昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第二部 第一章
第百十四話 公爵邸への長い道


 ガタン、と大きく揺れて馬車は止まった。

 中に座っていたキャレ・オルグレンは、そっと窓のカーテンを開いた。オリーブグリーンの瞳が落ち着きなく外の様子を窺う。

 

 鹿のレリーフがされた美しい白の門柱と、磨き上げられた鍛鉄(ロートアイアン)の門が見えた。

 

 落ち着かない手が知らず知らず、パサついた硬い赤髪を掴む。

 

 馭者がキャレのことを伝えると、門番は馬車の側面に取り付けられていたオルグレン家の紋章を確認し、馭者に二三、質問する。

 その答えを聞くと、おもむろに、大音声で呼ばわった。

 

「オルグレン男爵家、入場也ィ」

 

 門が声に合わせてゆっくりと開く。同時に門番小屋から白い鳩が飛び立った。おそらく公爵邸へ客の来訪を(しら)せる鳩だろう。

 馬車がふたたび走り始める。

 門のあたりは石畳の敷き詰められた開けた場所になっていたが、すぐにくねった並木道に入った。冬枯れのメタセコイアが、高く、わびしく、陰鬱な空に伸びている。

 

 とうとう、入ってしまった ―――――

 

 キャレは唇を噛みしめると、腹を押さえた。

 キリキリ痛む。

 いずれ来る、やがて来ると思っていた日はあっという間にやって来て、キャレを逃さなかった。

 これから先のことを考えるだけで、背中に冷や汗が伝う。

 

 

***

 

 

 キャレが兄であるセオドア・オルグレンから、公爵嗣子であるアドリアン・グレヴィリウス小公爵の近侍(きんじ)になるよう()()されたのは、一月(ひとつき)ほど前のことだった。

 

「小公爵と同じ年頃の近侍を…とのことでな。残念ながら我ら()()()適当な年頃の男児はいない。仕方なく、貴様に白羽の矢が立ったというわけだ」

 

 その声音も、言葉も、彼がキャレのことを兄弟として認めていないことは明らかだった。

 セオドアはキャレよりも十歳年上の二十一歳。

 つややかなルビー色の髪はキャレと同じであったが、水色の瞳はいつも冷たい。深く刻まれた神経質そうな眉間の皺は額まで伸び、実年齢よりも十歳は老けて見えた。

 キャレにとっては幼い頃から頭を下げることが当然の存在で、単純に兄と慕うことは許されなかった。

 

 父であるファルミナ領主セバスティアン・オルグレン男爵には一番目の妻と、その後に迎えた二番目の妻との間に二人の息子と二人の娘がいたが、彼らとキャレは同等ではない。

 キャレの母はオルグレン家の下女で、たまたま酔った領主が気まぐれで手を出したに過ぎず、懐妊するなど想定外であったのだ。たとえ領主様の子供であったとしても、庶子などはまともに扱ってもらえるはずもない。

 

「で、でも…僕…」

 

 久しぶりに兄がこのみすぼらしい離れを訪れることだけでも、キャレ達にとっては驚くべきことで、その上、いきなりそんな話をされても困惑するしかなかった。

 何を言うべきなのかキャレが言葉を探していると、兄はまるでキャレの返事など最初から聞く気もないとばかりに立ち上がった。

 

「ま、あの小公爵であれば、貴様のような庶子風情がちょうど似合いというものだ」

 

 堂々と、目上であるはずの小公爵に対して無礼なことを言う兄に、キャレはビクビクしつつも注意した。

 

「そ、そんな…グレヴィリウスの小公爵様に、失礼なのでは…?」

 

 兄はジロリとキャレを見ると、一歩近寄って、キャレの真っ赤な髪を鷲掴みにした。

 

「誰に、何を、言っている? 私に諫言だと? んん? 貴様が? この私に?」

「す…みませ…」

 

 最後まで謝ることすら許してもらえなかった。

 兄は苛立たしげにキャレの髪を掴んだまま、椅子から引きずり下ろし、壁に向かってキャレを投げつける。

 容赦ない暴力にキャレはうぅ…と呻いて、床に転がった。

 兄は指の間に残ったキャレの千切れた真っ赤な髪を、陰鬱な目で見つめた。

 

「…フン、忌々しい。下賤の血を引きながら、オルグレンの証を受け継ぐとは…」

 

 フッと吹いて指の間の髪を散らし、再び扉へと向かう。

 ドアノブに手をかけたところで、クルリと振り返って唇を歪めた。

 

()()()()行っても構わないぞ。せいぜい四、五年ほどのことであろうからな。だが、()()オルグレン家の名を(けが)すような真似はするな」

 

 

***

 

 

 キャレはあの時の兄の顔を思い出し、キュッと身を縮めた。

 兄は()()()()()()言ったのだ。『どちらでも』と。

 そう言えば、キャレ達がどういう選択をするのかをわかった上で。

 

 普通に考えれば、男爵家の庶子風情がグレヴィリウス大公爵様の跡継ぎである小公爵様に仕える…というだけでも不敬かもしれぬのに、その上でキャレの選択は無礼極まりない。

 バレれば即座に処断され、下手をすれば首が飛ぶかもしれない。

 

