恐れ谷に吹く風   作:がじゅ丸     

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風柱に魔の手が忍び寄る。

※志津さんの方言が広島弁か岡山弁らしいので、広島弁にしてみました。


風奏琴

吹き寄せる風よ

私のこよなく愛した

あの少年の眠る新緑の丘から吹く風よ

道すがら春の花に触れ

芳香に満ちあふれ来て

この胸をなんと甘くしめつけることか!

そして美しい哀愁の音色に魅せられ

弦の中へさやぎ入り

匿れとともに高まり

また静かに消えてゆく

 

(エドゥアルト・メーリケ「エオリアン・ハープに寄せて」)

 

 

 騒がしい声。急ぎ行き交う足音。鼻をかすめる土埃の匂い。ぼんやり目を開けると空が燃えている。頭が重い。鉄の味がする。

 樹は体を起こし、壁に寄りかかりながら立ち上がる。吐き気と眩暈がしてよろめくと、駆け寄ってきた誰かに支えられた。

 

 「樹くん!大丈夫なの!?」

 

 「愛生・・・これは・・何がどうなった」

 

 「月が赤く染まって、君が口寄せをしたんだ。『高いところへ逃げろ』って。今住民を避難させてるとこ」

 

 「口寄せ?俺が?」

 

 「お、覚えてないの・・?」

 

 「いや・・・」

 

 樹は額に手を当てる。まだどうにも頭痛が治らない。

 

 「そっか・・」

 

 何と言葉をかけたら良いか分からず、愛生は俯く。

 

 「避難先は?」

 

 「あそこの観音堂。大体は避難したけど、あと三軒残ってる。そこの角を右に曲がった先にニ軒。あとの一軒はあっちの細道を入ったとこ。今紫万くんが行ってる」

 

 「わかった。俺達は二軒の方に行こう」

 

 「む、無理しない方がいいよ!」

 

 「大丈夫。心配いらない」

 

 二人は角の方へ走っていった。

 

 

 

 一方、細道を入った先では。

 

 「おぉい、何してんだ!避難しろってェ!」

 

 紫万が引き戸を開けると、途方に暮れてオロオロしている老人がいる。

 

 「よォ、じーさん」

 

 何か頼みたそうな顔をしている。

 

 「あぁのう・・」

 

 「何だよ」

 

 「悪いが、手を貸してくれんかのう」

 

 「?」

 

 老人が指差した奥の部屋に、脂ギッシュでまん丸な男が呑気に炬燵に入っている。

 

 「何あれ」

 

 「愚息でな。そのぅぅ・・・出不精で歩かんうちに、本に歩けなくなったんじゃ」

 

 「で」

 

 嫌な予感。

 

 「おぶっていってくれんかのう。わしの老体ではどうにもならんのじゃ」

 

 テンパり、絶句。

 

 「知らんわそんなん。俺馬じゃねェっつーの。無理っス!!!」

 

 怪異の起きた夜の町に、素っ頓狂な声が響く。何とも悲壮感のない隊士である。

 

 

 

 

 その頃。実弥は鬼の本体を探して、谷を飛び回っていた。炭治郎たちが連れていかれそうになった窪みを怪しんで、近づいたり攻撃したりしたが反応がない。他にも岩壁の穴や隙間を調べたが、それらしきものはない。だが、岩の中にいることは勘で分かる。一向に姿を現さないのはなぜか・・・ただ像が追いかけてくるばかり。ならば、一体残らず倒せばどうかと風で吹き飛ばしても、やはり手応えはない。月が赤く染まってから、像が湧くペースも断然速まっている。

 

 ーーチッ!一体どうなっていやがンだ。倒しても倒しても湧いてきやがるーー

 

 焦りが出てきた。予め服用していた胡蝶の試薬がそろそろ切れ始めている。動くたびに景色の残像が重なり、視界狭窄も生じている。平衡感覚がない。着地すれば地面が揺れるようだ。呼吸も荒い。実弥は飛びながら何か手立てはないかと必死に考える。

