昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第九話 アルベルトとマリー

 カールからマリーの言葉を聞いたヴァルナルは深く項垂れた。

 百戦錬磨と呼ばれる豪胆な男であっても、たった六歳の子供のその思いやりに、ひどく苦い思いで感服するしかない。

 

「東塔は罹患者がまだ増える可能性もありますので、マリーは小屋の方で療養させてもよろしかろうと…そのままにしております」

 

 カールは事務的に言いながらも、自分の選択がこれでいいのかまだ決めかねている。

 ヴァルナルの返事がないが、そのまま報告を続けた。

 

「パウル爺にオヅマ達の食料を持っていくように頼んでおきました。くれぐれも中には入らないようにと。しばらくオヅマには騎士団の仕事は休止させ、フレデリク、アッツオ、ニルス、タネリらに代行させます」

「カール…それで…マリーは大丈夫なのか?」

 

 ヴァルナルが俯いたまま尋ねてくる。

 カールは領主が自分の息子よりも使用人の娘の病状を気にかけたことに、つくづくこの主人に仕えて良かったと思った。

 

「医者の話では、今夜の熱さえ超えればおそらく問題はなかろうと。オヅマにも熱冷ましの薬を渡しておいたと言っておりました」

「そうか…退がっていい」

 

 ヴァルナルに言われても、カールはしばらくその場から動かなかった。

 気配を感じて、ヴァルナルが顔を上げる。

 

「ヴァルナル様」

 

 カールはまだヴァルナルが領主となる前に呼んでいた名前で呼んだ。

 

「パウル爺はマリーがオリヴェル様の部屋に遊びに行くのを知っていたそうです。その上で、それは若君の為になることだと思って、黙って見ていた、と。実際、マリーやオヅマらと遊ぶようになってから、若君は以前よりも食事の量も増えて、時には気に入ったデザートなどを所望することもあったそうです。それにヘルカ婆が言うには、ミーナの作る食事を気に入っているようだとも…」

 

 ヴァルナルはどんよりした目でカールを見つめてから、椅子の背にダラリと凭れ掛かる。

 

「カール…私がミーナら親子を放逐するとでも? その程度の分別もできぬ愚かな領主だと思うか?」

「いえ。ただ、ご判断の一助となれば幸いでございます」

 

 カールは静かに頭を下げると、部屋から出て行った。

 

 

 

 

 医者の見立て通り、マリーの熱は一晩を過ぎると小康状態になった。

 目を覚ました途端にお腹が空いた、と言う妹に、オヅマはあきれつつもホッとして少し涙が出た。

 

 喉の腫れがまだひどく、芋をすり潰したスープを啜るのにも、痛そうではあったが、それでも食べようとしていることに、心底安堵する。

 喉の痛みは数日続き、しゃべるのにも一苦労だったが、それも三日過ぎ五日過ぎてゆけば、だんだんといつもの口うるさい妹が戻ってきた。

 

 マリーはオリヴェルがまだ病に臥せっているのを知ると、自分が治ったらミーナと交替して看病すると言ったが、オリヴェルと隠れて会っていたことについて、まだはっきりとどうするのかを聞いていなかったオヅマは曖昧に笑うしかなかった。

 

 その頃になると最初に罹患したアントンソン夫人ら、普段からのオリヴェル付きの女中達も回復して世話するようになっていたので、ミーナが戻ってきても良さそうなものだったが、オリヴェルはこの数日の間にすっかりミーナに頼りきるようになってしまったらしい。

 

「もう、仕方ないわねぇ…オリヴェルったら」

と、マリーは笑った。

 

 常日頃から母親の不在がオリヴェルにとって一番寂しいことなのだと気付いていたので、ミーナがオリヴェルのお母さん代わりになってくれればいいと思っていたのだ。

 

 しかし、そのマリーですらもオヅマが熱を出して倒れると、ミーナを連れてきてくれとパウル爺に頼んだ。

 

「そうしてやりたいのは山々なんじゃがのぉ…」

 

 パウル爺は申し訳無さそうにマリーに話して聞かせた。

 

「お前さんのお母さんも、必死で若君の看病を続けたせいで、体調を崩してしまってな。特別に領主様の温情で、館の方で療養しとるんじゃよ」

「母さんも病気になったの?」

「いや。病気というよりも、疲れてしもうたんじゃ。無理もない。何日も寝ずの看病をしておったんじゃから」

 

 マリーは泣きべそをかきながらも、必死にオヅマの看病をしようとしたが、六歳の子供ではオヅマのやってくれたように、体の汗を拭いて、着替えさせることもできない。

 

 パウル爺からオヅマも紅熱病に罹ったことを聞いたカールは、弟のアルベルトに看病に行くよう指示した。

 

 マリーはいきなりオヅマの看病をしに来たアルベルトに、当然ながら拒否反応を示した。

 無口でずっと表情の変わらない、栗茶色の髪に青い瞳の大男。(アルベルトは騎士団において身長ではゴアンに次いで高かった)

 

 近付けばすぐにさっと離れて一定の距離を保つようにした。

 男が自分を殴れる位置に入ってこないように。

 

「俺が怖いのか?」

 

 アルベルトはしばらくオヅマの看病しつつ、マリーの様子を観察していたが、あまりに自分に対する警戒が強いので、思わず聞いてしまった。

 

 マリーはオヅマの寝ているベッドの反対の壁にあるベッド(といっても、古びて使わなくなった衣装箱を三つ並べてその上に藁と布を敷いただけの簡素なものだ)の隅に、小さく座り込んでいたが、尋ねてきたアルベルトをじいっと見つめた後に、小さな声で言った。

