恐れ谷に吹く風   作:がじゅ丸     

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誰もが口を閉ざしていた少年夜奏の過去──彼はいかなる人物だったのか。


※今回は夜奏の人となりを描くため、バックグラウンドと鬼化する前のエピソードをいくつか書きました。だいぶ長いです。(汗)


夜奏でる少年

お前は遠いところからやってきて、

遠いところへと去っていく

ちがう雲、ちがう星を知っている

いつも先へ行くけれど、ここにとどまっている

 

(アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー《夢見るゲールゲ》)

 

 

 

 

 

 遠神からの秘歌

 

 霧の中からうっすらと立ち現れたのは、人里離れた奥深い山。その麓で、ひとりの若い身重の女が木の幹に腰かけている。うねる豊かな深緑の髪に、透き通るような色白の肌。長い睫毛に縁取られた橄欖石色の瞳は、憂を帯び、光を撹乱させるように輝いていた。見すぼらしい格好をしているが、どこか儚げで幽玄ですらある。

 

 

 そこへ、男たちが道に迷ったふりをしながら近づいていく。

 

 

 

 聞けば女は名を多耶(たや)と言った。山で暮らしていて、お腹の子のため、時々陽の光を浴びに外に出るのだという。

 だが、この鳧麗(ふり)山といえば、九々頭(くくず)という人でも妖怪でもない神秘の精が棲む、誰も恐れて近寄らぬ場所…言い伝えによると九々頭は、それぞれに自我を宿す無数の頭を持っていた。自在にその頭を切り離すこともあれば、それを再び自分に取り込むこともできる。切り離された頭はひとりでに動き、様々なものに化けては人を惑わすとされていた。

 

 

 九々頭の姿を目にした者は、必ず死ぬ。

 

 

 そんな恐ろしいものが棲まう山に、何故女が一人。

 

 

 

 お腹の子の父親はどうした、一人で山に暮らしているのかと尋ねても、答えようとしない。

 

 

 

 男たちは訝しんだ。どう見ても普通ではないこの女…もしかしたら異国の者か。いや、そもそも人ですらないのかも知れない。

 

 

 だが、そのうちそんなことはどうでもよくなる。この女の美しさに惚れ込んだのだ。

 

 

 ──これなら高い値で売れるに違いない。

 

 

 彼らはいわゆる人商で、追っとい嫁じょに加担し稼いでいる者たちだった。方々で誘拐婚の候補者を攫っては、需要ある地に連れて行き、売り捌く。この女も今は身重だが、子供を産んでしまえば良い商品であることに変わりない──そう見込んだのだった。

 

 具合が悪そうに俯いている彼女を無理やり連れ去っていく。向かった先は、とある北の山間の集落──すぐ近くには澄みきった碧の湖が広がり、そこから流れる清流がまた美しく、自然豊かなところだった。

 

 

 

 その集落を、人は露深と呼んでいた。

 

 

 

 

 当時露深はまだ人口が少なく、特に女の数が足りていなかった。生まれる子はなぜか男児ばかりで、集落の発展と存続のために、度々誘拐婚がなされていたのである。

 

 

 村長の淀見那は、多耶を見るなり目の色を変えた。迷わず自分の手元に置くことにし、彼女を座敷牢に閉じ込める。多耶は「帰りたい、帰してくれ」と懇願したが、一歩も外へ出してもらえなかった。彼女は商品に過ぎず、物同然だった。人として扱われることすらなかったのである。

 

 

 

 やがて秋が深まり、色づいた葉がひらひらと舞い散る頃、多耶はひとりの男児を産んだ。その男児はすぐに取り上げられ、ある男のもとに預けられることになる。

 

 

 我が愛する息子と引き離される際、多耶は泣きながら告げた。

 

 

 ──わたしの手で育てられないというなら、どうか大切に育ててください。その子は夜になると美しい歌を歌います。名は夜奏(よかな)といいます。

 

 

 そう言って彼女が差し出したのは、古く錆びついた小さな鈴。「自分がそばにいられない代わりに、息子に与えてくれ」という。その鈴は、見てくれからは想像もつかぬほど澄んだ音を響かせた。一度鳴らせば辺りに余韻が漂い、空気が浄化されていくようだった。

 

 

 

 多耶はその後、座敷牢に監禁されたまま、淀見那をはじめとする村中の男の慰み者にされていく。毎日のように相手をさせられ、傷つき、身も心も蝕まれた。耐え難い苦痛に次第に夢と現実の区別がつかなくなり、意味不明なことを口にするようになる。彼女の精神は崩壊しつつあった。

 

 

 だが、それでも──産んだわが子を忘れることは決してなく、「会いたい、会いたい」と言っては泣いていた。

 

 

 多耶が村の者の子を孕むことは、ついぞなかった。彼女が産んだのはただひとり。最初から身籠っていた夜奏だけだった。

 

 

 

 

 夜奏は母に似て、美しい赤ん坊だった。深緑の髪に包まれた顔は朧月のように儚げで蒼白く、瞳は虹彩が橄欖石色で、瞳孔は金色に輝いていた。その目はまるで、数知れぬ微細な結晶に薄い日光が差し込み、小さな光度を生じさせ、一色のうちに交錯した色彩を織り交ぜるかのようだった。彼の双眸は夜闇でさえ明るく輝き続け、これを見た者は、ある種の畏怖の念を抱かずにはいられなかっただろう。