 

 飛びかかってきた像の攻撃をかわし、上方に高く飛んだ時だった。ある箇所で、まるで強い磁場にあたったかのように、凄い勢いで跳ね飛ばされた。岩に激突する寸前で着地する。

 

 ーー何だ今のはーー

 

 気がかりな点がもう一つ。倒した後に再び這い出てくる像たちだ。どうもある地点を中心として、放射線状に湧いてきている。その中心点が、おそらくさきほど跳ね飛ばされた箇所の近くだ。それに上昇気流系の風の呼吸を使うと、像の姿が一瞬だけ歪んだり、消えかかったりする。

 

 ーー上に何かあるのかもしれないーー

 

 実弥は磁場と思われる箇所の向かいの崖に飛んだ。既に体力は尽きかけ、顔面蒼白だったが、よく目を凝らして向かいを睨む・・・眩暈と吐き気で肩で息をしつつ。

 

 

 

 うっすら重なって見える城郭の一部のような岩群。その中に、違和感を覚える箇所がひとつだけあった。月光の反射の仕方が、明らかに周囲の岩と違う。位置や角度からして、月光を反射しているべきなのに、それがない。

 

 

 

 

 

 ・・・ということは光を吸収しているのか。

 

 

 

 

 

 さらにその箇所から、今度は光が波紋のように周辺の岩群に広がっている。

 そこで思い出す。

 

 

 「砂歌町の子供が行方不明になるのは、月夜なんです」

 

 

 あの隊士はそう言っていた。まさに月が関係していたのだ。実弥は頭上の血紅色の月を見上げる。見ているうちにそれはぐにゃりと歪み出し、思わず手で目を覆った。

 

 

 

 「実弥」

 

 ハッとして後ろを振り返り、思わず後退りする。

 

 

 

 

 

 「お・・・ふくろ」

 

 目の前に、あの日自分が殺めたはずの母志津が、鬼の姿で立っていた。

 

 

 

 「久しぶりじゃね。会いにきてくれたん?」

 

  

 これは幻覚だ。無言で日輪刀を構えようとするも、愕然とする。刀を握る手が異様に小さい。あるはずの傷がない。知らぬ間に自分は子供になっていた。人生が一変してしまった、あの日の自分に返っている。馬鹿な!

 

 

 

 「どしたん?顔色悪いよ」

 

 志津が近づいてくる。

 

 「く、来るな・・・」

 

 

 刀を持ち上げようとするが、子供の腕力では重たすぎる。逃げようにもここは崖だ。

 

 

 

 「あの時と同じじゃね、実弥」

 

 

 「・・・」

 

 

 「あんたはその服着とった。私を探しにいって、兄弟が襲われとることにしばらく気付かんかったな」

 

 

 「そんな話してどうする」

 

 

 惑わされてはいけないと思いつつ、心がかき乱されていく。

 

 

 「その後あんたはどうしとったんかいね。あぁ、私を切り刻んだんじゃったね」

 

 

 

 志津の目が冷たく光り、身体のそこかしこに実弥が斬りつけた傷が浮かび上がった。血がとめどなく滴り落ちる。

 

 

 

 「暴力を振るうお父ちゃんからあんたら守って。お父ちゃんがのうなってから女手一つであんたらを育てたのに、ひどいことしてくれたもんじゃねぇ」

 

 

 

 実弥に戦慄が走る。

 

 

 

 「玄弥を守るためだ。あの時は・・ああするしかなかった!」

 

 

 

 

 

 母親はさらに距離を詰めてくる。今の自分では扱えないと分かっていながら、やはり日輪刀を握りしめた。

 

 

 「寄るな・・」

 

 「そんな鉄屑がなんの役に立つん?」

 

 「くッ!」

 

 

 近づいてきた志津に思い切り日輪刀を振り上げるも、片手で押さえつけられてしまう。いくら力を入れたところでびくともしない。

 

 

