恐れ谷に吹く風   作:がじゅ丸     

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ご無沙汰しております…。

この一年、パワハラに悩みメンタル崩壊しておりました…スミマセヌ。




眠れぬ怪物 一

翠の瞳 金の秘宿し

夜に咲きて 月下に籠もる

いづこより声満ち

誰か呼び 誰か還す

後ろの正面 贄の影

眠れぬ子供 九重の怪

 

 

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地下牢の聖

 

夜奏視点

 

 その地下牢は、集落の外れ──山の斜面に近い淀見那の屋敷の敷地内にあった。一見すれば何でもない納屋だ。淀見那の母屋の裏手に寄り添うように建てられている。間口は三間、奥行きは二間半ほどの小さな建物で、 屋根は黒ずんだ杉皮葺き。ところどころに苔が生えていた。

 壁は土壁に竹小舞を塗り込めたもので、長年の風雨と湿気でひび割れ、藁が露出している箇所があった。扉は横開きの木製引き戸で、節の浮いた板が斜めに打ち付けられている。取っ手はなく、南京錠がかけられた鉄の環がひとつだけ、無骨にぶら下がっていた。

 納屋の周囲には背の高い笹や雑草が生い茂り、人の手が入っていないことを物語る。裏山の斜面に沿って建っているため、納屋の床下に自然と空間ができ、そこに地下牢が掘られたのだ。

 扉を開けると、朽ちかけた米俵の山が目に入る。だがその裏にひときわ古びた引き戸…木目が黒ずんで、節の間には白いカビが網のように広がっていた。 戸の中央に貼り紙がある──「夜奏」を左右反対にし、さらに上下を入れ替えた文字…その下には、嶺二おじさんが持っていた呪符の記号が血のようなもので書かれていた。赤錆にまみれた南京錠がたくさんぶら下がっている。ひとつひとつが重たそうで、この先には現実と引き離された世界があるのだということを感じさせた。淀見那が鍵を外すたび、金属が軋む音が辺りの静寂を裂いていく。

 引き戸の向こうには、冷たい土の匂いと、湿った布のようなカビの臭気、それから…何とも堪え難い腐敗臭が立ち込めていた。今にも消え入りそうな明かりが、天井から垂れ下がる蜘蛛の巣を照らし出している。階段はない。土を踏み固めた急な斜面を滑るように降りていく。足元がぬかるみ、踏みしめるたびに水を含んだ嫌な音がした。

 やがて六畳ほどの地下牢が見えてくる。鉄格子で隔てられ、そこかしこにあの呪符が貼られている。天井はわりと高く、梁が露だ。壁は土壁に藁が混ぜ込まれたままの荒い仕上げで、ところどころに湿気で剥がれた漆喰の塊が転がっている。隅には鉄の枷が打ち込まれ、錆びた鎖が床に絡まるように横たわっていた。

 空気が重たい…息を吸うたびに喉の奥がざらつく。どこかで水がぽたぽた滴り、時間の流れを告げているようだった。

 

 

 ドサ!

 

 僕は乱暴に檻の中に放り込まれた。起きあがろうとすると間もなく、恐ろしく醜い背の曲がった男が現れ、僕の首と両手首を鎖に繋いでいく。必死に抵抗しようとも無駄だった。肩や耳からはどくどく血が流れ出、もはや力尽きようとしていた。

 

 「無様な狂犬め」

 

 淀見那が鼻で笑いながら僕の懐に手を忍ばせた。チリンと音がし、彼の手が探り当てたとばかりに止まる。するっと抜くと、指先に鈍く光るものがある。

 

「いつも大事に持っていたのは、これか」

 

 暗闇の中で彼の薄笑いが浮かび上がり、その前で鈴が揺れた。

 

 「返せ!!!」

 

 咄嗟に淀見那に飛びつこうとするが、鎖を手にした背虫の男にぐいと引き戻されてしまう。後ろに引き摺られながら尚も踏ん張ろうとすると、淀見那が嘲笑った。

 

 「威勢がいいな。悔しいか!返してほしけりゃ俺の言うことを聞け」

 

