Epigraph
私たちが目覚めると ―― 辺りはどこも靄に覆われ、 魂は懐疑と憂愁にしめつけられる。 過去の何もかもが欺瞞に思え、未来は色のない空虚に思える。
(イワン・クリュシニコフ『悲歌』)
光の届かぬ谷底で、得体の知れぬものが蠢いている。絶えず何かを欲して止まない「それ」は、地響きのような声で苦しみ呻く。
「かわいい
暗闇の中で無惨の冷たく優しい声が響く。
黒い「それ」は軋む音を立てながら、腕のようなものをひたすら月に向かって伸ばしている。
「美しい月夜だ・・・まもなくお前のもとに『生贄』が集まる。自らな・・・せいぜい『晩餐』を楽しめ」
あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛
閉じた声帯から絞り出されるような、声ならぬ声。
「この見捨てられた谷は、水も渇れて飢えに苦しんでいる。お前はその谷を人の骨で築き、人の血で潤してきた。『生贄たち』に死の歌を聞かせてやれ。やつらが拠り所にしている愛や友情など、すぐに壊れる。だが恐怖は永遠だ」
邪な笑いとともに、鬼の王は去っていく。
「身も心も蝕んでやるがいい。鳥の羽を一枚ずつもぐようにな・・・」
▷▷▷
目まぐるしく変わる景色。町の看板、家々、山、川ーー何もかもが飛ぶように過ぎ去る。北を目指してひた走る。さながらその姿は風そのもの。すれ違う者は目で捉えることすらできない。突風に驚いて皆腰を抜かす。木々はしなり葉を散らす。槍嶽山まであともう少し・・・。
槍嶽山から一里ほど離れた地点で、実弥は立ち止まり、羽織の前を開けた。
「爽籟!この辺りで任務に当たっている隊士が何人かいるはずだァ。隠も含めて手の空いたやつを探してこい。見つけたら槍嶽山の山道入り口で待てェ」
爽籟は力強く一声鳴き、勢い良く飛び立つ。実弥は再び走り出した。ここから先は、最短で行くために森に入らなければならない。位置と方向を正確に把握するため、樹頭まで登り、そのまま素早く飛び移りながら進む。
やがて遠くにぼんやりと槍嶽山が見えてきた。何か言い知れぬ気配を感じ始める・・・今までにない鬼かも知れない。その麓に見える小さな砂歌町もこれまで通ってきた町と違う。廃屋同然の家がいくつも並んで見え、町全体が死んでいるかのようだ。そのまま放っておけば、あの隊士が話していた谷近くの集落と同じように、まもなく廃墟と化してしまうだろう。実弥は再び羽織の前を開けた。
「お前の主人が行ったところまで案内してくれ」
松衛門が飛び立つ。二つの影が、月明かりに照らされた森の木々の上を翔けていく。
▷▷▷
実弥が槍嶽山に向かった頃。炭治郎は泥だらけになりながら荒道を歩いていた。山道は入り口から木々が鬱蒼と生い茂り、月明かりもほとんど届かず、地面のぬかるみに何度も足を取られて転んだ。やがて左手に見えてきた血文字で書いたような「立入禁止」の大きな看板と、行く手を遮るように倒れている六本の石灯籠を越えてからは、腐った肉と血が混ざった匂いが絶えず漂ってくる。久しく人の手が入っていない道は藪と化しているのに、獣の棲んでいる気配がない。山育ちで澄んだ空気を知っているが、この澱んだ重苦しさは何なのか。ジメッとしていて、肌にまとわりついてくるようだ。
「無惨の姿を見失うまい」ーー行く先をずっと睨みながら進んでいると、霧に包まれた何かがうっすらと見えてきた。それは朽ち果てた合掌枠の隧道のようで、東屋状の木の庇で作られている。中の空間は狭そうだ。壁を支える柱状の支保工が剥き出しになっている。無惨は既に隧道の向こうで薄笑いを浮かべていたが、炭治郎が入り口まで来るや背を向けて霧の中に消えてしまった。
「クソッ」
炭治郎は意を決して隧道に入る。隧道の中は暗くて冷たく、かび臭い。出口に見える景色は、これまでとは違う異界に思えた。白い霧に覆われた、色のない空虚な世界。この隧道を抜ければ元には戻れなくなるかもしれない。そんな不安さえ過るが、今更引き返すことなどできぬ。
走り抜けたその先には、まるで「生」など存在しないかのような世界が広がっていた。霧の中に僅かに垣間見える不気味な岩場。それ以外には何もない。音もせず、静まり返っている。
「しまった…!」
無惨を見失った…日輪刀を構えつつ、少しずつ動きながら辺りをうかがう。左に切り立った崖に沿って下降する道が続いている。あいつはそっちに行ったのか!?
