昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第百八話 渓谷にて(1)

 サフェナ南西部にあるヒルヴァニス渓谷は、夏を迎えたこの時期、一年で最も美しい景色に彩られる。赤、紫、ピンク、白、青、黄色、橙……自生する様々な野の花が咲き乱れ、まるで天上の花園のごとき美しさだ。

 

 浄闇(じょうあん)の月を迎えて、帝都などではすっかり夏も本番となり、うだる暑さに人々もげんなりする時候であった。しかし北国においては朝方などは寒いほどで、昼でも山の近くでは涼しい風が吹く。

 

 天蓋のない簡素な馬車の上で、マリーは歓声を上げた。

 

「すごい! すごいわ!! 谷の奥までお花畑が続いてる!」

 

 馬車の隣で黒角馬(くろつのうま)のシェンスに(またが)っていたヴァルナルはニコリと笑みを浮かべた。手綱を握る腕の間にはオリヴェルがいる。シェンスの(たてがみ)をつかみながら、オリヴェルも感嘆の声をあげた。

 

「すごい! こんなところがあったなんて…匂いにまで色がついてるみたいだ」

 

 感受性豊かな息子の表現に、ヴァルナルはほぉ…と感心してしまった。

 この時期にこの渓谷を訪れたのは初めてではなかったが、初めての時でもそのような感想は出てこなかった。ただ美しいと息を呑んで見つめていただけだ。

 

 テュコから聞いた帝都への新たな街道のことで、ヴァルナルは南西部のダーゼ公爵領に隣接したロージンサクリ連峰まで、一度調査も兼ねて訪れた。

 その時に、この渓谷を埋め尽くす花畑を見て、自然と思い浮かべたのはマリーの笑顔だった。

 

 花好きのマリーは、領主館にやって来た時から変わらず今も、庭師のパウル爺やイーヴァリの後をついて回っている。花の知識は、既にヴァルナルなどよりもずっと詳しいくらいだ。

 マリーをここに連れてきたらさぞかし喜ぶだろうな…と思った。

 帰ってきてそのことをミーナに話すと、ミーナは頷いてから少し思案顔になった。

 

「どうした?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、ミーナは「いえ…」と首を振ったものの、重ねて問うたヴァルナルに遠慮がちに言った。

 

「昔、皆でピクニックに行きたいと話していたことがあるのです。あの頃はまだ若君のお体も弱くていらしたので、無理だろうと思っていたのですが、今であれば、きちんと準備していけば行けるような気もしたのですが……領主様がお忙しいのに、難しいですね」

 

「それくらいなことは、なんでもない」

 

 ヴァルナルは朗らかに賛同しながら、ミーナに注意した。

 

「但し、貴女(あなた)が私のことを『領主様』と呼ぶのは、そろそろ変えてもらいたいが」

「それは……」

 

 ミーナは困った。

 ヴァルナルとの仲について、領主館どころか領府内においてほぼ公然のことになっているとはいえ、それでも今はまだ、自分はヴァルナルの下僕の立場だ。

 

「今更、誰もが知っているのだから…そう堅苦しく考えるようなことでもなかろう」

 

 ヴァルナルはお見通しとばかりに、軽い口調でミーナの言い訳を封じてくる。ミーナは苦笑しつつ、それでも首を振った。

 

「まだ子供たちにはきちんと知らせておりません。せめてあの子たちに、これからのことも含めて話してからでないと…」

「ふむ…そうか。そういえば、そうだな…」

 

 ヴァルナルは考え込んだ。

 ギョルムのことがあって、ミーナと互いの気持ちを確かめ合えたとはいえ、まだ子供たちにはちゃんと伝えていなかった。

 

 オリヴェルなどは(さと)いし、オヅマには前々から伝えていたのでわかってはいるだろうが、いよいよ家族となるのであれば、確かに一度、きちんと話しておく必要があるだろう。

 

 そう考えたときにヴァルナルは一気に緊張するのがわかった。

 まさかこの期に及んで、子供たちから反対されたらどうすればいいのだろう?

 

 オリヴェルは賛成してくれている。オヅマは当人としては複雑なようだが、母であるミーナの意志は尊重すると言っていた。

 だが、マリーは?

