恐れ谷に吹く風   作:がじゅ丸     

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死闘に苦しむ三人。その最中、実弥は…。

実弥役の関智一さんが、かつて樹木子を題材にした漫画を描かれていたことを昨日知りました。思いもよらぬ偶然に驚いています…。


かごのなかのとり

お前の光は、今どこにある?

(ウィリアム・シェークスピア『リア王』)

 

 

 力を増した相手は壁を引き裂き、上半身を乗り出した。囂々(ごうごう)と鳴る風が彼の頭部にかかる靄を吹き消していく…。

 

 

 

 顔が露わになった…。

 

 

 

 石化した皮膚。そこかしこにヒビが入り、朽ちかけた仮面をつけているかのよう。石の破片で覆われた右目は、見開いたまま永遠に時が止まっている。左目は真っ赤な眼球が剥き出し、血の涙が頬を伝う。顔の両側面にはそれぞれ別の霊魂の顔がある。まるで阿修羅だ。

 

 

 「バケモノめ…」

 

 

 町長が呟く。

 

 

 

 やがて闇に燃ゆるその瞳は、視線上の本堂を睨んだ。中にあの元集落の住民がいる。その彼らを護る、霊気を纏った鬼狩り…今、目の前にいる(霊魂)の本体だろう。透視の力で全てを把握する。

 

 ――ならば。

 

 忌子は口元を歪め、陰鬱な笑みを浮かべる。

 

 ――諸とも殺すまで。

 

 本堂の一点を凝視し、満ち満ちた殺意を念に変えていく。

 

 

 

 ドォッ!!!

 

 

 

 激震が走り、本堂の柱や屋根に亀裂が入った。屋根が大きく崩れ、中にいた者たちが悲鳴を上げて外に走り出てくる。

 

 

 「なっ…! 」驚く愛生。「念力まで…」

 

 

 

 本堂に残る樹と愓恵は何とか持ち堪えているようだ。観音経は止まず、光の音波を出し続けている。だが…

 

 

 ――このままでは危ない。

 

 

 焦る樹。本堂が崩れれば自分の肉体は滅び、愓恵が憑依できなくなる。そうすれば防壁に念を乗せられず、霊魂の侵入を許し…行き着く先は「全滅」だ。

 

 首にかかる数珠を手に取り、再び念を込めた。先ほどの千手で既にかなりの霊力を消耗している。額には汗が滲み、瞳孔が縮んで息が荒い。右腕がずしりと重たく痛む。簡単に太刀打ちできる相手じゃないことはわかっていた。だが霊験を一発撃っただけでこれほど疲弊するとは…自分の力はあとどれくらいもつだろう? 戸惑う気持ちのまま、ありったけの気を集中させていく。

 

 「ううッ…」

 

 

 絞り出すような声とともに、樹の右手から放出されたのは翠の光。数珠を伝わり、大きく渦巻く流れとなる。樹はそれを鞭のように扱いながら、忌子に猛攻を仕掛けた。

 

 

 

 冰夷封翠輪(ひょういふうすいりん)

 

 

 

 半人半龍の守護神、冰夷の翡翠色に輝く輪が、畝りながら忌子の霊を捕らえた。巻きつかれ、怒り狂う忌子。だが暴れるごとにますます翠輪は複雑に絡み合い、忌子の動きを封じていく。

 

 

 

 ググッ…

 

 

 樹は自らの右腕に翠輪の端を絡ませ、さらに左手でしっかりと握る。忌子は蹌踉(よろ)めき、地に手をついてしまった。

 

 

 

 されど…

 

 

 

 

 突如忌子の赫い目が曇り、頭部がどろどろに溶けていく。

 

 

 「…! 」

 

 

 愕然として声も出ぬうちに、今度は翠輪の巻きついている臍から上の上半身が萎んだ。代わりに腰の辺りが局所的に膨らみ、新たな忌子の上半身が出現する。

 

 

 ――俺を見くびったな。

 

 

 

 残忍な笑いが辺りに響いた。

 

 

 ――新米の霊媒師。お前ごときが俺を止められるか。

 

 悠揚迫らぬ様子だ。

 

 

 復活した敵はさらなる霊力を求めて咆哮。その振動で本堂の壁が次々に崩壊する。同時に防壁を囲んでいた北東外の霊魂たちが、一気に忌子に吸収されていく! 忌子の身体はみるみる大きくなり、十二尺ほどになった。

 

 「野郎…なんてやつだ…」

 

 紫万は今目にしている光景が信じられない。一体どうすればこんな怪物を止められるというのか。

 

 

 

 忌子の左目に再び、執念に取り憑かれた凶悪な赫い光が宿る。彼は翠輪を掴み自分の念を込め、手綱(・・)を握る主に伝え返した。

 

 「(ツウ)ッ!!! 」

 

 黒い稲妻が翠輪をつたい、樹を襲った。灼けつくような苦痛に目がふくらみ、飛び出そうになる。身体が硬直し…手が痺れ、感覚がない。顔はどす黒く変色。先ほどまで身体から発していた霊験の輝きも薄らいでいる。

 

 「樹!! クッソ! 」

 