「こっちだよ」
びっくりして声がする後方の右を振り返ると、五歳くらいの小さな少年がじっとこちらを見ている。痩せこけて顔は蒼白く、髪もぼさぼさだ。今時見ないようなずたぼろの野良着を着ている。どこかの農村の子供だろうか。なぜこんな夜遅くに外をうろついている。そんな疑問が湧くが、何よりゾッとさせられたのはその子の表情だ。ただでさえ飛び出たその目を、さらに剥くように自分を見ており、それはもはや幼気な子供の表情ではない。狂気すら感じさせる何某かであった。
「君はーー」
話しかけようとすると、その子は突然踵を返し、岩場の間を縫う細道へと走り去っていく。もと来た道を戻って行くようだ。
「待ってくれ!こんな時間に出歩いていたら危ない!」
考える間も無く、炭治郎は急いで後を追う。幼子なのに尋常でない速さだ。そうして追いかけるうちに、彼らはいつの間にか霧を抜け出し、月明かりのもとに出た。先を行く小さな背中は、崩れかけた鳥居を通り、すぐ左を曲がる。
後に続くと、目の前に突如現れたのは、断崖絶壁に臨む幽谷。柱状節理の岩群がいくつも連なり、水や風で浸食された岩肌が変わった形を成している。奇岩や岩柱がそこかしこにあり、さながら石林のようだ。月明かりに照らされて生き物のごとく佇んでいる。谷底は暗くて見えず、見下ろしていると足元が覚束なくなる。川らしきものは流れていない。
さっきの少年がいない。今立っているのは突き出た小さな崖で、右にも左にも道はないのにーー辺りを見回していると、ふと右の岩壁に一体の地蔵が立っているのが目に入った。
「!」
それには首がなかった・・・もぎ取られたような跡があり、断面からは血を思わせる赤黒い液体が滲み出ている。あまりの恐ろしさに息を呑む。来てはいけないところに来てしまった・・・そんな後悔に、思わず後退りした瞬間。
「ふふ」
すぐ後ろで子供の笑い声がした。それを認識したときにはもう既に遅く、炭治郎は誰かによって凄まじい力で崖から突き落とされ、暗い谷底へと吸い込まれていったのである。
危うく谷底に激突する寸前で体を捻り、着地する。が・・・すぐさま鬼の匂いがすることに気づく。
「数体どころじゃない。おそらく数十体だ」
身構えつつ、暗闇に目を慣らしていく。頭上には、相変わらずの満月。だが両脇に聳え立つ岩壁によって空が囲まれているため、遠くに感じる。周囲には剥ぎ取られたであろう着物や履き物、その他所持品、そして肉片らしきもの、夥しい血溜まり。正直なところ、そういった光景は鬼狩りとして散々見てきた。だが何故か、今刀を持つ手は小刻みに震え、いつの間にか冷や汗をかいている。激しく脈打つ自分の心音ばかりが煩わしく聴こえ、鬼たちに感づかれやしないかと不安になるくらいだ。未だに辺りは静かで鬼たちが襲ってくる気配はないものの、強い視線を全身に感じる。
ふと、少し離れたところを一人の子供がとぼとぼ歩いているのが目に入った。おかっぱ頭で、白い着物を着た女の子。十歳くらいといったところか。あぁ、そういえば昼に砂歌町で見かけた子じゃないか!