 マリーが自分のことを嫌っているとは思えなかったが、それはあくまでも()()としてのヴァルナルであって、()として受け入れてくれるかどうかは未知数だ。

 

「………よし、行こう。ピクニックに」

 

 ヴァルナルは決めた。

 そこで子供たちにミーナと結婚し、家族となることを話すのだ。

 

 かしこまった場を設けるよりも、広々とした空の下でのんびりと話してやった方が、子供たちに緊張せずに聞いてもらえるだろう…と、ミーナに説明したものの、実際にはヴァルナルの方が緊張するので、花の力を借りた…というのが正直なところだ。

 

 作戦(?)が功を奏して、マリーは渓谷に広がる絶景に歓喜している。

 

「小道があるわ! ここからは歩いていきましょう!!」

 

 マリーは言うやいなや、飛び降りそうな勢いだった。

 馭者台(ぎょしゃだい)に座っていたオヅマはあわてて手綱を引いて馬車を止めた。

 

「落ち着けよ、マリー。花が逃げていくわけじゃなし」

 

 オヅマは興奮する妹にあきれて言ったが、マリーは既にステップからぴょんと飛び降りて、花畑を貫く一本道を歩き始めていた。

 

「あぁ! いい匂い!! 春の匂いもする! 夏の匂いもする!」

「待って、マリー!」

 

 オリヴェルが馬上から声をかけたが、マリーは目の前に広がる花の絨毯に夢中だった。

 

「降りるか?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、オリヴェルはしばらく迷っていた。

 

「また、帰りにも乗せてやろう。疲れていないなら」

 

 ヴァルナルの言葉にオリヴェルはパッと顔を輝かせた。

 うん、と頷いたオリヴェルに微笑みかけると、ヴァルナルは先に降りてから息子をそっと下ろした。

 地面に足が着いた途端、オリヴェルは豆が弾けるような勢いでマリーの元へ駆けていく。

 

「走ってはいけません、若君!」

 

 オヅマの手を借りて降りたミーナは、あわてて後を追っていった。

 残ったオヅマは嘆息しながら、荷物を下ろす。

 ヴァルナルは、ついてきていたトーケルとゴアンに、シェンスと馬車を預けた。

 

「しばらく戻ったところに羊飼いの家があったろう? そこで休ませてもらうといい」

 

 言いながらトーケルに小袋を渡す。心付けだ。身分のある者が出先で困ったときに、その地域の住人に休憩を要求し、その見返りとして金品を渡すのは、よくある話だった。休憩を提供する方にとっても実入りのいい副収入となるので、断る家はほぼない。 

 

「ハッ! では、何かありましたら笛にてお呼びください」

 

 ゴアンとトーケルは騎士礼をすると、馬車と馬を連れて、来た道を戻っていった。彼らはヴァルナルについて何度かここを訪れているので、今更、見物したいとも思わなかった。まして領主()()の邪魔をするなどもってのほかだ。

 

 その場に残されたオヅマとヴァルナルは何となく目が合った。

 

「行こうか、オヅマ」

 

 ヴァルナルは声をかけて、オヅマの足元に置いてあったバスケットを手に取ろうとする。しかしその前にオヅマがバスケットを持ち上げた。

 一瞬、気まずい空気が流れたが、ヴァルナルはすぐに何もなかったかのように、話しかけた。

 

「重くないのか?」

「大丈夫です」

 

 オヅマは領主様に運ばせるわけにもいかないと思って、そこにあった荷物を全部持とうとしたが、ヴァルナルは敷布だけオヅマから取り上げた。

 

「これは私が持とう」

「あ…じゃ、お願いします」

 

 オヅマはおとなしく任せることにした。

 正直、バスケットともう一つの巾着袋だけでまぁまぁの重量があるので、そこに長細くて重い敷布を担いで歩くのは、バランスを取りにくい。ヴァルナルはすぐにわかったのだろう。

 

 二人並んで歩く。

 微妙な沈黙を消したのは、やはりヴァルナルだった。

 

「オヅマ、お前に礼を言わなければな」

「はい?」

「オリヴェルは喜んでいたよ。シェンスに乗せてやれてよかった。ありがとう」

 

