昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第百六話 剣術試合

 ギョルムの処罰について、帝都皇府からの返事を待っている間、騎士団においては先の約束どおりに、ヴァルナルとベネディクトによる剣術試合が行われようとしていた。

 

 修練場には騎士以外にも多くの見物人が押しかけていて、いつもとは違う、一種、異様な様相を帯びている。

 

「まるで闘技場じゃねぇか」

 

 ゴアンは増える見物客を見回して、あきれたように肩をすくめた。

 

「まぁ、仕方ないだろうな。実際、俺らだって楽しみだし」

 

 マッケネンは腕を組みながら軽く息をつく。それは自分自身も少々興奮しているのを鎮めるためだった。

 

「スヴァンテやらサッチャがいたら、さぞ騒がしかったろうな。自分も名乗り出て、下手すりゃ大公家との団体戦にでもなったかもしれん」

 

 ゴアンは人の名前を借りてそんなことを言いながら、実際には自分がその先鋒に立ちたいくらいであった。

 マッケネンはそんなゴアンの気持ちに釘をさす。

 

「なるか。大公家から騎士なんて来てないのに。アンブロシュ卿がたまたま騎士だったってだけの話だろうが」

 

「しかし、騎士だってのに…なんだって、学者相手の調整役みたいなことをしてるんだろう。っとに、ヤツらときたらお高くとまってやがって、面倒くさいばっかりだってのに」

 

「そんなクセのある者達をまとめるだけ、有能ということだろう。准男爵という爵位まで頂いているんだ。大公閣下からの信任も相当厚いのだろうよ」

 

「フン。そうなると、ますます代理戦だな。あっちはランヴァルト大公閣下、こっちはグレヴィリウス公爵閣下」

 

「事を大袈裟にするな。ただの試合だ」

 

 マッケネンがたしなめていると、背後から「間に合ったぁ」とオヅマが割って入ってきた。

 

「おぅ、間に合ったな」

 

 ゴアンは笑って声をかけたが、マッケネンは眉を寄せた。

 

「オヅマ、授業は?」

「終わったよ」

「本当か?」

「本当だってば! トーマス先生だから、融通きかせてくれたんだよ」

「あいつか…」

 

 マッケネンは眉間に寄った皺を押さえた。

 

 初対面から馴れ馴れしかったが、ギョルムに関しての事情聴取の後、ますます親しげに声をかけてくる。

 無視を続けると、口が『リュ…』の形になるので、マッケネンとしては仕方なく相手するしかない。

 まったく、よりによって厄介な人間に本名を知られてしまった。

 しかもいまだに、その名前をどこで、誰に聞いて知ったのかと尋ねても教えてくれない。……

 

 苦虫を噛み潰したマッケネンと対照的に、オヅマは目を輝かせて辺りを見回していた。

 いつもとは違う、熱気を帯びた修練場に訳もなく血が沸き立つ。

 

「あっ、来た!」

 

 オヅマが声を上げると同時に、ウオォと軽いどよめきが起こった。

 

 本館側の渡り廊下の扉が開いて、ヴァルナルが姿を現した。

 兜はしておらず、赤銅色の髪が強い風で逆立ち、精悍な顔に漲る自信は、まるで獅子の威容だ。

 錫色の鎧に身を包み、背には紺青と白が半々になったマントが翻っていた。

 

 白地には、青くグレヴィリウスの家紋が、紺青の生地には白でレーゲンブルト騎士団の紋章がそれぞれ染め抜かれている。(ちなみにレーゲンブルト騎士団の紋章は、盾の前に剣が三本交差したものだった)

 

 いつもなら内輪の試合程度のことで鎧を着てマントをつけたりはしないが、今回は大公家臣下であるベネディクトへの礼儀もあって、一般的な披露試合と同じ扱いになったようだ。

 

 一方のベネディクトは、鎧は同じく錫色の一般的なものだったが、漆黒のマントに大公家の紋章が染め抜かれていた。

 真紅の椿に、金の目の雄牛の頭、鉤爪の鎖。

 バサバサと翻るマントの裏地は、こびりついた血のような朱殷(しゅあん)の色。

 

