春の暖かさが初夏のやや汗ばむ暑さに変わってきた頃、帝都へ向かう人々の群れに逆行するかのように、一人の客がレーゲンブルトにやって来た。
「テュコ! どうしたんだ、お前」
応接室に通された客人を見て、ヴァルナルは挨拶もすっ飛ばして尋ねた。
ソファに座ってキセルをふかしていた、ヴァルナルと同じ赤銅色の髪の男は、ハハハと豪快に笑いながら立ち上がって、深々とお辞儀する。
「お久ししゅうございます、クランツ男爵。快く迎え入れてくださって、ありがたき幸せ」
ヴァルナルは渋い顔をしつつ、男の前の肘掛け椅子に座りながら、早口に言った。
「やめぇ。なんじゃぜ、そン気持ち悪い挨拶」
突然の領主様の訛り言葉に、その場にいた女中や従僕は目が点になった。
しかし男の方はケラケラ笑う。
「いやっはぁー、道々噂にされようレーゲンブルトの領主様じゃぜなぁ。いつも都で会ぅとったじゃ、わからんもんぜ。じゃぜ、久々ン来たが、こン館も…なぁン、綺麗になったぜなぁ。昔、一度来たときなンぞ、みすぼらしいもンじゃったぜのぉ」
「いつの話じゃそりゃ。戦の前じゃろぜ」
「おぅ、おぅ。あン頃りゃ、お
応接室にいた召使い達は、皆が皆、呆気に取られたように目の前で交わされるやり取りを見ていた。
「あの…ご領主様」
ネストリはひどく戸惑いつつも、執事の心得として懸命に平静を装ってヴァルナルに声をかける。
「お客人のテュコ・エドバリ様からたくさんの土産を頂いております。こちらが目録です」
ヴァルナルは受け取ると、さっと目を通してふふん、と笑った。
「シロルの酢漬けとはまた、懐かしいのを持ってきてくれたもんじゃぜ」
「おぅ。
そう言ってテュコは腰に括り付けていた袋を取って、一番近くに控えていたエッラへと差し出した。
「なんぜ、それ?」
ヴァルナルが尋ねると、テュコは胸を張ってやけに誇らしげに言った。
「豆よな。よぅ煎った豆じゃぜ」
「豆ェ? なン、それは」
「まぁ、まぁ。ホレ、アンタ。早ぉ受け取っじゃ」
エッラは眉を寄せながらも、テュコから袋を受け取ると、途方にくれたようにヴァルナルを見た。しかしヴァルナルは気付かず、テュコはいかにも愉しげに妙な節回しで嫌味めいたことを言う。
「これをどうやって
「なんぜ、それ」
「まぁまぁ。とにかくそイ、厨房に持ってって、うまンこと
不承不承にエッラが出ていくと、テュコはまたキセルをふかし始める。
「またお前は、えぇ年して悪戯好きじゃぜ」
ヴァルナルがあきれたように言うと、テュコはニヤリと笑った。
「本当はお
「ほぅ…じゃぜ、そんな貴重なモン使ぅて、無駄になっちゃらせんぜ? 勿体ない」
「ハハハ。ちょっとの量じゃぜ。仲間と一括で大量に仕入れて、まぁ、ありゃ試供品みたいなもんじゃぜに」
ヴァルナルは目の前に座るテュコをまじまじ見つめた。
いつも都で会う時には、家族の宴会の場であったので、旅装姿のテュコを見るのは久しぶりだった。
駱駝色の帽子を被り、濃緑のフェルトコートの下には、年をとるにつれ膨らんできた腹がベルトの上に乗っている。こうした恰幅の良さはいかにも商人としての風貌だった。(*帝国において商人は多少肉付きの良い者の方が信頼される)
テュコ・エドバリ。
彼はヴァルナルの実弟だった。
十二歳でヴァルナルがクランツ家の養子に入るまでは、同じ屋根の下で毎日のように取っ組み合いの喧嘩をしつつ、おやつを分け合った仲である。年が一つしか離れていないので、今では兄弟というより友達のようになってしまった。
ちなみに当然ながら、ヴァルナルの旧姓はヴァルナル・エドバリである。
「で?」
ヴァルナルが尋ねると、テュコはうん? と眉を上げる。ヴァルナルは軽く首をひねった。
「ここに来た
◆
一方、テュコから挑発的な言葉と共に、小袋を受け取ったエッラはイライラと足音も荒々しく厨房に向かっていた。
この領主館に勤め始めてからというもの、エッラはヴァルナルにそこはかとない恋心にも似た尊敬を抱いていた。時には自分が男爵夫人になるような夢も見ていた。
