「ひとつお前、率直に言ってみてくれ。お前を名ざしてきくんだからちゃんと答えてくれよ。かりにお前自身、究極においては人々を幸福にし、最終的には人々に平和と安らぎを与える目的で、人類の運命という建物を作るとしよう。ただそのためにはどうしても、せいぜいたった一人かそこらのちっぽけな存在、たとえば例の小さな拳で胸をたたいて泣いた子供を苦しめなければならない、そしてその子の償われぬ涙の上に建物の土台を据えねばならないとしたら、お前はそういう条件で建築家になることを承諾するか。さあ答えてくれ、嘘をつかずに!」
(フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』より「大審問官」)
「気がついたか」
近くで男の声がし、夜奏は重たい瞼を開けた。未だ頭痛は止まず、ぼやけた視界の端でいくつもの炎が揺らめいている。
彼は広場の中心にいた。
そして──囲まれていた。
パチ…パチ。
嶺二が薪を焚べていた囲炉裏の炎と同じ音がする。景色が次第に鮮やかになるにつれ、つい先刻闇の底に消えた彼の言葉が頭に響く。
──一七年前…俺の親父がやった以外にはな。
周りには松明を持った男たちが夜奏を囲い、見下ろしていた。松明にくくりつけてある大きな呪符が風に靡く。夜奏は後ろ手に縛られ、跪かされていた。肩からは未だ血が流れ出、腕をつたって地面に滴り落ちる。
「よくもまあ、逃げようなどと思ったもんだ。お前は
前方から聞こえるその蔑むような低い声に、夜奏の目の色が変わる。自分の母を攫い、人柱にし、果ては嶺二たちまで死に追いやった冷酷非道な男。この集落の長にして、野蛮な人身御供を繰り返してきた一家の末裔。
──淀見那…。
囚われの少年は投げられた問いに答えぬまま、静かに目の前に立ちはだかる者を睨んだ。その目にはもはや子供らしさというものは微塵もなく、代わりに見る者の背筋を凍らせるほどの殺気に満ちていた。
「嶺二はどうした。村の男が二人ついていたはずだが?」
「……」
「おら、答えねぇか!!」
囲んでいた男の一人が前に出、夜奏の脇腹を蹴飛ばした。
「……ッ」
夜奏はそのまま横に倒れるが、痛みに耐えるように歯を食いしばり、荒くなる呼吸を抑えながらなおも答えない。
「強情なやつめ」
淀見那が鼻先で笑うと、今度は倒れ込んだ先の近くにいる別の男が夜奏の髪を掴み引き上げた。食いしばった歯の隙間から僅かに悲鳴が漏れる。
「殺したんだろう?森のなかで嶺二を見ていたやつの一人が死んでいた。見たところ明らかに他殺だ。そしてもう一人は銃を持っていた。やつの銃声が聞こえてすぐ崖に駆けつけたら、お前だけがいたそうじゃないか。俺はやつに、嶺二を殺してお前を連れてくるようにと命じたはずだが」
言いながらゆっくり近づいてくる。四十路半ばを過ぎたところか…大柄で白髪混じりの短髪だ。小綺麗な着物を着ている。血紅の月を背にしたその顔のなんと蒼ざめたことか。凍えた目は真っ黒で光を宿さず、歪んだ口元は他人の不幸を喜ぶかのようににやけている。そこから長く鋭い牙が出ていてもおかしくないくらい、血も涙もない面だった。
──この世に…こんな人間が。
そんなことを考えるうちに、今度は掴まれていた髪を急に放され、後ろからどつかれて前のめりになる。
「人殺しめ。そんなに手を汚してまであんな塵屑を庇う意味がどこにある。さっさと俺のところに来れば──」
「あんたには『塵屑』でも、僕にとっては『親』だ」
夜奏が俯いたまま遮った。その刺すような物言いに淀見那は僅かに眉を上げ、小さく「ほう」とだけ呟く。
「お前の母親を殺したのがあいつでも?」
「そうさせたのはあんただろ」
「……」
