「ミーナさん、ちょっとお話したいことがあるの。よろしいかしら?」
ケレナがめずらしく深刻な顔でミーナに声をかけてきたのは、ギョルムの事件のあった翌々日のことだった。
ミーナはベッドで休んでいるオリヴェルの顔色を窺った。
事件後、ビョルネ医師から安静にしておくようにと指示され、今は勉強も休んでいる。穏やかな寝息をたてているオリヴェルを確認した後、窓辺の椅子で繕い物をしていたナンヌに付き添いを頼んだ。
「すぐに戻るわ」
「大丈夫ですよ。マリーちゃんも今は寝てますし」
ナンヌは笑って請け負ってくれる。マリーは午前中に草抜きで庭を動き回って疲れたのか、ソファでぐっすり眠っていた。
「ありがとう」
ミーナは礼を言って、廊下で待つケレナに声をかけた。
「お待たせしました。少し、出ましょうか」
そう言ったのは、自分の眠気を追い出したかったのと、ケレナの顔が暗かったので気分転換をさせたかったのもある。
館から出て、ミーナとケレナは庭の噴水そばにある東屋へと向かった。
日差しは暑くなってきたが、影になった場所では涼しい風が吹いている。
最近ではケレナに午後の授業がないときに、しばしば二人で話すことがあり、この東屋はケレナのお気に入りの場所だった。
いつもなら「風が気持ち良いわ!」と大きく
「どうなさったの? そんな暗い顔をして」
ミーナは東屋の中でケレナと並んで座ると、ギュッと膝の上で手を握りしめて、ひどく思い詰めた様子のケレナに尋ねた。
しかしケレナはしばらくやはり黙りこくっていた。
「なにか心配ごとでも?」
ミーナが首をかしげ、重ねて問いかけると、ケレナは急に立ち上がるなり、ミーナに向かって深々と頭を下げた。
「ごめんなさい! ミーナさん」
いきなり大声で謝られて、ミーナはきょとんとケレナを見上げた。
ケレナはおそるおそる顔を上げ、ミーナと目が合うと、泣きそうに顔を歪めた。
「ごめんなさい、本当に…」
そのままその場に崩折れてしまったケレナをなだめて、ミーナはとりあえず隣に座らせると事情を尋ねた。
「いったい、どうされたの? いきなりなぜ謝罪なんて…」
ケレナは軽く首を振りながら、ミーナの差し出したハンカチで目頭を押さえた。
「
「あ…それは」
一時的にであれ、我を忘れるほどに激昂したせいであるのか、ギョルムのことがあった日、ミーナは発熱してしまった。
熱は夜には収まったのだが、ギョルムに殴られた頬の腫れがまだ引かず、
「ごめんなさい。少し体調を崩していて…」
「とんでもない! ミーナさんが謝ることなど、何一つありませんわ。
ケレナの言葉に、ミーナの顔が少しだけ曇った。
ギョルムのことについて、館では特に箝口令が布かれたわけではなかったが、誰もが大っぴらに話すことは控えた。
だが、人の口に戸は立てられない。
ミーナとしては、ギョルムと
それでも、まだかすかに赤く腫れた頬を見て、何人かは痛ましそうに、何人かは物見高く、両者ともに勝手に事件を想像しては噂しているようだった。
「大したことではなかったのですし、あまり大袈裟に考えないでください」
しかしケレナは首を振った。
「いいえ。ミーナさん…私はあなたに謝る必要があるのです。あぁ…本当に。あの男、あの破廉恥極まりない不逞な男に、私はうっかりあなたのことを話してしまったのです!」
「………え?」
意味がわからずポカンとなるミーナに、ケレナは堰を切ったように話し始めた。
「数日前、私、いつものように朝の散歩をしていましたの。あなたとまたお話できないかと思っていたのですけど、その日はちょっと寝坊してしまいまして…前夜に読み始めた本が……あぁ! 考えてみればあの本も不吉なものでしたわ。『罪人たちの朝』なんて! ついつい面白くて止まらなくて、寝る時間がすっかり遅くなってしまったんですの。それで、朝起きるのが遅れたせいで、残念ながらあなたにお会いすることはできませんでした。そのまま薔薇園の方にでも一人で行こうとしていたら、あの男がビョルネと話しているところに出くわしたんです」
「……ビョルネ先生と?」
知った名前が出てきて、ミーナは聞き返す。
ケレナは深く頷いてから、ハタと気づいたように、つけ加えた。
「あぁ、トーマスの方ですわよ。間違ってもロビン・ビョルネ
「あの、トーマス先生と…ギョルム卿は何を?」
「さぁ? 私が近付いて挨拶する前にトーマスの方は去っていってしまいましたから。あぁ、でも葉巻をもらっていたようですわ。こちらでは手に入りにくいので、融通してもらっていたのでしょう。それからあの不埒な男と話すことに……あぁ! 今、思い出しても忌々しいですわ! あの男の口車にのって、うかうかと…私ったら余計なことを…」