しかし、あの方言丸出しの商人風情の男と、気安くおしゃべりを始めただけでなく、一緒になってひどい訛りで話しだした途端に、自分の描いてきていた期待やら理想像やらが一気に崩れ落ちた。
憧れていた自分が腹立たしい。
その上、自分と同じような平民であろう男に指図され、ひどく自尊心が傷つけられた。(エッラもまた
エッラは厨房に乗り込んでくるなり、バン、とテュコからもらった袋を作業台に叩きつけた。
「はい、これ!」
「…なんだい、これ?」
いきなり現れるなりご立腹のエッラに眉をひそめながらも、厨房の料理人、ソニヤは袋の中身を見て首をかしげた。
黒く小さな粒がいっぱい入っている。
「なぁに?」
「どうかしたんですか?」
ちょうどその時は、夕食に使う食材の下準備中だった。
厨房下女である娘のタイミは当然として、最近では、オリヴェルの授業時間中に暇を持て余したミーナが、以前のように厨房に来て、他愛無いおしゃべりをしながら手伝っている。
ヴァルナル直々に諭されたように、ミーナの仕事は本来オリヴェルの世話係であるが、厨房での手伝いについては、ヴァルナルが特別に許可してくれたのだ。
「豆かい、こりゃ?」
「知らないわよ! 都で
怒鳴り散らすエッラに、ソニヤはふんと鼻を鳴らす。
「知らないってね…そんなわからないものをおいそれと料理なんぞできないよ」
「あんたは料理人でしょう!? 文句言ってないで、とっとと作りなさいよ。
「
「だから…知らないわよ!」
ソニヤとエッラが噛み合わない会話をしている間に、タイミが袋から中身を一粒取り出した。
「なんだろ? これ」
ミーナはタイミの指先につままれた、小指の先ほどの褐色の艶光りした小さな粒を見て、パチパチと目を瞬かせた。
「それ……」
「え? なに?」
ミーナは袋を引き寄せると、クンと匂いを嗅いで頷く。「やっぱり」
「なぁに? ミーナは知ってるのかい?」
ソニヤが尋ねると、ミーナが答えた。
「えぇ。おそらく珈琲豆だと思うわ」
「こーひーまめ?」
「…どうしてこんなものが、ここに?」
ミーナがつぶやくと、エッラが面倒そうに言った。
「都からの商人みたいな男が持ってきたのよ。偉そうにして、訛りがひどい男。領主様まで一緒になって、ベラベラ喋ってみっともないったら! どうでもいいけど、知ってるんなら、さっさと作ってよ。私が持っていかないといけないんだから」
ソニヤはエッラの高圧的な態度に憤慨したが、それでも客を待たせるわけにもいかない。ミーナに頼んで、その豆をどうすべきなのかを尋ねた。
「臼で粉にするんですけど、匂いがキツイからそれ専用の石臼か何かでないと…」
「困ったね。水車小屋の石臼は小麦を挽くのに使うし、それ以外のも匂いが移るとあっちゃ、あんまり使いたくない」
「じゃあ、袋の中である程度叩いてから、すりこぎで
ミーナの指示で珈琲豆を細かく砕いて
ミーナは火を止めると、しばらくおいてからその上澄みを丁寧にすくって、お茶用のポットに注いだ。
「なに、これ? 毒か何かじゃないの?」
見慣れない黒い液体がポットになみなみと注がれるのを見て、エッラは眉を寄せた。
「いえ…珈琲豆はこうやって飲むもので…あと…」
ミーナは詳しく教えようとしたが、エッラは遮った。
「あぁ、もういいわ! 持っていくから!」
カチャン! と苛立たしい音をたててポットの蓋を閉じると、カップなどと一緒にお盆に載せ、さっさと厨房から出て行った。
「やれやれ、まったく。礼も言いやしない、あの子は」
ソニヤがあきれかえった様子で言うと、娘のタイミはイーッとエッラの去った方に向かって歯を剥いた。
「あんなだから、騎士たちからも嫌われるのよ。性格悪いんだから」
「大丈夫かしら? あの飲み物、あのままだと飲みにくいかもしれないんだけど」
ミーナが心配そうに言うと、ソニヤはヒラヒラと手を振った。
「知ったこっちゃないよ。あんたがせっかくご丁寧に説明しようとしたのを振り切って行っちまったのは、あの子の方なんだからね」
次回は2022.10.23.更新予定です。