 そう言いながら、彼は鈴を懐に仕舞い込む。

 

 「誰がお前なんかの…」

 

 「なるさ。皆俺の言いなりだ──最後は涙を流して感謝する。考えてみろ!神の霊威を得て村を救える。豊かにできる。そのための犠牲なんだ。実に誇らしいじゃないか!」

 

 淀見那が両手を広げ狂気に満ちた笑みを浮かべた。

 

 「本気で言ってんのか、あんた…」

 

 呼吸を荒げながら僕は問うた。憎しみで一杯になった目にうっすら涙が浮かび、光っている。

 

 「感謝するやつなんか一人もいない。皆苦しんで死んでんだ。あんたのやってきたことは、ただの人殺しだ!馬鹿げた信仰のために命を弄んでるだけだろ!皆がどんな気持ちで最期を迎えるか知らないくせに!」

 

 「はっ…分かったような口を聞くな。小僧っ子が!」

 

 「人をモノ扱いするな!!あんたの道具じゃない!!」

 

 「いつまでそうやって悪あがきできると思ってる?」

 

 左の口角だけを上げながら、淀見那は僕の鎖を掴んだ。

 

 「ここに来た意味がどういうことか分かっていないらしいな。教えてやろう。お前はこれから、村の穢れや災厄を一身に背負い、それを祓うための儀式を施される──聖別だ。嶺二から聞かなかったか?この村では九年に一度、山神の目が開く。土も口を開ける。その目や口に血を注ぐんだ。だが、ただの血では足りない。神は“かたち”を欲する。それが贄──お前の身体、命の証だ」

 

言いながら淀見那は、僕を指差す。

 

 「お前は“人”ではなくなる。 “名”を奪われ、“血”を捧げる。そうして初めて、神はお前を喰らい村を生かす。そして今度は、お前の身体を俺が取り込む。何故か分かるか?神が俺に宿るからだ。俺の父も、その父も、皆そうしてきた。 そのたびに村は潤い、田は実り、疫は退く。俺はいわば神の器だ。お前はそのための“かけら”に過ぎん」

 

 そこまで言うと、淀見那の目が虚ろになり、声が地の底から響くように重々しくなった。

 

「お前の聖別は特別過酷にしてやろう。そうだよなあ?あの呪われた嶺二の一家に育てられた。俺に楯突き殺そうともしたんだ。その分地獄のようになる。当然だろ。お前の肉を裂き、魂を削る。骨の髄まで祓い尽くしてやろう」

 

 鎖が軋む音と、淀見那の喉の奥で笑う声が地下牢に響いた。

 

 しばらく間を置いた後、淀見那は静かに腰の袋から何かを取り出した──黒い布に丁寧に包まれている。彼はそれを僕の前に差し出し、ゆっくり布をほどいた。

 

「見ろ。お前の母親だ」

 

 小さなガラス瓶…中に眼球が二つ、濁った液体に浮かんでいた。どこか慈しみを湛えたままの、橄欖石色の眼だ。

 

 「お前が“贄”になると決まったとき、まずはその穢れの根を断たなければならなかった。それが多耶だ。最後までお前に会いたがっていた。あの女の眼はいつもお前を見ていた。愛情か?いや、呪いだ。だからこうして残しておいた。お前が“贄”として目覚めるその時のためにな。綺麗だろう?生きていた時のまんまだ、全然朽ちない。泣いてるように見えるか?いいや。喜んでるのさ!お前が“選ばれた”ことを誇りに思ってる。『逃げるなんて馬鹿なことは考えるな』ってな」

 

 濁った液体の中で、血まみれの眼球がゆらゆらと揺れていた。

 

 僕を見つめている。

 

 その悲しげに訴える瞳に、胸が締め付けられ、呼吸が浅くなっていく。

 

 ──夜奏。

 

 川岸で聞いたあの声が、頭の中で響いた気がした。それと同時に、目の前の血塗れの眼球が、あの赤い夜空の月と重なっていく。

 

 頭が…痛…い…

 

