恐れ谷に吹く風   作:がじゅ丸     

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九歳になった夜奏。彼が目にしてしまった禁忌、そして明らかになる集落の秘密。


※長くなるので分けました。
※これより先、グロテスク及び暴力シーンあり。苦手な方はどうぞご遠慮くださいませ。


真実

狂っているのは僕か。それとも世の中か。

(映画『JOKER』)

 

 

 ──今日もだめか…。

 

 見上げた晩秋の空が曇っている。ところどころ強い風に押し流されていく黒い雲。ずっとこんな天気が続いている。夕日や夜空は見れない…か。夜奏は溜息をつき、鬱々とした表情を浮かべて俯く。その瞳に映るのは暗い水面。今彼は、水汲みに渓谷の川岸に立っている。

 

 九歳を迎えた少年は、急に背が伸び、大人びた顔つきになっていた。瞳孔の金色味が増し、今この夕闇にあっていっそうその輝きが際立っている。顔を縁取っていた髪は伸びて肩にかかるくらいになっていた。その髪を、風が魂を凍らすような口笛を吹きながら靡かせている。

 

 谷を吹き抜けていく風がいよいよ強くなってきた。さきほどの口笛のような高音に加えて、山全体が低く唸るような、巨大な得体の知れぬものの轟音を掻き鳴らし、谷を包み込んでいく。それはどうしてか人の声のようにも思え、聞いているとどこかに連れ去られてしまう気がした。次第に冷気の渦が下りてきて、身も心も凍てついていく。顔に吹き付ける風が棘のように痛い。

 

 ──早く帰らなきゃ。

 

 そう思って、水を汲んだ桶を手に歩き出した時だった。

 

 

 ──夜奏。

 

 

 風の中で囁くような声がする。思わず足を止め、しばし耳をそば立てるが何もない。気のせいだろうと思い、また数歩進む。

 

 

 ──夜奏。

 

 

 やはり立ち止まる。この異様な胸騒ぎは何なのか。振り返ると、ちょうど目線の先に河岸からとある茂みに続く細道があった。その茂みの中には集落の特定の者しか出入りできないという禁忌の場所があり、なんでも神聖なものが祀られているらしい。細道はよくよく目を凝らさなければわからないほどに荒れていた。近づいてはならない。けれど、そこに自分に関する重要なものがきっとある──彼は直感でそう悟った。どうしても行かねばなるまい。知りたいような知りたくないような、不安と迷いの入り混じった気持ちでその場に踏みとどまろうともしたが、足が勝手に動いてしまう。「あらぬ」方に向かって、吸い寄せられるように。

 

 川岸から細道に入り、未だ躊躇いがちに歩いていく。先行くごとに妙な気配がしてきて背中に冷たいものが走る。肌に纏わりついてくるこの重苦しい空気……川岸は既に夜陰に覆われ始めているが、茂みの中はさらに暗く、悍ましい怪物に自ら囚われに行くようだった。

 

 

 ギ…… ギィ

 

 

 奥の方から何か木を擦るような、乾いた不気味な音が聞こえてくる。

 

 

 ──わたしの手で

 

 ──育てられないというなら

 

 

 はっとして立ち止まり、その場に凍りつく。先ほど川岸で耳にした声。途切れ途切れに囁き、頭の中で響いている。この声は一体…誰だ。誰なんだ!…だめだ、行ってはいけない、引き返そう。そう思うのに、足が意に反してまた動き出す。

 

 

 ──どうか大切に…

 

 ──育て…て…ください。

 

 

 ギィ          

 

 

 歩を進める足が次第に重たくなり、痺れて感覚さえなくなってきた。気がつくと冷え切った身体は震え、胸が締め付けられるように苦しく、動悸が激しい。そのうちに何故か、遠い昔にこの声を聞いたことがあるような気がしてくる。そう、知っているはずの声だ。

 

 不気味な擦れる音はさらに強く、虚ろな響きに変わっていった。

 

 

 細道の先に、少しひらけた空間が見えてくる。近づくたびに腐った血肉の臭いが鼻をつく。辺りには特段、社や祠などがあるわけでもない。ただひとつ、正面に聳え立つように鎮座する大木を除いては。

 

 

 夜奏は細道を出、ゆっくりその大木の近くまで歩み寄った。

 