 「・・ねぇ、実弥。ずっと訊きたいと思っとったことがあるんじゃけど」

 

 

 実弥はなおも抵抗しようとする。

 

 

 

 

 「あの時、なんで一緒に死んでくれんかったん?」

 

 

 「・・・」

 

 

 「ずっと辛かったじゃろ?貧しい家庭に生まれて、ろくな生活できんで学校にも行けんかった。父親は暴力を振るうし、恨みを買って殺されてしもうた。ええことなんて何ひとつなかったじゃろ。なら私が鬼になった時に、皆で死んどったら良かったんよ」

 

 

 「俺は・・・辛いと思ったことなんざ一度もねぇ。死んだら何もかも終わりだ。生きる選択肢が少しでも与えられるなら、迷わずそっちを選ぶべきだろォが!」

 

 

 「わかっとらんね、あんたは」

 

 志津は実弥から日輪刀をもぎ取り、後ろに放り投げた。実弥は取り返そうと手を伸ばす。が、志津の強烈な蹴りをみぞおちに食わされた。

 

 「ぐぁッ!」

 

悲鳴をあげて崖縁近くまで転げる。志津は実弥の胸ぐらを掴み、仰向けにして地面に叩きつけた。

 

 

 

 「あんたと玄弥は生き残った。でも、あんたらが歩いとるんは生き地獄じゃ」

 

 

 実弥は先程食らった蹴りでろくに息もできないまま、必死に志津の手を解こうとする。

 

 

 「一番可哀想なんは、玄弥じゃ。目の前で実の兄に母を殺された。母を失っただけじゃないんで。人殺しの弟になったんよ。あんたはその重大さがわかっとんか」

 

 

 志津の力が強まるのと反対に、実弥の手の力が急激に弱まっていく。

 

 

 「あんたが中途半端に守ったせいで、どんだけあの子が苦しんどると思うん?」

 

 

 

 

 その言葉と共に、実弥の脳内に玄弥の映像が流れてくる。兄に会うがため鬼殺隊に入る弟。才覚がないと言われ、途方に暮れる。呼吸が使えず、鬼を喰って鬼化する。自分が最も憎み、忌み嫌う鬼になることでしか闘う術がない。そんな状況に自分は玄弥を追い込んでしまっていた。

 

 

 

 

 離れたところで、弟を想いながら只管鬼を斬る・・・そうすることでしか、あいつの幸せを願ってやれない。罪深い自分にできることはそれだけだった。自分は人並みの人生などもう望めない。ならばせめて弟だけでも、笑っていて欲しかったのだ。たとえ自分がそれを見られなくとも。

 

 

 だが現実は惨い。あの日、自分が母親を殺めた瞬間から、玄弥は人生を狂わされた。いや、自分が壊してしまったのだ・・・あいつの全てを。そうならば、そもそもあいつに笑顔でいられる未来などあるだろうか。置き去りにしていった弟の泣き顔しか浮かんでこない。

 

 

 俺はーー俺たちは、何のために生かされたのか。どんなに鬼を斬っても、希望など最初からなかったのかもしれない。実弥は生きる理由が分からなくなり、目の前が真っ暗になる。

 

 

 

 「実弥、あんたがしてきたことは、全て裏目に出とるんよ。あんたは皆を不幸に陥れとるんじゃ。私もそう、玄弥もそう。大事な親友かて守れんかったじゃろ?」

 

 実弥の目が光を失い、曇っていく。唯一の希望を失った無表情の顔。もはや生きる気力さえない。

 

 

 

 

 

 「そんで、あんたは何がしたいん?こんなボロボロに、醜くうなって」

 

 

 志津が鋭い爪を実弥に振り落とす。血飛沫が上がった。実弥のあどけない顔に、あの大きな痛々しい傷ができる。だが、実弥はもう抵抗すらしない。

 

 

 

 志津は実弥の首を掴むと、そのまま持ち上げ、崖縁から突き出した。

 

 

 

 

