異変に気付いたのはマリーだった。
オリヴェルとマリーは、白っぽい半透明の体からゆっくりと黄緑色に変わっていく、孵化したばかりの蝶を目を輝かせて見ていたのだが、いきなりマリーがミーナの去っていった方角へと首を向けた。
「………お母さん」
「え? どうしたの、マリー」
オリヴェルも同じ方向を向いたが、そこにマリーのつぶやいた人の姿はない。
「お母さんの声がした。なんだか、怒ってる声」
「え?」
マリーは次の瞬間には走り出した。
「待って、マリー!」
オリヴェルもあわてて後を追う。
途中で息が苦しくなって、少し嫌な予感がした。
最近では滅多となくなっていたが、こうしていきなり激しい運動をすれば、また以前のように倒れてしまうかもしれない。
だが、普段はオリヴェルの体調を一番に考えてくれるマリーが急ぐからには、よほどのことなのだろう。
一方、マリーは必死になって走っていたが、普段あまり歩くことのない道だったせいか、張り出した木の根に足をひっかけて転んだ。
その間にオリヴェルが追いついて、マリーに手を差し出した。
「大丈夫、マリー?」
激しく肩を上下させながら、それでも自分を気遣うオリヴェルを見て、マリーはハッと我に返った。
「ごめんなさい、オリー。走らせちゃって」
「いいよ。早く行こう。心配なんでしょ?」
「うん…」
それでもマリーはオリヴェルの無理にならない速度で、小走りに急いだ。
ポプラの並木道を抜けたところで、男の恫喝する声が聞こえてきた。
「………哀れに思って声をかけてやったというのに、……これだから卑しい者は。少し優しくすればすぐにつけあがりおって!」
オリヴェルとマリーは、男に腕をとられて項垂れるミーナの姿に、真っ青になった。
マリーが母を助けようと飛び出しかけるのを、オリヴェルはあわてて止めた。
口に手をあてて、声を封じる。
「マリー、静かに…!」
オリヴェルはマリーの耳元でささやく。
マリーが戸惑った顔で振り返ると、オリヴェルは冷静に言った。
「マリー。すぐに誰か…騎士に知らせて。朝駆けから戻ってきているはずだ。それまでは僕がミーナを助けるから」
「………」
マリーは首をブンブンと振った。
あの男は危険だ。母に対してひどいことをしたのだから、オリヴェルにだってするかもしれない。
しかしオリヴェルは悲しげに微笑んで言った。
「マリー、僕はもう走れない。君に行ってもらうしかないんだ」
話している間にも、男が「来いッ!」とミーナの腕を掴んで引っ張って行く。
「早く!」
オリヴェルはマリーを来た道に押しやって、自分は足元に落ちていた拳ほどの石を拾った。
マリーは一度だけ振り向いて、コクンと頷くと、駆け出した。
◆
「早くミーナを離せ!」
オリヴェルは叫びながら石を投げたが、石はギョルムの手前で落ちてしまう。もしミーナに当たったらと思うと、思いきり投げることをためらったせいもある。
自分の目の前で力なく落ちる石を見て、ギョルムはせせら笑った。
「なんだ、細っこいガキだな。石ひとつ、まともに投げることもできぬとは。軟弱者め」
その言葉にオリヴェルは歯噛みして、手に掴んでいた石を今度は力をこめて投げる。
