ヴァルナルとミーナの結婚が当人と家族の間で決まったとしても、貴族と平民の、いわゆる貴賤結婚は通常認められなかった。
そのためヴァルナルはルーカスを通じて適当な貴族家門にミーナの養子縁組を頼んでいた。形式的にでも貴族の養子となれば、それまで針子であろうが傭兵であろうが、一応は貴族として扱われる。
実際には、こうした貴賤結婚は商人などの裕福な平民と、困窮した貴族家との間に取り交わされるのがほとんどだった。平民の妻(もしくは極めて稀であるが夫)を養子とする貴族家への謝礼は平民側が行い、家系図の書換などの煩雑な手続きや儀式に関する費用なども負担した。
そうしたメリットもなしに、貴族が平民と結婚することなど考えられなかった。
一方で、養子縁組の交渉とは別に、グレヴィリウス公爵に婚姻の許可を願い出なければならない。
一定以上の家格を持つ帝国貴族は、基本的にはその結婚において、自分の系統である主家からの婚姻の許可をもらう必要がある。
無論、時に主家よりも隆盛を誇る分家や家臣が無視して、勝手に婚儀を行うこともあるのだが、その場合においても貴族間での根回しは必要だった。
貴族における婚姻はただ一組の男女が一緒になるということではなく、家同士の繋がりであり、当然その縁によって貴族間の勢力図にも変化が生じるのだから、好き勝手していいものではない。
この二つの面倒な手続きは、同時進行で行われた。
というのも、ヴァルナルの結婚は通常考えられる貴賤結婚から逸脱していたので、ミーナを養子とする側の貴族家は謝礼の他に、この婚姻が正当なものであることを重要視したのだ。この場合の正当性の証明は、公爵が結婚を許可する、ということだった。
というわけで、レーゲンブルトでもギョルムの一件などでひと悶着あったが、帝都にある公爵家においてもなかなかに面倒な状況が進行していたのだった。
この婚儀について、主に段取りしていたのは、不承不承に帝都へ向かったカールだった。無論、それを任せたのが兄のルーカスであったのは言うまでもない。
「お前の主の慶事なんだからな。部下が動かないわけにはいかないよな」
「なんで俺だけ…パシリコさんだっているだろうに…」
ぶつくさ文句を言う弟に、ルーカスは意地悪い笑みを浮かべた。
「別にライル卿に頼んでもいいぞ。ヴァルナルの婚儀が三年後でいいというなら」
正直なところ、養子縁組する貴族家への根回しやら、貴族の家系図を所管する貴族省の役人への
謹厳実直なパシリコでは、いちいち領収書を要求しかねない。
カールは嘆息して主の幸せな結婚のために奔走するしかなかった。
しかも腹立たしいことに、その
「フザけんなよ。どういうことだ、これ…」
カールは悶々としながらも、仕事はきっちりやった。嫌味な兄にも文句をつけられぬほど、きっちりと。
その甲斐あって、ようやく公爵からの返事がレーゲンブルトに届いたのは、明けて
『新生の月 廿日
新たなる年の天光射したる都より時候の挨拶と共に申し伝える。
受け取りたる婚姻許可申請については、その旨を了承し、許可する。
追って
別儀については、ベントソン卿からの書信にて了知すべし。
エリアス・クレメント・エンデン・グレヴィリウス』
必要最小限のことだけ書かれた短い手紙であったが、仕事以外においては筆不精の公爵閣下からの手紙は貴重なものだった。それだけで、ヴァルナルには公爵閣下が祝福してくれていることがわかった。
ミーナは穏やかな顔で手紙を読むヴァルナルに、ホッと息をつく。
「どうした?」
ヴァルナルが尋ねると、ミーナは髪留めからハラリと落ちた髪を耳にかけた。
その髪留めは、ヴァルナルが前に送ったあの白陽石の細工物だった。初めてこの髪留めをしてくれたとき、ヴァルナルは褒めちぎったが、今日もやはりよく似合っている。ヴァルナルの頬に笑みが浮かんだ。
「いえ…もしかすると、お許し頂けないかとも思って」
「そんなわけがない。むしろ、勧めて下さっていたくらいなのに。色々と準備することが、新年の行事などと重なって遅くなってはしまったが、これですべて認めてもらえたということだ。公爵閣下の名代はおそらく騎士達の帰還と一緒に来るだろうから、用意しておかないとな」