 夜奏はそばに母がいないためよく泣いたが──鈴を鳴らすと泣き止み、微笑みを浮かべさえした。

 

 

 

 夜奏を預かった男は嶺二(れいじ)という名で、村八分にされていた谷家の次男だった。谷家は集落で三番目の古参だったが、ある時を境に周りとの交流を絶たれてしまう。長男は若くして病死し、年老いた両親は足腰がすっかり弱って、ほぼ寝たきりであった。一家が集落から孤立したことで、嶺二は初老にさしかかっても追っとい嫁じょの恩恵には与れなかった。田畑を没収され、嫌がらせに雨水を貯めていた桶を盗まれ、家の敷地内に蛇や猪の死骸を投げ込まれもした。それでもなんとか生きていくため、家畜の屠殺やその死骸の処分、清掃などいわゆる集落の「穢れ」の仕事を引き受け、代わりに粗末極まる食料を与えられていた。そうすることでしか暮らせなかった──両親は体力が落ちて動けないし、そもそも集落を出ていく気もない。そんな彼らを置き去りにして、自分だけの生活を始めるなどできようか。

 

 差別され、奴隷のように働くことを余儀なくされるうちに、彼は完全に自尊心をなくし、自らの意思が介在しない生き方に心底嫌気が差していた。もともとは両親のやったことが原因での現状──なのに、何故自分ばかりがこんな目に遭わなければならない。やり場のない怒りが募り、自暴自棄になっていく。彼はどんどん人嫌いになっていた。

 

 そんな男のもとに、赤ん坊を預けたらどうなるか。淀見那は知っていたはずだ。いや、知っていたからこそ押しつけたのだ。いずれ嶺二は、赤ん坊を死なせる。そうすれば自分らの手を汚さずに済む。拒絶する権利さえ持たぬ底辺の弱者に、厄介な余所者の子の始末など託してしまえばよい。簡単なことだった。

 

 淀見那の目論見通り、いつも無気力で機嫌が悪い嶺二は、何かにつけ「お前さえいなければ」と夜奏を罵倒し、殴る蹴るの暴力を振るった。夜奏が痣をつくらない日は一日としてなかっただろう。だがそれでも──彼が死に至ることはなかった。嶺二は嶺二なりに、罪のない子供に手を上げているという自覚はあったし、そうすることでしか腹いせできない自分を責めてもいた。どうしてもやめられなかった…この雁字搦(がんじがら)めの人生さえなければと、心の奥底でずっと苦しんでいたのである。

 夜奏は夜奏で、そんな嶺二を恐れはしても、やはり憎むことはできなかった。小さいながら嶺二の境遇を理解していたし、何より彼以外に頼れる者がいなかったからだ。

 

 五歳になると、夜奏は嶺二が働きに出る間、家で留守番し、嶺二の両親の面倒を見るようになる。さらに七つになると、嶺二の仕事も手伝い始めた。集落の人々から石を投げつけられ、忌み嫌われながら、「穢れ」業を黙々とこなしていた。

 

 希望のない日々が続き、塞ぎ込むことが多かったが、その中で唯一夜奏の心を癒したものがある──夕焼けの空だ。一日の終わりになると、彼はよく渓谷の岩場に腰かけ、静かに日が沈むのを見届けた。まわりの美しい谷間から霧が僅かに立ちのぼり、朱金の陽光が差しこんでいる。そんな時、流れ下る清流に耳を傾けながら、彼はこの川の流れて行く末には一体何があるのだろうかと、到底見ることなどできぬ遠方を心に描いていた。描いてはきっとそここそが、自分の本当の故郷に違いないと思っていた。

 日没後も、夜奏はしばらくその場に残り、まだ朱金に染まる地平線の上──藍色の空に輝く明星を見つけては、ささやかな喜びに浸る。

 

 

 思えば、彼はこの明星に似ていたかもしれない。

 

 

 生まれてこの方、一切の愛情を知らず、暴力や差別に耐える日常を送っていた少年にとって、こうした日没からほんの一時の、静かで美しい空の移ろいを目にすることだけが慰めだった。刻々と表情を変えていく空を眺め、清流の音に聴き入るうちに、心が空っぽになっていくのを感じていた。

 

 

 

 沈みゆく夕日を見ながら、夜奏はよく思ったものである──いつかは朝日も見てみたい、と。

 

 

 周りは「朝日も夕日も変わらない」と言っていたが、昇る太陽はやはり沈む太陽とは違うはずだ。空が明るくなり、一日の始まりを告げる瞬間、希望に満ちた空間を、この身に感じてみたいと思っていた。できることなら、自分が一番好きな呂源湖を望む岩盤に座り、水平線から日が昇るのを静かに眺めたい──そう夢見ていた。だが、なかなか叶うはずもなかった。早朝に起きて物音を立てると、嶺二たちを起こしてしまい、ひどくぶたれるからである。「いつかは…」と心に描き続ける日だけが続いた。

 

 朱金に輝く空が、少しずつ紺藍(こんあい)色へと変わり、青藍(せいらん)色、深縹(こきはなだ)色を経て紺色へ、そして水が染み入るようにゆっくりと濃藍(こいあい)色から藍錆(あいさび)色へと暗くなっていく。やがて辺りが漆黒に包まれると、夜奏は鈴を鳴らしながら歌を歌った。多耶が言った通り、清冽(せいれつ)な美しい声だった。透明でありながら妖しくもあり、(くら)くもある。ひとたび歌い出すと、その歌声は細くたなびいて星空に舞い上がり、響き渡る。まるで異郷の神秘的な呪文がこだますように、それは空や森から反響したいくつもの声をともない、やがて多旋律となって夜の静寂(しじま)を奏でた。辺りが不思議な、白檀(びゃくだん)のような芳香に満ちていく…。この歌を耳にする者は、どことなく悲哀なその旋律に心を奪われ、例えば家事をしている時などにははたと手を休めて聴き入ることが多かった。

