昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第百十話 渓谷にて(3)

「ふぅ…」

 

 オヅマは渓谷を流れる小川の近くをフラフラと歩いていた。

 さっき見た()の残滓が心を重くする。だがそれに囚われていると、またあの暗闇が襲ってきそうで、オヅマは頭を振って無理やり嫌な気分を追い出した。

 

 すぅ、と息を吸い、マリーと母の笑顔を思い浮かべた。マリーとヴァルナルが作った花かんむりをのせた母は、本当に幸せそうで美しかった。

 よかった…と息をつく。

 もう、オヅマが心配しなくてもいい。ヴァルナルには母と妹を幸せにする力がある。決して裏切ることのない、誠実で穏やかな夫であり、やさしい父であることだろう。

 

 心底からの安堵感と同時に、気が抜けた。

 ぼんやりと小川のせせらぎを見つめる。一仕事終えたあとのような、疲れているがさっぱりした気分だ。

 

 オヅマはしばらく川べりに立って、見るともなしに川の流れを見ていたが、ふとこちらにやってくる人の気配に気付いて何気なく目をやった。

 

 女の子だ。小川に架けられた小さな橋を渡ってこちらに来る。

 オリヴェルと同じくらい ――― 十歳くらいだろうか。レースをふんだんにあしらったアイボリーのドレスに、小さな薔薇の造花をいくつも挿した、いかにも高価そうな帽子。一目で貴族のお嬢様だとわかる。観光にでも来たのかもしれない。

 いや、それよりも ―――

 

「おい、やめろ!」

 

 オヅマは走りながら鋭く叫んだ。

 しかしビクリと振り返った女の子の手は、今しもその先にある青い花に触れようとしている。

 

「触るな!」

 

 オヅマは近くまで来ると、すんでのところで女の子の手を払った。「キャッ」と小さな声があがる。

 払ったオヅマの手が女の子の被っていた帽子を飛ばし、山からの風に乗って川に落ちた。と同時に、藤色が入り混じった光沢のある銀の髪が風になびく。

 つややかに波打ち、キラキラとまばゆく光り散る髪。

 驚いてオヅマを見上げる丸く大きな瞳は、透明な青翠の虹彩が光を受けて様々な色に輝いている。まるで宝石のようだ。

 

 

 ――――― 妖精?

 

 

 オヅマは思わず、その浮世離れしたかのような少女に見入ってしまった。

 しかし ――――

 

「あぁーっ!」

 

 幻想的な雰囲気は一気にかき消された。

 女の子が大声で叫ぶ。

 オヅマは我に返ると、あわてて女の子の手を引っ張った。

 

「こっち来い!」

「なによっ、お前!」

 

 女の子がギロっとオヅマを睨みつける。

 

「いきなり怒鳴りつけるなんて、なんて野蛮なの!」

 

 いかにもご令嬢らしい言いようにオヅマは鼻白んだが、掴んだ手に力を込めて、無理にその場から連れ出した。

 

「ちょっとっ! 何をするの、無礼な!!」

「うるせぇ! その花に触れるな!! イボだらけになるぞ!」

 

 とりあえず危険な毒花から離れて、オヅマは女の子を叱りつけた。しかし女の子も負けていない。

 

「うるさいのはお前よ!」

 

 ブン、と腕を振って逃れると、ピシャリとオヅマに命令する。

 

「早く、わたくしの帽子を取りに行きなさい!!」

「はあぁ?」

「お前のせいで、帽子が川に落ちたのではないの! 早く取りに行って!!」

 

 オヅマはヒクヒクと頬を痙攣させた。さっきまでの穏やかで幸福な時間が嘘のようだ。

 

「なんだと…この……」

 

 怒鳴りつけそうになるのを我慢して、オヅマは女の子を見つめる。

 長い睫毛の下のくっきりした二重の目、柔らかな曲線を描く鼻筋、尖らせた小さな朱色の唇。ぽってりした頬は白く、興奮しているせいかほんのりと赤く色づいている。

 しかし黙ってさえいれば人形のような愛らしさを裏切るのは、女の子のきつい眼差しと、傲然たる態度だった。

 

「とっとと取りにお行き!」

 

