昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第九十三話 ケレナの噂話

 ミーナは早朝に領主館敷地の南西の隅にある小さな祠に向かう。

 そこは普段ほとんど人も来ないような場所で、長らくその管理は信心深いヘルカ婆が行っていた。

 料理人としての職を娘のソニヤに譲った後も、領主館の一隅に住まわせてもらっているのだからと、ヘルカ婆は体があちこち痛んできた今もこの仕事を続けていた。しかしこの間、水の入った重い桶を運んでいたときに転んでしまい、足を捻挫してしまったらしい。

 

「じゃあ、私が代わりに行きます」

 

 ミーナはすぐさまヘルカ婆の代わりを申し出た。

 オリヴェルがヴァルナルと朝食を食べるようになってからは、ミーナがオリヴェルの朝食の準備をすることもなくなり、早朝は比較的ゆっくり過ごせるようになっていた。

 ここに来て以来、何かと世話を焼いてくれるヘルカ婆への恩返しができるなら、何でもしたかった。

 

 そんな訳でこの数日は、ミーナが祠の掃除などをしている。

 

「あら、ミーナさん」

 

 ポプラの連なる小道を歩いていると、声をかけられた。振り返ると、オヅマの家庭教師でもあるケレナ・ミドヴォア女史が立っている。

 

「こんな朝早くから…偶然ですわね。あなたもお散歩かしら? 少し寒いけど、いい朝ですわね」

 

 早口に話しかけてくるケレナにミーナは多少戸惑いつつも、すぐに桶を傍らに置くと、臍の上あたりで手を組み、頭を下げた。

 

「朝早くにお目にかかります」

 

 ケレナは目をパチパチと瞬かせると、苦笑した。

 

「まぁ…そんな畏まった挨拶をされるような身ではありませんのに。私など、ただの家庭教師ですし」

「いえ。息子がいつもお世話になっておりますから。辛抱強く接して頂いて、恐縮しております」

「オホホホ」

 

 ケレナは否定もできず、笑って誤魔化した。

 実際に、オヅマはケレナの授業で船を漕いでいることが少なくない。珍しく起きていれば、魔方陣の落書きをしていたりする。

 

「私も今まで教えてきたのは女のお子さんばかりだったので、まだ試行錯誤しておりますの。彼らの興味ある教材を用意できればよろしいのですけど」

「先生も大変ですわね」

「えぇ、そうですわね…大人になって、先生なんて呼ばれていても勉強ですわ。むしろ子供より熱心に取り組まないと、あっという間に追い抜かされてしまいます。子供の持つ集中力というのは、いつも目を見張るものがありますから」

 

 二人は話しながら祠の前にたどり着いた。

 大きな翌檜(あすなろ)の木の前には、白煉瓦で組まれた小さな祠が建てられている。屋根の部分だけが黒く瀝青(れきせい)で塗装されていた。

 

「まぁ、こんなところに祠堂(しどう)があるなんて思いもしませんでしたわ」

 

 ケレナは驚いたように言って、まじまじと飾り気のない質素な祠を眺めた。

 

「毎朝、ミーナさんが世話されているの?」

「えぇ…ずっとヘルカさんが管理されていたんですけど、この間、足を痛めてしまって、私が代わりに」

 

 話しながらミーナは祠から(さかずき)を取り出し、中に残っていた水を捨てると、桶の水を注いで元の位置に置いた。周囲に植えられた神に捧げるための花に水をやり、ついでに伸びてきた雑草をむしる。最後にポケットから香木の欠片を取り出すと、それを杯の手前に置かれた小さな陶器の器に入れて、火をつけた。

 フワリと、森の清しい香りに混じって微かな甘い匂いが漂う。

 

「あぁ…この香りを嗅ぐと、神殿にいる気分になりますわね」

 

 ケレナがスゥと深く吸って胸をふくらませる。

 ミーナは微笑した。

 

「神殿で使われる深鳴香(ジュデキュス)などはとても手に入りませんが、この地域には銀雪花樹(ルミリア)という似た香りの木があるんです。だから、ここの人達は自分たちの家の神棚にも、毎日のようにこの香木を供えるんですよ」

 

「まぁ、珍しいですわね。神様をお祀りするのは帝都の庶民もしますけど、さすがに香木を毎日焚くなんてできませんわ。あっという間に破産してしまいます。その木は帝都にはないのかしら?」

 