 幹に何か赤黒い血のようなもので三角を組み合わせたような印がつけられている。そしてその上には──先ほどからずっと音を立てていたであろうもの(・・)が縄で吊り下げられていた。茂みに入り込んだ隙間風に煽られて揺れ、その度に縄が木を擦り音を立てている。

 

 

 ギィィ…       

 

 

 

 ──その…子は

 

 

 ──夜になると…美しい歌…を…歌います。

 

 

 見上げる夜奏。それ(・・)から目が離せなくなり…顔には恐怖と絶望が浮かぶ。瞳からみるみる生気がなくなっていく。

 

 

 ──名を…「夜奏」と…いいます。

 

 

 ギィィィィ

 

 

 名づけられた少年は、その場に立ち尽くした。

 

 

 その夜。夜奏と嶺二は、質素な晩飯を囲んでいた。皿には集落で採れた農作物はほとんど載っていない。夜奏の歌で今までにない豊作が集落にもたらされたというのに、収穫を全然分けてもらえないのだ。その代わり仕事の合間にこっそり森でとってきた山菜、兎などの小動物、川で釣った魚を食べてやり過ごしている。これも見つかれば何かと言いがかりをつけられ全て没収なのだが。ぎりぎりの生活とはいえ、以前に比べてだいぶましにはなってきている。何せ嶺二には強力な助っ人──夜奏がいるからだ。特に教えたわけでもないのに、この少年はキノコを見つけたり動物を狩るのがやたらと上手かった。

 

 

 「おい」

 

 嶺二が夜奏を睨んでいる。水汲みから帰ってきた時以来、彼の様子がおかしい。顔が真っ蒼で目がすわっており、心ここに在らずといった感じで箸が全く進んでいないのだ。茶碗を持ったまま虚空を見つめ、微動だにしない。

 

 「おいっつってんだ」

 

 「……」

 

 「てめぇ!いい加減にしやがれ!」

 

 

 嶺二は思い切り平手打ちを夜奏に食らわせた。その衝撃で夜奏の持っている茶碗が部屋の隅まで吹っ飛び、中身が溢れてしまう。だが夜奏は、叩かれた方向を向いたまま依然ぼんやりしており…我に返った様子はない。

 

 「何だってんだ。食う気がねぇならさっさと寝ろよ!」

 

 

 しばしの沈黙が流れる。

 

 

 「……見たんだ」

 

 「何を」

 

 「川岸近くの……あの茂みのなか」

 

 

 「……!」

 

 

 今度は途端に嶺二の顔色が変わる。

 

 

 「茂みのなかに、大きな木があって…そこに人が吊るされてた」

 

 今さもそれ(・・)が目の前にあるかのように、抑揚のない調子で言葉を連ねていく。だが口にするのが精一杯なのか、次第に何かに耐える様子を見せ始める。

 

 「どろどろに腐ってて…顔はほとんど骨…で…目やく、口の…ところに、虫が…たくさん…たくさん…たかってるんだ。腹が、はちきれそうなほどに膨らんでて、それで…それで…て、手足がな…い」

 

 震えるその手を、彼は自分の髪に添える。

 

  「僕、と同じ…緑のか…み」

 

 「お前…!」

 

 嶺二は焦燥したように声を上げた。

 

 「あれを…見た…ってのか」

 

 打ちのめされたようにその場に座り込む。そこではじめて、夜奏が嶺二を見上げる。

 

 「あれって?」

 

 嶺二は項垂れ、暫く黙り込んでしまう。動揺しているのは間違いなかった。

 

 「おじさん…」

 

 「……」

 

 「知ってたの」

 

 震えながら、それでもなお真っ直ぐ見つめてくる夜奏に、もうこれ以上は隠しておけまいと嶺二は覚悟を決め、沈黙を破った。

 

 「夜奏。一回しか言わねぇから…よく聞けよ」

 

 

 外では横殴りの雨をともなった暴風が渦を巻き、夜奏たちのボロ屋同然の家を今にも吹き飛ばしてしまいそうに荒れ狂っていた。立て付けの悪い窓ががたがた鳴りっ放しで、入ってくる隙間風が冷たい。奥の部屋では嶺二の両親が寝ているが、時々寒さが堪えるのか、寝返りを打ち、しきりに足を摩っている音が聞こえる。