 紫万が横から叫ぶ。助けたくても助けられない。愛生も紫万も、衛の壁を保つために絶えず旋風を起こしていなければならないからだ。自分達を両脇に挟み、霊魂同士が繰り広げるこの攻防に入り込む余地すらない。ましてや自分らが生身の人間である以上、忌子の霊魂に直接攻撃することも出来ないのだ。忌子の顔の両側面にある霊魂は、そんな彼らを一瞥し嘲笑っている。

 

 やがて忌子は、翠輪ごと樹を手繰り寄せ始めた。樹は今しがた受けた忌子の攻撃によって霊力を半減させられ、力が出ない。翠輪は忌子の念によって、逆に樹の腕に絡みついている。樹は抵抗虚しく引っ張られていく。

 

 「まずい…! 」

 

 まもなく起きようとする最悪の展開に、愛生が危機感をあらわにする。

 

 「チキショー! どうすれば…! 」

 

 だが、なす術がない。

 あっという間に樹は忌子に捕えられてしまった。

 

 

 

 

 

 忌子が樹の身体を握り締める。

 

 

 ――邪魔するな。お前も一緒に殺してやる。

 

 

 敵意を剥き出しにし、緋色の眼球を凶暴にギラつかせる。

 

 樹は苦しみながらも残る霊気を余すことなく放出し、自分を拘束する相手に反撃する。忌子と樹の霊気が激しくぶつかり合い、凄まじい帯電が起きた。と、その刹那…愛生がふと何かに気がつき、驚く様子を見せる。

 

 

  ………………………………

  …………………………

  …………………

  ……………

  ………

 

 

 樹の意識が混濁していく。

 

 

 チリー…ン

 

 

 澄んだ音が鈴の映像とともに頭を掠め、視界が白み始めた。

 

 

 

 

 忌子の記憶の断片が流れ込んでくる…

 

 

 

 

 

 大きく開いていく樹の瞳孔。

 

 

 

 

 北風の吹き荒ぶ寒村。

 

 

 一人道をとぼとぼ歩く少年の後ろ姿。

 

 

 乱れた深緑の髪の毛。

 

 

 ボロボロの野良着。

 

 

 傷だらけで血の滲んだ裸足。

 

 

 何かを探し求め、彷徨い続ける。

 

 

 「夜奏(よかな)…」

 

 

 誰かの呼ぶ声が聞こえ、少年は立ち止まり…振り返った。

 

 

 その素顔が露わになる刹那、全てが無慈悲に黒く塗りつぶされていく。

 

 

 

 暗転したまま次に過ぎったのは、その少年自身の声だ。

 

 ――どうして…どうしてボクは。

 

 涙ながらに訴えている…穢れを知らない、純粋な声だが、胸をしめつけられるまでに哀しく響く。闇の中で一人孤独に怯えている。

 

 

 やがてその声が、低く歪んだものに変わった。

 

 ――ここにいるの…?

 

 

 

 少年夜奏の過去。

 

 

 記憶の断片はそこで途絶える。

 

 

  ………

  ……………

  …………………

  ………………………

  ……………………………

 

 

 

 ぼんやりとした意識の遠くで、唸る風が聞こえる。その音が次第に大きくなり、樹は我に返った。剥き出しの赫い眼球が自分を見下ろしている。苦しい…。殺意に満ちている。樹は叫んだ。

 

 

 ――やめろ…! こんなことをしてもお前の魂は救われない。

 

 忌子は力を緩めない。

 

 ――お前自身が望んでいないはずだ。夜奏!

 

 

 樹がその名を口にするや、忌子の動きが止まった。冷酷非情の顔に、はじめて人間らしい表情が走る。樹はじっと見入る。微かだが…彼が動揺しているのがわかる。

 

 

 

 忌子は目を伏せた。だが…すぐにその表情が苦痛なものへと変わっていく。

 

 

 ――…うるさい…。

 

 

 顔を歪ませ、息が荒くなり、激情が募る。

 

 

 ――うるさい…!

 

 

 緋色の眼球がかっと見開かれ、石の皮膚にビキビキとヒビが入る。

 

 

 

 

 ――そんな夜奏(やつ)はとっくに死んだんだよ!!!

 

 

 バリィィィ……ン

 

 

 

 

 忌々しい己の過去に向けて発せられた言葉とともに、石化した皮膚が弾け飛ぶ。その下から曝け出されたのは、隠されたる忌子の霊の、本当の素顔。

 

 

 見たもの全てが、その悍ましさに目を疑った。

 

 

 

 

 

 頭髪は逆さになった無数の赤子の手足。

 

 

 額はびっしりと耳で埋め尽くされている。

 

 

 鼻は小さな腕の集まり。

 

 

 両頬は上下逆さの赤子の横顔。

 

 

 口や顎には胴体が重なり、

 

 

 もはや何も映さぬ白濁した右目の周りには細い指が大量に生えていた。

 

 

 

 頭部だけではない。胴体や四肢に至るまで…嬰児や幼子の身体の部位という部位が、新たな組織を形成せんと組み合わさっていた。紫万は下唇を噛み締め、悲鳴が出そうになるのを必死で堪える…。

 

 

 ――俺をよく見ろ、虫けらども。何十年と谷で生きながらえてきたこの俺を。お前らがその貧弱な力で葬り去ろうとしている夜の怪物をとくと見ろ。俺をよく見るんだ、塵に等しい鬼狩りどもめ! 俺を見て絶望の淵に沈め!