「寒冷な場所でないと、育たないらしいですわ。庭師が言うには」

「あら、残念」

 

 そこで一旦、会話は止まった。

 

 ミーナは静かな表情で、祠の正面で腰を落として片膝立ちになると、ピンと指を伸ばした手を胸の前で交差し、瞑目して頭を下げた。正式な神前での拝礼式だが、庶民で知る者は少ない。貴族であっても、古典礼法をよほどに叩き込まれなければ、ここまで自然と身につくことはないだろう。

 

 ケレナもまた、そうした拝礼があることを知らず、とりあえずミーナに(なら)って頭を下げた。

 

「この祠は何の神様を祀っているのかしら?」

 

 ケレナはすぐに顔を上げると、まだ祈っていたミーナに尋ねた。

 ミーナは目を閉じたまま、やさしく答える。

 

「特に決まってなくて、年神様をお祀りしているようですよ」

「あら。じゃあ今年はイファルエンケだから……恋人達の神ですわね。だからかしら? ミーナさんが熱心にお願いしているのは」

「え?」

 

 ミーナは目を開いた。

 振り返って目が合うと、ホホホとケレナは笑った。

 

「聞いておりますわ。ミーナさんがご領主様と随分とご昵近だと。この屋敷の人達はみな、優しいですわね。普通、主と自分の同輩の召使いがそんな仲になろうものなら、嫉妬してひどく当たる者も珍しくないのに」

 

 ミーナは困惑しつつ、首を振った。

 

「そんなことはありません。先生の仰る通り、私は一介の召使いなのですから、領主様と昵懇だなんて…畏れ多いことです」

 

 固い口調で返すミーナに、思っていた反応と違ったのか、ケレナは狼狽して言い繕った。

 

「あら、そんな……困ったわ。私、皮肉を言ったわけじゃございませんのよ。気を悪くされたのかしら? ごめんなさい」

「いえ、違います。本当に…本当に、私はそんなことは考えてもいませんので」

「あら……そうなんですか」

 

 ケレナはやや残念そうに言ってから、ふっと表情が翳った。

 

「まぁ、結婚すれば男は変わると申しますものね。ご領主様も以前の奥様とは上手くいかなかったようですし…」

 

 ドクン、とミーナの心臓が強く跳ねた。

 

 それまでにも何度となくヴァルナルの前妻の話は聞いていたが、たいがいが「田舎を嫌って出た薄情者」というものだった。話す者達のほとんどがレーゲンブルトに長年住み暮らしている者達なのだから、致し方もない。

 

 しかしケレナは公爵家からの紹介で来ている。

 点々と各地の貴族の家を渡り歩く中で、ヴァルナル・クランツ男爵の様々な風聞を聞いたのかもしれない。

 

「以前の奥様は…ここが嫌になって出ていかれたと聞いておりますが」

 

 ミーナがか細い声で言うと、ケレナは軽く溜息をついてゆるゆると首を振った。

 

「確かに田舎暮らしを嫌う女の方もいらっしゃるでしょうが、それでも夫がそれなりに気を遣っていれば、逃げるように出ていかれるようなことはないと思いますわ。まして幼い息子をおいて。私が聞いたのは、クランツ男爵が奥方を他の女性とくらべては非難していたと…」

 

「他の女性?」

 

「ミーナさんはご存知かしら? グレヴィリウス公爵の亡くなられた奥様のこと。リーディエ様と仰るのですけれど、美しくて、その上、とても賢い夫人でいらしたようですの。領主様は公爵閣下にお仕えすると同時に、リーディエ様にも相当に傾倒されていた……あるいは」

 

 ケレナはコソリと小さな声で囁いた。

 

懸想(けそう)されていたのかもしれません」

 

「………」

 

 ミーナは聞きながら、心臓を冷たい剣で刺し抜かれた気分だった。

 ケレナは黙り込むミーナに頓着せずに話を続ける。

 

「そのせいか、前の奥方はリーディエ様と比べられて、とても冷たい扱いを受けたと聞いております。無論、それは片方の意見であって、私も領主様に実際に会ってみれば、噂は噂だと認識を改めましたけれどね」

 

 ひとしきり話してからケレナはもう一度、祠に向かって頭を下げた。

 

「……イファルエンケは漂泊の神でもありますものね。私のような根無し草には有難い神様ですわ。もっとも、ここにはもうしばらくいさせてくださいとお願いしましたけど」

 