 

 そうした不思議な歌が聞かれた翌朝、人々は決まって農地の作物が大きく成長し、たわわに実っているのを目にすることになる。もともと土地が肥えておらず、農作物の育ちがあまり良くないこの地において、こんなことは初めてだった。あの歌のせいなのか。歌声の主は一体誰なのか。そんな疑問が芽生え始め、ある時ついに集落の一人が好奇心を抑えられず、こっそり確かめに行った。仄暗い途を歌声を頼りに歩いていくと、その先には──渓谷の岩場にひとり座り、光る鈴を手に歌う夜奏がいた。目は暗闇の中でも鮮やかに輝き、さながら夜空に瞬く星の如しであった。この噂はたちまち集落に広がり、人々はこう思うようになる。

 

 ──あいつは何か魔を秘めているのかもしれない、と。

 

 春風光る

 

 ある日の午後。春一番の強い風が吹く最中、道端で三人の集落の幼子が地面に落ちている小鳥を見つけて騒いでいた。小鳥は何かに襲われたのか、血を流し羽は折れて苦しみもがいている。二人の男児は面白がって突っつき、女児はやめろやめろと顔を真っ赤にして怒っていた。

 

 「もうほっとけってぇ!そんなんすぐ死んじまうよ!」

 

 「これだって立派な飯になるかもしんねーじゃん。持って帰ろ。焼き鳥焼き鳥♪」

 

「やだ、何言ってんのバカ!!」

 

 女児の小春はなおもいきり立っている。五歳くらいといったところか。

 

 そこへ、後ろから足音が近づいてくる。ハッとして振り返ると、集落の井戸掘り作業を終えて帰途に着いた夜奏がぼんやり立っていた。身体中泥に塗れ、鎌や鍬の入った大きな籠を背負い、疲れ果てたようにこちらを見ている。

 

 

 「チッ…穢多(えた)野郎だ。こっち来んな!見てんじゃねぇ!」

 

「きったねーな。近寄んなよ!」

 

 「……」

 

 小春は初めて見るこの「穢れ」の少年に驚き、声が出なかった。目の前に立っているのは普通でない子…いや…人間ですらない、何か神秘的な存在に思える。陽光を受けて、金色の瞳孔がきらきらと輝いている。それに見つめられていると、全てを見透かされているような、少し恐ろしい気もした。あまり年は変わらないはずなのに、あどけなさは感じられず、どこか大人びている。

 

 

 夜奏は表情ひとつ変えず、一言も発さなかった。「穢れ」の者は他の集落の者と極力口を聞いてはいけないという厳しい掟があったためだ。

 

 「……」

 

 彼はしかし、躊躇う様子なく、三人の方へ歩み寄ってくる。

 

 「てめぇ!オレたちの言ってることがわかんねぇのかよ!」

 

 二人の男児はなおも怯えた子犬のように吠えまくり、どんどん後退りしていく。

 

 「えっ…ち、ちょっと。待っ…」

 

 小春はわけがわからず、彼らの後についていった。

 

 

 やがて沈黙が訪れ、風が緩やかに、睨み合う子供たちの間をすり抜けていく。

 

 歩を止めた夜奏の足元で、傷ついた小鳥が羽をばたつかせていた。その虚しい羽音だけが辺りに響いている。まだ生きていたいと願う本能的欲求と、どうにもならない絶望的な現実。小鳥を見つめる夜奏は、何を考えているのか、無表情のままだ。目は虚ろで、特別な感情を宿していないように思える。

 

 

 

 

 

 

 だが暫くすると、夜奏は背負っている籠を地面に置き、静かに小鳥を拾い上げた。そして掌に乗せ、優しく撫で始める。

 

 

 ──一体何をしようとしているのか。

 

 三人の子供は彼のすることを凝視していた。この後小鳥がどうなるのかを見ずにはいられない。

 

 

 

 もしかしたら、このまま息絶えてしまうのかもしれない。

 でも、「まさか…」という思いが妙にちらつく。

 

 

 

 二度と空を飛べないほど傷ついていたはずだ。

 ほとんど瀕死に近かった。

 

 

 なのに…。

 

 

 

 掌にいるその小鳥は、もう再び生を得たかのように、生き生きしている。閉じかけていた目は大きく見開かれ、折れて血が滲んでいたぼろぼろの羽は力強さを取り戻し、ぴんと広げられていた。

 

 

 ──そんなことが…あってたまるか。

 

 

 

 話に聞いていた「夜奏」とやらは、もっと恐ろしくて不気味なやつだったはず。けれど目の前で小鳥を愛でる当人は、うす汚い身なりながらとても澄みきった瞳をしている。「穢れ」など思わせない美しさだ。淡く長い睫毛が影を落とす瞳は、優しげに揺れ、口もとには微笑を浮かべている。

 

 

 「お行き」

 

 