 

 

 赫い瞳が灼熱のような狂気を帯びている。

 

 その最中、迫り来る危機を悟った愛生が、蒼ざめながらも紫万に囁いた。

 

 「紫万くん…」

 

 「ほええ?! 」

 

 紫万は完全にビビり倒している。噛み付くように睨んでくる忌子の側面顔に感づかれぬよう、愛生は言葉で返さず、密かに人差し指で上を指した。

 

 

 ――?

 

 上を見ると…防壁の風が、樹と忌子の摩擦帯電によって二層に分かれ始めていた。紫万(自分)の出している風と、愛生の出している風。たまげた…こんなの今まであった試しがない。風の防壁は、基本的に一層かつ一定方向の旋風でしか作れない。だから愛生と組むときにはいつも、左利きで反時計回りの旋風しか出せない愛生に、両利きの自分が合わせていた。現に今も反時計回りだ。だが実のところ、自分は時計回りのほうが倍も強い旋風を出せる…。

 

 思ってもみない偶然に驚きつつ、再び相棒へ向き直ると、彼は黙ったまま人差し指で時計回りに円を描き、こちらを指差した。そして、人差し指と親指を近づけて見せる。大きな賭けに出ようとしていた。

 

 ――なるほどね…オッケ!

 

 紫万は、表情を変えずにウィンクする。

 

 

 

 そんな両脇の仲間のやり取りをよそに、樹はなおも忌子に向かって声を張り上げていた。

 

 ――お前は無惨に利用されているだけだ。無惨の力の前に、身も心も蝕まれ続けているんだぞ!

 

 忌子の表情は変わらない。

 

 ――お前が魂を分け合っているその子らも同じだ。あの谷に永年閉じ込められ、お前とともに苦しんでいる。もうこれ以上彼らを縛りつけるな!

 

 樹を握り締める忌子の手に力が入っていく。

 

 ――それがどうした。そもそもその可哀想な(・・・・)やつらを生み出したのは誰だ。

 

 忌子は樹を自分の顔の目の前まで引き寄せる。

 

 ――頼んでもいないのに生み落とされ、何の罪も犯していないのに身勝手に殺される者の気持ちが、お前に分かるのか。

 

 そう言うと、親指と人差し指で樹の頭を挟み、力を入れる。

 

 ――うぐッ!

 

 樹がどんどん透けていく。

 

 ――そんなことが罷り通る世の中ならな…消えてなくなればいい。そのために俺たち(・・・)はここにいるのだからな。

 

 樹の霊体がついに歪み始めた。このままでは忌子に吸収されてしまう…。

 

 

 ――樹、あと少しだ! クソッ。

 

 紫万と愛生が祈るように防壁を凝視する。

 

 

 

 樹は力を振り絞り、ありったけの声で叫んだ。

 

 

 ――自分と向き合え、夜奏! 本当の自分から目を逸らすな!

 

 忌子は荒んだ笑みを浮かべる。

 

 ――全員道連れにしてやる。せいぜい自分らが招いた不幸に死ぬほど後悔するんだな。

 

 

 

 そう言うが早いが、忌子は樹の魂を喰おうと大きく口を開けた。鋭い牙と、緑の唾液で溢れかえった喉奥に、溶けかかった『生贄』の霊魂が見える。皆助けを求め、上に手を伸ばしていた。樹は胴体を固定され、身動きができない。

 

 

 今から自分もそこに…

 

 

 そう覚悟した時だった。

 

 

 

 ドカッ!!!

 

 

 途轍もない衝撃に見舞われ、樹は一瞬何が起きたのか分からない。

 

 

 「させるかッ…! 」

 

 紫万の声が左から聞こえた…。

 

 

 

 

 目の前の忌子の顔が大きく歪み、その顔を形成していた幼子たちの体の部位が離散しようとしている!

 

 

 両脇から愛生と紫万が、挟み込むように忌子に旋風をぶつけたのだ。樹に気を取られ、反時計回りの風に対する体勢しか取っていなかった忌子は、時計回りの紫万の奇襲をもろに受け、バランスを崩していた。

 

 

 「紫万、愛生…! 」

 

 「お前ばっかりカッコつけんなって。忘れてもらっちゃ困るぜ」

 

 紫万が野性的なその目をギラつかせている。そして忌子に向き直り言い放った。

 

 

 「おい、下衆野郎! ダチに手ェ出してんじゃねーよ!! それになぁ俺は今、猛烈にィ」

 

 スゥッと大きく息を吸い込み、彼なりの決め台詞を吐き出す。

 

 

 「腰が痛ぇんだよォ、バッキャロォォォ!!! 」

 

 

 ・・・・・

 

 沈黙が漂う。

 

 場が凍ったのを紫万は肌身で感じた。そして愕然とする。耐え難い気まずさと恥ずかしさに襲われた。

 

 

 「お…お前らなぁ…」

 

 

 腹の底から失望と怒りが込み上げ、ついに沸点を超える。

 

 

 「ツッコミなしとかマジであり得ねェ!!! 」

 

 

 完全に八つ当たりだが、雄叫びと共にさらなる旋風を巻き起こし、忌子に食らわせた。忌子はとうとう樹を掴んでいるその手を緩める。その刹那、樹が待っていましたとばかりに手の隙間から逃れ――忌子の顔目がけて踊りかかった。右手には短剣を形どった霊験が握られ、その切っ先はおそらく忌子の弱点であろうひとつを狙っていた。

 

 

 グサッ。

 

 

 生々しい鈍い音とともに、忌子の恐ろしい悲鳴が響き渡る。樹の短剣が、彼の左の眼球を貫いたのだ。

 

 ――おのれ!!貴様!!!