ケレナは自分の失態がよほどに悔しいのか、何度も苛立たしげな溜息をついた。
ミーナは冷静だった。
トーマスとギョルムが会っていたことは気になるが、ひとまず
「ギョルム卿と話されたのですか?」
「えぇ。不本意なことですけど、私、あの男を何度か見かけたことがございましたの。ホラ、あなたにもしつっこく声をかけていたでしょう? 私、その時はあの男が、とんでもない不逞の輩だなどと知らなかったものですから、普通に朝の挨拶をしましたのよ。
それからどういう話の流れなんだか、気がつくと私、あなたがいつも早朝に
ですから、あなたがあの祠堂の近くであの男に…その…とんでもない事をされたと聞いて…最初は驚くばかりだったんですけれど、よくよく考えたらもしかすると、私のせいであなたを危険な目に遭わせたのではないかと……あぁぁ!! ごめんなさい、ミーナさん。どうか許して頂戴!」
ケレナはまた大声で謝ると、座ったままミーナに頭を下げ、泣きじゃくった。
「あ……」
ミーナは唖然として、ケレナの話をすぐに飲み込めなかった。
つまり、数日前の朝に、ギョルムはトーマスと話していた。その後にケレナと会って、ケレナからミーナが毎朝、祠堂に行くことを聞いた…ということだろうか。
ミーナは思い当たることがあって、眉を寄せた。
昨夜、ミーナの様子を見に、部屋を訪れたヴァルナルが話していたことだ。
ギョルムは事件前日に深酒し、寝起きに『
今のケレナの話から推測すると、その葉巻を渡したのはトーマス・ビョルネだということだろうか?
この事はヴァルナルにも伝えたほうがいいのかもしれない。
違法なものでないにしろ、扱いには注意が必要なものだ。
トーマスがそこまで常識がない人間とは思わないが、間違って子供達が口にしたりすることのないように、注意してもらった方がいいだろう。
考え込んでいると、いきなり怒声が降ってきて、ミーナもケレナもビクリと身を震わせた。
「なにをしている!」
青筋をたてて猛然と早歩きで向かってくるのはネストリだった。
ズカズカと東屋に乗り込んできて、ミーナを怒鳴りつける。
「貴様、ミドヴォア先生に何を言った!?」
どうやらミーナがケレナを泣かせていると勘違いしたらしい。
ミーナが呆然として釈明するよりも早く、ケレナが立ち上がってネストリをなだめた。
「あぁ! 違うのです、ネストリさん。私がミーナさんに謝っていたのです。昨日もお話ししましたでしょう? 私のせいでミーナさんが危険な目に遭ってしまって…」
「しかし…こんなに
どうやらネストリは、この件について既に、ケレナから相談を受けていたらしい。
ミーナはパチパチと目を瞬かせて、いつの間にかすっかり仲良くなっているらしい二人を見ていた。
どうすればいいのかわからず、立ち尽くしていると、じっとりとネストリが睨みつけてくる。
「なにか言うべきことはないのか?」
それは質問という体裁をとった強要であった。
ミーナはあわててケレナを慰めた。
「あの、ケレナさん。そんなにご自分を責めないでください。私はあなたのせいだと思っていません。悪いのはギョルム卿ですから」
ケレナは目を潤ませて、おそるおそる尋ねてくる。
「お許しくださるの? ミーナさん」
ミーナはニッコリ微笑んで頷いた。
「ネストリさんが
「じゃあ…じゃあ…これまでのように、お友達でいて下さる?」
「もちろん」
ミーナが即答すると、ケレナの顔から暗さが消えた。
「良かった! 本当にごめんなさいね。ありがとう。あぁよかった……よかったわ……私、すっかり嫌われてしまうと……」
今度は安堵感からか、ケレナは再び泣き始めた。
「大丈夫ですよ。貴女はべつに悪いことはしていません。たいしたことではないんですから、そう罪悪感を抱かずとも……」
めずらしくネストリが親身になって慰める姿に、ミーナは内心で驚いた。
目の前にいるのは、本当にあのいつも冷たく
ともかく、いつまでもここに立っているのは、少々おかしな状況に思えた。邪魔をしないよう、ミーナはそっとその場から立ち去った。
その後すぐにヴァルナルの執務室に向かい、ケレナから聞いた話を伝える。
ただ、ギョルムがミーナの毎朝の礼拝について知り得た
ミーナからの話を聞いて、ヴァルナルはすぐにトーマスの事情聴取を行うよう、マッケネンに指示した。
引き続き更新します。