 ヴァルナルが感謝したのは、このピクニックに行くことになった時、オヅマがある提案をしてきたからだ。

 

 

 数日前 ―――――

 

 

「今度、みんなで西の渓谷に行くときなんですけど…その時に領主様の馬にオリヴェルが一緒に乗ることはできますか?」

 

 騎士団での訓練が終わった後に、久しぶりにオヅマの方から声をかけてきた。ヴァルナルは少し驚きつつも、その内容に首をひねった。

 

「オリヴェルを? 無論できるが…馬車の方がいいんじゃないのか?」

 

 ギョルムに襲われた後、しばらくは安静に過ごすように指示されたオリヴェルの体調は、もうすっかり良くなっていた。とはいえ、生来からの病弱な体質が治ったわけではない。無理は禁物だ。

 今回のピクニックにおいても、オリヴェルには馬車に乗ってもらうつもりだった。

 

 オヅマもそのことは十分に承知していたが、それでもヴァルナルに頼んだ。

 

「前からオリヴェルが言ってたんです。いつか馬に乗りたいって。叶うなら、黒角馬(くろつのうま)に乗ってみたいって。でも騎士にとって馬は大事なものだから、無理だろうって諦めてたんだけど……」

 

 オヅマは一旦言葉を切ってから、じっとヴァルナルを見つめた。

 

「オリヴェルの望みを叶えてもらえませんか?」

 

 緊張した固い表情だったが、必死さがにじみ出ていた。

 ヴァルナルは気持ちが熱くなって、泣きそうになった。

 

 血の繋がりのないオリヴェルのことも、マリー同様に、オヅマは兄として気にかけてくれている。ヴァルナルが家族になろうとする前から、三人は既にきょうだい同然なのだ。

 

 ヴァルナルは、あの時オヅマを ――― 一年半前に門番のジョスと押し問答していた無鉄砲な少年を ――― 追い返さなくてよかった…と心底思った。

 もしオヅマ達親子が領主館に来ることがなかったら、きっとオリヴェルは元気になることもなく、自分もまた罪の意識から息子を遠ざけたままだったろう。

 こんな些細な願いを知ることもないままに………。

 

「わかった。道中ずっとはさすがに難しいが、途中から乗せることぐらいは大丈夫だろう。一応、ビョルネ医師の了承を得ねばならないが、オリヴェルの体調さえ良ければ問題なかろう」

 

 ヴァルナルが承諾すると、オヅマの顔はパッと明るくなった。

 

「ありがとうございます!」

「いや、むしろ礼を言うのは私の方だ。父だというのに、息子のそんな些細な望みさえも知らなかった…ありがとう、オヅマ」

 

 

 

 

 そのときの会話を思いながら、ヴァルナルはもう一度言った。

 

「……お前のお陰でオリヴェルの望みを叶えてやれた。ありがとう、オヅマ」

 

 不意に礼を言われて振り返ったオヅマは、繰り返されるお礼の言葉に目を丸くした。

 自分は特に何かしたつもりはなかった。ただ、オリヴェルが前から言っていた希望を伝えただけだ。

 

「俺は…別に…」

 

 目をそらし、スタスタと歩いていく。

 また気まずい沈黙が漂いかけると、ヴァルナルが声をかけてきた。

 

「オヅマ……すまないな」

 

 今度は謝られ、オヅマは怪訝に振り返った。

 

「なにがですか?」

「まだお前には認めてもらえないだろうとわかっているのに、私はミーナと結婚することを決めた。お前の気持ちを無視することになって…申し訳ないと思っている」

「………無視なんて、してない」

 

 ボソリと反論するオヅマに、ヴァルナルは聞き返した。

 

「そうか?」

「今、話してくれているじゃないですか」

「それはそうだが…」

 

 それ以上、ヴァルナルが話そうとするのを遮って、マリーの大声が響く。

 

「なにしてるのぉ? はやくーっ! お腹ペコペコだよーっ」

 

 その辺りで一本だけ高く伸びたエルムの木の下で、ぶんぶんと両手を振っていた。

 

「おう! 今行く!」

 

 オヅマは逃げるように駆け出した。

 