「こんなところで、何をしているの」
炭治郎は駆け寄って少女の顔を覗き込む。ここにいては危険だ。すぐに安全なところに避難させないと。だが少女は平然とこう答えた。
「お姉ちゃんが、ついてきてって言うから。ほら、あそこ」
少女が指差した先は、一際暗がりになっていてよくは見えない。が、少し開けた空間になっており、一部の箇所に窪みがあるのがわかる・・・誰もいない。
「お姉さん?そんな人いないよ」
「いるよ!見えないの?」ーー少女は怒ったように叫んだ。「突然いなくなっちゃって、ずっと探してたんだから」
「いなくなった?」
「そう、夏に。そしたらね、今日おばあちゃん家から帰るときに、急に道に出てきて」
そこまで聞いて、炭治郎は全身から血の気が引くのを感じた。これまでに至った自分の経緯と、彼女のそれがほとんど似ていたからだ。自分には見えていない彼女の姉。おそらく幻か何かに違いない。そして自分もーー無惨の幻影に導かれて、ここに来てしまったのだ。
「お姉ちゃんがこっちに来る!」
少女が目を輝かせ、声を弾ませる。先を凝視する炭治郎。その暗闇から、なにか黒いものがゆっくりとーー普通の人間とは明らかに異なる歩みで近づいてくる。少女を抱き寄せ、刀を握る手に力が入った。
自分の目がその黒いものの何たるかをはっきりと捉えたのは、それが十間ほどまで距離を詰めてきた時だった。
今まで見てきた鬼とは違う姿をしている。全身黒鉄色で、角も牙も生えていない。焼け焦げた木か、それとも石か鉛か粘土か・・・そんな質感でできている。もはや肉体と呼べるものではなかった。そして何より、顔がない。というより、抉られているとでも言ったほうが良いだろう。その異様さに足がすくむ。
「お姉ちゃん!」
少女は炭治郎の手を振り解いて向かって行こうとする。
「行っちゃだめだ!」
「何でよ、放してよ!」ーー少女は喚き始める。
そうして揉めているうちに、突然、身体中にピシピシと氷が張るような緊張が走った。
「・・・囲まれた!」
正面は愚か、いつの間にか自分達の周りを「それら」が囲っている。やはり全て顔がないものたちだ。無個性であるが故に、むしろ言い知れぬ強い情念を感じさせる。
かごめ かごめ
かごのなかの とりは いついつでやる・・・
どこからか歌が聞こえてくる。歌っているのは「それら」ではない。おそらくどこかにいる一人の子供だ。その歌は、普段子供たちの遊びの中で耳にするような明るいものではなかった。音程が崩れ、物憂げな調子はおどろおどろしいまでに暗く、虚な響きが谷中に殷々と染み渡っていく。やがて歌声は時に音割れをも起こしながら、周りの岩場を移ろい始め、その木霊が幾重にも重なっていく。炭治郎は、迫ってくる呻きのようなそれに、思わず耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。
「このままでは自分を見失ってしまいそうだ・・・」
これから起こる悍ましいことを予感した瞬間であった。
[裏解説]
1. 顔のない「それら」(今後はおそらく「像」と表記予定)
イメージしたのはAron Demetz氏のBurning Manシリーズや、Antony Gormley氏のLost Horizonといった人型の彫刻作品。個人性を失った、匿名の存在。そのわけは次回以降明らかにする。
2. 炭治郎を谷に導いた無惨
無惨本人ではなく、璽永地がつくり出した虚像。璽永地は標的と定めた「生贄」に対し、「生贄」にとってトラウマであろう存在の虚像を見せ、谷に誘導する。ただし、谷外の領域において、この虚像はあくまで幻影であるため「生贄」に直接接触できない。(例えば物理的に攻撃などはできない)
3. 谷への道
普段は濃霧に包まれており、荒道から先に行った者は霧から永久に抜け出せず、発狂して行方不明になるか、夜に谷に誘導されて餌食となる。子喰らいが行われる月夜に、「生贄」を誘導するため谷への道が一定時間開かれる。その条件下で道に入ることができれば、「生贄」を追跡することは不可能ではない。
なお、谷への中継点ともいうべき隧道は、石川県七尾市の此ノ木隧道をモデルとしている。
4. 「かごめかごめ」
歌い方の参考にしたのは、ホラーゲームのSirenの《巫秘抄歌》。最初はピッチのはまった澄んだアカペラだが、徐々に調子が崩れていき、声が重なっていく。一度聞いたら忘れられない不気味さ。
5. 恐れ谷
清津峡や黒部峡谷をさらに大きめに、谷底を広げた感じ。谷底の開けた空間についてはグランドキャニオンやデスバレーなどもイメージ。