 家紋も含め、なんとなく不気味で嫌な感じだ。

 

 オヅマはマントを羽織った、栗茶(マルーン)の髪の男をほとんど睨みつけた。誰だか知らないが、あのマントを背に負う者に対して、いい印象を持てない。

 

 オヅマの視線を感じたのか、不意に男がこちらを向く。

 薄緑の瞳と目が合った途端、オヅマはウッと小さく呻いた。

 

「どうした? オヅマ」

 

 マッケネンに声をかけられる。オヅマはサッと男の視線から逃れた。

 

「あ…あの人とやるの?」

 

 動揺をごまかすように尋ねると、ゴアンが頷く。

 

「おう。ベネディクト・アンブロシュ准男爵だと。お前、会ったか?」

 

 黒角馬(くろつのうま)の研究者などが、発見者であるオヅマを訪ねてくることが多かったので、ゴアンは訊いたのだが、オヅマはブルブルと首を振った。

 

「ううん! 知らない……たぶん」

 

 言いながら、そっと顔を上げて、気づかれないようにベネディクトを凝視する。

 

 微かな既視感。

 会ったことなどないはずなのに…。

 

 モワモワと湧き上がる感情が何なのかわからない。

 これが自分の気持ちなのか、どうしてそんな気持ちになるのか。

 

 オヅマはゆっくりと深呼吸すると、頭を振った。

 とりあえず今は、目の前で行われる試合に集中しよう。

 

 ヴァルナルが東側の定位置に立つと、ベネディクトは向かいあうように立った。

 何かヴァルナルに話しかけられ、朗らかな笑みを浮かべて答えている。

 

「東方、ヴァルナル・クランツ。西方、ベネディクト・アンブロシュ。両名の試合をこれより始める……」

 

 審判役を務めるのは、パシリコが不在の今は騎士団最年長となったトーケルだった。

 剣術試合における作法に従って両者の名を読み上げ、簡単にルールを述べていく。

 

 オヅマは我知らず心臓を掴むかのように胸を押さえた。

 何か、ひどくざわつく。

 この感覚はエラルドジェイに遭遇した時と似ていた。だが、あの時のようにすんなりと受け入れることができない。

 

 目の前ではヴァルナルもベネディクトも試合用の擬似剣を鞘から抜き、交差させた状態で静止している。

 トーケルが手を振り上げたと同時に、ベネディクトは動いた。

 

 溜めの動作もなく、剣を振り下ろす。

 その素早い動きに、騎士達から軽くどよめきが漏れた。

 

 しかしヴァルナルはその速さに動揺することもなく、カン! とベネディクトの剣を弾く。そこから一歩前に踏み込みつつ、弾かれて大きく開いたベネディクトの胸元にむかって剣を突き出す。

 ベネディクトはすんでで飛び退(すさ)って、剣を構えたが、そのときにはヴァルナルはまた間合いを詰めて、剣を振り下ろしてくる。

 

「くっ!」

 

 ベネディクトは思っていたよりも速いヴァルナルの攻撃に、防戦一方になった。

 何度かヴァルナルの剣を弾きながら、壁側に追いつめられていく。

 

 あと数歩で、動けなくなる位置まで来た時に、剣を弾かずにまともに受け止めた。

 一瞬、鍔迫り合いとなったが、ベネディクトはヴァルナルの剣を渾身の力で押し返すと、壁際まで飛び退って間合いをとった。

 

 乱れた息を整える。

 もはやこれで逃げ場はない。

 

「さすが……」

 

 ベネディクトは小さく感嘆した後、ニッと笑って言った。

 

「では、始めましょう」

 

 ヴァルナルはベネディクトの言葉に眉をひそめた。

 打ちに行こうとしたが、その時にはベネディクトにはもう隙がなかった。

 

 姿勢を真っ直ぐに、左足を後ろに引いて、剣を大上段にかかげる。

 その構えを見て、ヴァルナルは奥歯を噛みしめた。

 

 ―――― 来る!