 ズキズキと脈打つ。

 

 掌がじんわりと汗ばみ、指先が震え始めた。喉の奥が焼けるように熱い。何かがそこから這い上がってくるようだった。

 

「……かっ……」

 

 唇の端が震える。

 母の優しい声。あたたかな手。そばにあったはずのものが瞬時にかき消され、瓶の中の“それ”に戻った時──声が喉を突き破って飛び出した。

 

「母さんがそんなこと言うわけないだろう!!」

 

 僕は鎖を引きちぎらんばかりに立ち上がった。全身が怒りに震え、目の奥が焼けるように熱く、涙が溢れ出ていた。

 

「殺す!!殺してやる!!!」

 

 あらん限りの声で叫んだ。鎖が手首に食い込み、痛もうと関係ない。とにかく目の前にいる人間が憎くて仕方なかった。

 

 「ははは、やってみろ小僧!お前には特別な力があるんだろう?それで鎖を外してみろ。じゃなきゃ俺を殺せんぞ。それともなんだ?あのお方が作られた呪符の力には敵わないってか。ははは!」

 

 淀見那は笑いながら背虫の男と鉄格子の外に出て、乱暴に扉を閉めた。そしてその隙間からぎらついた片目を覗かせ、こう言い放つ。

 

 「俺をさんざん憎みながら、最後まで苦しみ抜け。そうしてお前の肉体に力が宿る。神の霊威だ」

 

 ──俺をがっかりさせるなよ──

 

 その言葉とともに、彼は暗闇に姿を消した。背虫の男もついていった。ばらばらな足音が、次第に遠のいていく。

 

 「はっ…はっ…」

 

 僕は肩で息をしながら、淀見那が去った方を見ていた。全身の震えが止まらない。涙も頬を伝わったまま。今思えば、それは怒りだけではなかった。悔しさ、絶望、恐怖──色んな感情が入り混ざり、頭の中がめちゃくちゃになっていた。

 

 ドクンドクン

 

 早い鼓動に合わせるかのように、左耳から血がポタポタと滴り落ちる。気がつくと今自分が立っているところに血溜まりができていた。

 

 土壁の一角が目に入る。爪で引っかいたような無数の浅い傷…よく見てみると「タスケテ」「母」「寒い」。震えるような文字がいくつも浮かび上がっている。別の箇所には日を数えたような正の字の刻みがびっしりと並び、最後の線が途中で止まっていた…それが彼あるいは彼女の最期だったか。今までの贄たちの、声にならぬ叫びが聞こえてくるようだ。そこには微塵の喜びや幸せも感じられない。

 床の隅に丸まった古い布の切れ端。隙間に挟まった毛髪の塊。どれも色褪せて干からびているが、子どものものも混ざっている。鎖の根元には黒ずんだ染みがあり、所々乾いた土が崩れ、下から赤黒い跡がにじんでいた。

 

 僕は目の前の現実を否定するかのように、地面から顔を逸らした。

 

 ふいに、あの断崖の風景が目に浮かぶ。唯一生きていけるはずだった道…ただひとつ、自分に残された自由の道。その先にはきっと洞窟があっただろう。洞窟を抜けて人里に出、それから、それから。

 

 けれどもう…想像したところで意味はない。その道は断たれた。自分で断ってしまった。今ここにこうしているのは、自分自身が選んだことだ。淀見那を許せなかった。嶺二おじさんを見捨てることなんてできなかったんだ。

 

 分かっている…分かっているはずなのに…

 

 

 

 なんでこんなに…苦しいんだ…

 

 

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 それからというもの、聖別と称する拷問の日々が続く。一日中背虫の男に殴られ蹴られ、水責めに火箸…あらゆる手段を尽くし、蔑まされ、罵倒され、痛めつけられる。鉄格子の外で傍観する淀見那は、そうして僕の心が折れるのを待っていた。僕の身体に痣ができ、血が滲む度に彼はこう言った。

 

 「今ならまだ間に合う。お前の身代わりはいるぞ」

 

 要するに考えを改めよ、ということだ。自分の右腕になれ、と。

 