「どなたが来られるのか、ご存知なのですか?」
「あぁ、当然。最上級のブランデーを用意しておかないとな」
その時、ヴァルナルが思い描いていた名代はもちろんルーカス・ベントソンだった。
去年アールリンデンの公爵邸で、礼品を用意しておけと言われていたぐらいだ。
そのつもりで、わざわざ自ら酒屋に出向いて買いに行ったのだが、果たして現れた
と同時に、公爵閣下に言われたことを思い出したのだった。
――――― 褒美が欲しければ、結果を出せ……
◆
「まだ来ないねぇ~」
ティボが遠く都へと続く道を見ながらつぶやく。
城塞門の物見台、屋上テラスを囲んだ塀の上。
立ち上がって街道を見ているティボの隣でオヅマは寝そべり、ふわふわと浮かぶ雲を見ていた。
昨日までは冷たい風が吹き、今年最初の雪がちらつくほどに寒かったのに、今日になればまた温かさが戻る。
秋と冬の間を行ったり来たりしながら、寒暖の差は徐々に寒さへと傾いていき、北国はやがて雪の季節を迎える。今はまだ、色づく紅葉の隙間に秋が残っているようだ。
「先触れで来たのが
オヅマが訳知り顔に答えると、ティボは「なるほどねッ」と大袈裟に感心してみせる。
「さすが、オヅマ親分だねッ」
「やめろって、それ」
オヅマは恥ずかしくて、渋い顔になる。
オヅマを『親分』と呼んだティボは、ヘヘッとそばかすのあるしし鼻をこすった。
ティボはオヅマのいたラディケ村の粉屋の三男坊だ。今回、黒角馬の研究者達が大勢やってきて、人手の足りなくなった領主館で下男を募集したところ、オヅマがいることを知っていたので応募したらしい。
ちょうど粉屋には三つ子が生まれて、家も手狭になり、いずれ働くならば…と両親に申し出たのだという。
オヅマよりも三歳下のまだ九つという最年少ではあったが、「俺はチビだから狭いところも掃除できますよ。それに大人に比べたら、食べる量だって少ないですよ」と、自分で自分をうまく売り込んで、まんまと領主館での下男の職を手に入れた。
連日、面接でスレた大人ばかりを相手にしていたネストリの気まぐれというか、疲れが癒やしを求めたのかもしれない。
オヅマと違って、ティボは取り入ることに長けていたので、ネストリは意外にもティボをかわいがっていた。
「……お前、俺と一緒に来たのはいいけど、お使いは? 行かなくていいのか? ネストリに頼まれてるんだろ?」
「そうだねぇ。この調子じゃまだまだ来そうにないし、ちょっくらひとっ走りしてくるねッ」
「おぅ」
ティボはぴょんと塀の上からテラス側へと飛び降りた。
「
「あーいッ」
のどかで陽気な声が響く。
オヅマは思わず笑ってしまった。
ティボは仕事の覚えも早く、抜け目ない性格なのもあるが、何よりあの底抜けの明るさが好かれるのだろう。同じ下男として働いていたオヅマとは違い、誰からも可愛がられている。
そろそろ見納めであろう蝶が飛んできて、オヅマの周りをふわふわ巡る。
ぼんやり見ていると、遠くからドドドと響く音が聞こえてきた。
オヅマは起きて立ち上がった。
街道の先、土埃の中、うっすらと見えていた集団がだんだんと色濃くなって近付いてくる。
オヅマの顔がパッと輝いた。
ようやく帰ってきたのだ。懐かしい騎士達が。
オヅマはティボと同じように塀の上から飛び降りると、物見台の中の螺旋階段を二段飛ばしで降りていく。
門の前で待っていると、先頭で近付いてくるカールと目があった。
「おぉーいぃッ!」
オヅマが手を振ると、カールはオヅマの前まで馬を進めてきて止まった。
「元気そうだな、オヅマ。また背が伸びたか」
「そう? わかんないけど」
オヅマが首をかしげて答えていると、カールの背後で四頭立ての馬車が止まった。
派手ではないが、大きな箱型
黒く磨き上げられた躯体。辻馬車などに比べて大きく、鉄で補強された車輪。
馭者席横のランプは、銀色の金属で作られたスズランが明かりを灯す造形となっている。天蓋の正面中央には、真鍮で作られたグレヴィリウス公爵家の紋章が取り付けられていた。