 

 咄嗟にヴァルナルが構えたと同時に、ベネディクトの姿が消えた。

 

 見物人がえっ? と目をパチパチ瞬かせる。

 騎士達もほとんどが同様だった。オヅマも凝視していたのだが、その一瞬、ベネディクトは完全に消えたように見えた。

 

 再びベネディクトが彼らの前に姿を現したのは、カァンと剣の交わる音が響いた時だった。

 ヴァルナルによって弾かれたベネディクトは、修練場の砂の上でズササッと滑って、かろうじてひっくり返ることなく止まった。右手に持っていた剣を左手に持ち替え、再び深く息を吸い、胸に空気を溜め込むと同時にまた姿が消えた。

 だがこれも結果は同じだった。

 

 ヴァルナルはすぐさま応戦して、ベネディクトからの剣を剣で防ぐ。ギリギリと鍔競(つばぜ)り合いが始まると、ベネディクトは長引く前に押し戻して間合いをとる。

 ハッ、ハッ、とほんの少しの間のことであるのに、ベネディクトは激しく肩を上下させた。

 

 オヅマは二人の構え合う様子を見ながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 徐々に余裕のなくなっていくベネディクトと対照的に、ヴァルナルの表情は静かだった。

 かすかに開いた口元から細く長い呼吸がされているのがわかる。

 灰色の瞳は瞬くことなく、ベネディクトを見つめている。

 

 オヅマにはわかった。

 ヴァルナルは今、稀能を発現している。これが『澄眼(ちょうがん)』なのか。

 

 ベネディクトはハッと声に出して息を吐くと、すぐさま鼻から空気を吸い上げて止めた。ほぼ同時に再び地面を蹴る。

 また、姿が消えた――――ように、見物人からは見えた。

 

 地面を蹴り上げ、一足飛びに自分に向かってくるベネディクトの姿が、()()()()()()()()のは、ヴァルナルだけであった。自分に向かって剣が振り下ろされる寸前までその場に留まり、十分に引きつけてから、ヴァルナルはそれこそベネディクトさえも捉えられぬ敏捷さでかわす。

 ベネディクトはそのまま地面に向かって剣を振り下ろし、修練場の固い土に(ひび)が入った。

 しゃがんだ状態で固まってしまったのは、隣で立っているヴァルナルの剣がベネディクトの首の上で止まっていたからだ。

 

「……勝ち、東方ヴァルナル・クランツ」

 

 審判であるトーケルはしばし唖然と見守っていたが、あわてて勝負の終了を宣言する。

 

 うおぉ、と野太い歓声が上がった。

 

 ヴァルナルは静かに剣を鞘にしまった。

 ベネディクトはうなだれていたが、息を吐ききると、ゆっくりと立ち上がった。顔には満足気な笑みが浮かんでいる。

 

「有難うございます、男爵殿」

「こちらこそ。まさか『絶影捷(ぜつえいしょう)』の稀能をお持ちとは…」

 

「いえ。まだそこまでの域には至っておりません。習得しようと励んだのですが、師匠からは認めてもらえませんでした。しかし、男爵殿に『澄眼』を出させたのなら、私も自慢できるというもの。そう思ってもよろしいでしょうか?」

 

 ヴァルナルは頷いた。澄んだ灰色の目には嫌味でない自負がみえた。

 

 オヅマは清しい笑顔で頷き合う二人の姿を見て複雑だった。

 たった一度の試合でまるで数年来の友人のごとく、心を通わせたのがわかる。

 

 だが、オヅマはベネディクトへの警戒心が高まるばかりだった。また、じっと睨みつけるように見ていると、視線に気付いたヴァルナルが声をかけた。

 

「オヅマ、こっちに」

 

 オヅマはぎゅっと眉を寄せ、ヴァルナルのもとへと歩いていった。

 

「なんですか?」

 

 騎士見習いと思えぬつっけんどんなオヅマの口調に、ベネディクトは驚いたようだった。

 

「ずいぶんと…男爵殿に対して()()()な態度ですね」

 

 あえてはっきりと生意気と言わなかったのは、朗らかに接しているヴァルナルに遠慮したからだった。しかし、ヴァルナルにはベネディクトの本来言いたいことはすぐにわかったらしい。

 ハハハと笑って、オヅマの肩を叩いた。

 