しばし沈黙が流れる──風が唸り、地面の砂埃が舞っていた。松明の火は寒そうに震え、今にも消えそうだった。
「…僕が人殺しならあんたは何だ。今まで何人犠牲にした」
「儀式のことか」
淀見那が笑い出す。
「犠牲など…とんでもない!皆自分から志願して身を捧げているんだよ、この集落のためにね!そうやって我々は山の神に守られてきた。我が一族は代々その神聖な儀式を受け継いでいる。分からんかね」
言い切らぬうちに彼はすぐ近くまで寄ってきてしゃがみ込み、夜奏と同じ目線になった。
「なあお前、俺のこと勘違いしているんじゃないのか。嶺二に何を吹き込まれたか知らんが、俺はむやみやたら人の命を奪っちゃいない。人を憎んで殺しているわけじゃあないんだ。ちゃあんと儀式に必要な分だけ、それも相応しい候補を選び抜いてやっている。それにな…」
淀見那の声色が最後のほうで急に優しくなった。彼は下から夜奏の顔を覗き込むようにして続ける。
「場合によっちゃ、お前じゃなく別の者を候補にしてもいいとさえ思っている。お前はきれいだ。お前のように夜闇で光る目、不思議な力を持つ子を俺は知らない」
眩しそうに目を細め夜奏の方に手を伸ばすが、夜奏は俯いたまま避けた。淀見那はそんな彼の顎を掴み、無理やり上に向かせる。垂れ下がった長い前髪の間から、強烈な金色の輝きを放つ双眸が淀見那を捉えた。その目を見ていると──こうして捕らえているのに、何故か手の届かない存在に思えてならず、淀見那はどうにかしてこの少年を自分のものにできないかと思うのだった。病的な欲望に駆られ、冷静な判断ができなくなっていく。
「そう、未だかつてそんなやつはいなかった…ひょっとすればお前は、神から我々のもとに遣わされた身なのかもしれない。なんせあの鳧麗山の麓から連れてこられた女の子どもだ、普通じゃなくて当然だろう。もしお前がその力を
淀見那が不気味な薄笑いを浮かべた。夜奏はしばらく淀見那を睨んだままだったが──急に目元が和らぎ、応えるように微笑んで…何事かを呟く。
「……き……」
「何だ」
微笑まれて気をよくした淀見那は、期待を込めて聞き返す。夜奏はまた同じことを呟くが、やはり声が掠れているうえ、小さすぎて聞こえない。
淀見那はゆっくり夜奏の顔に耳を近づけた。そして今度ははっきりとその言葉を聞き取ったのだった。
「お前が継いできたもの、全部…ここで壊してやる」
静かな口調だった。だがこの時淀見那は、夜奏の瞳が瞬時に恰好の餌食を前にした猛獣の目に変わったのに気づかなかった。夜奏の言葉の真意を理解しきれぬまま、何か咀嚼音のようなものが突如身体中に響いたかと思うと、肉を引き裂かれる激痛に襲われる。
「……あ」
ギギギ
たかが9歳の子どもが、殺意を剥き出しに自分の喉に噛みついている…だと…それも決死の覚悟で。淀見那は唖然としてしばらく悲鳴も出ない。やっと状況が飲み込めた時には、もう首から血が溢れ出て意識が朦朧としていた。それでもなお食い込んでくる夜奏の犬歯に、耐え難い痛みと息苦しさが募っていく。
「こ…このッ…」
夜奏を殴りつけ振り解こうにも、頑として離れようとしない。
「…お前ら!なにを突っ立ってやがる!!!さっさとこいつを引き離せ!!」
この一声ではっと我に返った男たちが、寄ってたかって夜奏を棒で殴りつけ始めた。だが、傍で金縛りに遭ったかのように動けなくなっている者が数人。
今この瞬間に、絶対的権力に立ち向かう人間、それもまだ幼い少年を前にして、本来ならばこうすべきだった自分たちの姿をいつの間にか重ねていたのだ。棒が力強く夜奏の側頭部に振り下ろされ、夜奏がついに淀見那から離れた時も、彼らは松明を握りしめ立ち竦んだままだった。
それを見た夜奏は、今し方噛みちぎった淀見那の首の肉を勢いよく地面に吐き出すと、千切れんばかりの声で叫ぶ。