 夜奏はそう言うと、掌を空高く掲げた。羽を広げた小鳥は勢いよく風に乗り、溪谷を隔てた向こうの山の方へと飛んで行く──ここではない、どこか遠くへ。それを、風に髪を靡かせながら、夜奏はひとり見送る。小鳥の姿が見えなくなると、少し視線を落とし、俯いたようになった。

 

 

 小春はその後ろ姿をじっと見ていた。

 

 

 今彼は、どんな顔をしているのだろう。

 

 どうしようもなく惹かれるのは、彼が奇跡を起こしたからじゃない。

 

 顔が綺麗だから、というのもちょっと違う。

 

 

 その背中が、何だかとても寂しそうに見えるからだ…。

 

 

 

 やがて「穢れ」の少年は、再び籠を背負い、何事もなかったかのようにその場を立ち去った。

 

 風の強い日だった。

 

 

 

 

 八歳になる頃、夜奏はさらに不可解な側面を見せるようになる。彼が歩いた跡、触れた所から、時折植物が芽吹くというものだ。ある時は大輪の花を咲かせたりもする。しかし当の本人は全く意図せず、無意識のうちにやっているときもあり、謎は深まるばかりだった。周りは一層気味悪がったが、小春はひとり、この摩訶不思議な少年をもっとよく知りたいと思うようになっていた。

 

 ある春の日の夕暮れ。彼女は意を決して、夜奏がいつもこの時刻にいる渓谷の岩場へと出かけた。もちろん、怒られるので親には何も告げず。

 

 

 畑仕事を終え、家路に向かう集落の皆を横目に、ひとり渓谷へと走る。山の斜面にへばりつく家々を通り過ぎ、近道である茂みの中に入り、険しい坂を駆け上がるうちに、次第に気持ちが急いてくる。早くしなければ夕日が沈んでしまう。一緒に見たい。彼はいるだろうか…そんな不安と期待を胸に茂みを突き抜けると、柔らかな夕日の光が目に飛び込んできた。良かった…まだ間に合った。

 

 

 

 

 

 会いたかった人は、そこにいた。渓谷をのぞむ岩場に腰かけ、夕日を眺めている。陽光に照らされた顔は見えないが、微かに見える長いまつ毛の先が煌めき、下を向いている。何か考え事をしているのだろうか。

 

 「ねぇ!」

 

 静寂を破り、小春は勢いよく話しかけた。心臓が高鳴り、顔は高揚して赤くなっていた。内心、少し怖かった。もし冷たい素振りをされたら…小鳥に向けていたあの優しい眼差しを、自分には向けてくれなかったら…。そんなことを考え、不安になっていた。

 

 

 

 話しかけられて振り返った当人は、話しかけられたこと自体に幾分驚いたようで、大きな瞳を静かに見開いている。戸惑っているのか、返事をしてくれない。だが、別段警戒している様子もない。すかさず小春は、思わず鼻先がくっつきそうなところまですっ飛んでいき、ずっと内に秘めていた願いを告げた。

 

 

 

 「お花、咲かせてよ!」

 

 

 

 

 「……」

 

 

 

 

 

 夜奏はたじろいでいた。目の前の女の子は、少しも自分を怖がる気配なく、こんなすぐ近くでも屈託ない笑顔を見せている。無邪気そのものだ。いきなり何を言い出すのかと思えば、ごくごく些細なことを全力で望む。今までこんなことはなかっただけに、どう反応したら良いものか分からない。だが、つんと上を向いた鼻に、くるくるよく動く瞳が自分の顔を覗き込んでいて、何だか小動物のようだ。気持ちが和んでくる。

 

 

 夜奏は少しばかり頬を緩ませ、小春を見つめ返した。小春の心音はさらに高鳴る。自分をとらえる双眸は、至近距離だとさらに細部までよく見え、星々を閉じ込めた小宇宙が浮かんでいるようだった。その静謐な空間に、思わず吸い込まれそうになる。

 

 

 夜奏は、不意に何か思いついたように、足下の地面にそっと中指を触れた。

 

 

 

 二人は地面をじっと見つめる。山間を吹き抜ける春風が、優しく彼らの頬を撫で、春の土の香りを運んでいた。

 

 

 ほどなくして陽光が夜奏の触れた箇所にさしかかり、不意に可愛らしい芽が顔を出す。芽はたちどころに伸びて茎となり、いくつもの葉を広げていく。

 

 「わあ!」

 

 小春は目を輝かせた。植物が生き物のように動いている様など見たことがなく、それが面白くて仕方のないように、上から横から顔を近づけてはしゃぐ。夜奏は、そんな小春を静かに見守っていた。

 

 

 やがて成長した茎は溢れんばかりの蕾をつけ、最後に次々と花開き、可憐な撫子となった。咲き乱れる花々からは甘い香りが漂い、陽光にその薄紅色が映えている。

 

 

 「きれい!あたしの大好きな色!」

 

 

 小春は白い歯を見せ、弾けんばかりの笑みを浮かべた。その様はまさに花開く瞬間そのものだった。

 夜奏は優しく微笑み、今しがた咲いたばかりの撫子を摘み取り、そっと小春に差し出す。

 

 「くれるの!?有難う!!」

 

 

 小春はさらに顔を赤らめて花を受け取った。だが、その時──

 

 

 

 

 「何してるんだい!小春!」

 

 

 

 

 少し離れたところで怒号が聞こえ、小春がぎょっとして振り返ると、母親が鬼の形相で立っている。髪を振り乱していて、探し回っていたのがわかる。

 

 

 