 

 忌子は自分の左目にしがみつく樹を掴み上げ、投げ飛ばした。

 

 

 「樹くん!!! 」

 

 

 樹は本堂の向こうまで飛ばされ、姿が見えなくなった。

 

 

 「お、おい…どうするよ…主力がいなくなったぞ」

 

 紫万が蒼ざめる。

 

 

 樹が戻ってこない…気を失ったか、燃え尽きてしまったか。

 

 忌子は左目を押さえつつ、紫万や愛生を襲おうとするが、念の乗った旋風の噴射点である彼らには手出しできない。防壁を作り出している限り、紫万と愛生の身体からは猛烈な風が吹き続けているからだ。さらに、霊を統一する力は左目を傷つけられたことでかなり弱まっていた。防壁の周りには、絶えず幼子の霊が押し寄せてきているが、忌子はそんな彼らをもはや吸収できない。そして…彼の下半身もほとんど崩れかけていた。

 

 

 

 ――と、そこへ。

 

 「消え失せろ、このバケモンがあ!!! 」

 

 先刻、紫万たちに激昂していたあの老人が突然斧を持って忌子に襲いかかる。

 

 

 「おい、ジジイ何すんだ!!! 止せ!! 」

 

 紫万の止めるのも聞かず、老人は斧を忌子の首目がけて思い切り振り下ろした。

 

 

 だが…

 

 

 

 

 

 ヒュッ…

 

 

 

 

 

 斧は空を虚しく斬っただけであった。

 

 

 

 生身の人間では、忌子の霊魂に太刀打ちできぬことを痛感した瞬間であった。老人は唖然とする。目の前の忌子は確かにそこに存在しているのに…なぜ傷つかない。

 

 

 「早く離れろ!!! 」

 

 

 紫万がそう叫んだ時、老人は既にあっけなく忌子に捕らえられてしまっていた。

 

 

 ――久しぶりだな、淀見那(よどみな)

 

 

 忌子は老人を見据え、牙を剥き出す。

 

 

 ――ずっとあんたに会いたかったぜ…。

 

 

 「やめろッ! 離せ!!! 」

 

 

 淀見那はもがくが、もはやその手から逃れることはできない。

 

 忌子の腕から、次々に小さな幼子の頭部が這い出て、そのまま先にある淀見那の元へと下る。信じ難い光景だ。淀見那は目の前に迫る幼子を凝視する。にやついた顔が、飢えきった獣のようにカッと口を開けて飛びかかってくる…石炭の欠片のように真っ黒な瞳と、蒼ざめた皮膚、小さな顔に見合わない長い牙。ようやく獲物にありつける彼らは、空腹を満たされる悦びに満ちていた。

 

 

 「あああああーッ!!! 」

 

 

 淀見那の断末魔が響いた。幼子たちがたかるように彼の首に噛みついたのだ。そしてジュウジュウと音を立て何かを吸い出す。淀見那は泡を吹き、痙攣を起こし始めた。口と鼻からどっと血が流れ出す。

 

 

 ――あの時の(・・・・)礼だ。しっかり受け取れ。

 

 

 忌子が凍えた眼差しで言い放つ。

 

 まもなく、淀見那の動きは全身の脱力とともに止んだ。目から光がなくなり、瞳孔が開ききっている。

 

 

 ――魂を…抜かれた…!?

 

 愛生がぎょっとする。

 

 

 『生贄』となった元集落民は、幼子たちに首を噛まれたまま、地面に投げ落とされた。ドサッという重々しい音とともに、地面の埃が舞う。

 

 

 「淀見那さん!! 」

 

 「じいさん!! 」

 

 悲鳴混じりに町人たちが叫び、淀見那の元へと駆け寄っていく。

 

 

 邪な笑みを浮かべる忌子。それを見た愛生が全てを察し、すぐさま町人たちに向かって叫ぶ。

 

 

 「止せ!! 近づくな!!! 」

 

 だが彼の声は届かない…

 

 

 

 血鬼術 血転生(ちてんせい)

 

 

 忌子が唱えるや、幼子たちの頭部が液状化し、たちまち淀見那の首の傷穴に吸収された。再び痙攣を起こす淀見那。彼の身体は新しい「生」を迎え入れ、局所的に皮膚がボコボコと湧き立った。まもなく両目が見開かれる…血の涙を流し、忌子の左目のように赫い。地獄の溶鉱炉の扉のように、赤々と燃えている。

 

 もはや人ならざる存在となった淀見那は、獣のような唸り声を上げながらむくりと起き上がった。そして落ちていた斧を拾い、即座に町人に襲いかかる。理性を完全に失い、本能を剥き出しにしながらめちゃくちゃに斧を振り回し始めた。

 

 

 ザシュッ!

