

 その天つ風は、巨木を真っ二つに切り裂いた。

 

 

 その時人々が耳にしていたのは──どこか風が微かに弦を震わせるような、物哀しい音だった。

 

 

 幼子の呻きや忌子の叫びはもう聞こえてなどいなかった。

 

 

 

 カッ──

 

 

 目の奥をつん裂く強烈な閃光が縦に走り、間髪入れず大きな衝撃が起こる。

 

 その刹那、忌子は樹に向かって刃状の腕を突き出し、幼子たちの霊は牙を剥き出しながら紫万や愛生、町人たちに飛びかからんとしていた。その彼らが、勝利を確信し昂然とした表情を浮かべたまま──谷から押し寄せた大風にのまれ、粉々に吹き飛んでいく。紫万たちを捕らえていた木々も一瞬にして枯れ、突き上がるような激震とともに脆く崩れ去った。

 

 人々は容赦なく地面に放り出される。吹きつける猛風に転がされながら、近くの瓦礫に必死にしがみついた。

 

 

 

 

 キィィヤアアアアア

 

 

 

 

 怪鳥の鋭い咆哮が聞こえる。全身に戦慄が走るほどの、力強く、燃え尽きていく叫びだ。人々は恐る恐る顔を出し谷を見る。怪鳥が羽ばたきながらその強靭な脚で璽永地を踏みつけていた。璽永地の樹体組織はもとに戻ろうと暴れるが、裂かれたまま押さえつけられ、身動きができない。喉元には、あの輝く白刃が見え隠れしていた。

 

 

 「愛生!!」

 

 先の衝撃で堀の外に吹き飛ばされ、崖から落ちそうになっている愛生を、紫万が辛うじて片手で支える。だが、刀を回し続けていたその腕に力は残っておらず、愛生を掴んでいる感覚すらない。次第に彼の身体も下へとずり落ちていく。

 

 「紫万くん、だめだ…手を離して…」

 

 愛生は愛生で意識が朦朧とし、上に這い上がる力がない。蚊の鳴くように小さな声だ。枝に絡まれていた顔には、墨を垂らしたような痣がいくつも浮かび上がり、身体全体が鉛色に変わっている。まるで死人のようで、絶望感が募る。

 

 「バカぬかせ!離すもんか!」

 

 思わず語気を強めたつもりが、出たのはただの弱々しく掠れた声。自分の発した言葉がそばから霧散し、猛風の中へ吸い込まれていくようだ。悔しさに涙が滲む。

 

 

 

 そこへ──。

 

 

 

 小さな手という手が紫万の身体を支え、両脇からも伸びて愛生を引き上げる。傍を見れば、砂歌の子供たちがいた。大風が吹き荒れる中、紫万と愛生の窮地に駆けつけてきてくれたのだ。

 

 

 

 「お前ら…」

 

 

 

 紫万は驚き戸惑うが、子供たちの力は存外強く、あっという間に愛生は引き上げられる。紫万は耐え切れずに嗚咽した。

 

 

 

 

 別のところでは、顔を蒼くした町長が何かに怯え後退りしながら、堀の外へ出ていた。一寸先は崖だ。忌子や幼子の霊は既に消えたというのに、彼の目には明らかにまだ何かが映っていた。町人たちは必死で引き戻そうとするが、町長はますます混乱し、意味のわからぬことを喚き続ける。もはや町人たちのことを正しく(・・・)認識できていないようだ。

 

 「よ、よせ…来るな!」

 

 「お願いです!戻ってください」

 

 「あれは…違う!違うんだ!断じて俺じゃあない!!みんなの意思だった!俺は命令されてやったんだ!!」

 

 「そっちに行っ…」

 

 

 あっという間だった。猛風が吹き荒ぶ中、いまだ亡霊に取り憑かれたひとりの男が、人々に背を向け走り、崖から飛び降りる。町人たちはその場に凍りつき、誰もいなくなった崖を見つめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……」

 

 崩れた本堂の暗闇のなか、今度は樹の目がうっすらと開く。頭が重い…自分の手が視界に入り、そのどす黒さに驚いた。外では猛風が唸りをあげ、隙間から白い光が差し込んでいる。顔を上げれば十一面観音像が、慈悲深い眼差しで自分を見下ろしていた。

 

 

 そうか。いつの間にやら愓恵の憑依は終わり、自分の霊体は元の「鞘」に戻ったのだ。

 

 

 でも、もうこの身では…そんなにもたないだろう。

 

 ここもいつ潰れるかわからない。「せめてこの闘いの行く末を見届けたい」と、最後の力を振り絞り、身体を起こそうとするが…自分が柱の下敷きになっていることに気がつく。多分、片足は折れているだろう。差し込む微かな光は見えているのに、もう自力で這い出すことができない。

 