 「どこに行ったのかと思えば、こんなところで油売って!」

 

 

 

 「母さん、あたしは、ただ…」

 

 

 小春は必死に弁明しようとするが、言葉がうまく浮かんでこない。逡巡するうちに母親はずんずん寄ってきて、あっという間に小春の腕を掴み、乱暴に引き上げてしまった。

 

 「いッ…」

 

 「さっさと帰るよバカ!こんな薄気味悪いやつと関わるんじゃないって言っただろうが!!」

 

 

 

 母親は小春に思い切り平手打ちを食らわせ、娘が手にしている花をひったくると、地面に叩きつけてしまった。

 

 

 「こんな汚らわしいもの!」

 

 

 「あっ…」

 

 

 

 悲鳴を上げ、拾おうとする小春を無理やり連れ去っていく。

 

 

 

 

 「ひどい…ひどいよ、母さん」

 

 

 

 泣きじゃくる小春は母の手を振り解こうとするが、大人の力には敵わない。涙で顔を濡らしながら夜奏を振り返り、それでも引き摺られるようにして遠ざかっていく。

 

 

 

 

 

 

 残された夜奏は、小さくなっていく小春の背中を見つめていた。やがて姿が見えなくなると、地面に打ち捨てられた撫子に視線を落とす。花は寂しそうに横たわっていた…何だかそれが自分に思えてならない。

 

 

 

 彼は考えていた。

 

 

 

 自分のこと。

 

 

 

 やっぱり自分はまともでない。

 

 そんな自分がいるべき場所は、ここにはどこにもない。誰にも受け入れてもらえないのだ。

 

 

 

 あの小春の母親が自分に向けた眼差し──まるで悍ましいバケモノを見るようだった。

 

 

 

 

 自分も小春と変わらぬ子供のはずだ。

 何か悪いことをしたわけでもない。

 なのに…。

 

 普通でないだけでこんなにも忌み嫌われる。「穢れ」の者というだけでさらに憎まれる。

 

 

 何故…。

 

 

 

 

 目が細まっていく。

 

 

 

 そこまで考えて、夜奏はふと、自分の母親のことを思い出した。

 

 

 

 

 嶺二から「お前の母親は、お前を捨てて集落を出て行ったのだ」と聞いたことがある。それで仕方なく自分を引き取ったのだ、と。捨てられた理由を尋ねると「お前があまりに異常だからだ」と言われた。さらに詳細を知ろうとすれば、殴られた。

 

 

 

 

 

 本当にそう(・・)なのだろうか。

 まだ近くにいる気がする…。どこかは正確には分からないが。

 

 

 

 

 ──母さん。

 

 

 

 夜奏はいないはずの母に、心のうちで呼びかけた。

 

 

 

 

 ──なんで僕を捨てたんだ。なんで会いにきてくれないんだ。

 

 

 

 

 ──こんなに一人ぼっちなのに…。

 

 

 

 

 そんな悲痛な思いに答える者など誰もおらず、ただ穏やかな春風が、夕日の沈むまで吹いていた。

 

 

 

 

 かごめかごめ

 

 その年の秋のはじめ。晴れ渡る空に赤や黄に染まった葉が映え、夜奏がもうすぐ九つを迎えようとしていた頃だった。

 

 

 ある事件が起きた。嶺二と夜奏が、山道の整備で使っていたつるはしや杭などの道具が入った袋が突然盗まれたのだ。普段は死んだ牛馬の解体処理や清掃、皮革、竹細工などの仕事をしていた夜奏たちだったが、必要に応じてこうした土木作業にも携わっていた。ことに山道は手を入れておかないとすぐに荒れてしまう。その年の夏は雨がよく降ったため、地盤が緩くなり倒木や泥濘などで非常に歩きにくくなっていた。山道の整備は大変な労力を要するので、集落の者は誰もやりたがらない。それを二人でやれというのだからあまりに過酷な話だった。

 

 

 嶺二と手分けして探すことになった夜奏だが、真っ先に思い浮かんだ場所がある──子供たちが遊んでいる広場だ。

 

 

 夜奏と嶺二は日々の仕事を終えると、よくその広場の前を通って帰っていた。というのも、重い道具を背負って帰るには、その道しかまともなところがなかったからだ。他は急な坂だったり沼道だったりで危険極まりない。

 

 

 

 広場の前を通る時、夜奏は毎回子どもたちの視線を感じていた。小春ただ一人を除けば、彼らの誰とも面識はなく、言葉を交わしたことすらない。遊びの輪に入れてもらったことも勿論なかった。いつも横目で彼らが遊んでいるのを見ながら素通りしていただけである。そもそも自分と彼らの間には明確な身分の差があったし、自分はこの界隈では風変わりで不気味な子供で通っていたから、接点を持つ機会すらなかった。

 

 

 だが…広場の子供たちの方は、夜奏に無関心というわけにはいかなかったらしい。少なくともこの外れ者(・・・)に対し好奇心と敵対心の入り混じった感情を抱いていて、「ちょっとからかってやろう」という気になっていたようだ。

 

 道具袋は案の定、広場の奥にあった。

 

 夜奏は軽く溜息をつくと、躊躇せずに取りに行こうとする。

 

 

 「おい!!」

 

 

 うすうす覚悟していたことだが、すぐさま集まってきた子供たちに取り囲まれてしまった。

 

 

 「テメェ…なにド畜生が俺たちの広場にずかずか入ってきやがんだ!!ふてぇ野朗め!!」

 