「腰抜け!!卑怯者ども!!間違ってると思うなら何故止めない!!一七年前もそうやって逃げたのか!!!」
見透かされた男たちはビクッと肩を振るわせ、顔面蒼白となった。衝動的に何かの行動に出ようとするが、そんな彼らを淀見那が放っておくわけがなかった。
「おい」
淀見那があの真っ黒な瞳で睨みつけ、低い声で牽制し始める。首からおびただしい血が流れ出ているが、どうやら致命傷ではないらしい。
「こいつの戯言に耳を貸すな。ただの坊主だぞ?それともお前ら、なんだ…この俺に楯突く気か。長が誰だか忘れたのか」
すかさず夜奏が横槍を入れる。
「他人に死を押しつけて、自分たちだけ幸せになれると思うな!!」
淀見那はそんな彼の背中にかかと落としをしたうえ、頭を踏みつけて言った。
「こいつは穢れてる。塵屑のもとで育てられたから汚れ切っちまった。
淀見那がさらに目を剥くようにして睨んだ。言われた数人はたじろぎ、身動き出来ない。
「何してる。早くやれ」
「……」
長引く沈黙に耐えられなくなったのか、やがて数人のなかから一人がおずおずと前に進み出た。
「…で、ですが村長…いくらなんでも、子ども…」
言い終わらぬうちに彼は淀見那に木棒の先で目を突かれた。顔面から血飛沫が上がる。
「アアアアアッ!!」
聞くに耐えない悲鳴にも淀見那は表情ひとつ変えない。
「貴様の意見など求めておらん。子どもだから何だと言うのだ。俺の判断が間違いとでも?長に物申すなどもってのほかだろ」
そう言いながら血のついた木棒の先を残りの数人に振り向ける。血の滴が彼らの蒼白な顔にかかり、悲鳴が上がった。
「この中にこいつの二の舞になりたいやつはいるか。自分の家族を犠牲にしたいやつはいるか。このうす汚い生意気な小僧と引き換えに、何もかも失う覚悟のあるやつは出てこい。自分たちの身が大事なら餓鬼の耳を削ぎ落とせ。俺を待たせるな」
夜奏は地面に顔を押し当てられながら、この惨劇の一部始終を見ていた。
この集落はもう救いようがない──彼はそう思っていた。
…数人はついに決断したようだ。淀見那ではなく、夜奏のほうに向かってゆっくり歩き出す。表情を失い、目は虚ろで、手には研いだ光り物を握りしめ…我が子とそう年頃の変わらない少年に無慈悲な「罰」を下しにいくのだ。
この時彼らは、一体どんな気持ちだったろう。
左耳に冷たい金属の刃が押し当てられ、夜奏は自分が切り刻まれるのが分かった。罪を負った少年は叫んで暴れたが、大勢の大人相手に子供ひとりではどうしようもなかった。
気がつけば地面に大きな赤黒い血溜まりができている。風の轟音はもはや獣の唸り声にしか聞こえず、耳鳴りのように押し寄せてくる。夜奏は思わず目を閉じ、耳を塞ごうとした。だが震える手を顔の横に添えると左耳はとうになく、代わりに掌にべっとりと血がつく。
血溜まりが寒風に吹かれつつ、静かに土のなかへと染み込んでいく。
「連れて行け、例の場所だ」
淀見那のその一声で夜奏は立ち上がらせられた。
──嫌だ!行きたくない!離せ!
必死に身体を捩り抵抗するが、無理矢理広場の奥にある坂の方へ引き摺られていく。
彼は知っていたのだ。
これから行くところは、母が最後にいたあの地下牢。そこにあるのは…もはやただの死などではなく、それをも遥かに凌ぐ絶望と苦しみ。閉ざされた闇にひとり涙し、世を憎み続け、夢と現実の境を永遠に彷徨わなければならない。
かごのなかに囚われ続ける運命なのだということを、彼は知っていた。
──淀見那を殺せなかった。
──元凶を断てなかった。
この時抱いた無念な思いは、その後鬼になって尚悔いとして残り続けた。そしてより大きな憎しみへと成長していくのである。