深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている
(フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』)
歌がこだまするなか、炭治郎は全方位から自分たちを狙っている「それら」に集中する。
「俺から離れないで」
少女の肩に手をかけて言うが、少女は虚な眼差しで先ほどの「お姉ちゃん」を見つめたまま、何かぶつぶつ呟いている。そうこうしている間に、周りには無数の「それら」ーー像がひしめき合っていた。
「この数じゃ守りきれないかもしれない」
不安が過ぎるーーと、そこへ。
「!!」
突然、上から甲高い悲鳴が聞こえたかと思うと、齢十三くらいの男の子が転げ落ちてきた。おそらくまた砂歌町の子供。位置から推測するに、自分と同じく崖から突き落とされたようだ。
「禰豆子、この子を頼む!」
背中の禰豆子を箱から出し、炭治郎は転落してくる男の子の方へ一目散に向かう。禰豆子は鬼化して少女を囲む像たちに襲いかかり、その首を鋭い爪で掻き切っていく。少女が「お姉ちゃん」としたその像の頭部を蹴り飛ばすと、少女の目が覚めた。我に返り、谷中に響く気味の悪い歌声や、自分の周りを蠢くどす黒い物体に悲鳴を上げ、耳を塞いで泣き始める。
一方、炭治郎は水流飛沫で像たちの攻撃をかわしながら移動し、すんでのところで少年を受け止めた。だがそこへ、像たちが隙を突いて一斉に襲いかかってくる。速い!動きが尋常でない。
水の呼吸 参ノ型 流流舞い
敵は無言のまま、砂のごとく砕け散った。だが、またすぐに地面から無数に這い出てくる。炭治郎はうち潮も試す。結果は同じだ。地面から上がってくるならばと、滝壺もやってみたが効かない。どこかに隠れている本体を倒さない限り、無尽蔵に出てくるのだろう。落ちてきた少年は無事だが、すっかり怯えて耳を塞ぎながら座り込んでしまっている。
「ぐっ!」
肝心な時に、突然目の焦点が合わなくなり、視界がぼやけ出した。目に映る像が二重にも三重にも見える。歌がこだまし、重なっていくにつれ、それらもさらに多重となる。地面はぐらぐらと揺れ、凄まじい吐き気とともに眩暈がしてその場に倒れ込んだ。
血鬼術で三半規管をやられたのか。手足に力が入らない。立ち上がることすらままならなくなった。炭治郎は、泡を吹きながら手足をばたつかせてもがく。自分の目が曇り、虚な眼差しになっていることに気づかぬまま。
ふと、少女を庇おうとした禰豆子が一体の像から攻撃されるのが見えた。炭治郎は自分の目を疑う。
・・・その像が、炭十郎だったのだ。死んだはずの父親が、どろどろに腐乱した肉体のまま、動いている。そして少女を庇い抱え込んだ禰豆子の背後に回り込み、緑の涎で溢れかえったその口からーー触手のようなものを出したのだ。触手は禰豆子の肩に勢いよく突き刺さると分離し、もぞもぞと禰豆子の身体の中に入っていく。禰豆子はあまりの痛みと衝撃に悲鳴を上げて倒れた。鬼化して大きくなっていた身体がみるみる小さくなり、地面でのたうち回る。
「禰豆子!!」
炭治郎は半狂乱になって叫んだ。
「父さん!やめてくれ!!!」
立つんだ!動け手足!言うことを聞かぬ手で、ありったけの力で地面を押し、上半身だけでも起こそうとするが、全身痺れて動けない。そのうえ、上から飛びかかってきた像に石で頭を殴られ、意識が遠のいていく。額を血の筋が何本も流れて行く。
「・・・炭治郎」
聞き覚えのある声にぼんやりと見上げると、そこには我が子を慈しむように覗き込んでいる葵枝がいた。だが自分の知っている母ではない。その顔は腐敗して骨が露わになり、眼窩の空洞や半開きになった口腔に蛆虫がぎっしりと詰まっていた。首筋の皮下にも、蛆虫が表皮を浮き上がらせながら動きまわっている。さらに身体の表面は、腐敗汁と体内の油分が入り混ざってぬめぬめしており、腹部は腐敗ガスがたまって、はちきれそうなほどにふくれ上がっていた。
「ぎゃあああ!!来るなあ!!!」
炭治郎は叫びながら、右に持ったままの日輪刀をめちゃくちゃに振り回す。これは夢か現実か。いくら目を見開こうとも、視界に映し出された景色は変わらない。
「嘘だ!!消えてくれええ!!」
泣き叫んでもがく。
「どうして泣いているの?」
葵枝が困った表情で優しく訊く。
「皆あなたと禰豆子を迎えにきたのよ。ほら・・・」
