「オヅマ、領主様がお呼びだ」
三日寝込んだ後、快癒したオヅマに声をかけてきたのは騎士団の副官であり、アルベルトの兄でもあるカールだった。
オヅマにとっては剣術の師匠で、最近では親しくなって軽口も叩ける間柄だったが、その顔はいつになく暗く少し怖かった。
オヅマは直感した。
ずっと保留になっていたオリヴェルの部屋に忍び込んでいた件について、とうとう裁かれる日が来たのだ。
マリーはカールの顔を見た途端に、嫌な予感がしたのか、オヅマの腰に抱きついてくる。
「大丈夫だ」
オヅマはマリーの頭を撫でて笑ってみせた。
内心で、これからどうするかを素早く決める。
とにかくマリーと母だけはここで面倒を見てもらえるように、なんとしても頼みこまねば。
幸い、オリヴェルが母になついているらしい…とアルベルトから聞いていた。
オリヴェルの世話係として、母を置いてもらえる可能性はある。
自分はここから出されても文句は言えない。自分だけなら、どうにでもなる。
マリーはおそらくオヅマの決意を感じ取ったに違いなかった。より強く抱きついてくる。
「マリー、待たせたら怒られるよ。な? 掃除、お兄ちゃんの分もやっておいてくれるか?」
オヅマは箒をマリーに持たせた。
さっきまで久しぶりに小屋の掃除をしていたのだ。
「絶対に、戻ってきてよ!」
「………」
オヅマはこういう時、自分の妙に正直な性格を恨んだ。
絶対、と言われると頷くことができない。
あるいはもしかしたら激昂したヴァルナルが、騎士達に命じてオヅマを領主館から叩き出すことだって、ないこともない。
一瞬、想像してから首を振った。
いや、ヴァルナルは寛容な人間だ。せめて家族との別れぐらいはさせてくれるはずだ。
オヅマは微笑んでマリーに手を振ると、カールの後についていった。
◆
ヴァルナルの執務室に入ると、正面の大きな執務机を挟んでヴァルナルが座り、その背後にはパシリコが控え、机の手前にはネストリが姿勢正しく屹立して、入ってきたオヅマを横目で睨みつけていた。
「さて…何か言うことはあるか? オヅマ」
ヴァルナルは自分が呼びつけたが、その理由をオヅマに尋ねた。
すぐにオヅマは平伏した。
「申し訳ありません! 若君と会っていました!」
素直に告白すると、ネストリは前と同じように勝ち誇ったように叫んだ。
「私の言った通りでしょう!」
ズイとオヅマの前に進み出て、これみよがしに大仰な身振りでヴァルナルに訴える。
「誰の紹介もなく、卑しい親子などを簡単に雇うから…若君のお部屋に忍びこんだだけでなく、恐ろしい病気まで持ち込んで!」
ヴァルナルはしばらく黙ってオヅマを見つめていた。
「……オヅマ。オリヴェルとはいつ頃から仲良くなったのだ?」
ヴァルナルの問いかけにオヅマが答えるよりも早く、ネストリが裏返った声で遮る。
「領主様! そのようなこと、どうでもよろしいでしょう!!」
ヴァルナルは軽く息をついて、ネストリをたしなめた。
「必要があるから問うている。しばし口を閉じよ、ネストリ。――――で、どうなのだ? オヅマ」
「えっと…領主館に来てから一ヶ月くらいしてからだから…雪解け月の終わりくらい」
「む。かれこれ一月弱といったところか。マリーもか?」
「はい。でも、あの…皆に…大人には内緒にしようって言ったのは俺なんです。だから、マリーもオリヴェルも……若君も悪くないんです」
「なるほど。三人の中では一番の年長であるお前の責任は重いな」
「はい、そうです。だから二人は悪くありません。俺の言う通りにしただけです」
ヴァルナルは椅子の背にもたれかけて、愉しげな表情を浮かべる。
だが、平伏したオヅマには見えず、沈黙がただただ重い。
「
それはヴァルナルの単純な興味だったのだが、オヅマは質問の意図が読めずに困惑した。
「えっと…なんか
「騎士団の話? オリヴェルがそんなものを聞いて喜ぶとも思えないが…」
ヴァルナルが意外そうに言うと、オヅマは思わず顔を上げた。
「そんなことないです! オリヴェルはいつも聞きたがってました。領主様の戦った時の話とかしたら、すごく興奮して、誇らしげでした」
「………」
ヴァルナルはなんとも言えず、オヅマを静かに見つめる。