 

 

 刃先が逃げ遅れたひとりの男の背中に命中し、血飛沫が上がった。男は蹌踉めき、地面に倒れてしまう。

 

 

 「父さん!! 」

 

 

 彼の息子と思しき子供が、庇うように覆いかぶさった。目に涙を溜めている。

 

 淀見那は再び斧を振り上げた。子供だろうが何だろうが、目の前にいる人間は屍人()化した彼にとって一様だ。殺すべき対象であり、次なる『生贄』に過ぎない。

 

 誰もがもう間に合わないと思った。助けようとする者はなく、ただその場に立ち尽くし、これから起きるであろう悲劇を傍観していた。

 

 

  そこへ――

 

 

 

 「散れ、悪しき霊よ!! 」

 

 

 後方から凛とした声が響き渡り、何者かが俊敏に町人たちの群勢を飛び越える。そして淀見那に襲いかかった。

 

 

 樹だ…。ボロボロの姿をしている。顔や手足に真黒き痣が浮かんでいた。忌子から受け続けた攻撃で、もはや自分の霊体は呪いに侵されつつあることを彼は理解していた。暫くすれば悪霊と化し忌子に吸収されるか、消えてなくなるだろう。

 

 

 「滅!!! 」

 

 

 右手の二本指で右上がりに空を斬る。

 

 途端に淀見那の目から赫い光がなくなった。幼子たちの霊が消え、魂の抜け殻となった宿主は斧を落とし、その場に倒れ伏す…。樹は間髪を入れず、そのまま忌子に向かって一散に駆ける。雄叫びを上げながら翠輪を再び発し、忌子の頭部に投げかけた。

 

 

 「喰らえ!! これが『新米霊媒師』の本気だ! 」

 

 紫万の強風に阻まれ、膝をついたまま立ち上がれないでいる忌子の首に、翠輪は吸い寄せられるようにかかった。

 

 

 樹は素早く端を引き、反撃を受けぬうちに最後の一手を声高に叫ぶ。

 

 流解(るかい)明神眼(みょうじんがん)

 

 

 翠輪から目も眩むほどの光が放たれ、数多の明神の眼が出現。全てを光明のもとに照らし出すその眼が、黒霧を纏う忌子の首の中に入っていく。爆ぜる音と共に内から光が発せられ、忌子の首の半分が崩壊した。本体はあくまで谷にいるこの鬼。霊体の頭を落としても完全討伐はできない。だが少なくとも霊を操る力を奪えるだろう。全ては風柱が鬼の首を斬るがため、その時間を稼ぐ。自分達にできることはそれしかない。

 

 

 ここ(・・)が、最後の砦。

 

 

 樹はさらに首の半分を崩すため、残る力を振り絞り、明神眼を繰り出していく。愛生と紫万も、抵抗し暴れ回る忌子を風で押さえつける。

 

 荒れ狂う旋風がますます激しい轟音を伴い、そこかしこに摩擦帯電を生じさせていた。

 

 

 

 隊士たちの死闘を見守り続ける町人たち。

 

 

 

 

 「真司…」

 

 南琵が何かに気づいて真司の袖を引っ張った。

 

 「なに? 」

 

 「あ、あれは…? 」

 

 

 

 南琵の指差した方向――防壁の向こう側に見える、谷の上空。何か白いものが見える。

 

 

 「…なんだ…? 」

 

 

 

 真司はよく目を凝らして見た。

 

 

 

 今まで見たこともないような、巨大な白い雲が渦巻いていた。その白さを喩えるなら、紺碧の冬空と眩しいほどの対照をなしている、降ったばかりの積雪だろう。夜闇に燦々と輝き、まるで燃えているかのようだ。

 

 

 「…吊るし雲…! 」

 

 

 驚き、思わず掠れた声で呟く。

 

 

 「吊るし雲? 」

 

 「嵐を呼ぶ雲だ…」

 

 

 南琵は再び白き雲をじっと見つめた。

 

 

 この絶望の最中、破滅の淵にあって、それは一条の希望のように思える。何故だかわからない。雲は雲のはずなのに…見ているだけで心が熱くなる。運命は変えられると信じさせてくれる。

 

 

 「風柱様…」

 

 

 南琵が祈るように言葉を紡いだ。目から幾粒もの水滴がきらきらと溢れ落ちていく。

 

 

 「風の…神様」

 

 

 

 

 

 樹の霊験と紫万たちの風によって、なおも忌子の霊は崩壊し続けていた。だが…

 

 ――くく……。

 

 

 不意に忌子が笑い出す。堪えきれなくなったかのように。

 

 

 ――くはははは。

 

 

 「…!? 」

 

 

 何だ、一体…。

 隊士たちはたじろぎ、体中から血の気が引くのを感じた。

 

 

 ――馬鹿めらが! 足元には気づかなかったのか?

 

 

 瞬間、ギチギチと不気味な音が下から湧いた。唖然とする間も無く、背後に大きな影が浮かび上がる。あの探索枝が地面の割れ目から一斉に顔を出し、畝りながら木と化したのだ。足元から出た探索枝は自分らの下半身に絡みつき、風に煽られながらもじりじりとよじ登ってくる。絡みついては皮膚に食い込み血を啜り、その食い破られた箇所から赤い血が滲み出て、灼けるように痛い。やがて血の滴がぽたぽたと滴り始めた。

 

 「………」

 

 

 言葉も出ない。

 忌子の本当の狙いは、これ(・・)だったのか。

 

 

 町人たちが逃げ惑う。その彼らに枝の群勢が迫り、辺りが阿鼻叫喚に包まれていく。地獄絵図だ。今目にしている光景を到底現実として受け入れられない。瞬きも忘れて呆然と眺めるばかりだ。

 

 

 

 クソ…

 クソクソクソ!!! 何なんだよ一体!!