そう言って、いつの間にか炭治郎を囲っている兄弟達に顔を向けた。いずれも葵枝と同じように肉体が崩れており、その強烈な腐敗臭が鼻をつんざく。
「お兄ちゃん、遊んでよ・・・」
六太が近づいてきた。ありし日の、いつも無邪気に自分に甘えてきたかわいい末の弟。朽ちているその姿を目前にして、胸が張り裂けそうになる。
「皆、お兄ちゃんに会えるのをずっと待ってた・・・寂しかったよ」
花子が涙を流している。あぁ、あの夜自分が真っ直ぐ家に帰っていれば・・・皆自分の帰りを楽しみに待っていたのに、何故守ってやれなかったんだ。いたたまれなくなって自分を責める。
どんなに悔いても、過去は変えられない。皆で肩を寄せあって、質素でも幸せに暮らしていたあの日々は、もう戻らない。そんな未来に希望なんてあるのか。今まで信じてやってきたことが、足元から崩れ落ちる。全てが自己欺瞞だったのではないかと思えてくる。
「ごめん、皆。こんなはずじゃなかった・・・父さんの代わりに家を守っていくはずだったのに・・・俺は何もできなかった。俺のせいで皆死んだ!」
地面に突っ伏して慟哭する。そんな炭治郎のもとに竹雄が駆け寄り、肩に手を置きながら声をかける。
「もういいよ、兄ちゃん。兄ちゃんは今まで十分苦しんできたんだ。俺たちのために・・・頑張ってきたよ。もう泣かないで。これからは皆ずっと一緒だよ」
「行こう、お兄ちゃん」
「六太・・どこへ・・・?」
「私たちの家よ」
葵枝が炭治郎を抱き起こす。そうして指差した先には、先ほど少女が向かおうとしていた窪みがあった。
「家・・・」
ぼんやりと眺めながら呟く。みんなが自分の手を引こうとしている。
ーーそうか、これから俺は死ぬのかーー
ようやく全てから解放される。そんなことをちらと思った時、微かに禰豆子の声が聞こえてきた。苦しんでいる。炭治郎は曇ったままの目を見開いた。
「禰豆子が・・・助けないと」
日輪刀を握りしめる。そんな炭治郎を葵枝が引き止めた。
「行ってはだめ」
「母さん?」
「もうすぐしたら、あの子も楽になる。そうしたら皆一緒になれるのよ」
「・・・」
炭治郎は葵枝の手を振り解いた。
「そんなの悲しすぎる」
「お兄ちゃん?」
「まだ禰豆子は生きてる。死なせるわけにはいかない」
失いつつある意識が必死に自分を呼び止める。たった一人、自分に残された家族の禰豆子。その唯一の存在が、自分に生きる意味を残してくれていたのだということを。今度こそ、身を挺してでも妹は守り抜かねば。
「俺はどうなってもいい・・・でも禰豆子だけは助ける」
今度は竹雄、花子、茂が炭治郎の手足を掴み、凄まじい力で抑え込んできた。
「なんで止めるんだよ!苦しんでるのに助けないなんて、家族じゃないだろう!何もしないなんて俺は嫌だ!!」
「炭治郎、禰豆子はもう人間じゃないのよ。生き残ったとしても、一生鬼のままでいなくちゃいけない。そんな生き方、幸せだと思う?」
葵枝の声が無慈悲に響く。
「俺が人間に戻すよ!!」
「無理よ。一度鬼になったら二度と元には戻れないの」
炭治郎は兄弟達を押しのけようとする。
「いい加減分かれよ、兄ちゃん!!」
「禰豆子お姉ちゃんが可哀想でしょ!」
竹雄と茂が、炭治郎の脇腹や右肘を踏みつけ、力一杯蹴飛ばす。骨が折れる音がした。
「がぁっ・・!」
「ねぇ、炭治郎。こうなったのはそもそも誰のせい?さっき自分で言ったでしょう。あなたは家長として、体を張ってでも私たちを守るべきだった。お父さんだったらそうしたわ。でもあなたは帰ってこなかった。何もできなかったんじゃない。何もしなかったのよ。そんなあなたに禰豆子を守れるわけがない」
「違う・・俺は・・今度こそ、家族を」
「所詮あなたは無力なのよ。何をやっても無駄。もう諦めて、罪を償って死になさい。それが皆のためよ」
葵枝はそう言うと、炭治郎の頭を掴み地面に押しつけた。目の前で、像に捕らえられた少年、少女、そして禰豆子が窪みに引き摺られていく。絶望と、何もできない自分の不甲斐なさに涙が溢れる。
ーーまただーー
ーー俺はまた同じことを繰り返しているーー
「新鮮味がなくなるのは残念だけど、これで大人しくなってもらうしかないわね」
炭十郎のように葵枝は口から触手を出し、炭治郎の耳元へと近づける。炭治郎は抵抗しようとするが、もう力は残っていない。上から自分に注がれる家族の視線は、どこまでも冷たかった。
「やめ・・て・・・く」
!!!!!