「失礼。少々、生意気なところもありますが、これで信義に厚い子なのです。それに騎士としても有望で、目をかけてじっくり育てているところです」

 

「左様ですか」

 

「アンブロシュ卿、差し支えなければ、この子に絶影捷(ぜつえいしょう)の一端を披露してもらうことはできませんか?」

 

「え? それは…」

 

「はたから見ているのと、実際に立ち合うのとでは、得るものも大いに違います。私はこの子に、経験を積ませたいのです」

 

 ベネディクトはチラリとオヅマを見た。

 見上げてくる薄紫の瞳は反抗的といってもいいくらいだった。恐れを知らない無垢な瞳を、少しばかり驚かせてやりたくなる。

 

「…いいでしょう」

 

 さほど深くも考えず、ベネディクトは頷いた。

 

 オヅマはオヅマで、この急なヴァルナルの申し出に当初は戸惑ったが、すぐに受け入れた。

 

 絶影捷(ぜつえいしょう)、と呼ばれるその稀能は、あまりの速さに、その者の影ですらも追いつくことができない、という意味を込めて名付けられたという。

 

 いったい、どれほどの速さであるのか。

 その影も追いつけぬほどの速さをもってしても、見取ってしまうヴァルナルの稀能とはいかほどのものなのか……?

 こればかりは、実際に相対しなければわかりようもない。

 

「普段の修練の成果を見せてみろ」

 

 ヴァルナルは軽く言ったが、実のところ、騎士団での訓練を再開してからの数ヶ月の間、ヴァルナルは折を見てオヅマに稀能『澄眼』の修練を行っていた。

 当人にはまだ伝えていないが、普段の訓練とは明らかに異なるものなので、なんとなく気付いてはいるようだ。

 

 この初歩的な修練において、見込みがなければ諦めるつもりであったが、案の定、オヅマはヴァルナルの意図したことを理解した上でこなしていっている。このまま進めば、習得に向けてより特化した実技を教えていくことになりそうだ。

 

 だが多くの稀能においてそうだが、いくら実技面での習得ができたとしても、結局は使用の際にどれだけ平常心を保って、稀能という特殊能力を発現できるか、ということが一番の課題なのだ。

 こればかりは場数を踏むしかない。

 

 経験を積むにしても、相手が強者であるほどに、有益なのは言うまでもない。

 その点、絶影捷の遣い手(当人は稀能の域でないと謙遜するが、ヴァルナルには十分に達人の域に思える)であるベネディクトなどは、貴重な対戦相手といえる。

 オヅマは運がいい。

 

 ヴァルナルに押されて、西側の位置にオヅマは立った。

 剣術試合においては、格上の人間が東側に立つことになっている。これは特に何かしらの順位が決められたものでなく、両者暗黙の了解の下、自らで格下と思えば西側に立つことが慣わしだった。

 

「東に立ってもよいぞ、勝てると思うなら」

 

 ベネディクトは笑みを浮かべ、東側の場をあけた。明らかな挑発行為だ。

 オヅマはギッと睨みつけた後、澄ました顔で東側に立った。

 オオゥ、と見物人からどよめきが起こる。

 

「身の程知らずが…」

「いいぞ! やれやれ!」

 

 見物人の反応は眉をひそめる者と、囃し立てる者に二分された。騎士団の面々もまた同様だった。

 

「領主様、オヅマに注意しなくていいのですか?」

 

 前者であるマッケネンはヴァルナルに伺いを立てる。ヴァルナルはフッと笑って言った。

 

「心配するな。恥をかきたいというなら、止める必要もない」

「しかし、もしアンブロシュ卿が不敬とお怒りになられたら…」

「あれが怒っているように見えるか? 気にせずともよい、マッケネン。ただの冗談だ。見ればわかろう?」

 

 ヴァルナルの言う通り、ベネディクトは冗談のつもりの挑発に乗ったオヅマに、俄然興味が湧いた。

 なかなかどうして、この年で勇敢な少年ではないか。もっとも、この場合は勇敢というよりは蛮勇と言った方がいいかもしれない。

 

「ふん。では、お相手願おうか」

 