「お前がどうして領主様の戦っている時のことを知っているんだ?」
問うたのはカールだった。
オヅマの目が泳ぐ。
カールはフンと鼻をならすと、腕を組む。
「大方、ゴアンかサロモンあたりに吹き込まれたな。アイツらのことだから、それ以外のつまらん与太話も話しているんだろう…」
オヅマはとりあえず黙って、再び頭を下げる。
ここで余計なことは言うべきではない。下手すればゴアンとサロモンが鉄拳制裁を受けるかもしれない。
「オリヴェルがな…そうか…」
ヴァルナルは独り
しゃがみこむと、オヅマの肩に手を置く。
「顔を上げなさい、オヅマ。どうやら息子と仲良くしてもらって、礼を言わねばならないようだ」
オヅマは戸惑ったように顔を上げたが、すぐに俯いてつぶやくように言った。
「でも…今は喧嘩して…まだ仲直りしてないし…」
「そう言えば、そんなことを言っていたな。あの息子が喧嘩とは…」
ヴァルナルにはいつも気弱そうに、白い顔をしてうつむきがちのオリヴェルの姿しか思い浮かばなかった。まさかオヅマと喧嘩ができるほど、元気になっていたとは。
「仲直りをする気はあるのだな」
ヴァルナルは朗らかな笑みを浮かべて立ち上がると、厳かに裁定を下した。
「息子と会ったことについては不問にする。但し、これまでと同じく息子に友情を持って接すること。いいな、オヅマ」
オヅマは信じられないようにヴァルナルを見つめた。
穏やかな表情のヴァルナルに泣きそうになる。
「はい!」
ありったけの大声で返事する。
ほぼ同時にネストリが引き攣った顔で、わななきながらヴァルナルに進言した。
「領主様…それでは下の者に示しがつきません! この者は決して若君に会ってはならぬという
そこまで言った時に、バタンとドアが開いた。
その場にいた人間全員がドアの方を見れば、オリヴェルとマリーが顔をしわくちゃにして大泣きしている。
「ぼっ、僕が…っ…僕が悪いんだっ! マリーもオヅマも悪くない!!」
オリヴェルが泣きながら、必死に訴える。
横のマリーも必死に言葉を紡ごうとしていたが、しゃっくり返って言葉にならないようだった。
全員が唖然となって、しばらく執務室には子供の派手な泣き声だけが響いた。
◆
ここで話をマリーに戻そう。
泣きそうになりながらオヅマに手を振って別れたマリーは、しばらく一人しょんぼりと箒を動かしていたが、急に腹を決めた。
箒を放り出し、小屋から飛び出す。
通い慣れたミモザの木まで来るのは簡単だった。まだ、
マリーは祈った。
オリヴェルに会えますように。そうしてどうにか会話できますように、と。
ミモザの木をするすると登って、バルコニーに辿り着く。
いつも閉じられていたカーテンは、オリヴェルの指示なのか、すべて開かれていた。
窓越しにベッドに座って本を読むオリヴェルが見えた。
マリーは嬉しいのと、今の状況の危うさに、うるうると涙目になった。
しばらくその場に佇んでいると、うーんと背伸びしたオリヴェルが、マリーに気付いた。
「マリー!」
オリヴェルはすぐさま起き上がり、バルコニーの窓を開けて駆け寄ってくる。
その部屋にいた女中のゾーラがあわてて出てきて、オリヴェルにガウンを着せながら、マリーを睨みつけた。
「まぁ! ネストリさんが言った通りじゃないの! どこから入ってきたの? 若君には会っちゃ駄目って言われていたでしょう、マリー!」
オリヴェルはポロポロと涙を流すマリーの肩をそっと抱いてから、キッとゾーラを睨みつけた。
「黙れ! それ以上、マリーを責めるなら、お前なんてここから追い出してやる!」
「わ…若君…」
ゾーラは青くなって後ずさる。
オリヴェルは冷たい顔のまま、部屋の中にマリーを連れて入った。
とりあえずマリーの涙を袖口で軽く拭ってから、オリヴェルはマリーをベッドに座らせた。
隣に座ると、オリヴェルは突然、頭を下げた。
「ごめん、マリー」
マリーはびっくりして、目をしばたかせる。
「どうして? どうしてオリヴェルがあやまるの?」
「
「そんなの、全然大丈夫よ。今だってお母さんはこっちの温かい部屋で休ませてもらってる、って聞いてるわ。小屋に戻ってきていたら、私もお兄ちゃんも病気になっちゃってたから、お母さん、またずっと看病しなきゃならなかったろうし…」