抑え込んでいた家族の首が一瞬にして吹っ飛び、身体もろとも崩れ去った。
なんだ?今何が起こった。わけもわからず目を丸くする。そのうちにも、禰豆子たちを捕らえている像の首がほぼ同時に飛ぶ。闇の中を緑がかった鮮やかな閃光が次々と弧を描きながら走っていく。風を切る音。視界の端々に見え隠れする大きな白い影。鳥なのか?物凄い速さで飛び回っている。
僅か数秒もしないうちに、その影は禰豆子たちを抱え、炭治郎のもとへやってきた。
「しっかりしろ!今テメェに起きてンのは幻覚だァ」
「不死川さん!」
思いもしない助っ人の登場に驚く。安心感と共にまた涙が溢れてきた。
「すみません・・・俺は・・・力が足りないばかりに・・・誰も・・・」
「反省会は後でやれェ」
実弥は炭治郎の口に丸薬のようなものを素早く放り込み、さらに数錠手渡した。藤の花の香りがする。
「胡蝶の試薬だ。こいつらにも飲ませとけ」
そう言うと、押し寄せてくる像の群れに向かって技を放つ。
風の呼吸・肆ノ型 昇上砂塵爛
砂粒を含んだ風が、上から下から襲い掛かる像を容赦なく吹き飛ばしていく。
「あそこに抜け道がある。移動すンぞ!」
炭治郎の背負っていた箱が像に襲われた際に壊れてしまったため、実弥が禰豆子と少女を両脇に抱え、少年が炭治郎を支えながら走る。像に囲まれる都度に実弥が風の呼吸で追い払い、隙を見て移動する具合だ。実弥の頭にあったのは、一刻も早く炭治郎たちを避難させること。鬼の本体の所在が分からぬうちは、無駄な戦闘は避けるべきだ。像が崩れる際に出る粉塵にも警戒しなければいけない。炭治郎たちの様子を見るに、吸い込むと碌でもないことになりそうだ。
実弥の戦い方を見ながら、炭治郎はその暴風のように激しく鋭い斬撃、状況に応じて柔軟に対応する身のこなしに舌を巻いた。それだけではない。最小限の力でより多くの像を倒している。空間をよく認知し、敵の数、敵が攻めてくる距離、スピード、角度を瞬時に捉え、絶妙なタイミングでその場に最適の技を繰り出している。計算され尽くした無駄のない戦法だ。そのうえ自分たちが像の塵を吸わずに済むように、常に間合いの内から外へ風を放ってくれる。柱合会議の時にも感じたことだが、この不死川という男は見てくれによらず高い理性と知性があるようだ。
全身激痛に襲われ、気を失っていた禰豆子もまた、うっすらと目を開いた。薬の効果で一時的に意識が戻っている。飛ぶように流れる景色。顔に当たる冷たい風。清爽な香り。やがて自分が、白い大柄の男に抱えられているのに気がつく。朦朧とする中見上げると、そこには美しい、刃の切先のような横顔があった。風に靡く柔らかそうな銀髪。痛々しい傷が刻まれた白い肌。大きく見開いたその目は、まさに今獲物を捕らえんとする猛禽類のそれに似ている。月光を受けた紫紺の瞳が、闇夜を切り裂かんばかりに鋭い白銀の光を放つ。思わず見入ってしまった。
ーー私はこの人を知っているーー
禰豆子は思う。この人はあの時、私を何度も刺した人だ。あんなに激しい憎悪を向けていたのに、何で今助けてくれるの?
