昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第百話 自分勝手な男

「わあっ、見て見て! チョウチョが(さなぎ)から孵ろうとしてる」

 

 マリーが小枝にいる蛹を見て声をあげた。

 茶色の硬そうな殻を破って、今しも蝶が出てこようとしている。

 オリヴェルはマリーの指差す方を見て、眉をひそめた。  

 

「これがチョウチョ? なんか、白くて透明だけど…?」

 

 正直、触るのもためらうくらい気味悪い。

 

 ミーナは水の入った(おけ)をいったん置いて、二人の子供達に近寄った。

 

「生まれたばかりだから、まだ完全じゃないんですよ。ゆっくりゆっくり色が差して、きれいな蝶になるんです。この大きさですし、きっとアゲハ蝶の一種でしょうね」

 

 オリヴェルは振り返ってミーナに尋ねた。

 

「ゆっくりって、どれくらい時間がかかるんだ?」

「さぁ…私の覚えでは一刻か二刻(*一~二時間)くらいだったでしょうか?」

「そんなにかかるんじゃ、飛ぶまで見ていられないな」

 

 オリヴェルが残念そうに言うと、マリーが口を尖らせる。

 

「なぁに、またお勉強?」

「勉強は朝食のあとだよ。マリーだって、このあと食べるでしょ?」

「でも、朝食をさっさと食べて見に来ればいいじゃない」

「それは……」

 

 オリヴェルは口ごもる。

 朝食後にはジーモン老教授の歴史の授業なので、予習しておきたいのだ。

 

「やっぱりお勉強じゃない」

 

 マリーはプイとそっぽを向いた。

 困り果てるオリヴェルにミーナはきっぱり言った。

 

「娘を甘やかさなくてよろしいです、若君。午後の授業のあとには毎日遊んでいただいているのですから、十分でございます。……マリー、わがまま言わないの」

「はぁい」

 

 マリーは不承不承に頷いてから、オリヴェルの袖を引っ張った。

 

「じゃあ、このコが殻から出てくるまでは見ておきましょう。小鳥が食べにきたら追い払わないと!」

「え…でも」

「よろしゅうございますよ、若君。祠にはいつでも行けますが、蛹から孵る蝶を見る機会はいつでもというわけにはいきませんから。せっかくですし、ゆっくりご覧なさいませ」

 

 そう言うと、ミーナはまた桶を持って祠堂(しどう)への道を歩いて行く。

 

 背後ではオリヴェルが「あっ! もう、ちょっと色がついてる」と、蛹から孵っていく蝶を見て興奮した様子だった。

 

「すぐに戻りますから、あちこちに行かないでくださいましね!」

 

 ミーナが呼びかけると、「はーい」と二人一緒に返事がかえってくる。

 眩しい朝の光の中、仲良く蛹を見守る二人の姿にミーナは目を細めた。

 

 

 

 

 いつもミーナが早朝に行っている祠堂への礼拝のことを知り、オリヴェルが行きたいと言い出したのは昨日のことだった。

 

「領主館にそんな祠があるなんて知らなかった。僕もお参りに行きたい」

 

 オヅマの剣舞を見てから、ビョルネ医師に色々と各地の祭礼について教えてもらうこともあって、オリヴェルは年のわりに神殿や神事に興味がある。

 

「でも、特に何もないただの祠ですよ」

 

 ミーナはあまり期待してガッカリさせるのも嫌で、正直に言った。

 都にある祠堂や小神殿などと比べ、簡素で、これといった特色もない。

 ヘルカ婆が丁寧に手入れしてきたが、維持のための予算を割り当てられることもなく、嵐で煉瓦が部分的に崩れても、修復されることはなかった。

 ヘルカ婆に頼まれたパウル爺が、応急処置として古びた赤煉瓦を継ぎ当てしてくれただけだ。

 

「いいよ。見てみたいだけだから」

「私も一緒に行く!」

 

 そばで聞いていたマリーも言い出すと、ミーナにはもう止めようもない。

 いつもより早くオリヴェルとマリーを起こして、三人で祠堂に向かうことになった。

 

 早朝の清々しい風と、朝露の残る庭が、オリヴェルには新鮮だったのだろう。寝ぼけ眼が一気に目覚めたようだった。

 

「すごい。きれいな空だ…」

 