 女の子は川を流れていく帽子を指さして命令する。水深が浅いせいなのか、石にぶつかっては止まりつつ、徐々に川を下っていっている。

 

「フザけんな! なんで俺が…」

 

「あぁ! 馬鹿なの、お前? 理由はさっき言ったわ。お前の手がわたくしの帽子を払い落としたのよ。お前に原因があるのだから、お前が取りに行くのが当然でしょ。そうでなくとも、男であれば貴婦人(レディ)の落とした物くらい、くどくど言わずに拾いに行きなさいよ。あぁ…また流され始めたわ。早く!」

 

「…………」

 

 女の子のあまりに高飛車な態度に、オヅマは怒りを通り越して呆気にとられた。チラと川を流れていく帽子を見る。

 いつまでたっても動かないオヅマを、女の子は怪訝に見つめてからハァと溜息をついた。

 

「あぁ…わかったわ。お前、水が怖いのね。もう結構よ」

 

 それからスタスタと歩き出す。

 勝手にカナヅチ扱いされ、オヅマはイラッとした。甚だ不本意ながら、走って女の子を追い抜く。すると女の子がムッとした顔になり、並んで駆け出した。

 

「おい、来るな!」

「もう結構と言ったでしょ!」

「うるせぇ、チビ!」

「誰に向かって、なんてことを言うの!」

 

 喧嘩しながら、裾長いドレスをたくし上げて走るのは難しかったのだろう。女の子が川べりの石に躓いてコケた。

 オヅマはチッと舌打ちしてから手を差し出したが、女の子はギロリと睨みつけて「先に帽子を取ってきて頂戴!」と、怒鳴りつけてくる。

 

 オヅマは拳を固く握りしめ、グッと我慢した。これは常日頃、礼儀作法を教えてくれているジーモン教授の「とにかく女性には丁寧に接するように!」という教えの賜物かもしれない。

 とはいえ、泣かないでいてくれるのは助かる。そのことだけは認めてやろう…とオヅマは気持ちを落ち着かせると、川の中に入って、小さな岩に引っ掛かっていた帽子を取り上げた。

 

「ほら」

 

 オヅマは地面に座り込んでいる女の子に帽子を差し出した。

 女の子はひったくるように取ると、軽く振って水を落としてから、澄ました顔でまだ濡れている帽子を被った。

 

「お前、馬鹿なの?」

 

 オヅマは目を丸くして尋ねた。それはさっき女の子に言われたお返しでもあったが、実際になんで濡れている帽子を被るのか、意味がわからない。

 しかし女の子はフンと鼻を鳴らした。

 

「うるさいわね、無礼者。男の前で結ってもいない無様な髪を晒すなんてこと出来るわけないでしょ」

 

 ツンとして言ってるそばから、女の子の頬に水が伝っていく。

 

「帽子を被ってるほうが無様に見えるけどな」

 

「お前、さっきから、わたくしが()()()()()許してやっているけど、本当に失礼よ。謝ってもらうべきところだけど、帽子を取ってくれた褒美として許してやるわ。さ、早く立ち去りなさい。わたくしの家来が来れば、叱られるわよ」

 

「………それはどうも」

 

 オヅマはだんだん相手するのも疲れてきて、喉まで出かかっていた文句を押し込めた。

 何を言っても、この小生意気なチビ女には叶わない気がする。

 そのまま立ち去ろうとして、振り返ると女の子はまだ座り込んでいた。

 

「おい。家来は来るんだろうな?」

 

 オヅマが呼びかけたが、女の子はこちらを見ることもない。

 肩をすくめてまた歩き出したが、後ろから小さなくしゃみが聞こえてきて、足を止める。

 オヅマはげんなりして深い溜息をつくと、仕方なく女の子のところに戻った。

 

「なによ?」

 

 女の子はスン、と洟水をすすって、相変わらずの澄ましっぷりだ。

 

「家来はいつ来るんだよ?」

「お前には関係ないことよ。放っておいて」

「足は? 痛いのか? ひねったか?」

「…………」

 

 女の子はソッポを向いて返事をしない。

 オヅマは軽く息をついて、足首をみようと手を伸ばしかける。しかし急に女の子の足が動いて蹴られそうになり、オヅマは咄嗟に避けた。

 