何気なくマリーは話したが、オリヴェルは愕然とした。
「なんだって? マリー…君も、オヅマも病気になってたの?」
「うん」
「なんてことだ!」
オリヴェルは立ち上がって叫ぶと、隅で小さくなっていたゾーラにつかつかと歩み寄る。
「……どうして僕に言わないんだ?」
「そ…それは…その、女中頭様からの命令で……」
「すぐに呼んでこい!」
オリヴェルの迫力に
すぐにゾーラと共に現れたアントンソン夫人は、ベッドの傍らで所在なげに立っているマリーに気付くと、眉を寄せたが、それよりも部屋の中央で仁王立ちしたオリヴェルの剣幕に内心、驚いた。
それでも表情には出さず、いつものごとく折り目正しくお辞儀する。
「何か、御用とうかがいましたが…」
「マリーとオヅマも熱を出していたらしいじゃないか」
「……そのようで御座います。ですが、もう既に…」
「そういうことじゃない! ミーナに僕の看病をさせるよりも、彼らが優先されるべきだろう! ミーナはマリーのお母さんなんだぞ!」
「お言葉でございますが…」
アントンソン夫人は鹿爪らしい顔で、静かに述べた。
「お坊ちゃまの看護をするように…との命をご領主様が下したのでございます。この館で働く人間であれば、逆らえるはずもございませぬ」
「だったら、ミーナはマリーが病気になったことを知っていたのか!?」
「………」
「ミーナに知らせてもいないんだろう、お前達は!」
「……心置きなく坊ちゃまのお世話ができるように、との執事の配慮でございます」
「黙れ! この…」
オリヴェルは拳を握りしめながら、もどかしかった。
こういう時、オヅマは何と言っていたろう?
よくネストリのことを話していたら言っていた…あの、なんとか野郎…とか言う言葉。なにか汚いもののような……汚物野郎? いや、そんな言い方ではなかった……。
育ちのいいオリヴェルには縁のない言葉だったので、出なかったのも無理はない。
マリーは激昂したオリヴェルにしばらくびっくりしていた。
しかし急に黙り込んで考え込んでいる様子を見ている間に、ハッとここに来た目的を思い出す。
「オリヴェル!」
マリーは走ってオリヴェルの腕を掴んだ。
「大変なの! お兄ちゃんが領主様に呼ばれて行っちゃったの」
「なんだって?」
「お兄ちゃん…きっと怒られるんだわ。私達、もうここにいられない」
マリーは言っている間に涙がまたポロポロとこぼれた。
「冗談じゃない!」
オリヴェルは吐き捨てるように言うと、ドアに向かって歩き出す。
アントンソン夫人があわてて立ち塞がった。
「お待ち下さい! 若君! どこに向かわれるのです!?」
「父上のところだ!」
「今はご領主様のご判断にお任せくださいませ!」
「黙れ! そこをどけ!」
叫んでもドアの前から動かないアントンソン夫人に、オリヴェルは殴ろうかと手を振り上げたが、その手をマリーが掴む。
「叩いちゃ駄目! 痛いんだよ!!」
泣きながらマリーに言われて、オリヴェルは息を呑む。
いつだったか…オヅマが話してくれたことがある。
マリーとオヅマの父親は飲んだくれのロクデナシで、マリーはその父に殴られていたのだ、と。
ギリと唇を噛み締めてから、オリヴェルは手を下ろして、アントンソン夫人を冷たく見つめた。
「息子が父に会うのを邪魔するなら、お前がここにいる権利はない」
「………若君」
「二度は言わない。今まで黙っていたけど、その
アントンソン夫人はその静かな剣幕にたじろいだ。
ただの病弱で癇癪持ちの子供だと、内心で軽蔑していたことを見透かされたのかと、途端に不安になる。
ドアの前からアントンソン夫人が立ち退くと、オリヴェルはマリーの手を握って廊下へと出た。
◆
久しぶりだった。この廊下を歩くのは。
オリヴェルは左手でマリーの手をしっかり握り、動悸する心臓に右手を当てながら、窓からの光が所々に落ちた薄暗い廊下を、しっかりした足取りで歩いていた。
実のところ、もっと幼い頃は何度か部屋から出て、館内をうろつき回っていたのだ。ただ、たいがい途中で迷ったりしている内に、疲れて座り込む羽目になり、そうなるといつも召使いに抱っこされて部屋に戻された。