 藍から橙へとゆるやかに色が変わっていく空には、羊雲が遠くまで広がっていた。

 しばらく魅せられたように、オリヴェルはその場に立ち尽くしていた。

 マリーはそんなオリヴェルに、早朝にしか咲かないツユクサの花を見せたりしながら、朝の散歩を楽しんでいたが、その時に蝶の蛹を見つけたのだった。

 

 

 

 

 オリヴェルとマリーといったん別れ、ミーナは祠堂に向かった。

 ポプラの木の連なる道を抜けると、小さな黒い屋根の祠が見えてくる。

 

 祠の前まで来て、水のたっぷり入った重い桶をよいしょと置き、一息ついていると、不意に背後から呼びかけられた。

 

「随分と遅かったな、ミーナ」

 

 苛立ちを含んだ少し甲高い声は覚えがあった。

 振り返ると、充血した目で少し顔の赤らんだギョルムが立っている。

 

 ミーナは反射的にギョルムと距離をとった。

 少し酒臭い。酔っているのだろうか…?

 

 あの一件のあと、ギョルムは上司であるラナハン卿から注意をされたらしい。

 しばらくは大人しかったが、(あつもの)が喉元を過ぎると性懲りもなく、再びミーナに声をかけてきた。

 

 その頃にはヴァルナルの威令によって、帝都からの研究員とその随行者達が勝手に領主館の使用人に命令すること、本館にみだりに立ち入ることを禁止していたので、直接には無理だったのだが、東塔で彼らを世話する女中などを通じて手紙を送ってきたのである。

 

 ミーナは当然ながら無視した。

 最初の一通だけ読んだが、自分勝手なギョルムの言い分に腹が立つのを通り越し、ゾッとなって、すぐに捨てた。

 その後の手紙についてはすべて読むこともなく、火に()べた。

 

「ギョルム卿……どうしてここに?」

 

 ミーナは思わず尋ねた。

 以前のようにまた後をつけまわされていたのだろうか?

 

 だが、彼ら ――― 帝都からの研究班の人々 ――― は、本館への出入りは基本的に禁止されている。特にギョルムについては、ヴァルナルに一度、目をつけられているのもあって、使用人だけでなく館を巡回している騎士達からも厳しく監視されていたはずだ。

 

 ミーナがこの祠に来るようになったのは、例の一件以降のことだから、彼がどうやって朝ここにミーナが来ることを知っていたのかが不思議だった。

 だが、特に隠していることでもないのだから、東塔(ひがしとう)付きの女中などから聞いたのかもしれない。

 

 ギョルムは驚くミーナを見て、傲然と胸を張り、目を細めた。

 

「驚いたかね? フン、まったく忌々しい。あの成り上がり領主のせいで、こうしてコソコソと会いに来ねばならぬなど。しかし、今はあの面倒な領主も視察とやらでおらぬし、早朝であれば騎士共は皆、朝駆けとやらで出払っておるゆえ、確かに逢引するにはよい時間であろう」

 

 まるでミーナがギョルムに会うために、わざわざ早朝の礼拝を行うようになったかのような言い方だった。

 ミーナは明らかな嫌悪を感じたが、それでも表情に出さず、もう一歩後ろにさがった。

 

「……私はあなたに会いたくありません。ご領主様からも叱責されました。自らの職責を全うするように、と」

「おぉ、ミーナ。可哀相に。あの男に叱られたのか。それで何も言えず、私の手紙に返事を書くことすら恐れておったのだな」

「違います」

 

 ミーナはきっぱりと言ったのだが、ギョルムはゆるゆると首を振った。

 

「あの野蛮な田舎騎士のことだ。相当におまえにキツく当たったのであろうな。心配することはない。私と一緒になれば、あの男ももはや私に対して文句を言うこともできぬ。聞けば、こんな辺鄙な田舎だが神殿があるそうではないか。すぐにでも神官に婚姻承認を申し出れば、ひとまずは夫婦となれるゆえ、早々に取計(とりはから)おうぞ」

 

「…………」

 

 ミーナはもはや呆気にとられた。

 ギョルムの頭の中で、物事がどのように運ばれていったのだろうか。

 ミーナは一度たりとギョルムに結婚を望んだこともなく、それらしい振舞いをした覚えもない。

 ただ、言われるままにお茶を淹れに行って、二言三言話したにすぎない。にもかかわらず、ギョルムは既にミーナと結婚することを決めていた。

 