 優しくて、寛大なヴァルナル。であればこそ厄介だった。どうしても父として受け入れられない。

 どんなに尊敬し、信頼をしていても、それだけは叶えてやれないのだ。

 

 ヴァルナルは溜息をついて、軽く頭を振った。

 まだまだ先は長いな…と、小さくなっていくオヅマの背を見送る。

 ふぅ、と溜息をついて、ヴァルナルは花々の咲くなだらかな道をゆっくりと上っていった。

 

 

 

 

「ちょうどいい場所があったな」

 

 バサリと敷布を広げてから、ヴァルナルは初夏の日差しを遮って涼しい影を落とすエルムを見上げた。花の時期が終わって、新緑の美しい頃合いだった。

 

「はい。ここでしたら、影になって涼しいですし、見晴らしもいいですし」

 

 ミーナが木漏れ日に眩しげに目を細めて言う。

 柔らかな表情を浮かべ、優しく微笑むミーナ。見惚れそうになって、ヴァルナルはごまかすように目を周囲へと向けた。

 

「あぁ……」

 

 なだらかな傾斜に色とりどりの花が咲き乱れている。

 美しい景色だ。この土地の人間には『女神(サラ=ティナ)の秘密の花園』と呼ばれているらしい。

 

「…うん、そうだな」

 

 そう言ってまた視線を戻せば、そこにはこの景色の中でひときわ美しい花のような女《ひと》が座っている。

 こんな日はそうそう人生にないだろう。……

 

「ねー、早く食べよお」

 

 マリーはすでにバスケットを目の前に置いて、いつでも開ける準備をしていた。

 

「父上も、オヅマも座って」

 

 オリヴェルは空いている場所をポンポンと叩いて招く。

 ヴァルナルはミーナと向かいあうように座り、オヅマはやや逡巡しつつもそこしか空いていないのでヴァルナルの隣に座った。

 

「そぉーれっ!」

 

 マリーが待ちかねたとばかりにバスケットを開く。

 中には硬めに焼いたライ麦パン、ハム、チーズ、ゆで卵、ヴァルナルの好物というシロルの酢漬け、ニンジンとタマネギをソテーしたもの、キャベツのピクルスなどの昼食の材料となるものの他に、スコーンとジャムも入っていた。

 

 パンにバターを塗って、自分の好きなようにハムやらスライスしたゆで卵なりを乗せて食べる。

 ヴァルナルはミーナが用意してくれた豪華なトッピング――― ハムとゆで卵、ニンジンとタマネギのソテーの上にシロルの酢漬け ―――を受け取って、その掌ほどの大きさのパンを一口でパクリと食べる。咀嚼して飲み込むと、しばらく無言だった。

 

「……どうされました? おいしくありませんか?」

 

 ミーナは自分の作ったものが何か悪かったかと心配そうに声をかけたが、ヴァルナルは真面目な顔で言った。

 

「……うまい」

 

 ミーナはしばしヴァルナルを見てから、ニッコリ微笑んだ。

 マリーは二人の姿を見て、クフフと笑う。

 

「仲良いねー」

「本当だね」

 

 オリヴェルはマリーに同意して、ハムとチーズとキャベツのピクルスを乗せたパンを食べる。しばらく無言で味わった後、「……おいしい」とヴァルナルと同じ顔でつぶやくので、マリーがケタケタと笑った。

 

 オヅマもいざ食事となると、旺盛な食欲に素直に支配される。

 しばし子供たちは静かに食べることに集中した。

 

 ヴァルナルはミーナの用意してくれた二つのパンを食べた後に、コホと軽く咳払いして、おもむろに口を開いた。

 

「その…君たちに話がある」

 

 マリーはジャムを塗ったスコーンを頬張ったまま、ヴァルナルに目を向ける。

 オヅマはおおむね何を言い出すのかわかっていたので、わざとに顔をそむけ、オリヴェルはそんなオヅマとヴァルナルを交互に見つめて困惑した。

 

 ヴァルナルはすぅ、と息を吸って、いざ言おうとしたが――――

 

「ダメーーーッ」

 

 幼い甲高い声が響いた。

 




引き続き更新します。

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