その度に叱られた。
だから大きくなるに従って、だんだんと出歩くことはなくなっていった。
一年半ほど前。
オリヴェルはその夜、懐かしい人の出てくる夢を見て目を覚ました。
起きた時にそれが夢だとわかると、自然と涙がこぼれた。
夢の中に久しぶりに現れたのは、赤ん坊の頃からオリヴェルの世話を見てくれた女性だったが、彼女はオリヴェルが5歳の時に、ひどい言葉を吐いて出て行ってしまっていた。
真夜中の一人ぼっちの部屋は、ひどく寂しい。
さっきまで見ていた夢が幸せだった分、起きた時の喪失感は深かった。
不意に人恋しくなって、オリヴェルは部屋からしばらくぶりに出た。
誰か……を求めながら、オリヴェルが探していたのは父だった。
オリヴェルが物心つく頃には長引く戦でおらず、領主として帰ってくるようになっても一年の半分は不在の父。
当然、親子関係は稀薄なものになっていたが、オリヴェルは時折父が自分の寝ている時に会いに来ているのを知っていた。
以前に何度も父が不在の時に来ていた執務室は、夜遅い時間にもかかわらず灯りが漏れていた。
まだ、父が仕事をしているのだろう。
オリヴェルは扉の前で逡巡《しゅんじゅん》した。
ノックをしようか、それともそっと開けて、父の姿だけ覗いてみようか…。
オリヴェルは静かにしていたつもりだったが、騎士の中でも高位の能力を持つ父は、扉向こうの気配を感じたのだろう。
いきなり扉が開き、暗がりに現れた威圧的な男の姿に、オリヴェルは腰を抜かした。
「ヒッ…!」
驚愕と恐怖が同時に襲ってきて、キュウゥと引き絞られる心臓の痛みに胸を掴む。
「う……あ……」
一気に気持ちが萎えて、視界が暗くなり、オリヴェルは倒れ込んだ。
父は気を失ったオリヴェルを部屋まで運んで、寝台に寝かせてくれたようだ。
「……父上…っ」
父が立ち去りかける寸前に、目を覚ましたオリヴェルはあわてて呼びかけたが、父は振り向きもせず冷たく言った。
「……部屋にいなさい」
「…………はい」
ごめんなさい、と小さくつぶやいた声を父は聞いただろうか。
言い終わると同時に扉はパタリと閉まった。
以来、オリヴェルは部屋から一歩も出なくなった。
父に会いたいという気持ちもなくなった。……いや、封印した。
けれど、今はなんとしても父に会わなければならない。
会って、オヅマもマリーも自分の我儘に付き合ってくれただけなんだと…ちゃんと言わなければ!
オリヴェルが武者震いすると、マリーがギュッと握っていた手に力をこめる。
心配そうなマリーに、オリヴェルはニコリと笑った。
「大丈夫!」
オリヴェルは少しだけ足を早めた。
自分のためだけじゃない。マリーのため、オヅマのためだと思うと、不思議なくらい力が満ちてくる。
―――――わかった…
どうしても一緒に遊びたいのだと駄々をこねたマリーとオリヴェルに、オヅマは根負けしたように言って笑った。
優しい、温かな眼差しに、オリヴェルは初めて胸がじんわり熱くなった。
オヅマは―――…。
領主の息子であるオリヴェルにもぞんざいな口調で、でも決して病弱なオリヴェルを見下したりはしなかった。
最初から無理だと諦めさせる周囲の大人とは違う。
―――――そうやって不幸
辛辣な言葉。
あんなに怒ってしまったのは、それが本当だったからだ。
オヅマはオリヴェルの卑屈な心を正確に見抜いていた。
―――――友達が『生きてても仕方ない』なんて言ってるのを聞いて、いい気分になるもんか!
叱られながらも、本当は嬉しかった。
初めてできた『友達』。
一方的に自分だけがそう思っているんじゃない。オヅマもオリヴェルのことを友達だと思ってくれている…
オリヴェルは感じたことのない胸の痛みに涙が出てきた。
ぽろりと一筋頬を落ちると、とめどなく溢れ出す。
嫌だ、嫌だ!
絶対にマリーもオヅマも館から追い出すなんてことはさせない。
もし、彼らを追い出すというなら、僕も出て行ってやる!
ようやくたどり着いた執務室のドアを開けると、オリヴェルは叫んだ。
「…僕が悪いんだっ! マリーもオヅマも悪くない!!」
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