 「樹さん!」

 

 聞き覚えのある声がした。外でちらついている人影が、懸命に瓦礫を退かしている。やがて眩い光が目に入ったかと思うと、二人の子供たちが駆けてきた。真司と南琵だ。

 

 「お前たち、何してる…」

 

 「ここを出ましょう!」

 

 二人は、樹にのしかかる柱に手をかけた。

 

 「駄目だ…もうすぐ崩れる。早く逃げろ!」

 

 「嫌だ!」

 

 真司は泣いていた。

 

 「命をかけて守ってくれた人を、誰が見捨てるか!」

 

 そう言うと、南琵と声を合わせて力一杯柱を持ち上げる。

 

 「南琵…俺が支えてるから…早く、樹さんをっ…」

 

 真司が柱を持ち上げている間に、南琵がどうにか樹を引きずり出す。

 

 樹は子供たちに両脇を支えられ、痛む脚を引き摺りながら歩き始めた。

 

 

 差し込む光の方へ──

 

 

 

 ようやく隙間に近づき、外に這い出る。途端に強烈な光が目に入り、吹きつける向かい風が顔に当たった。だが樹は、それをものともせず──長い髪を風に靡かせながら、静かに谷を見つめる。

 

 

 

 

 怪鳥が、畝り暴れる巨木をその大きな翼で覆っていた。巨木の鬼は枝を振り回し必死に抵抗するが、力の差は歴然だった…枝や幹もろとも容赦なくバラバラに解体され、鬼の呻きが、次第に断末魔へと変わっていく。

 

 

 

 ──夜奏。

 

 

 

 

 

 そう心で呟いた時──さらなる異変が起きた。

 

 

 

 

 天地が返るような激震が走り、地底が唸り始める。

 

 

 

 

 傍で悲鳴を上げた町人が指差す方向を見て、この後起こる事態を理解した。

 

 

 

 

 槍嶽山から大きな煙柱が昇っていた。

 

 

 

 「山体が!崩壊するぞ!」

 

 

 誰かが叫ぶや、地鳴りとともに聳え立つ山が崩れ始めた。大地の震える怒りに、山頂付近の高さ三丈、長さ一三間もあろう岩塊がいくつも山腹に落下し、岩なだれを生じた。中腹では、山麓を構成していた土砂が地下水を取り込み、土石流と化していく。それらは、まるで黒鬼や青龍が暴れ回るが如く、木々を押し倒し、震動雷電しながら、その先にある砂歌町目がけて一気に流れ下る。

 

 

 

 

 あの槍嶽山が崩壊なんて、誰が想像できただろう。

 

 

 

 町が飲み込まれ、埋没していく。人々がそこに築いてきた暮らしも文化も、一瞬にして水屑(みくず)となった。全てが過去に葬られる。辺り一帯が泥曼々とし、樹木の影さえなくなっていく。

 

 

 

 行き場を失い、溢れかえったなだれが、さらに観音堂へと続く坂道を駆け上ってきた。あっという間に二百段の階段手前まで達し、じわじわと迫ってくる。

 

 

 「もう終いだ…何もかも…」

 

 

 

 自然の猛威を前になす術はなく、町人はその場に座り込む。

 

 

 その様子を、紫万はじっと見守っていた。もう彼らを守る力は残っていない…。

 

 

 

 「拾ノ型…奥義」

 

 ふと背後で呟く声がし、びっくりして振り返ると、さっきまでぐったりしていた愛生が瓦礫から身を乗り出し、谷を見ている。

 

 「愛生…お前」

 

 大丈夫なのかよ、と言いかけたところで愛生が遮る。

 

 「さーやんが危ない」

 

 「へ?」

 

 愛生は苦しそうに息をしながら答えた。

 

 「あれは…最初で最後の一手。敵を巻き込んで…自滅するつもりだ」

 

 「そんな…」

 

 

 ──さーやん。

 

 

 紫万は谷を見つめる。風はますます激しく吹きつけ、巨木を抑え込んだ怪鳥は、あの白刃のごとく──その身体全体から強烈な白銀の光を放ち、空に向かって吠えていた。

 

 

 

 巨大な翼が閉ざしたその空間の中、大気組成に変化が起こる。辺りは二酸化炭素に満ち、一気に80気圧まで高まり、気温は35℃まで急上昇。大気は気体の拡散性を保ったまま、液体の溶解性を帯びた。いよいよ璽永地の樹体が、生贄の顔もろとも粉々になり、溶けて消えていく。

 

 

 

 混沌から生まれた私怨は、

 

 再び混沌へ──

 

 そして無へと昇華していく。

 

 

 もう、何を感じることもない。

 

 

 

 