 笑って言うケレナに、ミーナは微笑み返しながらも、心中には不穏な思いが渦を巻いていた。

 突如湧き出たドス黒い気持ちが、ミーナの顔に翳をつくる。

 

「ごめんなさいね、ミーナさんはとても真面目でいらっしゃるのに、こんな話をしてしまって。見たところ私と同じような年頃でいらっしゃるものだから、親しくなれるかと思って…実は前々から機会をうかがっていたんです。ご迷惑だったかしら?」

 

 ケレナは申し訳無さそうに言った。自分がミーナの機嫌を損ねたと感じたらしい。

 ミーナはあわてて強張った顔に、無理やり笑みをつくった。

 

「いえ、そんな私なんて。いちいち真面目に考えすぎてしまって、つまらなかったですね。申し訳ありません」

「いえいえ、そんな。でもせっかくこうして知り合えたのです。内容は違っても、若君のお世話するという立場は一緒なのですし、もしよろしければ友達となっていただきたいわ。本当は私、とてもおしゃべりなんです」

 

 ケレナはそう言って、手を差し出す。跪いていたミーナは、その手を掴んで立ち上がった。

 

「私などでよろしければ」

「そんな謙遜なさらないで、ミーナさん。あなたが時折歌っているターディ語は、今ではほとんど聞かなくなった希少言語なんですよ。文字を持たない、歌で語り継がれた民族の言語ですわ。私、興味深く聴かせてもらっていたんです」

 

 ケレナはいきいきとした好奇心を隠すこともなく、楽しげに言った。

 

「お恥ずかしいですわ。誰もいないと思って歌っていたのに」

「ふふふ。あなたの歌声に耳を傾けている方は、私以外にもいらっしゃると思いますわよ」

 

 ケレナはおしゃべりだという言葉に違わず、ミーナと一緒になって館に向かって歩いている間、ずっと話していた。

 

 前の職場での令嬢がすぐに仮病を使って授業をサボったりしていたことや、昔、住んでいたラーナヤ王国のこと、ここに来るまでに泊まった宿屋のひどい料理のことなど、様々な話を面白おかしくミーナに語った。

 

 当初は礼儀正しく控えめな態度を崩さなかったミーナも、ケレナの飾らない人柄と、辛辣ながらも率直で、ちょっとした()()()()を含んだ話術に、いつの間にか声を出して笑っていた。

 

 ミーナはケレナの話に相槌をうちながら、ふと思った。

 

 そういえば、自分には同じ年頃の友達というのがいたためしがない。――――

 

 幼い時にとても慈しみ育ててくれた存在はいたが、自分と同じ年頃の子供と遊んだ記憶はなかった。

 その後の人生においても、力になってくれたのは年上の女性ばかりで、自分と同じ年頃の少女が、リボンを揺らしながら楽しげに笑って過ぎていくのを、オヅマを抱きながら見つめていたのを思い出す。

 彼女らを羨んだりしたことはない。

 ただ、自分とは別の世界にいるのだと思った。自分がその世界に加わることはないのだと……。

 

 感傷に浸る前にミーナはその思い出を振り払った。

 とめどなくおしゃべりするケレナを見つめる。

 当たり前に過ごしてきた日常の朝に、突如現れた同じ年頃の『友達』が、とても貴重な人のように思えた。

 

 ケレナは辻音楽家が壊れたアコーディオンで見事に演奏した話で一区切りした後、ハーッと長く息をついた。

 

「あぁ、久々ですわ。こんなに気楽におしゃべりできたのは。家庭教師って、ちょっと特殊でございましょう? 召使いというわけでもなし、かといって客人というわけでもなし。主や主の家族からは召使いに毛の生えたもの、みたいな扱いですし、使用人からすれば客人でもないくせして態度のでかい女だと陰口を叩かれることもあって、なかなか心許せる人間というのに巡り会えないんです」

 

「まぁ…大変ですのね」

 

「えぇ。ですから、今までは遠方にいる姉に手紙で愚痴を言うのが唯一のおしゃべりだったんですの。姉は病であまり外に出ることもできない身の上ですから、私からの便りが唯一、楽しみなんだと言って…」

 

 言いかけたケレナの目に、一瞬、涙が浮かんだ。ミーナが気付いて言う前に、ケレナはあわてて涙をぬぐって、ニコリと笑った。

 

「でも、長く書いていると腕が痛くなるし、指にはタコができてしまうし…何より、分厚くなってしまって切手代が馬鹿になりませんわ」

 