鋭い軌跡を描いた石は、直接ギョルムには届かなかったが、地面を跳ねてギョルムの脛に当たった。
ギョルムは顔を顰めて、当たった脛をさすりながら、激怒した。
「こッ…ンの小僧めがッ! 思い出したぞ、貴様。あの領主の息子だな!? 父親ともども無礼な奴らだ。私は皇帝陛下より命を受けてここに派遣されたのであるぞ。私に石を投げるのは、陛下に向かって投げると同じこと!」
「うるさい! 貴様こそ、そのバターを塗りたくったような頭を、父上の前で下げることになるさ!」
「こッ…の…」
ギョルムの怒りはオリヴェルに向かい、一歩、足を踏み出す。
しかし今度はミーナがギョルムの腕をがっしりと掴んだ。
「やめてください! 若君に何をする気です!?」
「このッ、クソアマがッ!」
ギョルムはバタバタと腕を上下させて、ミーナの手を振りほどこうとしたが、ミーナは固く掴んで離さない。
自由のきく手でミーナの頭をグイグイと押しやっても、必死で抵抗してくる。
苛立ちが極みに達し、ギョルムは容赦なくミーナの頬に平手を浴びせた。
一発。
二発。三発。
痛みと衝撃で、ミーナの意識が一瞬遠のく。
それでも手を離さないミーナに、ギョルムの怒りは倍増した。
ミーナの髪を引っ掴んで荒々しく揺さぶると、とうとうミーナの手がギョルムの腕から離れた。
ギョルムはミーナを地面に叩きつけるように投げ倒し、足で頭を蹴りつけようとする。
ギョルムの凶行に唖然として動けなかったオリヴェルは、そこでようやく我に返ると、震える声で怒鳴りつけた。
「なにするんだ! この野郎!」
オリヴェルは低く背を屈めて走ると、ギョルムの腰に飛びついた。
引き剥がそうとギョルムは腰を動かしたが、オリヴェルはしっかり掴んで離そうとしない。
「こッ…の、クソガキめが!!」
ギョルムは吠えるように叫びながら、オリヴェルの背中に拳を叩き込んだ。
「おウッ!」
オリヴェルはうめいてその場に崩折れた。
初めて人から受けた暴力に、背中の痛み以上に恐怖と怒りと悔しさで、呆然と凍りつく。
ギョルムはオリヴェルの赤銅色の髪を見て、領主であるヴァルナルを思い出した。
あの男の息子だというだけで、ひどく苛立たしく腹立たしく、憎々しい。
グイ、とオリヴェルの襟を両手で掴んで絞め上げる。
「全く腹立たしい…。わざわざこんな辺境に派遣されて、身分もない卑賤の女と、成り上がり者の息子風情にこのような辱めを受けるとは!」
「……ク…っ…離…せ」
オリヴェルはギョルムの腕を掴んだが、貼り付いたかのように動かない。
息が苦しい。
だんだんと意識が朦朧としてきた。
一方、ミーナもまだ頭がクラクラしていた。
薄暗い視界にオリヴェルの首を掴むギョルムの姿がボンヤリと見える。
「や…めて……」
本当は意識は眠ろうとしていた。
しかしミーナは抗った。
今、自分が気を失えば、オリヴェルが殺されてしまう。
その危機意識は、ミーナに古い記憶を
――――このクソガキがッ! 殺してやる!
――――やめろ! やめろ! マリーになにするんだぁっ!
泣き叫ぶマリーを乱暴に掴む
その夫の足にまとわりつき、蹴られるオヅマ。
赤ん坊のマリーを放り投げる夫。あわてて拾ったオヅマが体勢を崩す ――――
―――― うああぁぁぁぁっっ!!