 いつしか実弥は、木の根が絡み合う巨塊に刃を突き立てていた。巨塊は真っ黒で、ヒトの拳のような形をしている。その固く握りしめられた中に、自分の探し求めるものがあるのだと、彼は確信していた。やがて刃の切っ先が、巨塊に亀裂を生じさせた。

 

 

 巨塊が拳を広げるようにゆっくりと開き、中から小さな人影が現れる。

 

 

 

 

 ずっと会いたかった、あの少年だった。

 

 

 

 

 身体のそちこちから生やした根に、自ら養分を吸い尽くされ、干からびている。首元や胴体には、根と一体化した他の幼児たちが少年を守るように覆い、皆半目を開けたまま動かない。少年はそんな彼らを、枝となった手で抱きしめているように思えた。

 

 

 その様は、磔を思わせる。気の遠くなるほどの長い年月を、ずっとこうして囚われてきたのだ。

 

 

 黒鉄色で痩せ細り、俯いた顔からは微塵の生気も感じられない。耐え難い苦痛に噛み締めていたであろう唇からは、赤黒い血が滲んでいる。口は半開きのままで、最後に何か言いたげだが、声が出ることも、唇が動くこともなかった。

 

 淡いまつ毛が濃い影を落とすその双眸は、伏し目がちに(くう)を見つめている。白濁した右目はほぼ閉じかけ、橄欖石色の左目は僅かにくすんだ金の光を放っていた。うっすらと開かれた瞳に映るものはない。その内奥にはただ、途方もなく大きな沈黙と、無言の空間が広がっていた。

 

 

 もう生きているのかも、死んでいるのかも分からなかった。

 

 

 憎しみや敵意は感じられず、そこにあるのは、ただ恐ろしいまでの虚無だけだ。何の感情もなく、空っぽだからこそ、押し寄せてくる言い知れぬ虚しさ。過去に何があったのかは知らないが、まざまざと現実を見せつけられている。

 彼の痛みが、染み入るように伝わってくる……かつて自分が感じていたのと、どこか似ている痛みだった。

 

 

 

 永年、谷の奥底に囚われ、

 光を見ることのなかった少年が、

 白く輝く大気に包まれ、消えていく。

 

 彼を閉ざしていたその根も、

 彼自身も、幼子たちも、

 砕けて溶けていく。

 

 ──こうして、全てが終わっていくのだ。

 

 それは自分とて同じだろう。

 実弥は少年をじっと見守りながら、己の行く先もまた「無」であることを受け入れていた。

 

 何ひとつ未練は感じていなかった。

 

 

 

 

 徐々に視界が白み、意識が薄れていく。

 

 

 

 ただ、どこからか…

 

 

 

 澄んだ鈴の音だけが聞こえていた。

 

 

 

 

            チリー…ン

                …ン

                  …           …  

チリー…ン

    …ン

     …

            

…              チリー…ン

                   …ン

                    …

    チリー…ン

        …ン      …

         …

   

                チリー…ン

  …                 …ン

                  …

 

 

 

 

 

 木霊のように反響し、重なり合い、実弥と少年の周りを移ろっていく。その音は心が洗われるようで、物哀しく…いつまでも止むことがなかった。

 

 

 

 

 二つの魂が共鳴し、重なる。「個」の境がなくなり、実弥は自分という存在が透明になっていくのを感じた。

 

 

 ──俺はもう死んだのか?

 

 

 そう問うが、答える者はいない。代わりに誰かの意思や感覚と通じていく。

 

 

 不思議な、夢見心地の気分だった。未だ響き来る鈴の音の中、その一刹那において、全てが深い調和にあった。

 

 

 ふと、遥か遠くから、微かに誰かの泣く声が聞こえてくる。

 

 

 「寒い…寒いよ…」

 

 

 

 

 

 長い眠りから覚めるように、白んでいた視界が徐々に形あるものを映し出していく。

 

 

 知られざる少年の過去…露深の忌まわしき記憶の扉が開かれようとしていた。




[裏解説]
1. 忌子(霊体)の側面顔
阿修羅やヤヌース神の「時の三重の顔」(過去、現在、未来)がモデル。

2. 千泉観音堂
天明三年の浅間山大噴火を経験した、鎌原観音堂がモデル。

3. 飛廉の翼内の大気
超臨界流体を想定。

4. 巨塊の中の少年と鈴の音
実弥が少年に対面し、少年の過去へと旅立つ際に聞く鈴は、アルヴォ・ペルトの《アリーナのために(Für Alina)》をイメージしている。
この作品は、ストイックなまでに最小限に抑えた和声と音量で奏られる。シンプルな音律を繰り返す「ティンティナブリ様式(鈴声の様式)」により、単純な和音が一つの鐘のように響いていく。鈴(鐘)の音の放散性を意識した、その禁欲的で霊的な音楽は、西洋現代音楽に大きな影響を与えた。
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