 肩をすくめてみせるケレナに、ミーナは笑った。涙が少し気にはなったが、ケレナが避けたい話題なのかもしれないと思って、あえて触れなかった。

 

 館に入ってからも、ケレナのおしゃべりはとどまるところを知らなかったが、本館の北棟へと続く廊下を歩いていると、いきなりケレナは真っ赤になって口を噤んでしまった。

 

「……どうされたの?」

 

 ミーナが尋ねると、正面からネストリがつかつかと早足で歩いてくるところだった。

 

「ミドヴォア先生、こちらにいらしたんですか」

「まぁ……ネストリさん」

 

 ケレナの声はさっきまでの賑やかなものと打って変わって、か細く小さくなった。

 ネストリはチラとだけミーナを見て、ケレナに尋ねた。

 

「こんな朝早くから何をされていたのです?」

「あ…散歩を。早くに目覚めまして。それで、途中でミーナさんに会って…ちょっとおしゃべりしていたんです」

 

 ネストリは眉を寄せると、ジロリとミーナを見た。

 

「お前はなぜ、朝から歩き回っているのだ?」

「私はヘルカさんが足を痛めてしまったので、代わりに祠堂の世話を…」

「あぁ、あれか」

 

 ネストリはフンと鼻を鳴らす。「ま、よかろう」

 

「あ、あの…声が大きかったかしら? ごめんなさいましね」

 

 ケレナが申し訳なさそうに言うと、ネストリは「あ…いや」と気まずそうな顔になり、ゴホンとわざとらしい咳払いをする。

 

「朝は忙しい時間ですから、職務に怠慢な者がいないかと思ったまでです。きちんと理由のある行動であるならば、私もむやみに咎めるつもりはございません」

「あ…ミーナさんは私のおしゃべりに付き合って下さっただけですのよ。ごめんなさいね、ミーナさん。断りづらかったのですわね」

「いえ、そんなことは」

 

 ミーナが言いかけるのを遮るように、ネストリは強い口調で言った。

 

「ミーナは息子の勉強をあなたに見てもらっているのですから、あなたに対して礼を尽くすのは当然のことです。そんな気遣いは無用です」

「そんな…私などは…ただの…家庭教師に過ぎませんから……」

 

 訥々と話すケレナの頬から首に朱が差す。

 ミーナはちょっと驚いた。もしかすると、ケレナは…? 

 

「では私は仕事がありますので、これで。ミーナ、そろそろ若君の起きられる時間だろう? いつまでもフラフラと歩き回っていないで、きちんとお世話するように」

 

 ネストリはビシリと言い置いて、足早に去っていった。 

 ケレナはその後姿をポーっと見つめている。

 

「……ネストリさんと仲がよろしいのですね」

 

 ミーナがそっと声をかけると、ケレナは真っ赤になりながらブンブン首を振った。

 

「いえっ! そ、そ、そういうわけではございませんのよ! ただ、この前ちょっと助けていただいて…」

「助けた? ネストリさんが?」

 

 あのネストリが誰かを助けるというのがミーナには信じられない。

 

「えぇ…その…図書室で調べ物をしている時に、ちょっと高い場所にある本が取れなくて…梯子を持ってきて取ろうとしていたら、私の立て掛けが悪かったのかよろけてしまって、その時に咄嗟に助けていただいたのですわ」

「まぁ…」

 

 ミーナは聞きながら、ネストリに対する認識を少しだけ改めた。

 さっきも含めて、ここに来た当初からミーナには終始一貫として冷たい人間ではあるが、他の人には情けある対応もできるようだ。

 

 下男のオッケが死んでからの手続きなども、パウル夫妻は自分達で埋葬の手配もせねばならぬと困っていたらしいが、ネストリがテキパキと指図してあっという間に埋葬し、簡易ながら葬儀も行ってくれたらしい。

「ちょっと見直したよ」とヘルカ婆も言っていた。

 

「それで好ましく思っていらっしゃるのね?」

 

 ミーナがにっこり笑って言うと、ケレナは「違います!」と懸命に否定したが、真っ赤になった顔は隠しようもない。

 

 素敵なことだ…とミーナは微笑ましく思いながらも、どこかで羨ましさが心を引っ掻いた。

 人を好きになるのは素晴らしいことなのに、どうして自分はいつも好きになってはいけない人ばかり、好きになってしまうのだろう……。

 




次回は2022.10.16.更新予定です。

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