「あっ…ぶねぇな! このクソチビ!!」

「誰がチビだというのよ! 図体だけデカいウドの大木に言われたくないわ!!」

「さっきから…達者な口だな!」

 

 怒鳴りつけてから、オヅマは女の子の腕をグイと引っ張って立ち上がらせた。

 

「いぃ()ッたぁーいッ!」

 

 女の子が悲鳴を上げる。

 

「そらみろ! 怪我してんじゃねぇか」

「だから何よ! しばらくすれば歩けるわ」

「あぁ、もう…本当に面倒くせぇチビだな」

 

 オヅマはぐしゃぐしゃと頭を掻いてから、女の子の前にしゃがみ込んだ。

 

「なによ…」

「グダグダ言ってないで背に乗れ。おんぶして家来とやらのとこに連れてってやるから」 

「へ、平気だと言って……」

 

 いいかげん素直でない女の子が鬱陶しくなってきて、オヅマは怪我しているらしい左足をビシリと打った。

 

「痛ッ!」

 

 よろけて女の子が背に倒れかかると、そのまま持ち上げる。軽く悲鳴を上げたものの、女の子はオヅマの背でようやく静かになった。

 

「どこだよ、家来は」

「………その先にある橋の向こうにいるわ」

「なんだってこんなとこまで来たんだよ…」

 

 オヅマはブツクサ言いながら歩き出す。

 橋を渡る前に、女の子はさっき触ろうとしていた群青色の花を見つめてオヅマに問うてきた。

 

「あの花…って、触ってはいけないの?」

 

 オヅマは川辺に咲く群青色の花をチラとだけ見た。

 一株に一つしか咲かない、大人の手ほどもある大きな花で、形は百合に似ている。肉厚のつややかな群青色の花弁。中心部にいくほど白く、金色の花粉が風に揺れるたび、花びらにまぶされたように点々と散って、斑の模様をつくる。

 

 確かに美しい花だった。しかも、そうそう見かける花ではない。

 オヅマも村近くに群生していた数株を見ただけだ。それらは薬師の婆によって焼却された後、抜かれた。

 そのとき婆に言われたことを、女の子に話す。

 

「死んだりはしないけど、触ったら全身に鱗みたいなイボが出来て、熱が出るんだよ。下手すりゃ目にまで膜が張ったみたいになって、見えにくくなったりな。しばらくは痛いし、治るまで十日ほどかかる。潰したり、妙な薬で無理矢理治そうとしたら、痘痕(あばた)になったり、肌が青黒くなって残るんだ。とにかく十日間は我慢して放っておきゃ治るが……触らねぇのが一番いいだろ」

 

「………毒草なのね」

 

「あぁ。聞いたことないか? 青鱗草(セイリンソウ)とか、青鱗蘭(セイリンラン)とか。別名で『龍の好物』とか、あと『離ればなれの花』ってのもあったな」

 

「………知らない」

 

 女の子は暗い声でつぶやいた後、しばらく黙り込んでいた。それでも気になることがあるのか、尋ねてくる。 

 

「ねぇ、あの花ってこの辺りでは有名なの?」

 

「珍しい花ではあるけど、危ない花だから地元の人間は知ってるだろ。花が咲かない間は気付かないんだよな。葉っぱだけだから。葉のときは毒がないし」

 

 この花の不思議なのは、花が咲いている間は葉が落ちてしまい、花が枯れると葉が復活する。つまり花と葉が両方あることはないのだ。別名『離ればなれの花』の由来である。

 葉の状態のときには毒性はなく、茎や葉を触っても問題ないが、花を咲かせている間のみ、毒が生成されるらしい。葉のときと花のときで茎の状態も違っていて、花のときには茎に細かな粒状の突起物ができるのだという。毒はその突起物を破ることで肌に湿潤していくのではないか…というのが、薬師の婆の見立てだった。

 

 長く伸びた茎の先にある花は、重たげで折れそうで、いかにも取ってくださいと言わんばかり。女の子が手を伸ばしたのもわからないではない。

 村にいた頃にも近所の子供(チビ)がうっかり取ってしまって発症し、その後に薬師の婆の処置で良くなったが、それでも右肩から顎にかけて、痘痕が残ってしまった。

 