 だが僕は受け入れなかった。

 

 たとえ囚われの身になろうと、心までは決して支配されない。そういうことが分かるにつれ…淀見那の眼差しはいっそう病的になった。募る腹立たしさから、余計に僕への暴行が激しくなっていく。

 

 僕はひたすら耐えた。

 

 

 幼い頃から殴られ慣れていたから、痛みには強いつもりだった。

 

 

 でも…眠れなくなった。

 

 

 

 窓がなく、昼も夜も光が届かない地下牢。いや光が見えたとて、この目にはもう真っ赤にしか映らないが。光が恋しかった。あの太陽や月の輝きをもう一度目にする日は、一体いつ来るだろう?

 

 やるせなさと共に目を瞑る。

 

 …やっぱり眠れない。

 

 静けさは安らぎをもたらさず、闇は束の間の眠りすら許さない。世界が凍りつき、希望など永遠に訪れない気がした。

 

 

 寒い…

 

 

 

 夜になると一層凍える。震えが止まらず、傷口から流れ出る血がみるみる赤黒くなっていく。疲れ果ててまた目を閉じれば、瞼に川岸の茂みや断崖の光景。吊るされていた母、谷底へ落ちていったおじさん…。

 

 すぐそばで苦しんでいた人に気づけず、助けたかった人も助けられなかった。

 

 そんな自分の無力さに耐えられず、思わず叫んで目を開ける。

 

 するとそこは、暗くて寒い鉄格子の中。首や手には冷たい鎖…重たい。苦しい。大好きな夕暮れや星空はもう見えない。

 

 次第に僕は、夢か現実かの区別がつかなくなっていった。自分が生きているのか死んでいるのかさえ分からない。僅かに残った正気に縋りつくように歌を歌えば、もうゾッとするほど虚ろな声しか出なくなっていることに気がつく。愕然として、また絶望した。

 

 旋律が僕の中から消えてしまった。

 

 泣いた。

 

 その繰り返しだ。

 

 ずっと終わりのない悪夢を見ているようだった。

 

 

 父の面影

 

 ある夜のことだ。

 

 

 いつものように寒さに震え、傷口に沁みる湿気に耐えていると、次第に耳元で囁く声が聞こえてくる。

 

「やめて…」 「…痛い」「助けて…」「寒い…」

 

 自分の声ではないはずなのに、自分の喉奥から漏れているような感覚だった。

 

 やがて視界がぐらぐらと揺れ、闇の中に誰かの記憶が静かに流れ込んでくる。それが映像のようにぼんやりと浮かんできた。

 

 最初に見たのは、泣きながら引きずられる女。鉄の枷に繋がれ、血を吐きながら何かを守ろうとしている。その女の顔が母と重なった。

 

「…この子だけは…」

 

 その声とともに場面が切り替わり、今度は胸に焼きつくような映像が走る。

 

 地下牢の扉の前に立つ集団。その中にひとり…影が周りの者と逆に伸びている人物がいる。黒い麻布を何重にも巻いた衣を着て、顔が縦に半分隠れている。見える片目は異様に大きく、白濁しているが、瞬きすると真っ赤に光る。手には骨でできた数珠。動くたびにカラカラと乾いた音が鳴っていた。口に赤土を塗った護符を咥え、こんな言葉を発していた。

 

 「これからお前が産む子は、目を閉じても見える。耳を塞いでも聞こえる。口を縫っても声が漏れる。だから封じなければならぬ。そしてゆくゆくは…」

 

 複数の声が重なったような響きだった。低音と高音が同時に鳴る、耳に残る声だ。誰に向かって言うわけでもなく、胸の内で密かに呟いているふうだ。

 最後の言葉まで聞き取れぬうちに、またもや場面が暗転し、今度は泣いて縋り付くような母の声だけが闇に響いた。

 

 「お願いです…私たちを元いたところに帰らせてください。あの子が九つを迎えるまでに山に帰らなければ──正しく導いてやらなければ、大変なことが起きてしまう…!」  

 

 

 大変なこと…何のことだろう。

 