 

 

 紫万は無力感で体が動かない。

 頭が真っ白になっていく…。

 

 

 「紫万! ボヤッとするな!!! 」

 

 

 樹が自分にも言い聞かせるように叫ぶ。

 

 

 「俺たちだけで守ると言ったろ!! 」

 

 

 俺たちが最後の盾。それを突破されたら、もう後はない。

 

 

 「クソったれが!! こんなの聞いてねぇぞ!! ふざけんじゃねぇ!! 」

 

 

 自暴自棄になり思わず罵詈雑言が出る。

 

 「落ち着け。こっちもあと少しで首が落ちる! 諦めるな! 」

 

 

 樹の霊体がどんどん透け、顔や手足の痣が広がり濃くなっていく。それでも彼は霊気を放出し続けている。命を燃やすその姿に胸が痛んだ。

 

 

 ――なんで…なんでお前はそこまでやれんだよ…。

 

 

 

 枝が本堂へと向かっていく。樹の肉体があるところ、愓恵が霊気の限りを尽くす防壁の要へと。光の音波に阻まれつつ、本堂の壁を覆い尽くしていく。壁の亀裂から中に侵入し…その先は…もう想像したくない。時間の問題だ。

 

 

 ――いや、待てオイ。

 

 まさか、という予感が紫万の胸に鈍痛を伴いながら押し寄せる。

 

 ――こんなところで死ぬのか俺は。あんな薄情でどうしようもねぇ町人様共のために? 冗談じゃねぇよ、マジで帰りてぇ。…おい、風柱! 全部あんたにかかってんだよ。こっちは死にそうなんだ!

 

 

 様々な思いが浮かんでは、処理不能なまま澱のように溜まり、思考を濁らせていく。

 

 

 腹まできた枝が、さらによじ登ってくる。あと少しで刀を回す両腕に届くだろう。隣を見れば仲間も枝に襲われている。愛生は既に片腕を絡まれ、頭まで覆われていた。

 

 

 「愛生!! 」

 

 

 大事な相棒は半ば気を失いかけつつも、血を垂らしながら鉛色と化した手で刀を回し続けていた。

 

 

 忌子が幼子の霊魂たちに向かって叫ぶ。

 

 

 ――殺せ!! 皆殺しだ! !闇に引きずり込め!!

 

 

 霊魂たちは言われるままに壁に突進し、手を突き刺し始める。黒霧が観音堂を呑み込み、不気味な木々がこの最後の砦を内から食い尽くしていく。

 

 

 ――頼む…誰か…こんなの嘘だと言ってくれ…!

 

 

 

 ふと、実弥の顔が浮かんだ。普段から親しんで呼んでいるその名を、心の内で必死に叫ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 さーやん…

 

 

 

 

 

 

 

 さーやん!!

 

 聞こえるか!

 

 ・

 ・

 ・

 

 ・

 ・

 ・

 

 ・

 ・

 

 さー…や…ん…

 

 

 ハッ…

 暗く落ち込む意識の端で、実弥はふと目を開いた。今紫万の声が聞こえた気がする…。

 

 気がつけば、石の破片を大量に浴びて全身血まみれになっていた。聳え立つ大木を見上げ、俺はこいつと戦っていたんだと思い知る。先刻、思い切り上方に跳んで初列風切を見舞わせたが、樹冠の辺りが大きく抉られた…。ということは、より上部が弱いのか…?実弥はぼんやりと上を眺める。

 

 

 

 もしかすると、あの「技」なら…

 

 前人未到の奥義…

 

 大気と同化し、大気を支配する力…

 

 それならこの強大な敵を倒せるかも知れない…

 

 ああ、もう一度、外に出られたら…

 

 

 

 けれど、もう…

 

 

 

 心身ともに限界だ。もう跳ぶどころか、走ることすらできない。それに刀身が…無数のヒビが入り、使いものにならない。

 

 

 蹌踉めいて躓き、地面に倒れた。と同時に、疲労が降伏点を超えた金属の砕ける音がする。もしや、と思いようやく体を起こしたところで愕然とする。刀身が粉々に散っていた。鬼と戦う唯一の武器が…もうなす術がない。万策尽きてしまった。

 

 

 ――終わりだ。諦めろ、鬼狩り。もうお前は「かごのなかのとり」なんだ。

 

 

 「ううッ…ぐッ」

 

 急に喉元に何かがつき上がってきて、たまらず嘔吐する。目が潤んだかと思うと、血の涙が噴き出した。そして、掌の吐瀉物を見て我が目を疑う…

 

 

 真っ黒な毛髪だった。

 

 

 ――この谷にいる合間に、お前の体は瘴気に侵され続けた。お前はもうすぐ俺の一部になる。稀血の鬼狩り。お前は力強い幹になれるだろう。そして永年この谷に根ざせ。

 

 

 「殺るならさっさと殺れよ」

 

 虚な目で投げやりに答える。だが…

 

 ――惨い最期にしてやると言ったろう? とっておきのな。俺は直接手を下さない。

 

 ふふ…と笑い声が響く。

 

 

 「ぐあッ」

 

 

 何かが身体の中で蠢き出した。肺を突き破り、心臓に絡みついてくる。息が…できない。痙攣を起こし、地面でのたうち回る。

 