凄まじい悲鳴。
あの時、ミーナが立ち上がることさえできれば、あんなひどい火傷を負うことはなかったのに。
守れなかった。
母親なのに、子供を守ってやれなかった。
二度と、しない。
二度と、私の息子にこれ以上の苦痛を与えることは……
ミーナは立ち上がると、フラフラと歩いて、ほとんどすがるようにギョルムの腕を掴んだ。
「やめてッ! やめなさいよッ! 私の子供に何するのッ!!」
顔は紫色になり、必死に怒鳴りつけるほどに髪は乱れた。
ギョルムは一瞬、ミーナの幽鬼のような迫力に怯えたが、舌打ちしてその腹を蹴りつける。
ウッ、とうめいてミーナは地面に尻もちをついた。
腹を押さえながら再び立ち上がろうとして、ふと地面についた手の先に固いものが触れる。
見れば、壊れて半分になった白煉瓦だった。
祠の修理のときに捨てられた一部だろう。
ミーナはその煉瓦を手に取ると、ギッとギョルムを睨みつけて立ち上がった。
「やめてッ!」
ミーナは煉瓦でギョルムの背を打った。
「離せッ! 離しなさいッ!! 私の子供を傷つけるなら、殺してやるッ!!」
恨みと憎しみをこめて叫びながら、ミーナはひたすら煉瓦をギョルムの背に叩きつける。
「うぐッ…」
痛みに顔を顰め、ギョルムはオリヴェルの襟を離した。
ようやく苦しさから解放されたが、オリヴェルは力なく地面に倒れ伏した。
視界の隅で、這々の体で逃げようとしているギョルムに、まだ煉瓦を振り上げるミーナの姿が映った。
「よくも! 私の息子に……許さない! 許さないわ!!」
ゆっくりと視界が暗くなっていく。
オリヴェルの目から涙がこぼれ落ちた。
ミーナ…やめて。もう、いいから。
もう、僕は大丈夫だから。
もう、傷つけないで……。
もう、傷つかないで………。
お願い………お母さん…。
◆
その日の朝駆けは本来であれば、ヴァルナルは領地視察の為、不在であった。
しかし
もっともその帰還を知っているのは、出迎えたネストリらわずかの従僕だけであった。
朝駆けから戻ってきた騎士らの中にヴァルナルの姿を見つけるなり、マリーはすがるように叫んだ。
「領主様!」
ヴァルナルはマリーの切羽詰まった顔に、すぐさま異変を感じ取って駆け寄った。
「どうした?」
「お母さんを助けて! ヘンなおじさんがお母さんを連れて行こうとしてるの!」
その言葉に、ヴァルナルの顔は一瞬固まった。
すぐに鋭く尋ねる。
「どこだ!?」
「南の隅にある祠。ポプラの道の向こう」
マリーが泣きながら言うのを聞くやいなや、ヴァルナルは走り出した。
その後をゴアンが追う。
続けて行こうとした騎士達をマッケネンは止めて、しゃがみこんでマリーに尋ねた。
「マリー。その『ヘンなおじさん』というのは、どんな男だった?」
「えっと…なんか、髪がぴっとり貼り付いてて…」
その特徴だけで、マッケネンはカールから聞いていた要注意人物について思い至った。
ギョルムの逃亡を阻止すべく、騎士達に館内各所の出入り口を固めるように素早く指示を下す。数人を残してマリーの保護を頼み、自分はゴアンの後に続いた。
その時、オヅマは厩舎で帰ってきたばかりの馬の状態を確認しているところだったが、そこに騎士団の最長老トーケルが顔色を変えてやってきた。
「オイ! オヅマ! マリーがなんか血相変えて来て…領主様が飛んで行ったぞ」
「えっ!」
オヅマはあわてて厩舎から出ると、数人の騎士達が集まっている方へと走っていく。
オヅマが来たのに気付いた騎士達は囲みを開いた。
騎士達に守られるようにして、真ん中でマリーが泣いている。
「マリー! どうした?」
「お兄ちゃん!」
マリーはオヅマに抱きつくと、母の危急を報せた。
「ギョルムの野郎か!」
「わかんない。オリヴェルもいるの! 助けて、お兄ちゃん」
オヅマはマリーをトーケルに預けると、すぐさま祠に向かって走り出した。
本来の道筋を行くのももどかしく、修練場を横切って壁に空いた穴をくぐる。密集した低木の隙を無理に通り抜け、花壇を飛び越え、ほぼ庭を突っ切っていくと、マッケネンの後ろ姿を見つけた。
グン、と加速して追い抜かす。
「オヅマ! お前は待っていろ!」