 「もう無駄な悪足掻きはよさんと。早よ楽になりんさい。玄弥のことは心配せんでええけぇ。じきにあんたんところへ送ってあげるけぇね」

 

 

 母親は冷たい微笑を浮かべている。真下の谷底の窪みから、何か黒いものがもぞもぞと這い出て、早く寄越せと言わんばかりに手を伸ばしている。志津が手を離せば、実弥はその腕の中へ落ちていくだろう。

 

 

 

 実弥はぼんやりと空を眺めていた。曇った目に映るのは、鈍く光る緋色の空。それでも、心は別の、いつか見た空を求めている。

 

 

 

 

 ーーたとえその時自分が、生きてその人の傍らにいられなくとも 

生きていて欲しい 生き抜いて欲しいーー

 

 

 

 

 何処からか吹いてくる風の中に、ありし日の友の声を聴いていた。

 

 

 

 

 

▷▷▷▷▷

 

 

「実弥、ちょっとあそこ寄っていかないか」

 

 

 あれは、新緑鮮やかな皐月の夕方近くだった。稽古帰りに、匡近がある小高い丘を指差した。青空に夕焼けの橙色がグラデーションのように重なり、その中を、この世のものとは思えない色合いで幻想的に形を変えていく雲が流れていた。

 

 

 

 「街を一望できて、いい眺めなんだ。俺のとっておきの場所。いつかお前に見せたいと思ってたんだ」

 

 

 

 二人は丘に続く坂道を上がっていく。道すがら勿忘草や鈴蘭を目で愛でつつ、ほのかな香りを楽しみながら・・・久しぶりに時間がゆっくり過ぎていた。

 丘の頂上に一本の榎。その下に腰を下ろして、眼下に広がる街並みを望む。

 

 「・・いい眺めだろ?」

 

 「ああ、悪くねェ」

 

 「こうしてさ。一番高いところから全体見渡してっと、色んなもんが見えてくるよな。自分がいかにちっぽけか、てやつだ。辛いこと、悲しいことも忘れられる」

 

 

 

 それから各々物思いに耽り、しばらく沈黙が続いた。心地よい微風が吹いていて、夕焼けに照らし出された街並みや山々が絵のように美しい。日々の雑念から解放される静かな一時だった。いつまでも浸っていたいくらいの。

 

 

 

 

 しばらくして、匡近が徐にポツリと口を開いた。

 

 

 「実弥、お前ってさ」

 

 

 「ン?」

 

 

 「夢とかあんの?」

 

 

 

 「はっ・・・また何いきなりぬかすんだテメェは」

 

 

 

 匡近は眼下の街並みに目をやったまま、話し出す。

 

 

 「何でかな。俺、お前と出会ってから、生きる意味とか夢とか、そういうことよく考えるようになったんだ」

 

 

 いつもの底抜けの明るさは影を潜め、今日は妙にしんみりしている。

 

 

 「お前ってさ、粗暴でぶっきらぼうで、なりふり構わずめっちゃくちゃなとこあるけど。本当は誰より優しくてあったかいやつだろ?そんなお前を見て時々思うんだ・・・お前のその荒々しさは、お前が真っ直ぐで純粋であることの証なんじゃないかって」

 

 

 匡近は一瞬目を細める。

 

 

 「お前はきっと人より多くを背負ってる。見ているこっちの胸が痛くなるくらいに」

 

 

 そう言う横顔は、心なしか悲しげに見えた。実弥は、やはりいつもとは違う友に戸惑いつつ、じっと彼を見つめる。匡近は思い詰めたように、視線を上げた。

 

 

 「だからこそ俺は、お前が何にも縛られずに、ただあるがままの自分を生きているのを見てみたい。それが俺の夢。変かな?」

 

 悪戯っぽく、ニッと白い歯を見せてきた。

 

 「へっ・・・だいぶ変わってんなァ」

 

 実弥はわざと毒づく。だが内心なぜか、自分の本質をつかれたような気がして動揺していた。

 

 

 

 

 