 ――俺をさんざん憎みながら、最後まで苦しみ抜け。そうして死んだお前の肉体に、強い怨念が宿る。

 

 

 自分の腕が目に入った。緑の血管がすっと浮かんだかと思うと、みるみるうちに体中に張り巡らされていく。

 

 身体の節々から赤子の顔が覗いた。皮膚がぼこぼこと湧き立ち、ついに首元にもそれが現れる。もうこの身体は自分のものではない。名もなき無数の「命」が宿されていく。今まさにこの怪物の一部に組み込まれつつあるという実感が、容赦なく精神をきしませる。この世に生きながらえてきた意味など、全て虚しくかき消されていく…。

 

 妙な気分だ。もうじき死ぬのに…恐怖、不安、やり残したことへの悔い、そしてほんの僅かな解放感――様々な感情が入り混ざって、思考が一方向にまとまらない。次第に甘やかな諦念に体中が満ちてきた。内面が静かになり、現実感が遠ざかる。無限の闇に吸い込まれていく…まるでもう死後の世界にいるように。何ならその深部に沈み込んでしまっても良いような気さえしてきた。

 

 外界の音が聞こえなくなり、自分の細切れの呼吸と心音だけが頭に鳴り響いた。熱を出した夜に見る夢の如く、様々な感覚があやふやになる。不思議な、甘く少しすえた香りが漂い、目に映るもの全てが今までと違う姿へと変貌していく。

 

 

 自分を囲む樹木たちが、砂歌町の着物を着た子供たちに変わり…囁くように呼びかけてくる。幽かな、どこか寂しげな声だ。

 

 ――お兄さん、こっちにおいで。お花が綺麗なところに連れて行ってあげる。

 

 

 

 

 大木の幹が陽炎のように揺らめき出した。その中が次第に透けて見えてくる。

 

 

 

 野良着を着た子供たちが、手を繋いで放射状に並んでいた。皆空虚な目で何の感情もなく、人形のようにただそこに立っている。ひとり中央にいる少年を守るように…

 

 

 震え動く光の中で、その少年の顔が微かに見えた…真っ直ぐに実弥(自分)を見ている。

 

 

 

 深い緑の髪に縁取られ、朧月のように柔らかく光っている。右目は白濁し、左目は澄みきった橄欖(かんらん)石色。金色に輝いている。くすんだ色彩に沈む景色のなかで、その存在感は水晶のような繊細な光を放っていた。

 

 

 その少年は囲まれているにもかかわらず、どこまでも孤独に見えた。顔は絶えず苦悩に引き攣り、目は暗く――まるで、内なる荒涼とした地平線を眺めているかのようだった。実弥はぼんやりと見入る…なぜか瞳をそらせない。この少年があの声の主であり、怪物の中核(・・)であると直感していた。

 

 

   お前は…ずっとそこで…

   何年も、何十年も生きてきたのか

 

   世を呪い、自分を呪い…

   己がわからなくなるほどに…

   全てを背負い、この谷に囚われたまま…

 

 

 分からない。この少年は鬼であり、敵のはずだ。なのに憎むことができない。今までにない感情が湧いてくる。そこ(・・)から解放してやらねば、救い出してやらなければ…そんな思いが、沸々と湧いてくる。

 

 

 かつての育手、(ふげ)の言葉がふと脳裏に蘇った。実弥が鳳邸の居間にある掛軸に見入っていた時だ。実弥はこの掛軸の絵を見るのが好きで、居間に入る機会を得ては、じっと眺めていた。そこには雲の中の鬼狩りが、巻き起こした風を地上に吹きおろす姿が描かれていた。

 

 ――気になるか? 実弥。

 

 あまりに熱心に見ていたので、とうとうある日鳳が声をかけた。

 

 ――これは幻の奥義といってな、未だ誰も達成できていない技なんだ。風柱の書では拾ノ型に当たり、一説では「神の領域」と言い伝えられている。我こそはと挑んだやつらは、皆失敗して死んでいったよ。それくらいの破壊力なんだ。空の高みへ…遥か高みへと飛翔し、風を集めて天の力を得る。自然界には人が滅多に遭遇しない、巨大な力があるからな。だが途中で集中が切れれば、その場で木っ端微塵さ。そういう諸刃の剣なんだ。

 

 

 鳳は遠い目をしてさらに続ける。

 

 

 ――正味な話、俺はやってみようと思ったことすらない。まるで非現実的だし、危険な賭けまでして死にたくねぇからな。だからこいつは推測に過ぎねぇが…その奥義を成し得る者は、きっと別次元に達したやつだ。保身を忘れ、個我を超えた先に、ただ純粋に誰かを救いたいと思う気持ち、そのためにこの奥義を切に求める心があるならば、力を与えられる。大気と一つになれる。風の神の意識に触れられるんだ。

 

 

 そうだ…思い出した。遠い昔、全身を耳にしてこの話に聞き入ったことを。そして自分の夢が何であったのかを――。

 

 

 

 

 どこからか柔らかい光が差し込み、頬を照らし出した。

 

 

 見上げると、いつしか天井に張り巡らされていた枝群の間に隙間ができ、そこから白く燃ゆる雲が空に浮かんでいるのが見える。

 

 実弥はゆっくりと目を開く。

 

 暗転し、霞んだ視界のなかで、それは消えゆく自分の命に最後の灯火をともすように輝いている。まるで「こっちに来い」とでもいうかのように。

 