 

 目の前に立ちはだかる大柄で坊主頭の少年が、目を血走らせながらがなり立てる。多分彼は最年長で、ガキ大将なのだろう。しかし夜奏は全く動じず、子供たちに対してはじめて口を開いた。

 

 

 「あれがないと仕事ができない。返してくれ」

 

 

 毅然とした態度ながら、声は穏やかだった。だが、それがかえって気に食わないのか、坊主頭は夜奏が言い終わらぬうちに、彼を殴り飛ばした。

 

 

 「お前みたいなやつが一丁前に口聞いてんじゃねぇ!!」

 

 

 頬に拳を振るわれ、鈍い音と共に夜奏は地面に倒れる。

 

 

 「何てことするの!!」

 

 

 たまらず小春が駆け寄ってきて、顔面蒼白になった。無理もない…夜奏の口端から血が流れ出ていたのだから。しかし、夜奏はといえば、皮肉なことに普段から殴られ慣れているため、何とも思っていないようだ。心配そうに顔を覗き込む小春に対して平然としている。それがまた坊主頭の神経を逆撫でしてしまった。「どうにかしてこいつを屈服させてやりたい」と思った彼は、こう言い放つ。

 

 「返して欲しけりゃ、俺の草履の裏を舐めな。そしたら許してやる」

 

 

 夜奏は無言で加害者を見上げた。金色の瞳孔がぎらぎら輝き、怯むどころか、屈服など決してしないという意思表示をしている。それは怒りを通り越した狂気を孕んでいるようにも見え、坊主頭は一瞬背筋の凍る思いがした。

 

 

 

 「いやだ」

 

 

 一音ずつ、はっきり口に出すように夜奏は言い返す。

 

 

 「なにィ」

 

 

 めそめそ泣き出すのを期待していた坊主頭は、もはや自分の面子が脅かされつつあるのを悟ってブチ切れた。

 

 「テメェ…顎で飯が食えねぇようにしてやろうか」

 

 

 夜奏の胸ぐらを掴み、引き寄せた。だが夜奏は相変わらず表情を崩さないまま、目をかっと見開き、突き刺すような視線を相手に注いでいる。

 

 

 「さっきから何なんだその目は。気に食わねぇ…」

 

 

 「いい加減にしてよ!!言いつけるわよ!」

 

 

 

 小春が坊主頭の腕にしがみついて喚き立てる。

 

 

 

 

 

 「まあ、そう熱くなるなって」

 

 

 少し離れたところで涼しい顔をしながら腕組みし、事の成り行きを見ていた側近風情の少年が、坊主頭に呼びかけた。

 

 

 「ああっ!?」

 

 

 坊主頭が殺気だったまま返事をすると、その少年は悪意のこもった目つきで含み笑いを浮かべる。前髪が長く片目が隠れていて、ずる賢そうだ。

 

 

 「ボコボコにするのも悪くねぇが…どうだ。ここはひとつ、そいつの力を試してみねぇ?」

 

 

 「何だと」

 

 

 坊主頭はわけがわからぬようだ。

 

 

 

 

 少年は夜奏のもとへと近づく。

 

 

 「…お前、以前瀕死の小鳥をすぐさま治したらしいな」

 

 「……」

 

 

 夜奏は返事をする代わりに、この前道端で小鳥を突いていた男児二人を横目で睨む。二人は蛇に睨まれた蛙のように蒼ざめて後退りした。

 

 

 「それだけじゃねぇ。最近は植物も生やすとか何とか。随分と面白いやつじゃねぇか」

 

 

 小春が俯く。夜奏はそんな彼女に目をやらず、静かに視線を少年に移す。

 

 

 「何をしろと?」

 

 

 「簡単なことさ。今から流行りの遊びをやる。お前は鬼役で、ここで目隠しをされたままじっとしてろ。俺たちは手を繋いでお前を囲い、ぐるぐる回りながら歌を歌う。歌が止んだら、その時お前の真後ろにいるやつを当てろ。十回やって全部当てられたら道具袋は返してやる。一回でも外したら、お前は逆立ちしながらこの広場を十周してボコボコの刑。どうだ。悪くねぇ話だろうが」

 

 

 夜奏は胸ぐらを掴まれたまま、視線をやや地面に落とす。ここは一旦引き下がり、嶺二に助けを求めるのもなくはない。だが、それでは何か癪だ…自分の力で解決したい。それに仕事の開始が遅れれば、もらえる食料も減らされてしまう。

 

 夜奏は視線を少年の方へ戻した。

 

 

 「…いいだろう」

 

 

 「はっ…そうこなくっちゃ。お前もいいよな?」

 

 

 少年は坊主頭に同意を求める。

 

 

 「ああ。しょうがねえ」

 

 

 坊主頭はそう言うと、腹立たしげに夜奏を突き放した。

 

 

 

 遊びの準備をする間、夜奏は皆から離れたところにひとりぽつんと座らされ、待機していた。退屈そうに地面に絵を描いており、別段焦っているふうでもなければ、顔が蒼くなっているわけでもない。

 

 

 

 ──チッ。あいつ…一体何考えていやがる。さっぱり掴めねぇ。

 

 

 空恐ろしくなった坊主頭は、先ほどの前髪の長い少年に話しかけた。

 

 

 「おい、お前。なんだってあんな提案すんだよ」

 

 

 「いいじゃんか」

 

 

 少年は楽しそうに笑う。

 