 頭上の木の葉が、爽涼な風に揺られてサラサラと音を立てる。木漏れ日が二人を暖かく、優しく包んでいた。匡近は穏やかな笑みを浮かべながら、ひとつひとつ、大事に言葉を紡いでいく。

 

 

 

 「お前は愛されて生まれてきたんだ、実弥。お前がそうやって、過去の懺悔のために自分を犠牲にする生き方していて、家族が喜ぶと思うか?皆お前のこと大好きだったんだろ?」

 

 

 

 実弥は急に顔を曇らせて、視線を落とす。だが匡近はそんな彼をよそに、敢えて核心に迫っていく。

 

 

 

 「『弟が幸せになれるなら、自分は悪魔にでも何にでもなる。弟が笑っていられるなら、自分は一生笑えなくてもいい』ーーお前はよくそう言うけど。俺はそうは思わない。お前自身が大事なんだ。自分と向き合え、実弥。自分を愛して・・・夢を持て」

 

 

 

 実弥が顔を上げると、匡近は力づけるような真摯な眼差しを自分に向けている。

 

 

 

 「それから傍にいる誰かを幸せにするんだ・・・お前がその人の希望になればいい。俺にとってお前が、今までもこれからもずっとそうであるように。そうすればお前の過去は報われる。意味のあるものになるんだよ」

 

 

 

 今までずっと許せず、目を背けてきた自分。匡近の言葉は、そんな実弥自身に向き合うものだった。こみ上げてくる感情を悟られたくなくて、実弥はそっぽを向いた。こんな人間臭い情緒などとうに忘れたつもりだったのに。

 

 

 「まぁたオメェは・・・なんでこうもおセンチなことしか言わないのかねェ、いつもいつも。勘弁してくれや」

 

 

 声が震えている。匡近は優しく微笑んで、実弥の涙に気づかぬふりをした。

 

 

 「いつか分かってくれればいいさ」

 

 

 実弥は顔を背けたまま目元を拭う。

 

 

 

 

 夕焼けの色が濃くなり、風がだんだん冷たくなってきた。匡近の横顔が陽光に輝いている。

 

 「さて・・・そろそろ行くか」

 

 

 匡近はゆっくり立ち上がり、背伸びをした。そして不意に空を見上げ、こう言ったのである。

 

 

 

  なあ。鬼退治が終わったらさ。

 

 

  俺たち旅に出ようぜ。

 

 

 

  あの雲のように、自由に気ままに。

 

 

 

 匡近が指差した向こうには、気持ちよさそうに空を流れる大きな雲。二人とも目を輝かせて見ていた。忘れもしないあの光景。でも今までずっと胸にしまい続けていた。思い出すと涙がこぼれてしまいそうで。

 

▷▷▷▷▷

 

 

 それから後に続くのは、いつまで経っても癒えない傷を、さらに抉られるかのような記憶。あの下弦壱の鬼を倒した後に、匡近と交わした言葉だ。

 

 

 

 「さね・・・み」

 

 

 

 匡近は致命傷を負い、実弥の腕の中にいた。死の淵にありながらも何とか踏みとどまっている。目が揺れ、流れ出る血は止まる気配なく、顔がどんどん白くなっていく。体が氷のように冷たい。

 

 

 

 「何だ」

 

 

 

 敢えて気丈に、落ち着いた口調で問う。常に死と隣り合わせの鬼殺隊。心の準備はしていたが、やはりいざとなると頭が真っ白だ。目の前で起きていることを到底受け止められない。

 

 

 

 「あの丘でした話・・覚えているか」

 

 

 

 「ああ」

 

 

 ・・・短く答えるのが精一杯だ。

 

 

 

 

 「良かった・・・あの話には続きがあってな。でも、照れ臭くて・・今まで言えなかった」

 

 

 

 くく、と匡近は喉の奥で力なく笑う。そんな匡近を実弥はじっと見つめ、彼の言葉が出てくるのを待つ。あの時と同じだ。こみ上げてくる感情を喉元で堪えている。声を発しただけで溢れ出てきてしまいそうなのだ。