 嶺二は囲炉裏のぱちぱちいう火に薪を焼べながら、一息ついてゆっくりその重い口を開いた。

 

 「知っての通り、この集落は異様に警備が堅い。外から簡単に人が入れないようになってるし…俺らもここを出ていくことは実質不可能だ。それくらい見張りがきつい。お前、何でか考えたことはあるか」

 

 「…何か秘密が」

 

 「そうさ」

 

 嶺二は目を細め、言葉に力を込めた。薪を持つ手の血管が浮き出ている。

 

 「外に漏れてはいけないもの(・・)が、ここにあるからだ。それが今日お前の目にしたやつだ」

 

 夜奏が目を見開く。いつの間にか震えは止まっていた。

 

 「昔からずっと続いてる悪しき因習だ…豊作や厄除けを祈り、山の神に人柱と生贄を捧げるっていう人身御供。今の明治からすりゃ時代錯誤もいいとこだが…あの淀見那って野郎の家系は代々引き継いでいやがんだよ。神聖な伝統がどうのこうの言ってよ」

 

 嶺二は薪をもう一本火に焼べてから、込み上げる怒りを抑えるかのように両手を組んだ。瞳に映る炎のゆらめきが、彼の心のなかを表しているように思える。

 

 「六年に一度、一人の人柱を集落の周りに埋めるんだ。埋める前にその身体を切り裂いて、六箇所各地にある大木に祀る。だいたい選ばれるのは女と決まっていてな…だからこそ、この集落は女が少ねぇ」

 

 「……」

 夜奏は嶺二をじっと見つめる。

 

 「これが祟って女子がなかなか生まれない。そんなことは誰もがわかってるのに、淀見那に逆らうやつはいねぇんだ。一七年前…俺の親父がやった以外にはな」

 

 そう言って嶺二は悔しそうに目を伏せる。

 

 「あの時親父は…集会ではっきり淀見那にこう言ったんだ。『もうこんな野蛮なことはやめろ』ってな。その結果どうなったと思う…集団で暴行されて、まともに歩けない体にされちまった。以来働くこともできず、寝たきりのまんま。うちはずっと村八分で、その皺寄せが全部兄貴にいったんだが、長くは耐えられなかった…もともと病弱だったから。で、今この様だ」

 

 しばらく自嘲気味に笑った後、嶺二は真顔に戻りこう言う。

 

 

 「今回人柱に選ばれたのは──お前の母親の多耶だ。儀式が執り行われたのは…ちょうどお前が九つを迎えたあの日だった」

 

 「……」

 

 うすうす感じていたことだが、夜奏は現実を受け止めきれず、反射的に否定しようとする。

 

 「だっておじさん…かあさんは…ずっと前に僕を捨ててここを出て行ったって──」

 

 「ちげぇんだ」

 

 「……!」

 

 「嘘だったんだ…すまねぇ…。お前の母親はな…外から攫われてきた女だった。子を産ませるための…。その時もうお前を孕んでた。で、お前を産んだ後…淀見那んとこの座敷牢に監禁されて…村中の男らの相手をさせられた…当然気が狂うさ。最後は地下牢に移されてな…でもお前のことは、ずっと忘れちゃいなかった…お前に会いたいと言っちゃ泣いてたさ。死に際の言葉は…『夜奏』…と、ただ一言…。

 

 

 それで…

 

 

 多耶をばらしたのは

 

 

 

 

 この俺なんだ」

 

 

 「……」

 

 

 

 夜奏の顔が完全に表情をなくし、人形のようになる。何か言おうと口を開いているが、もう震える吐息以外には何も出ない。足元から地面ががらがらと崩れ落ちていくような絶望が募り、心は打ち砕かれ…そして壊れ始めていた。そのことにまだ彼自身気づいていなかった。

 

 「いくらやつが憎いと言っても、やつが(おさ)であるからには従うしかない…血肉に関わることは、全て俺の、不浄な輩のする業だったから。生きていくため、家族を守るためだった…お前に悟られないようにとずっと口止めされてきたし、こんな呪符を持たされてきた。お前の力を恐れて、淀見那がわざわざ強力な呪術師に依頼して作ったやつだ…多耶の地下牢にもあちこち貼られてる。見覚えねぇか。茂みの大木にもあったと思うが」

