午後の授業が終わると、オヅマは騎士団での訓練に戻り、オリヴェルは自室に戻って絵を描くというのが通常であったが、その日は授業の終わりがけにやってきた男のせいで、二人ともが足止めされた。
「よぉ、オリヴェル。叔父さんじゃ、覚えとぉぜ?」
急に見知らぬ男に訛り言葉で声をかけられ、オリヴェルはひどく困惑した表情を浮かべる。
オヅマが素早くオリヴェルを隠すようにして立ち塞がると、男はハッハッと笑った。
「おぅおぅ、勇敢な
「…え……あの」
オリヴェルは思い出そうとしたものの、さすがに記憶の片隅にすらも残っていない。
ただ、自分や父と同じ髪色のこの男を見て、おそらく親戚―――しかも父の生家の人間 ――― であろうということはなんとなくわかった。
一方で、オリヴェルの隣にいたオヅマは男の説明を聞いてすげなく言った。
「そんな小っせぇ頃のことなんか、覚えてるわけねぇだろ」
オリヴェルを見にやって来た男―――テュコは、甥っ子を庇う亜麻色の髪の、少しばかり浅黒い肌の少年を見て、すぐにそれが
「ほ、お前は…オヅマ…じゃぜ?」
オヅマは怪訝にテュコを見上げると、ムッと言い返した。
「俺は確かにオヅマだけど、アンタは? 人の名前を聞く前には自分の名前を言うもんだろ」
「おぉ、そン失礼やったぜ。ワシはテュコ・エドバリと申すじゃ」
男の名乗りを聞いて、オリヴェルは「やっぱり」とつぶやくと、少しだけ顔をほころばせた。安心させるようにオヅマの肩を叩いてから、前に進み出る。
「はじめまして…じゃないかもしれないけど…ごめんなさい、僕は覚えてなくて。テュコ叔父さん、はじめまして。オリヴェル・クランツです」
テュコは尻込みすることもなく、気負うこともなく、堂々と自己紹介するオリヴェルに時の早さを感じた。
七年前 ―――――
ヴァルナルが戦で南部に行ってしまい、残された
息子の母親は北の辺境暮らしが我慢ならなかったらしく、ヴァルナルが戦の準備で忙しくしている間に、間男と一緒に出て行ってしまったという。小さく病弱な、幼い息子を置いて。
テュコはその女が目の前にいたら盛大に文句を言ってやりたかったが、その時点ではまだ行方もわからない状態だった。自分の侍女を息子の乳母として残していったというのが、せめてもの親心だったのかもしれない。
ヴァルナルが出征し、とうとう父までも出て行ってしまった不遇の甥に同情して、テュコはわざわざ足を伸ばしたのだが、この訪問は不愉快な結果に終わった。
甥の乳母という女は、テュコが平民であるというだけの理由で、ろくに甥っ子の顔も見せないばかりか、抱っこさえ許さなかったのだ。
ヴァルナルがいればそんな態度はとらなかったであろうに、まったく見くびられたものだ。
最終的にテュコは「二度と来んぜ!」と憤慨しまくってレーゲンブルトを後にした。
ヴァルナルが戦から戻ってきても、テュコはその乳母のいる限りレーゲンブルトを訪れることはしなかった。戦が終わり、南部との行き来がまた戻ってきて、商売が忙しくなったというのもある。
あの頃、乳母にぴったり張りついて、血色の悪い顔で、テュコを怖々と窺っていた小さな子供。
同世代の子供に比べて一回り小さく、細く、弱々しかった。
言葉を話すこともできず、固まっていた幼い甥っ子が、こうまで変わるものか……。
感傷に浸るテュコとは対照的に、驚いた顔になったのはオヅマだった。
「叔父さん?」
聞き返してから、もう一度テュコを見上げる。
ヴァルナルと同じ赤銅色の髪、目の色はやや緑がかった灰色だ。笑みを浮かべる口元がヴァルナルと似ているようにも思えたが、全体的にヴァルナルよりも一回り大ぶりだった。特にベルトの上にどっかり乗った腹のあたりが。
一方のテュコは、オヅマの、母親とは違って強い光を帯びた薄紫の瞳をじっと見つめた。まともに見つめ返してくる顔は、いかにも生意気そうだ。
テュコは笑みを浮かべ、再びオリヴェルに話しかけた。
「はじめましてでいいぜ、オリヴェル。オヅマは正真正銘のはじめまして、じゃぜな。お
「別に連れてきたんじゃねぇ……です」
テュコがヴァルナルの縁戚であると気付いたのだろう。オヅマは無理やり言葉を改めた。
「ハッハッハッ! 聞いてた通りの奴じゃぜ! しっかし大した肝っ玉ッじゃ。なぁン伝手ものぅて、直接領主の館に乗り込むなン! お
「冗談じゃねえ」
オヅマは反射的に答えてから、すぐに丁寧な言葉遣いに戻す。
「………俺は…騎士になると決めてます」
固い口調で言いながら、キッとテュコを見上げる。
薄紫の瞳には、やはり強靭な光が宿っていた。
テュコは無精ヒゲの生えた顎をなでて、興味深そうにオヅマを見た。
商売柄、人相からその
ヴァルナルからの手紙で、北端の村に住んでいた小作の息子だと聞かされ、どんな野暮ったい田舎の少年だろうかと思っていたのだ。