 

 分からぬまましばらくの沈黙が続いた後、次に映ったのは霧深い山奥の光景だ。

 

 

 揺れる木々の影の中に、誰かの走る足音が聞こえる。次第に息遣いが大きくなっていく。

 

 

 

 ひとりの少女が、泥濘に足を取られながら必死に何かから逃げていた。齢十六といったところか。血の気が引いた顔で、泣いている。脇腹に深傷を負い、夥しい血が足元まで伝い流れ、彼女の通った跡を赤く染めていく。

 

 

 僕はそれが母だとすぐに分かった。今見ているのは、彼女の過去だ。

 

 

 背後から足音が迫ってきている。おそらく二名だ。

 

 

 「逃げても無駄だ!お前、儺負人だろ。ちゃんと役目を果たせ!でなきゃ村が祟られるだろうが!」

 

 「血が勿体ねえ。儀式のために取っとくもんだろ!」

 

 寄進人たちの笑い声がする。見窄らしい格好で、頭に布を巻いた男たちだ。血の跡を辿い母を追いかけている。

 

 本来儺負人は、災厄を身代わりに背負う“神男”としての役割を担う存在のはず。つまりは男だ。でもこの時対象にされたのは、女の母だった。おかしいな、と僕は思う。でもそのうち、母の故郷の村で異例事態が起こっていたことを感じ取る。疫病や事故で男子が相次いで亡くなり、 儺負人にふさわしい年齢の少年がいなかったのだ。だが、年に一度の“儺の祭”はどうしても欠かせない。村長の家系は代々“儺負人”の選定を担っていたが、村長の息子が病弱なため儺負人にできないと判断され、年の近い僕の母が選ばれた。 表向きは「神意による選定」とされたが、 実際は村長一家の都合による身代わりの強要だった。

 

 母は自分が“何かの代わり”にされることを悟り逃げようとしたが、寄進人たちに捕まった。それでも儀式の準備中に必死に抵抗し、深手を負いながら逃げる。そのうちに、人の気配のない山奥へと彷徨い込んだのだ。

 

 

 「ほうら、見えてきたぞ!」

 

 「とっ捕まえてやる!ただじゃおかねえから腹括っとけ!」

 

 猟犬のような寄進人どもは、母の後ろ姿を視界にとらえて目をぎらつかせ、猟奇的な笑みを浮かべていた。

 

 

 ひどい出血で意識が遠のく母。

 

 もはや走れず、近くの木に捕まりながらふらふら歩いている。

 

 前方には濃い霧が立ち込め、先が見えない…。

 

 ついに足が動かなくなり、立ち止まってしまった。

 

 

 ──もうこれ以上だめだ…追いつかれる。

 

 

 

 そう思ったときだ。

 

 

 

 突如地面が大きく畝り、木の根や蔓が生き物のように顔を出す。そして一気に後方を走る追手の足に絡んでいく。蔓の先が彼の足首に鋭く突き刺さった。けたたましい叫び声と共に骨の砕ける音がする。悲鳴の主がそのまま土の中に引き摺り込まれていく。

 

 

 「おい、大丈夫か!?」

 

 

 もう一人がそれに気づき、肩まで土に埋まった相棒を助けようとするが、今度は上方から伸びてきた蔓に巻きつかれ、引き上げられてしまった。寄進人はそのまま激しく木の幹に叩きつけられ、首を絞められる。やがてばたついていたその足が止まり、だらんとなった。風に吹かれ、吊るされた身体が脱力しきったまま、虚しく揺れる。もう一人も既に土の中だ。

 

 

 この様子を、息絶え絶えながら視界の端で捉えた母は、急に力が抜けたようになり、気を失って倒れ込む。足元の土が深く沈み、彼女は山の斜面を転がり落ちていく。

 

 

 斜面途中の岩にぶつかる寸前──

 

 

 近くの木々から枝葉が彼女目掛けて勢いよく伸び、受け止めた。

 

 葉の擦れる大きな音がする。

 

 

 たくさんの香りの良い葉に包まれ、母は僅かに意識を取り戻した。

 