 

 「あいつは俺たちの名前すら知らないんだぜ?小春のことだって、多分顔は覚えちゃいるが自己紹介もしてねぇ。どうやって当てんのよ」

 

 「始める前に名前聞いてきたらどーすんのさ」

 

 「教えなきゃいいじゃん」

 

 「はぁ」

 

 「恥かかせてやろーぜ。どうせ負け戦よ」

 

 「だな」

 

 

 

 

 

 そうこうするうちに、坊主頭が取ってくるように命じていた目隠しと両手を縛るための手拭いを、下っ端の男児二人が手にして戻ってきた。たくさんあるのは良いのだが、どれも農機具倉庫から取ってきた得体の知れない不潔そうなものばかり。何を拭いたものかもわからない。よくもまあ、こんなものを選んできたなと坊主頭は呆れるが、「ま、やつがするんだし、俺には関係ねぇか」ということで落ち着く。

 

 

 

 

 それにしても、夜奏が子供たちの名前を聞いてくる気配が一向にない。本当に何も知らずにやってのける気なのか。坊主頭にはそれが引っかかる。やつの負けは目に見えているわけだが…何故だか胸騒ぎがする。

 

 

 ともかく、やらないことには埒が明かない。

 

 

 「よぉし。じゃあ始めるか!」

 

 

 よく通る声で広場中に呼びかけ、子供たちを召集した。

 

 

 

 

 

 

 夜奏はど突かれながら地面に両膝をつき、乱暴に汚い手拭いで何重にも目隠しされ、両手を後ろに縛られた。その様子を、小春だけが心配そうに見守っていた。

 

 子供たちはやがて手を繋いで夜奏を囲い、ぐるぐる回りながら歌い始める。

 

 

 

 かごめ かごめ

 かごのなかのとりは

 いついつでやる…

 

 

 

 夜奏は身動きせず、じっとその歌を聴いている。

 

 

 よあけのばんに

 つるとかめとすべった

 

 

 うしろのしょうめんだーれ

 

 

 歌が終わり、輪の回転が止まる。

 

 

 

 

 

 

 「……」

 

 

 

 夜奏は黙ったままだ。

 

 

 

 ──ほら、どうした。早く答えやがれ!

 

 

 

 坊主頭は心内で呟く。

 

 

 ──お前には分かるまい。お前の負けだ!ボッコボコにしてやる…。

 

 

 

 ニタっと片頬笑んだその時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「千吏(せんり)

 

 

 

 

 

 

 

 

  ──……へ。

 

 

 

 

 

 

 

 突如口にされた名前に耳を疑う。

 

 

 

 

 

 

 言い当てられた真後ろの千吏(本人)を見ると、ぽかーんとして目をぱちくりさせている。何という間抜け面!

 

 

 「違うのか?」

 

 

 反応が鈍いので、夜奏が確かめる。

 

 

 「いや…」

 

 

 千吏は正解だと伝えた。

 

 

 

 「なら次いってくれ」

 

 

 勝負師はさっさと先に進もうとする。

 

 

 

 

 ──ッ!今のは偶然。偶然に決まってる!

 

 

 坊主頭は、早くも暗雲が立ち込めたのを感じるが、何とか全く根拠ない理屈で自分を落ち着かせ、次に賭ける。だが──

 

 

 「木芽(このめ)

 

 

 「四洲王(しずお)

 

 

 この集落の子供たちは割と変わった名前が多いのだが、夜奏は次々言い当てる。それも毎回列の順序を入れ替えているのに、屁とも思っていないらしい。むしろ回を増すごとに即答に近くなってきているじゃないか!坊主頭は吐き気と眩暈がしてくる。

 

 ──全てお見通しというわけか。冗談じゃねぇぞ。

 

 

 「(たすく)

 

 「小春」

 

 小春は自分の名を呼ばれて、驚くよりむしろときめいている。顔が真っ赤だ。

 

 ──いやいや、それどころじゃねぇんだって!

 

 

 「希羅(きら)

 

 「麻絃(まいと)

 

 「勇吾」

 

 「(たかし)

 

 側近の相棒も言い当てられ、盛大にうろたえている。

 

 ──おい、さっきまでの自信はどうした。こんなはずじゃなかったよなぁお前。死にそうな顔をしてるが?

 

 

 

 「(やす)

 

 

 最後に坊主頭も見事に当てられ、敗北を認めざるを得なくなった。自分がどうしようもなく阿呆に思えて、がっくり項垂れるが、どうにも結果を受け入れ難く思わず怒声が出てしまう。

 

 

 「おい!!」

 

 「なんだ」

 

 夜奏は冷めた口調で返事する。

 

 

 「ずるしてんじゃねーぞコラァ!」

 

 「ずるなんかしてないが。ご覧の通りだ」

 

 「…だ、誰に皆の名前を教えてもらった!?」

 

 「誰にも」

 

 「何だと…」

 

 「もう十回やった。いいだろう?」

 

 「ま、待て!じゃあ、今俺の両隣にいるやつは?」

 

 「麻絃と木芽」

 

 「くッ……。なら北の方角から時計回りに全員の名を言ってみろ!」

 

 

 「祐、勇吾、麻絃、康、木芽、希羅、千吏、崇、小春、四洲王」

 

 

 名前も順番も全て正しい。

 

 もうこれ以上何回やっても無駄だ。思い知った康は、ぐうの音も出ない。

 

 

 

 

 完敗だ。

 