マッケネンが叫んだが、オヅマは無視した。
灌木を迂回することもなく飛び越え、あっという間に先を走っていたゴアンも抜かしていく。
◆
ヴァルナルはポプラの並木道を走っている途中で、額から血を流して逃げているらしいギョルムに出くわした。
「ひ…ひ…ヒィ……助け……たすけてくれぇぇ」
情けない声を上げ、チラチラと後ろを振り返りながら走ってくる。
ヴァルナルはギッと眉を寄せて、腰の剣に手をやった。
ギョルムはいきなり前方に現れたヴァルナルにギョッとしつつも、ほとんど転ぶような勢いで必死に駆けてきて、ヴァルナルに縋りついた。
「あぁ、助けてくれ! 領主殿! 気の狂った女が……ヒッ」
話している間に、後ろを向いたギョルムの目に髪を振り乱して追ってくるミーナの姿が映った。
血のついた白煉瓦を振り上げながら、憤怒の表情で迫ってくる。
「ミーナ!」
ヴァルナルが叫んだが、ミーナの目にはギョルムしか見えていなかった。
自分の息子を
「ミーナ!」
ヴァルナルの声は、ギョルムの「ヒイイィィ!」という甲高い悲鳴にかき消された。
ミーナが手にもった煉瓦を振り上げたと同時に、ギョルムはヴァルナルの背後に逃げ込んだ。一瞬、ギョルムに気を取られたヴァルナルの胸を、ミーナの振り下ろした煉瓦が
「ぐっ…!」
うめきながらも、ヴァルナルは煉瓦を持つミーナの手首を掴んだ。
「離して!」
ミーナが叫ぶと、グイと体を抱き寄せて耳元で囁く。
「ミーナ…落ち着け。私だ」
低く穏やかな声に、ミーナは固まった。
ヴァルナルは、ぽんぽんと優しくミーナの背を叩いて落ち着かせた。
怒りに見開ききった薄紫の瞳がパチパチとまたたく。
「母さん…」
「母さん…大丈夫?」
自分を気遣う息子の声に、ミーナの瞳から涙が一筋こぼれた。
力の抜けた手から煉瓦が落ちる。
「若君…が……」
かすれた声で、かろうじてつぶやく。
すぐさまマッケネンが先にある祠へと向かい、そこで倒れたオリヴェルを見つけた。
「少々呼吸が乱れています。…すぐにビョルネ医師に診てもらいます」
マッケネンがオリヴェルを抱きかかえながら報告する。
オリヴェルの白い顔を見たヴァルナルは一瞬、眉を寄せた。
「頼む」
短く言って、ヴァルナルはどうにか怒りを鎮めた。
マッケネンは頷くと、オリヴェルをかかえたまま、館に向かって走っていった。
ゴアンはヴァルナルの背後で腰を抜かしているギョルムを冷たく見下ろした。
「……帝都からおいでの方々は概ね優秀だが、中には阿呆も混じってるようだな」
「そ…そ…その女が私を殺そうとしたのだ!」
ギョルムは逃げる時に転んだのか、顔に泥がへばりついていた。白の行政官の服も汚れている。
「領主様、ひとまずコイツは連れて行きます」
「そうしてくれ」
ヴァルナルは振り向きもしなかった。
ゴアンはギョルムを立ち上がらせると、連れて行こうとしてオヅマにも声をかけた。
「オヅマ、行くぞ」
「え? でも、母さんが…」
ゴアンはチラとヴァルナルとミーナを見やる。
ミーナはまだ放心状態らしく、ヴァルナルが支えていた。
「いいから。ミーナのことは領主様に任せて…お前はマリーに伝えてやれ。母親は無事だと」
「…………わかった」
オヅマはどこかムズムズと落ち着かない気分だった。だが、おそらく今ここで、自分のやれることはないのだろう…。
「お願いします」
と、一言、ヴァルナルに言ったのは、オヅマの妙なプライドだった。あくまでも自分がお願いして、ヴァルナルに母のことを頼んだのだ…と自分を納得させたかった。
ヴァルナルはその時になってやっと振り返った。
フッと笑った顔に、オヅマは安心と同時にちょっとした苛立ちも感じ、軽くヴァルナルを睨みつけたが、すぐに踵を返した。
マリーの待つ馬場の方へ歩きながら、オヅマはふと…妙なことを考えた。
虚脱した母の姿が、あの日……
オヅマが傷つけられたことで激昂した母。
あの事件は消えた。なくなったはずだ……。
だが母が持っていた血のついた白煉瓦を見て、オヅマの脳裏には血のついた延べ棒が思い浮かんだ。
必死に抗い、避けたと思っても、どこかで必ず運命というのは、本来の姿を取り戻そうとするのだろうか。………
引き続き、更新します。