 ミーナはぎゅっと自らの腕を掴んだ。

 あまりにも勝手で、ありえない話で、いったいどこを訂正すればギョルムが考えを改めるのか、ミーナにはわからなかった。ただ、ともかくも自分にその意思がないことだけは言う必要がある。

 

「あの、ギョルム様。私は誰とも結婚するつもりはありません」

「…………何と?」

 

 薄ら笑いで聞き返してくるギョルムに、ミーナは繰り返した。

 

「誰とも結婚するつもりはありません。もちろん、あなたと結婚するなんて、一切考えておりません」

 

 はっきりと言ったにもかかわらず、ギョルムはかえってニッタリとだらしない笑みを浮かべた。

 

「ハハハ。君が私と結婚するなど、恐縮するのはよくわかる。都に憧れも畏れも抱いておろう。しかし、問題ない。万事、私がよきに計って……」

 

 ミーナはこれ以上、ギョルムの妄想につきあうのが我慢できなくなってきた。

 この男の想像の中で、一度でも自分がこの男の横で花嫁となっていたことすらも、おぞけだつ。

 

「やめてください! 私はあなたとは結婚しません! 都にも行きません!!」

「………」

 

 ギョルムはミーナの激しい拒絶にキョトンと目を丸くして固まった。

 

 ミーナは重ねてギョルムに言い立てた。

 

「領主様のことを悪しざまに言うのはおやめください! 領主様はとてもご立派な方です。いきなりやって来た私の息子の願いを聞いてくださって、私達家族を温かく迎え入れてくださいました。それだけでも一生かかっても返せない御恩があるというのに、どうしてあなたのような厚かましい方と縁を結んで、都に行くことなどあるものですか!」

 

 珍しくミーナは激越な口調になっていた。

 自分でもどうしてこうも腹が立つのかがわからなかったが、もはや口からこぼれ出た言葉を戻すことはできない。

 それに撤回する気もなかった。

 怒りが昂じたとはいえ、それはミーナの本心だった。

 

 ギョルムは徐々にワナワナと身を震わせると、広い額に青筋が浮かんだ。

 

「なん…と……無礼な」

 

 つぶやきながら、フラフラとよろける。

 道が空いたのを見計らって、ミーナは立ち去ろうとしたが、ギョルムはすれ違って去ろうとするミーナの手首を、意外にも早い動作で掴んだ。

 

「…っ! 離してください!」

「うるさい、このアマめ!」

 

 ギョルムは怒鳴りつけて、ミーナの手首を締め上げた。

 

「あの田舎者領主に、よほどほだされたとみえる。いい気になるなよ。どれほどに見目が良かろうと、貴様ごとき卑賤の身が、成り上がりとはいえ帝国諸侯の末端である男爵家になど入れるものか!」

 

 ミーナは自分への誹謗よりも、ヴァルナルを貶めようとするギョルムの勝手な妄想に腹が立った。

 

「……っ…そんなこと、わかっています! 私は…私と領主様はそのような関係ではございません! 私はともかく、ご領主様に対して失礼です!」

 

「フン! 身の程知らずな望みを持つ女であればこそ、哀れに思って声をかけてやったというのに……これだから卑しい者は。少し優しくすればすぐにつけあがりおって!」

 

「……」

 

 身の程知らず――――ギョルムの言葉にミーナは悲しくなった。

 あれほど自分に言い聞かせていたのに、やはりどこかで自分は期待していたのだろうか。であればこそ、ギョルムのような人間にまでも見透かされてしまったのだろうか。

 

 二度と同じ過ちは繰り返さない。

 必死になって自分を律してきたつもりだったというのに、それでも消せない。本当に自分は卑しい人間なのだ。

 

 己の自省の中で打ちのめされ、静かになったミーナに、ギョルムは悪辣な企みを立てた。

 このまま手籠めにすれば、この女は言うことを聞くだろう。女がギョルムに従い、妻となれば、あの忌々しい領主でさえも文句を言うことはできない。―――――

 

「来いッ!」

 

 ギョルムはミーナを強引に祠の裏側へと引っ張って行こうとしたが、その時、足元で拳ほどの大きさの石が跳ねた。

 

「ミーナから離れろ!」

 

 オリヴェルが叫んだ。

 




次回は2022.11.13.更新予定です。


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