 

 

 ──だ…れ…。

 

 

  

 チリーン……

 

 

 ふいにどこからともなく澄んだ鈴の音が響き渡った。その余韻に浸りつつ、細切れの呼吸の中で目をうっすら開けると──

 

 

 

 誰かが斜面の上に立っていた。流れるような霧の中、その影だけがぼうっと浮かび上がり、母に向かって片手を伸ばしている。

 

 

 人か。

 いや、違う。

 

 

 

 霧が晴れていく。それにつれて合間ができ、影の正体が明らかになる──顔はいまだ手に隠れてよく見えないが。

 

 

 全身が蔓の葉に覆われていた。何本かの蔓が頭を包むように絡みついており、絹糸のような長い白髪が微風に靡く。その度に葉の擦れる音が僅かに聞こえる。

 

 頭部の蔓や毛髪から大小様々な光玉が浮かび、その一つ一つに眠るような子供の顔がついていた。まるで泉が湧くかの如く常に増え続け、微かに色を変えながら震え、囁くように揺れている。

 

 手指の付け根や手の甲からは細かい根や茎が生え、身体を覆う葉が彼自身から出ているのが分かった。

 

 

 やがて、彼は片手を静かに下ろす。その手の背後に現れたのは、青白く美しい顔。橄欖石のような淡い緑の双眸──その中心に燃えさかる金の瞳孔があり、真っ直ぐに母を見つめていた。目元には山の影と光が同時に宿っているように見える。滑らかな肌は、樹皮のような質感と人の肌のあわいを行き来していた。顔や首にはいくつも葉脈のような模様が走り、上方に脈打つように緑に光り輝く。頭の光玉はこの葉脈を通り生み出されているようだった。

 

 全身からは山吹色の淡い光がにじみ出、霧に反射している。暖かく、けれどどこか…命の終わりを告げる夕陽のような寂しさをも帯びていた。

 

 この人間とも獣ともつかぬ存在…母は前に聞いた、あることを思い出す。

 

 

 霧深い山の奥

 

 そこに棲まう黄泉の魂

 

 無数の頭を持つ大地の化身

 

 その姿を目にした者は、必ず…

 

 ま…さか…

 

 

 でも、私はもう動けない

 

 死ぬんだ

 

 

 母は葉に包まれたまま、ただ何をするでもなく彼を見ていた。顔がだんだんと土気色になり、脇腹を押さえる手が血で真っ赤に染まっていく。

 

 

 上にいる者が、静かに降りてくる。まるで時が止まったかのように、夢心地な光景だ。足取りが優雅で、全く重さを感じさせない。急な斜面を軽やかに歩いている。彼が通った跡には、種々の植物が芽吹き、鮮やかに成長していく。

 

 

 すぐ近くまで来た。背が高い。白髪なのに若い男のようだ。眩い瞳で母を見下ろしている。炎のように燃えさかる、それでいて氷のように冷たい眼差し──一見、何の感情も宿していないふうだ。だが…目の前の命が風前の灯なのを悟ったのだろう、彼は僅かにその目を細める。瞳の奥で感情が密かに揺れているのが分かった。

 

 

 そよ風が吹き、しばし二人の間をゆるやかに通り抜けた。母はすでに虫の息で、重たい瞼を閉じようとしている。身体が冷えきり、痛みさえ感じなくなっていた。

 

 

 

 金目の怪は、ゆっくりと自分の頭に手を伸ばし──光玉の一つを取った。チリンと涼やかな音が鳴る。その光玉を手に母の元へと歩み寄り、かがんで…そっと光玉を脇腹に近づけた。

 

 光玉が輝きを増し、水に溶けるように広がり、母の傷口へと吸い込まれた。母の全身がほのかに光り、次第に失われた体温が戻っていく。傷口も塞がった。母の頬に赤みが差し、閉じかけていた瞼が開かれ、瞳に再び生の輝きが宿る。

 

 母は驚いた。これは夢ではないかと思うが、現実らしい。

 

 ──まだ…生きている…

 