 ベネディクトは西側に立つと、剣を中段に構えた。オヅマも同様に構える。

 交差された状態で、剣はしばらく静止している。

 トーケルが両者の名前を読み上げ、手を振り上げて開始を宣言した。

 

 すぐさまオヅマはぐっと下に腰を落とし、ベネディクトの足元すれすれから上に向かって剣を払う。子供の体の小ささを活かし、瞬時に間合いを詰めてきたオヅマに、ベネディクトは内心驚いた。

 顎先に伸びてきた剣先をかろうじてかわす。

 

「成程」

 

 間合いをとって、ベネディクトは自らの油断を叱った。

 

「さすがはクランツ卿の秘蔵っ子というわけか」

 

 つぶやきながら、剣の握りを変える。同時に地面に平行に跳躍し、今度はベネディクトが一気に間合いを詰めた。

 

 オヅマは急に目前に迫ったベネディクトに、一瞬、固まった。だが、振り下ろされる剣先を正確に見定めて、ギリギリでかわす。

 ベネディクトは間髪を入れず、振り下ろした剣を横に払った。これは避けられず、オヅマはカン! と剣で受けた。

 刃が擦れ合って、ギギギと耳障りな音をたてる。

 

「『澄眼(ちょうがん)』は発現できそうかな? 坊や」

 

 ベネディクトがまた挑発してくる。

 オヅマは無言だった。押してくる圧力に耐えるのに必死で、余計なおしゃべりなどしていられない。

 

 鍔迫り合いから先に逃れたのはベネディクトだった。再び大きく間合いを取ると、スゥと息を吸い込む。

 オヅマはすぐに意図を察した。だが、ヴァルナルのようにすぐさま対応するのは難しかった。

 

 絶影捷(ぜつえいしょう)と呼ばれるその異様な速さ。

 オヅマの目の前からベネディクトが一瞬消えた。

 さっき見物していた時と変わらない。オヅマには何も見えなかった。当然、避けようもない。

 

 ヒュッ、と耳元に小さな風の唸る音がして、ピタリと頬に冷たい剣身が当てられた。ヴァルナルがベネディクトの首で寸止めした時と同様に、オヅマもまた硬直するしかなかった。

 勝負は一瞬でついたのだ。

 

「勝利、西方。ベネディクト・アンブロシュ」

 

 通常の試合において、西方が勝つことなどはまず有り得ないことだった。負けた時に自分が東方であれば、一生、恥をかかえて生きることになる…というのは大袈裟であったが、実際、騎士にとってはそれくらい恥ずかしいことであった。

 

 見物人の大笑いを、オヅマは凄まじい恥辱と感じた。だが、それも自分が招いたことだ。

 

「まだ、クランツ卿の域には達していないようだ」

 

 ベネディクトは剣を鞘に収めると微笑した。そこに試合前の挑発的な皮肉はない。

 オヅマは一歩後ろに下がってから、頭を下げた。

 

「誠心の剣をいただき、有難うございます」

 

 剣術試合後の、負けた側の形式的な文句であったが、オヅマの心境には合致していた。

 ヴァルナルの言う通り、自分にはまだまだ場数が必要で、ベネディクトはその貴重な一つの経験をさせてくれたのだ。

 

 莞爾として笑い、ベネディクトはオヅマの肩に手を置いて言った。

 

「ここにいる間は、クランツ卿の許可があれば、いつでも相手しよう。精進したまえ」

 

 

 ――――― 本日より、閣下から君の後見を頼まれた。閣下直々に特に頼むと言われるなど、君は相当に期待されているようだ。精進したまえ……

 

 

 不意に ―――― ()が閃く。

 

「………」

 

 オヅマは喉が詰まって返事ができなかった。

 

 ヴァルナルに軽く会釈して、ベネディクトは修練場から出て行く。

 オヅマはその背に翻るモンテルソン大公家の紋章に眉を寄せた。

 

 気に食わない。

 威嚇する金の目の雄牛も、何かを捕らえようかとする鉤爪(かぎづめ)も、婀娜(あだ)めいた真紅の椿も。なんと気味悪く忌々しい紋章だろうか。

 

 ゆっくりと、また押し寄せてきそうになる()を、オヅマは振り払った。

 

 





引き続き更新します。

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