 

 

 そんな彼の思念を察したのか、夜奏は敢えて落ち着いた声で「誰か、これを解いてくれないか」と言った。勝ち誇った風でもなく、ただ単にお遊びは終わりだ、という調子だ。小春がすぐに駆けつけ、夜奏の目隠しや両手を縛る手拭いを解いていく。

 

 

 全て外されると、夜奏は小春を見る事なく「有難う」とだけ伝えた。そしてそのままゆっくり立ち上がり、「真後ろの康くん」と静かに呼びかける。

 

 「あぁ!?」

 

 「気落ちしているところ悪いけど」

 

 「なんださっさと言え!」

 

 「さっきから背中に蜂がついてるよ」

 

 「……は」

 

 

 康がそばにいる麻絃に背中を見せると、大きなスズメバチが一匹へばりついていた。まもなく、広場どころか集落中に悲鳴がこだます。

 

 絶叫しながら広場を駆け回る康をよそに、夜奏は涼しい顔をしながら、賭け事で約束されたものの元へと向かう。それを背にすると、すたすたと広場を出て行ってしまった。子供たちはいまいち何が起こったのかもよくわからず、狐につままれたように彼が去っていくのを眺めていた。

 

 

 

 やっとのことで蜂を追い払った康の目に、ふと遊びを始める前に夜奏が地面に描いていた絵が映る。何故か気になり、近づいてよく見たところで、彼は凍りついてしまった。

 

 

 

 

 そこにはなんと、今し方十回目の賭けの時に皆が並んでいた順番と位置が、寸分の狂いなく記されていたのだ…。名前もひらがなだが、下手くそな字で全てきちんと書かれている。康は驚きと恐ろしさのあまり、震えが止まらなくなった。

 

 

 ──あいつ…バケモンだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嶺二のもとへと急ぎながら、夜奏は晴れやかな笑みを浮かべていた。いつになく楽しそうに歩く彼を、すれ違う集落の者たちが怪訝そうに見ている。

 殴られたりさんざんひどい扱いを受けたが、それでも楽しかったのだ。何せ賭けとはいえ、人生ではじめて遊びに加わらせてもらえたのだから。ガキ大将に怯まず立ち向かい、自分と嶺二の名誉を守るために戦った。そして、打ち負かすことができたのだ。そんな自分を、少しばかり誇りに思っても良かろう。

 

 

 

 

 かごめかごめで遊んだ日というものを、彼はその後決して忘れることがなかった。そしてその日が唯一、彼にとって曲がりなりにも集落の子供たちと交流した最初で最後の日となったのだった。




[裏解説]
1.夜奏の素材
 蔵馬(『幽遊白書』)、チスト(『緑の親指』)、ロレンス(『ブラック・ジャック』の「緑の想い」)、松屋町散春(『ジャガーン』)、シシ神(『もののけ姫』)、グリーンマン(ギリシャ神話のディオニュソス、ケルト神話のケルヌンノス、ローマ神話のシルウァーヌス)。
 風貌は、『地獄楽』の画眉丸や『デスノート』のニアに似ており、目を『攻殻機動隊』(1995)の草薙素子や『イナズマイレブン』のビヨン・カイルのようにした感じ。
 坊主頭を睨む夜奏の狂気の目は、『剣風伝奇ベルセルク』(1997)の第9、10話で、グリフィスがユリウスやフォス大臣を睨む目に似ている。

2.夜奏の歌と実る農作物
 夜奏の歌はアンリ・トマジの女声合唱曲《12のコルシカの歌》の第1曲〈Vogero I 糸を紡いでいた時〉、農作物が実る神秘現象はアルヴォ・ペルトの室内楽曲《Fratres》をイメージしている。Vogeroはコルシカの小さな村カラクッチャで実際に起きた、あるヴェンデッタ(仇討ち)を歌ったもの。ヴェンデッタはコルシカの因習であり、プロスペル・メリメの小説『コロンバ』の題材としても扱われている。歌詞は怖い内容だが、移ろうような合唱を背景にソロが非常に美しい旋律を奏でる。Fratresはラテン語で「親族、兄弟、同士」を意味し、ペルトの作品中で最も知られる室内楽曲。ルネサンス期の多声音楽やグレゴリオ聖歌などの書法を参考にしているため、中世の神秘的な宗教儀式を思わせる。孤独な魂を奥底に沈潜させるかのように、通奏低音のうえに聖歌風の旋律が静かに重なっていく。色々な楽器編成があるが、特に独奏ヴァイオリン、弦楽オーケストラ、打楽器による版がお勧めで、筆者はギル・シャハム(独奏ヴァイオリン)、エーテボリ交響楽団のアルバムを愛聴している。

3.花を咲かせる場面
BGMは同じくペルトの室内楽曲《Spiegel im Spiegel》。「鏡の中の鏡」という意味のこの作品は、鏡の中に鏡が何重にも映っており「無限の画像」を生成する様子を表している。ペルトがソ連圏のエストニアを去る直前の1978年に書いたもので、小さな泉がいつまでも湧き出しているような静かで清澄な音楽である。数々の映像作品の劇伴として扱われ、今季2023-24年シーズンの宇野昌磨選手(フィギュアスケート)のフリープログラムにも使われている。

4.小春は『カムイ伝』第2巻に登場するコゲラに似ている。(コゲラは男の子)
 
次回が多分本作で一番残酷な話になります。書けるかだいぶ不安…。 
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