 

 …脇腹に手をやり、傷を確認しようとすると、金目の怪が母をゆっくり抱き上げる。戸惑う母に構うことなく、静かに斜面を上り始める。白檀の良い香りが辺りに漂っていた。暖かい、心が安らいでいく…ずっと昔に忘れてしまった感覚が蘇るようだった。ふと見上げると、自分を運ぶ者の横顔が間近に見え、また母の胸が高鳴る。瞳がきらきら輝き、淡い色の長いまつ毛がそれを縁取っていた。顔や首元の皮膚に根づき、頭を覆う蔓──やはり異様で人間離れした感じがする。敢えて言うなら、自然に侵食されていく人間の肉体というだろうか。だがそこに恐ろしさはなく、ほの明るい悲哀と慈愛、気高さがあるように母には思えたのだった。

 

 

 母はずっと、金目の怪の横顔を見つめていた。

 

 

 斜面を上り切ると、金目の怪は足場の良いところを見つけ、静かに母を下ろした。地面に立った母は、いまだ我が身に起きたことが信じられず、まごつきながら辺りをきょろきょろする。そのうちに斜面の下が目に入った。覗いてみると、滑落すれば間違いなく死ぬ角度、高さ。「自分はこんなところを転げ落ちたのか…あの岩にぶつかっていたら…いや、そもそも私は瀕死だったんだ」などと思っていると、そばで鳥の鳴き声がする。

 

 振り向くと、今まで見たこともないような美しい鳥が金目の怪の肩に留まっていた。白くて大きい。目が青く澄みきっており、尻尾が長い。肩の主に挨拶しているふうだ…かなり懐いている。それを見つめる主の眼差しがまた、とても穏やかで優しかった。目元がゆるんで、親しい友人に話しかけているようにも思える。

 

 

 「あ…あの…」

 

 先に言葉を発したのは、母だった。白い鳥が翼を広げて飛び立つ。金目の怪がこちらに顔を向けた。柔らかな眼差しのままだ。その瞳に吸い込まれそうな感を覚え、母は内心動揺するが、それを覆い隠すかのように深々と頭を下げる。

 

 「助けていただいて、有難うございました」

 

 

 どんな反応が来るか分からず不安げに顔を上げると、金目の怪は表情を変えずにいまだ母を見つめたまま、何も言わない。だがやがて──母の背後を静かに指差し、その口を開いた。

 

 

「……この道を、どこまでも降りてゆけば、やがて人里に至ろう。安心して行かれよ。そなたの命はもはや誰の手にも委ねられてはおらぬ。苦しめた者どもも、もうこの世にはいない。ただし…」

 

 深い谷底から湧き上がる霧のように低く、けれど澄んでいる声だった。そこに若干の厳しさが伴っていく。

 

 「ここで起こったことは、誰にも口外するな。言えば命はない」

 

 風がざわざわと逆巻いた。彼は風に髪を靡かせながら、ゆっくりと背を向け、行こうとする。

 

 「待ってください…!」

 

 金目の怪の歩みが止まった。

 

 「ここに…あなたのお側にいさせてください。お願いします!」

 

 金目の怪は後ろ姿のまま沈黙したが、こう答えた。

 

 「…そなたは人間だ。ここにいるべきではない」

 

 「それなら!私はあなたの供物になります。いっそのこと、その方が良い…!」

 

 「我は供物など好まぬ。人の世に帰れ」

 

 金目の怪の声が冷たくなる。

 母は地面に泣き崩れた。

 

 「もう…帰る場所がないのです。人の世は嫌です…私は疲れました。ここにいられないなら、死んだほうがましです…人間などやめてしまいたい」

 

 啜り泣く声が続いた。金目の怪は振り返り、涙を流す母を見つめる。

 

 

 そして…

 

 

 

 「人の生は、一度限りと聞く」

 

 思わぬ言葉に母が金目の怪を見上げると、彼は柔らかな眼差しに戻っていた。

 