 

「……私を……叩かない?」

「………」

 

 その言葉にアルベルトは一瞬、胸が詰まった。

 オヅマが『妹は大人の男が苦手なのだ』と言っていたことを思い出す。

 

 その理由が何となくわかって、アルベルトの眉間に深い皺ができた。

 ビクリと震えるマリーを見て、あわてて弁解した。

 

「いや。気を悪くさせてすまない。怒ってないんだ。こういう顔なんだ」

「………じゃ、笑って」

「…………」

 

 アルベルトは顔の筋肉を総動員してどうにか笑みらしきものを浮かべてみせたが、マリーはまじまじと見つめた後に、すげなく言った。

 

「笑ってない」

 

 アルベルトは辛辣なマリーの要求にどうにか応えようと頑張った。

 バシバシと頬を叩いて、必死になって口元の筋肉を吊り上げると、

 

「変な顔」

と、マリーはやっぱりにべない評価を下す。

 

 その後もマリーの警戒は容易に解かれなかったが、それでもアルベルトがマリーに「絶対に叩かない」ことを約束すると、少しだけ警戒を解いてくれるようになった。

 

 時々、()()()を教えてくれたりする。

 

「もっと、ほっぺたの肉を柔らかくしないといけないわよ」

 

 最終的にはマリーはアルベルトの頬に両手をあてて、ぐりぐり揉んだりするまでに距離は縮まったが、それはまだ先の話。

 

 

 

 

 

 オヅマは記憶が混乱していた。

 

 割れた鏡が降ってくる。

 その中に映る光景にオヅマは怯え、震え、泣いた。

 

 母が父を殺す。母が縊り殺される。母の死体を鴉がつつく。

 

 妹が壊れる。泣き叫びながら、壊れていく。

 

 何人もの悲鳴。何人もの涙。

 

 恨みと憎しみのこもった目で、オヅマを見つめる。

 

 

 

 ―――――生きるんだ、オヅマ

 

 

 

 男の声が聞こえる。その声も徐々に命を失っていく声だ。

 

 

 

 ―――――あなたが殺したんじゃないわ…

 

 

 

 口の端から血を流しながら、女がつぶやく。

 

 

 

 ―――――お願い。どうか…戻ってきて…あなたを死なせたくない…

 

 

 

 悲しげに呼びかける声。

 

 

 オヅマは耳を塞いだ。

 何度も何度も言い聞かせる。

 

 これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ………

 

 

 ―――――素晴らしい、オヅマ! お前は私の……

 

 

 狂喜する男の声が響く。

 

 オヅマは絶叫した。

 

 叫んで目を覚ましたと思ったが、腫れた喉は声が出なかったらしい。

 

 浅い息をしながら、天井を見る。いつもの天井だ。変わりない。

 

 それでも涙に濡れた瞳に映る景色が夢でないと…誰が証明してくれるだろう?

 あの、悪夢こそが現実(ほんとう)なのだと…そう思えば、簡単に世界は裏返ってしまいそうな気がする。

 

 不意に視界にヌッと入ってきた人影に、オヅマはビクッとして固まった。

 

「大丈夫か?」

 

 聞き覚えのあるバリトンの声に、オヅマはじっと人影を見つめる。

 

「あ……」

 

 アルベルトさん、と言おうとしたが、声が出なかった。

 今になってひどく喉が痛いことに気付く。

 

 アルベルトは濡れた手拭いで、オヅマの涙を拭うと、桶に貯めていた水に手拭いを浸してギュット絞る。

 それから細長く折り畳んで、オヅマの額に乗せた。

 

「とりあえず、一山越えたようだ。この後、夕方頃にまた少し熱が出るだろう」

 

 言いながら、水差しの水をコップに注ぐ。

 オヅマの背を支えるようにして起こすと、コップを渡す。

 

 オヅマは震える手でコップをどうにか包み込むように持つと、一口、口に含んだ。

 

 一つだけ灯った蝋燭のわずかな光りの中で、オヅマは辺りを見回す。

 向かいのベッドの上で、マリーが寝ていた。

 いつもはそれはオヅマのベッドで、今オヅマの寝ているベッドでミーナとマリーが寝ている。

 

 藁がチクチクして、おそらく寝心地は悪いだろうが、病気のオヅマにこちらのベッドを譲ってくれたのだろう。

 

「アル……さん、が看病して…」

 

 一言、言葉を発するたびに喉がヒリヒリと痛む。

 オヅマは顔を顰めて、唾を呑み込んだが、呑み込むのすらも痛かった。

 

 アルベルトはオヅマからコップを受け取ると、テーブルの上に置いた。

 

「カールからお前の面倒を見ろ、と命令された。まだ夜明け前だ。もう少し寝ておけ。日が昇ったら、何か食べられそうなものを持ってきてやる」

「そ…んな……朝…駆け…」

 

 オヅマは恐縮した。

 騎士にとって毎日の朝駆けは重要な訓練の一つだ。それに参加できないなど、アルベルトにとっては不本意だろう。

 

 しかしアルベルトはオヅマの額をゆっくりと押して、そのまま寝かせた。

 

「上官の命令は絶対だ。今の俺の任務はお前を看護して、全快させることだ。子供がつまらん気遣いをするな。寝とけ」

 

 ぶっきらぼうな言い方であったが、不思議と安心できる。

 オヅマは目をつむると、ふたたび眠りについた。

 

 

 


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