 

 

 その雲は

 

 

 あの丘で見た大きな雲にそっくりだった

 

 

 傍にはかけがえなき友

 

 

 ──もし俺が死んだら…俺は空からお前を守る。どんな時も必ず助けてやる。だからお前は、安心して前を行け。

 

 

 

 ──匡近。

 

 

 

 

 時が止まり、辺りを沈黙が支配した。一瞬の出来事のはずなのに永遠に感じられる。もはや現実的思考をやめ、鏡面のようになった実弥の心に、たったひとつの想いだけが映し出された。

 

 ――どっちが「かごのなかのとり」か教えてやる。

 

 紫紺の瞳が、再び大木の幹を捉えた。

 

 

 

 

 

 

 ――なぜだ…。

 

 様子をじっと見ていた璽永地()は、何か不可解なことが起こりつつあるのを予感していた。

 

 ――異形化が止まった…? やつの身体にはもう()が張りめぐらされているはずなのに。

 

 『生贄』となるべき鬼狩りが、体中に顔や緑の血管を生やしたまま、ゆっくり起き上がろうとしている。ばかな! あまりの異常さに、こちらが戦慄を覚える。その傷でよくやるものだ、人間にしてはよく戦うほうだと思ってはいたが、このように不屈の精神とは。こいつ、一体…!

 

 璽永地はやむなく触手を放つ。無数の魔の手が鬼狩り目がけて襲いかかった。が――

 

 

 瞬間的に撹乱するような突風が吹き、触手を跳ね除け、岩壁や地面に叩きつけてしまった。これまで、この男が斬撃で出していたどの風よりも強い。この閉鎖的な空間で一体どこから…あり得ない。

 

 

 ヒュオオオオオオオオ フウウウウウウウウウ

 

 

 

 鬼狩りが立ち上がりながら呼吸を始めた。もはや人間のそれではない、荒れ狂う風の音がする…山間を吹き抜けていく猛吹雪の音だ。風の音が、ときおり低音の唸りや咆哮にかわったかと思うと、つぎには高音の悲鳴へと高まっていく。何をも寄せつけず、全てを吹き散らし、その存在自体が嵐を渇望する風になったかのようだ。

 

 冷たい暴風に吹きつけられ、枝群が次第に無様にねじ曲げられていく…

 

 

 

 白き雲は明るく燃えさかりながら、底知れぬ深い谷の上に銀色のベールのように広がり、渦巻き乱れていた。そしてまもなく稲妻の矢を落とし始める。放たれた稲妻の矢は岩壁や谷底に当たり、火蛇のようにのたうっては消えていく。暗き谷のそちこちを青白い閃光がほとばしり、雷鳴が鳴り響いては反響(こだま)した。

 

 

 

 自分でも異様だ、と実弥は思う。恐ろしく冷静なのだ。普段なら血が騒ぐままに戦うのに…今は高揚していたとしても、それは氷のように冷たい炎だろう。

 現実的思考や激情が消えつつある今、代わりに拡張されたのは視野と知覚だ。視野が果てしなく広がり、知覚は研ぎ澄まされ、ありとあらゆるものを瞬時に捉えている。それは新しく得られたものではなく、遥か昔にあったより根源的で、より原始的な力だった。むきだしの塊のまま地中から吐き出された鉱石、まだ磨かれていない力、宇宙の巨大な車輪を動かす力。人間が長い人生をかけ、自己を護るために取捨選択をしていくにつれ徐々に忘れ去っていくもの、無垢な子供の心が生み出す力であった。

 

 身体が膨らんでいくようだ…呼吸をすればどこまでも吸い込め、吐き出せる。もはや肺活量の概念などどこかに飛んでしまったかのように、無限で自由だ。恐ろしいことでもあるのだろうが、実弥の心身はそれを歓迎し、望み、渇望していた。身体そのものが、目の前にあるすべてのものを薙ぎ倒すことができる大暴風のように感じられ、いつしか白い光を放っている。やがて顔を上げれば、紫紺だったその双眸は冷たく冴え、眩いほどの強烈な白銀に輝いていた。その輝きの中に浮かぶ鋭く黒い瞳孔が、真っ直ぐに対峙する相手を見つめていた。

 

 

   たとえこの身が滅びようと

   この谷の呪いはここで終わらせる

   この手で…必ず!

 

 

 掛軸の絵に添えられていたある文言が、心の内に反響(こだま)する。

 

 

   ――立て! 行け! 出で行け! 広い空へと! 生きよ! 翔けよ! 耐え忍べ!

 

 

 人その勇気失わぬ時、運命は往々にしていまだ命の定まらぬものを助ける。

 

 

 嵐よ、強く強く吹き荒れよ!

 




[ウラ解説]

1. 忌子の霊の素顔は、Freya Jobbins氏の廃棄人形の部位を組み合わせて作った人型オブジェをモデルとしている。

2. 樹が忌子の過去を垣間見る場面で流れるbgmは、サイコメトラーEIJIのサントラの《DEAD ZONE [OUT SIDE]》(寺田創一さん、宮永治郎さん作曲)をイメージ。

3. 瀕死の実弥が夜奏の魂を見るところ→覚醒に至るまでのシーンは、菅野祐悟さん作曲の《揺るぎない信念》を聞きながら書いていました。レクイエム的で荘厳な感じの音楽です。
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