ところが実際に会ったオヅマの印象は、むしろ都にいる貴族の悪ガキに近かった。
オヅマが今着ている絹のシャツや、紺色の目立たないながらも細かい刺繍の入ったベスト、黒茶色の膝丈のブリーチズなどは、下手に慣れない田舎者が着れば、不釣り合いで滑稽にも見えたろうが、オヅマは違和感なく着こなしていた。
―――― 貴相がある……
それはいわゆる貴人らしい上品な相貌というわけではない。貴族であっても卑しい者はいくらでもいる。
そうではなくオヅマに垣間見えるのは、人を動かしうる力を持つ者に顕れる、何かしらザワザワと心を掻き立てられるような独特の存在感だった。
―――― まったく。とんだ拾いモンをしたもんじゃぜ、兄貴は。
テュコは内心で一つ年上の兄の、妙な巡り合わせに吐息をもらした。
そもそも商家の四男坊が公爵家に仕える騎士に養子にもらわれ、その上で公爵閣下から引き立ててもらうこと自体、相当まれなことであるのに、今度は再婚相手の息子が人品ただならぬ相を持っているとは。
つくづく、
一方、オリヴェルは沈黙したテュコが機嫌を悪くしたと思い、とりなすように話題を変えた。
「叔父さんは今日は父上に会いに来られたのですか?」
「ん? ワシか? んん~…じゃぜなぁ…ま、そンこともあっじゃ、仕事ンついでもな。珍しい動物の毛皮が入ったぜ、それ見にな」
「毛皮?」
「おぅ。エドバリ家の商売はな、生地屋じゃ。じゃぜ、ワシの仕事は各地出歩いて生地の材料になりそうな目ぼしいモンを見つけてくるこっじゃ。まぁ、たーまに生地以外の珍しいモンも商売の種になりそうじゃったら拾うもんじゃぜ、大兄貴に怒られることもあるが……」
大兄貴、とテュコが呼ぶのはエドバリ家五兄弟の長兄・ジグナルのことだった。
ジグナルは兄弟にとって早くに亡くなった父の代わりで、厳格、真面目、頑固一徹の人である。
弟達が喧嘩を始めると、問答無用の喧嘩両成敗で拳骨がふってくるような人であったので、兄弟達は彼の影を見ただけで怯えるくらいであった。
オリヴェルもまた、
もっともそれを面白おかしく語れるほどに、長兄は弟達から慕われているということなのだが。
「ま、お
テュコはオリヴェルの頭を一撫ですると、オヅマに向き合った。
「オヅマ…お
訛っている上に早口のテュコの言葉は、ほとんど意味がわからなかった。ただ、「美人の母様」ということだけ聞き取れて、オヅマはハッと思い当たった。
「母さんに会ったの?」
「おぉう。そりゃ会おうぞに。大事ン甥の世話をしてもぅとぅじゃぜなぁ」
「………」
オヅマは眉を寄せ、テュコを胡散臭そうに見た。
言葉がいちいち意味深に聞こえる。
テュコはオヅマの勘の良さにニヤリと笑みを浮かべ、ポンと肩を叩いた。
「ま、
「………よろしくお願いします」
とりあえずオヅマはおとなしく頭を下げた。
どうやらヴァルナルはこの男に母を紹介したらしい。
実弟にまで会わせるのであれば、ミーナと結婚するという言葉は嘘でないのだろう。だとすれば、この男はオヅマにとってもゆくゆくは叔父になる。
いかにも思惑ありげな言動は正直好きになれないが、商人であれば、多少は仕方ないものなのかもしれない。
「もう帰られるのですか?」
名残惜しそうに言うオリヴェルに、テュコはヴァルナルと同じ優しい笑みを浮かべた。
「おぅ、また近いうちに来るっじゃ。ほいじゃ、またぜ」
手を上げて、テュコは去っていった。
唐突な登場と同じく、あっという間の退場に、オリヴェルもオヅマもしばらく放心していた。
「………なんぜ、あのおっさん」
しばらくしてオヅマがつぶやくと、オリヴェルはプーッと吹いた。
「オヅマ、
「そりゃ、そうなるだろ。なんなんだよ、あの言葉」
「すごい訛りだったね。そういえばウスクラって、百年ほど前に帝国に滅ぼされたギリヤ王国の人がたくさん移住してきた…って本で読んだことあるけど、そのせいなのかな?」
ウスクラはヴァルナルの出身地で、帝都南西部にある中都市だ。
「じゃあ…領主様もあんなヘンな喋り方するのか?」
「どうだろう? 僕は聞いたことがない…な」
オリヴェルはしばし思案してから首を振った。父があの独特な方言を話している姿は記憶にない。
「ったく…しばらくは『じゃぜ』が耳について離れそうもないぜ」
オヅマはブツクサ文句を言いながら、またテュコの語尾が伝染っている。
オリヴェルは苦笑して頷いた。
「………本当だね。しばらく耳に残りそうだ」
それから数日間、食事の時間になると、オヅマとオリヴェルの間でなんとかヴァルナルに「じゃぜ」を言わせようという謎の挑戦が行われたのだが、ヴァルナルは二人の不自然な会話に思惑を察したのか、一切、訛りを口にすることはなかった。
引き続き、更新します。