荒々しい野生に気高さが垣間見える実弥に、禰豆子は何故か、小さい頃自分が恋焦がれていた何かを重ね始める。その肝心の何かは思い出せない。でも、妙に懐かしい感じだ。胸が高鳴って・・・やっと会えたーーそんな気がする。
「ここだ!」
実弥たちはとある鉄砲ぐりの前まで来た。以前、おそらく江戸時代から明治にかけて、川を取水口とし、町中に広がる田んぼに水を引く用水路のためにつくられたトンネルらしい。
「あの鳥居が見えるか」
実弥が指差した出口の向こうに、ぼろぼろの鳥居が幽霊の如く立っている。
「松衛門がいうには、どうもあれが結界になっているらしい。昔はこの谷を神聖な場所として守っていたが、今は逆だ。谷から外の世界をぎりぎりのところで守っている。あれを潜れば何とかなるぜ」
崩れかけている様子からもわかるように、この鳥居が結界を張っていられるのもあと僅かのようだ。谷の呪いが強くなっているからである。砂歌町の子供の失踪が起きるようになったのも、結界の力が徐々に弱まり、実体のない像が谷外に出られるようになったためだった。
「チッ!」
実弥が舌打ちする。後方にまた像が迫ってきている。
「お前ら、さがっとけ」
そう言うと敵の目の前に立ちはだかり、日論刀をバシッと水平に構えた。それを手首のしなりをきかせて順手、逆手と素早く持ち替え、高速に回転させていく。あたりに緑の巨大な旋風が沸き起こり、守りの壁となって実弥たちを包み込んだ。びゅうびゅうと唸るような風の音が、あの幻覚を起こす歌声をもかき消していく。
「シナズガワ!!」
松衛門が鉄砲ぐりの向こうから飛んできた。かなり近くから指笛が途切れ途切れに聞こえてくる。
「ソウライガ、シモン、ウイ、イツキヲツレテクルゾ!」
紫万と愛生は風の隊士、樹は水の隊士だ。風の使い手が二名もいれば、一時的にでも谷近辺に立ち込める濃霧をはらえるし、水の呼吸も守備範囲が広い上に威力がある。何より、三人も隊士がいればこの四人を守ることができるだろう。実弥は思い切り指笛を鳴らし返す。
「!!」
瞬間、子供の大きく見開いた目元が映像となって全員の意識に流れ込んできた。
「何だ・・・今のは」
そう思うや否や、岩の砕ける音がする。鉄砲ぐりの天井に亀裂が入り、欠片が落ちてきた。早くここを通らなければ、じきに崩れてしまうだろう。実弥は意を決した。
「テメェらさっさとずらかれ!」
「不死川さんは!?」
炭治郎が聞き返す。
「俺ァ、ここでやつらを食い止める。その隙に逃げろ!」
「あなたも一緒に逃げてください!」
「そいつは無理だ」
「なんでですか!」
「鉄砲ぐりの中じゃこの技は使えねェ。風の呼吸は狭い空間にゃ向かねェんだ」
「なら、俺も残って戦います!!」
「ガキはすっこンでろォ」
「ガキじゃありません!!」
「・・・」
実弥はうずくまっている禰豆子を一瞥した。
「テメェの大事な
炭治郎はハッとして禰豆子を見る。禰豆子はゼエゼエと苦しそうに呼吸し、手足に紫斑が出始めていた。
「お前さんたち」
実弥は少年と少女に向き直った。
「
薬の効きと耳を塞いでいたおかげで、彼らも何とか幻覚から覚めていた。しばらく蒼ざめ躊躇していたが、やがて少年が意を決したように口を真一文字に結び、強い眼差しで頷く。
「頼んだぞ」
実弥は、励ますように落ち着いた声で言う。
「松衛門。爽籟とよく連絡を取り合いながら合流しろ。皆を連れてできるだけ早く山を下れ。誰もここへ近づけさせないように。砂歌町に隊士と隠を向かわせ、住民に避難させるように伝えてくれ」
「ワカッタ」
「おい、テメェ」
禰豆子に寄り添っていた炭治郎が顔を上げる。
「
「・・・分かりました」
微かに笑みを浮かべると、実弥は敵がいる正面に向き直った。
「さぁ、行け!!!」
実弥が八の字を描くように日輪刀を一振りする。後方にも風が飛んで、鉄砲ぐりの中を渦巻くように吹き抜けていく。出口の先に立ち込める濃霧が一気に晴れた。脱するには今しかない。少年と少女が、炭治郎と禰豆子を支えながら、実弥の出した追い風に守られて駆けていく。
「不死川さん・・・」
炭治郎が後ろを振り迎える。そこには、たった一人、無数の敵に立ち向かう風柱の勇姿があった。自分たちの運命を一身に背負い、猛然と刃を振るうその背中は大きく、同時に何故か儚げにも見える。
「どうか・・・どうか死なないで!」
そして気づいていなかった。禰豆子が悲しげに実弥の方へ手を伸ばしていたのを・・・。
炭治郎たちが鳥居の外へ出た途端、鉄砲ぐりは崩れ去り、瓦礫の山と化してしまった。
[裏解説]
鳥居と鉄砲ぐりは、島根県の静之窟や石川県湯川町の鉄砲ぐりがモデル。