 「……そなたの願いが、ここに留まることならば、好きにするが良い…そなたの心が赴くところに道がある。ただし、この身は人の理を離れしもの。 共に在ることは、時に悲しみをも連れてこよう。それでも構わぬか」

 

 母は涙に濡れた顔に希望を取り戻し、目を輝かせて「はい」と返事をした。「多耶と呼んでください」

 

 金目の怪の顔が綻ぶ。

 

 「我が名は九々頭だ」

 

 その笑みは──沈みゆく太陽のように優美で儚げで…温かく母を包み込んだのだった。 

 

 二人はその後、約十年の時を共に過ごした。穏やかで幸せな時間だった。九々頭は母に山のことを教え、夜になるととても美しい歌声を聞かせてくれた。満天の星空がまどろんでしまいそうな、心地よい子守唄のようだった。

 そして十年目になるころ、母は九々頭の子──つまり僕を身籠る。その時からだ…九々頭の身体が徐々に透けるようになったのは。人を助けたこと、人を愛したことで、太古の昔から生き永らえていた彼の命は有限となった。そうなることをきっと最初から分かっていただろう。それでも、彼は母と一緒になることを選んだのだった。

 

 最期の時──淡くなっていた九々頭の身体がゆっくりと光に包まれていく。山吹色の輝きが葉の衣を透かし、緑の葉脈がまるで命の川のように、静かに流れを止めていた。

 

「……そなたは我に、初めて己が生を歩む時を授けてくれた──有難う」

 

 彼の声は、もう風の中に消え入りそうだったが、この上なく温かかった。頭に浮かぶ光玉がひとつ、またひとつと宙に舞い上がり、消えていく。

 母は、泣きながら震える手で彼に触れようとするが、もうそれは叶わない。そんな母に九々頭は優しく微笑み、胸元に小さな光玉を浮かばせる──最後の光玉だった。それは山吹色の輝きをまといながら、母の掌に静かに落ち、鈴へと変わった。澄んだ音が辺りに響き渡る。

 

 「我はいつもそなたの側にいる。思い出してくれ。そなたがこの鈴を鳴らす時、我はどこかできっとそなたに応えよう。たとえ姿がなくなっても、風のなか、木々の騒めきに、そなたの声を聴こう」

 

 そう言うと九々頭は、霧のような光の粒となって消えていった。母は掌に残されたその鈴を、いつまでもそっと胸に抱きしめていた。

 

 

 

 不死の存在が、人間を愛することで、命を捨てる──それは永遠の孤独よりも、誰かと共に過ごす一瞬を選ぶということだった。この世界のすべての時をひとりで生きるより、誰かとひとつの命を分かち合いたい。不死の者が愛を知った時、その者が生きる永遠の世界は、初めて“終わり”を告げたのだった。




[裏解説]

九々頭(金目の怪)

 無数の頭──九十九の光玉を頭に戴く神秘の精。命の交換を行いながら、霧深い鳧麗山を守る不死の存在。遥か昔に人間だったが、九つを迎えた年の冬至に忽然と村から姿を消した。寒い吹雪の日だった。人には見えないものを見、聞こえないものを聞くことができ、恐れられていた。

 鳧麗山の麓には次のような石碑が立っている。

「此処に坐すは 山の御影 祈りを受けし子 神を宿し還らず 風に名を問ふなかれ 声を返せば 森は眠らず」

 石碑の文字は風化している。何のための石碑なのか、詳しく知る者はいない。

 モデルは866年(貞観8年)に和歌山で生まれた“白人の子”。『本朝通鑑』に記録あり。髪も肌も白く、夜は見えるが昼はまぶしくて見えず、外に出られなかったと言う。第六の勅撰史書である『日本三代実録』には次のような記述がある。(紀伊國言へらく、『伊都郡の人六人部由貴繼、白人男女二人を生む。男は年二歳、長二尺四寸、女は五歳、長三尺一分なり。 兩兒生まれて肌膚、鬂髮、眉、眼、身を擧げて純白雪の如し。因りて暗夜には見るを得れども、 白日には向ふこと能はず。父母隱藏して養成へり。今其の形を圖きて進る』と)
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