 

 

 

 「もし・・・」

 

 

 

 

 息も絶え絶えななかで、匡近は懸命に言葉を絞り出した。

 

 

 

 「もし、俺が死んだら・・・俺は空からお前を守る・・・どんな時も、必ず助けてやる。だからお前は・・安心して前を行け」

 

 

 

 

 実弥の目に、うっすら涙が浮かぶ。匡近は、自身の掠れた声にありったけの力を込めていく。

 

 

 

 「生まれてきて良かったって心から思えるくらい、いい景色をたくさん見せてやるから・・・何があっても最後まで・・・生き延びろ」

 

 

 

 既に視力を失いつつある親友の目が、真っ直ぐ実弥に向けられ、頬を一筋の涙が伝う。実弥は口をきつく結んだまま、それでも堪えきれずに、涙がはらはらと零れ落ちていく。

 

 

 「お前は俺の誇りだ、実弥」

 

 

 匡近は自分の傷口を押さえている実弥の手を、満身の力を込めて握りしめた。

 

 

 

 「どうしようもない時は、俺を思い出せ。俺を呼んでみろ・・・俺はどこかで必ず、お前に応える」

 

 

 

 実弥はこみ上げる嗚咽をとうとう抑えることができなくなった。久しく人前では露わにしてこなかった感情が溢れ出る。

 

 

 

 

 

 

 最後に匡近は、今までで一番の朗らかな笑みを浮かべてみせた。 

 

 

 

 

 

    約束だぞ、実弥

 

 

 

 

 

    生きろ

 

 

 

    お前自身のために

 

 

 

    何があっても、決して

 

 

 

 

 

 

    ーー諦めるなーー

 

 

 耳元で匡近の声が響いた。亡き親友が握ってくれた手の感触が、右手の甲に戻る。あの丘を吹いていた微風、流れる雲、夕焼けの光、ほのかな花の甘い香り・・・そして、自分に希望を託してくれた眩しい笑顔。胸にずっと仕舞い込んでいた想い出が、鮮やかに甦った。

 光を失っていた実弥の瞳が、ぱっと見開かれる。

 

 

▷▷▷▷▷

 

 

 ドッ。

 

 

 

 

 気づけば、母の体に巻きつき、その後方に転がり込んでいた。落ちている日輪刀を掴む。

 

 

 

 閃光が走り、志津の首に真横の線が入った。

 

 

 

 「な・・なんでじゃ・・・」

 

 

 

 

 振り抜いた日輪刀をそのままに、実弥は静かに口を開く。

 

 

 「ごめんな、おふくろ。俺はどうしても諦められねェんだ。玄弥(あいつ)の未来も・・・自分の未来も」

 

 

 

 日輪刀を持ってゆっくり立ち上がる。あの頃の自分と、今の自分の声が重なり、元の風柱の姿へと戻っていく。

 

 

 

 「それを守るためなら、たとえこの世が生き地獄でもーーどれほど運命に突き放されようとも」

 

 

 

 志津の頭部が砕け、身体が崩れていく。

 

 

 

 

 「死んでいった仲間に、胸張って会えるまで抗いつづける。俺はあの日、そう誓ったんだ」

 

 

 

 旋風が湧き起こり、志津は消し飛んだ。顔を上げた実弥の目には、再び強い意志が宿り、紫紺の瞳が輝きを放っていた。




風奏琴(エオリアン・ハープ)

弦楽器の一種だが、人の手によってではなく自然に吹く風によって奏でられる。ギリシャ神話の風神アイオロスに由来し、ホーミーのように倍音が重なって、荘厳な音がする。

ギリシャ語やヘブライ語では、風、息、命、霊は同一の言葉で言い表される。(ギリシャ語ではプネウマ、ヘブライ語ではルーアフ)
「風の音を聞く」というのは、「霊の声を聞く」という意味合いになるそうだ。
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