 

 そう言って嶺二は、懐からぼろぼろの呪符を取り出す。何と書いてあるかは分からないが、びっしりと文字らしきものと記号が書き込まれており、そのうちひとつの記号があの大木の幹に血で刻まれていた印と重なった。

 

 「今日淀見那に呼び出されてな……あいつ…お前をよこせと言ってきやがった」

 

 放心している夜奏の目に、驚きと恐怖が走る。

 

 「今年は六年に一度の人柱と、九年に一度の生贄の儀式が重なる年…お前は、その生贄の方に選ばれたんだ」

 

 そこまで言うと、嶺二は「何でかわかるか」と言いながら、嘆くように頭を抱えてしまう。自らを落ち着けるために、片手で顔をひと撫ですると、悲しそうに目を細め、夜奏を指差した。

 

 

 「お前のその目

 

  お前のその力、だ」

 

 

 

 「……なに…それ」

 

 

 

 「生贄は神の依代…神の霊威が宿るもんだとされてる。その霊威にあやかるため、神前に捧げた後、身体をばらして淀見那一族が食べるんだ。あいつらだけに許された特権でな…。つまるところ…お前ほどこの生贄に相応しいやつはいねぇって話だ。…そりゃ、多耶っていう余所もんからお前が生まれてきた時にゃ、淀見那はお前を邪険にしか扱わなくて俺んとこに押しつけたよ。だけどそれがあいつにとって大きな誤算だったんだ」

 

 夜奏は目を瞑る。やがて絞り出すように「それで…」と問いかけた。声は掠れていた。

 

 「おじさん、何て答えたの…」

 

 

 

 「『数日待ってくれ』と言ってある。ただし淀見那からは『断れば命の保証はないと思え』、と。俺や親はまず助からねぇ…。お前は力づくで連れてかれるだろうが…場合によっちゃ例外もあり得る。少しでもやつに協力するふりすりゃ…もしかしたらうまく切り抜けられるかもしれねぇ。そんくらいやつはお前に惚れ込んでんだ」

 

 「……」

 

 「なあお前、どうしたい。命懸けでここを出ていくか。それとも…」

 その先に浮かぶ言葉を嶺二は少し躊躇うが、やはりあえて訊く。

 

 「やつに飼い殺されるか」

 

 嶺二が言い終わるか終わらぬうちに、夜奏は目を開けた。

 

 

 長い沈黙が続く。外で騒めく嵐と、相変わらず囲炉裏でぱちぱちいう火の音だけが聞こえていた。炎のゆらめきが、二人の沈痛な面持ちにさらなる陰影を作り出している。

 

 

 

 夜奏は静かに口を開いた。

 

 「おじさん

 

  僕はもう…

 

 

 

  ここにはいられない」

 

 

 ゆっくり立ち上がり、背を向ける。

 

 「出ていくよ」

 

 嶺二はしばらく黙っていたが、穏やかにそれに答える。

 

 「ああ、賛成だ…お前ならもう一人で生きていける。嵐がお前を守ってくれる。見張りの目を掻い潜って、こんな牢獄みてぇなところからさっさと逃げて、どこまでも逃げ切って…自由に生きろ。俺がずっと夢見てできなかったことだ」

 

 そう言うと、嶺二は改めて少年の背中に真っ直ぐ居直り、今一度その名を呼んだ。「夜奏…」

 

 「今まで親らしいこと、何ひとつしてやれなかった…すまねぇ。この通りだ」

 

 

 深々と頭を下げる。

 

 

 夜奏は振り返らない。顔を見せないのは、その長いまつ毛が濡れていることを知られないため。ひと雫の涙が彼の頬をつたい、唇が震えているのを隠すためだった。

 

 

 「ううん…おじさんはちゃんと僕の『親』だったよ。今まで…有難うね」

 

 

 

 音を立てずに引き戸を開ける。途端に嵐の運ぶ激しい風が、唸りながら冷気をともない吹きつけてくる。少年はそれに逆らうように引き戸を出──雨風に包まれつつ、暗い夜天の下をひとり歩いていく。

 

 

 やがてその小さな背中は、微かな鈴の音の余韻を残して闇のなかへと消えた。

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