 オヅマはそのときにマリーに注意したことを、女の子にも言って聞かせた。

 

「綺麗に見えるけど、よく知りもしない草やら花やらを簡単にとろうとするな。山の花は動物に食べられないように、苦かったりして毒があるのが多いんだよ」

 

「別にわたくしが欲しかったわけではないわ」

「は? 誰かに頼まれたのか?」

 

 オヅマは何気なく聞いたが、女の子は「うるさい」とつぶやいて押し黙った。

 誰に頼まれたのか知らないが、危ないことだ。

 

「そいつに言っておけよ。あれは毒花で危ないからって」

「…………」

 

 女の子は答えなかった。どうやら毒花を取ってこいと言われたのが相当こたえたらしい。

 言ったのが誰だか知らないが、大人だとすれば、よほどのマヌケか馬鹿でない限り十中八九ワザとだろう。

 オヅマはなんだかザワザワと落ち着かない気分になった。こんな小さい子供に、なんでそんな恐ろしいことをする…? 

 

 橋を渡ったところで、()()らしい騎士達が走り寄ってきた。

 

「お嬢様!」

 

 一番早くに来た金髪の騎士が手を伸ばしてきたが、女の子はなぜかオヅマの肩をしっかり掴み、離れようとしなかった。

 

「オイ、家来だろ?」

 

 オヅマが尋ねると、女の子は小さい声でボソリと言った。

 

「この人は嫌。そっちの…赤毛の男にして」

 

 なんだそれは…と、オヅマは怪訝に思ったが、女の子の声が妙に暗く沈んで聞こえて、言われた通りに斜め前に立っていた赤毛の騎士に背を向けた。赤毛の騎士はすぐに女の子を抱き上げる。

 

「ありがとう、少年」

 

 太い眉を下げて、赤毛の騎士が礼を言う。金髪の騎士の方は、ムッと怒った様子だった。オヅマがわざと自分を邪険にしたと思ったらしい。女の子の声は聞こえなかったのだろうか? しっかりと訓練された騎士であれば、あれくらいの囁き声でも判別できそうなものだが。

 オヅマは気にしないことにした。どうせこの場限りのことだ。

 

「足をくじいたみたいです」

 

 一言だけ報告すると、オヅマはチラリと女の子を見た。

 さっきまでの高慢で尊大な態度はどこへやら…騎士の腕の中でおとなしくしている。

 オヅマの視線に気付くと、ジロリと睨んできた。さっきは美しい瞳にばかり目がいって気付かなかったが、右目の下にホクロが二つ並んでいる。

 

 カサリ、と何かの記憶が動く音がした。

 しかし、結局思い出せない。

 

 オヅマは軽く頭を下げ、踵を返して駆け出した。

 橋を渡ってから、一旦止まって呼吸を整え、ゆっくり歩き出す。だがすぐに背後から呼び止められた。

 

「おい! 待て小僧!」

 

 振り返ると、さっきの金色の髪の騎士が、小袋を持ってこちらに走り寄ってくる。オヅマは眉を寄せた。薄く歪んだ唇と青の瞳にはあからさまな軽蔑。女の子がもう一人の赤毛の騎士を指名した理由がなんとなくわかった。少なくともあちらの方が人は良さそうだ。

 

「なんですか?」

 

 オヅマが尋ねると、金髪の騎士は小袋をオヅマの目の前に突き出した。

 

「お嬢様からの心付けだ」

 

 オヅマはムッと騎士を睨みつけた。

 

「いらねぇよ」

「やせ我慢をせずともよいから、とっとと受け取れ」

 

 騎士は、はなからオヅマが小遣い欲しさに、女の子を助けたと決めつけている。

 

「いらねぇっ()ってんだろ! そっちこそとっとと帰れ!!」

 

 オヅマは怒鳴りつけると、騎士が何か言い返す前に走り去った。

 

 誰がやせ我慢だ! 人を馬鹿にして。

 

 走りながら、水辺近くに咲く青鱗草(せいりんそう)をチラリと見やった。群青色の花弁は美しかったが、その毒性を知っていると、ひどく不気味に思える。あとで焼却処分するようにヴァルナルに言っておかねば。

 