「なに? 馬車…誰か乗ってんの?」
オヅマが訝しげに尋ねると、カールは口端に笑みを浮かべて言った。
「公爵家からの使者だ」
「えっ?」
オヅマは何か悪いことでも起こったのかと身構えたが、その時、いきなり大声で呼ばれた。
「オヅマ!」
「へっ?」
思わず間の抜けた声が出る。キョトンとしたまま、声のした方へと向くと、馬車の扉がやや乱暴に開いた。
「お待ち下さい! 飛び降りるのは危険です!! タラップをつけてから…!」
馬車から必死で制止する男の声が聞こえてきた。
「大丈夫だよ、これくらい!」
懐かしい少年の声にオヅマはあわてて駆け出した。
豪奢な設えの
「待っ……」
オヅマが止める前に、アドリアンは扉口から飛び降りていた。
間一髪でオヅマは受け止める。
衝撃で足がビリビリするのを、歯を食いしばって耐えた。
痛みが過ぎてから、アドリアンをそろそろと地面に下ろして、オヅマは怒鳴りつけた。
「こンの馬鹿がッ! 下手すりゃ足の骨折るぞッ!!」
響き渡った怒声に、周囲は静まり返った。
まだ車室に残っていたアドリアンの従僕のサビエルはあんぐりと口を開けたまま言葉を失い、オヅマの背後にまで来ていたカールは天を仰いで眉間を押さえる。
ゾダルやヘンリク、アルベルトなどのオヅマも知ったレーゲンブルト騎士団の面々は静かな溜息をつき、見慣れぬ公爵家騎士団の数人は唖然となって硬直していた。
「………このくらい、どうってことないよ」
アドリアンは口を尖らせて言う。
オヅマはピシッ、とアドリアンのおでこを指で弾いた。
「油断大敵! ここいらはちょっと傾斜があるんだ。それにお前、ずっとコレ乗ってたんだろ? いきなりこんな高さから飛び降りたら、折れなくたって、捻挫するぞ。気をつけろ」
アドリアンは額をさすりながら、オヅマの相変わらずの世話焼きぶりに、フッと顔が緩んだ。
「相変わらずだなぁ、オヅマ」
「あぁ? なんでだよ。カールさんだって、背がだいぶ伸びたって…」
言いかけてオヅマはアドリアンの目に浮かぶ涙に、またキョトンとなる。
「なに泣いてんだ? お前」
「うん……」
アドリアンは指でこぼれそうな涙を拭ってから、笑った。
「……元気になってよかった」
オヅマの意識が戻らないままアールリンデンの公爵邸に戻り、そこから十ヶ月が過ぎていた。
その後にオヅマが元気になったということを人伝に聞いても、アドリアンの中ではまだ、オヅマは白い顔で昏々と眠っていた。実際に会うまで、ずっと心配だったのだ。
「あ……うん」
オヅマは少しきまりが悪かった。
ミーナからアドリアンが非常に親身になって介抱してくれていたという話を聞いていたので、申し訳ない気持ちもある。といって、今更ありがとう…とお礼を言うのも随分と時が経ってしまった気がして、なんとも言葉に表しにくかった。
ポリポリ頭を掻いてから、オヅマは何気なくアドリアンを見て眉を寄せた。少し離れて、頭から足までまじまじと眺める。
「………お前、なにその格好? えらくめかしこんで」
濃紺の生地に少しくすんだ金糸で、シダ状の植物の刺繍がされたジレと、同様の柄の膝丈まである
濃紺の絹糸で編まれた
右肩にだけかかったマントは、ゆるやかに風の中ではためいている。
「え…ああ……うん」
アドリアンは少し気まずい様子になってもじもじする。
オヅマはさっきカールから言われたことを思い出した。
「あ! もしかして、お前が使者なの? カールさんが言ってた」
「あ、うん…」
「なぁんだ。そっか。それでそんな
途端に背後のサビエルがブフッと吹いた。
オヅマが怪訝に見上げると、さっと頭を下げる。「失礼致しました」
「誰、コイツ?」
オヅマは指さしてアドリアンに尋ねる。
「………従僕だよ」
「従僕? あぁ……お前の同僚か」
アドリアンは答えず、曖昧に笑って、オヅマの腕を掴んだ。
「さぁ、領主館に向かおう! マリーやオリヴェルにも会わないと!」
アドリアンはやや強引にオヅマを引っ張って、門の中へ向かって歩き出した。
次回は2023.01.01.更新予定です。