 オヅマは女の子の顔を思い浮かべた。

 光を反射してキラキラと輝く宝石のような瞳。気の強そうな ――― 実際、小生意気な ――― 引き結ばれた口元。ほんのりと紅潮した薔薇色の頬にかかった、けぶるような銀の髪。

 あの高慢な口さえ閉ざしておけば、可憐なる美少女には違いない。もし、あの花を触ってあの美しい顔がイボだらけになるかと思ったら、他人事ながらちょっとゾッとする。

 

 色々と文句はあったが、まぁ、触らせなくて良かった…と、オヅマは自分を納得させて、女の子のことは忘れることにした。

 

 

 

 

 エルムの木へと向かう途中で、探しに来たオリヴェルとマリーに遭遇した。

 

「あぁ…良かった」

 

 オヅマの姿を見つけるなり、安堵して駆け寄ってきたオリヴェルは、少し顔色が悪い。

 

「おい、無理すんな」

「大丈夫だよ」

「どこが大丈夫だよ。ったく、こんな山の中腹で走ったりするから……」

 

 オヅマが怒ったように言うと、マリーがすぐに抗議する。

 

「なによう。お兄ちゃんがいきなりいなくなるのがいけないんじゃない!」

「ちょっと川の方に行ってただけだろ」

「川? 川になんかあった?」

「クッソ生意気な銀狐が一匹……」

 

 オヅマは言いかけて口を噤んだ。

 脳裡で青翠の瞳がオヅマをギロリと厳しく睨んでくる。

 マリーとオリヴェルは意味がわからず首をかしげたが、オヅマはぶんぶんと頭を振って、少女の残像を払った。

 

「もぅいいわ。行きましょ」

 

 マリーがオヅマの手をとる。すかさずオリヴェルに声をかけた。

 

「オリーはそっちの手を握って。お兄ちゃんを()()()()します!」

「連行?!」

 

 オヅマがびっくりしている間に、オリヴェルが笑みを浮かべて、マリーの指示に従った。「さ、みんなで帰るよ」

 

 三人で手を繋いで歩いて行く先、エルムの木の下でヴァルナルとミーナが立っていた。

 

「おとーさーんっ! お兄ちゃん、捕まえたーっ」

 

 マリーはオヅマの手を握るのと反対の手を大きく振った。

 もうすっかり当たり前のように、ヴァルナルに呼びかける。ヴァルナルも手を振って応えていた。ニコニコ笑った顔は心底嬉しそうだ。

 

「良かったね、マリー」

 

 オリヴェルが言うと、マリーは少しだけ恥ずかしそうに、それでも喜びが溢れた笑みを浮かべる。それからオヅマの手を離して、またヴァルナルの元へと走って行った。

 

「マリー、ずっと『お父さん』って呼びたかったんだって」

 

 オリヴェルは、ヴァルナルの腰に抱きつくマリーを見ながら言った。

 

「父上がミーナにプロポーズしたら、すぐに『お父さん』って言おうって……決めてたんだって」

 

 オヅマは楽しげに会話するヴァルナルとマリーを見つめた。もう父娘(おやこ)にしか見えない。

 

「……お前もな」

 

 ややあって、オヅマは言った。「え?」と首を傾げたオリヴェルに目を向ける。

 

()()()じゃなくて()()()だろ。ま、無理する必要ないけど。言いたければ別に俺とかマリーに気兼ねすんなよ。マリーだって、母さんだって喜ぶさ」

 

「うん……そのうちね」

 

 オリヴェルは少しはにかみつつ、オヅマに問いかけた。

 

「オヅマは?」

「うん?」

「オヅマも、喜んでくれる?」

 

 オヅマはふっと笑った。

 

「母さんとマリーが喜んでるのに、俺が嫌がるわけないだろ」

 

 オリヴェルは微妙な面持ちになった。オヅマ自身の気持ちは、いつもマリーとミーナの後だ。ためらいながら、重ねて問うた。

 

「オヅマは? 父上のこと、呼ばないの?」

「……………そのうち」

 

 小さくつぶやいて、オヅマはゆっくりとなだらかな坂道を上っていく。

 

 初夏の花々が咲き乱れる渓谷に、家族の笑い声が響いていた。

 

 




次回は2022.12.25.更新予定です。


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