 にもかかわらず、兄は余裕綽々としていた。

 まるで小公爵様の不興をかっても構わない、とでも思っているかのようだった。

 だとすれば、兄にとってキャレは捨て駒同然だ。

 今は一応、小公爵の側にキャレを置いておく必要があるが、いざ何かあれば切り捨てる気だろう。

 兄の冷酷な水色の瞳を思い出し、キャレの胃がまたキリリと痛んだ。

 

 自分の先に続く道が、どんどん地獄に続いているように思える。

 それにしても長い。

 曲がりくねった道の先に、まだ公爵邸は見えない。

 気付けばメタセコイアの並木道は終わり、今度は糸杉の連なる並木となっていた。背の高い、太い幹の糸杉は百年をゆうに越しているように見える。何十本もの木々が百年ちかく、無事に成長してきたということが、グレヴィリウスという家の強固な歴史を表しているような気がする。

 

 キャレはブルリと震えた。

 この先、自分は戦場に赴くのだ。

 決して本心を出してはならず、決して()()()()()()()()()()

 

 キャレが覚悟した後も、糸杉の並木道はまだ続く。

 門に入ってから延々と続く道に、もしかすると公爵邸とは別の場所に向かっているのではないのか…と、疑い始めたとき、ようやく並木道が切れて、いきなり光が窓から差し込んできた。

 

「あぁ、やっと着いた~」

 

 安堵する馭者の声が聞こえてきた。彼もやはり長いと思っていたのだろう。

 

 ふたたび窓から覗いてみると、そこには有り得ないほど広大な庭園が広がっていた。

 きれいに刈り込まれたシュラブ、規則正しく植えられたモクレンやコブシの木。所々に雪の残る広大な一面の芝生と、同じくらい大きな池。やや急な勾配を降りて整備された道に沿ってゆけば、池から引かれた小さな人工の川の先に、噴水があった。馬車はその巨大な噴水の周囲に沿って進んでゆく。

 いくつかの馬車が、噴水正面の巨大な建物の前に停まっていた。

 

 ここがグレヴィリウス公爵家の本領邸。

 しかし小さな窓から見える程度であっても、そこは邸宅というより、もはや城だった。

 さすがにパルスナ帝国がまだ小さな王国であった頃から、功臣を輩出してきた家柄であれば、ここまで宏壮で雄大な居城を持つに至るのだろう。

 

 馬車が止まる。

 キャレはここで降りるのかと腰を浮かしかけたが、外から馭者と話している大声が聞こえた。

 

「案内するから、ついてきてくれ」

 

 公爵家の使用人だろうか? ずいぶんと若い声だ。

 

「ここじゃないのか?」

 

 遠くファルミナからキャレ一人のために長旅をしてきた馭者は、うんざりしたように返す。

 

「ここで降りてもいいけど、小公爵様の別館までまた歩かないといけないんだよ。これがまた長いんだ。それにアンタだって、ここだと用が済んだら、とっとと出てけと追い出されちまうぜ。あっちだったら、とりあえずホットワインにビスキュイぐらいは用意してある」

 

 くだけた口調だったが、寒い中、ずっと外で手綱を握っていた馭者をいたわってくれているのは伝わってきた。

 声の主に興味がわいて、キャレは窓から覗き見たが、亜麻色の後頭部が見えただけだった。馬に乗っているらしい。キャレとそう変わらない年の少年のようだ。

 

「オホッ、ありがてぇ。じゃ、そっちに行くとしよう」

 

 馭者はあっさりワインにつられて、再び馬に鞭を当てる。

 先導する少年のあとに続いて、また馬車は動き出した。

 反動で再び椅子にドシンと座る羽目になってから、キャレはため息をついた。

 

 公爵邸の門をくぐってから、何度も覚悟して疲れてきた。

 こうなると、もう早くたどり着いてほしい。……

 

「………長い」

 

 キャレはムッスリとつぶやいた。

 

 

***

 

 小公爵の住居であるアールリンデン公爵本邸の西館に着いた頃には、キャレは緊張が続きすぎて、ぐったりしていた。

 それでも本番はここからなのだ。気を奮い立たせて、停車した馬車からゆっくり降りる。

 

 西館の玄関前庭園はさすがに先程通り過ぎた正面玄関ほど壮麗なものではなかったが、それでもファルミナの領主屋敷の玄関前よりも広く、きれいに整備されていた。

 中央の噴水には羽のある少女像が水甕(みずがめ)を持って、そこから水が放物線を描いて落ちている。その周囲を囲む冬枯れの芝生は、ほんのりと雪に覆われていた。

 正面玄関から続いてきた石畳の道は、この噴水周りをぐるりと囲んで、一つは西館脇の道へと細く伸び、一つは来た道に戻るように作られている。脇への道はおそらく厩舎にでも繋がっているのだろう。

 

 館の周囲には一定間隔で配された七竈(ナナカマド)の木が、赤い実をつけていた。

 この木は小公爵の住まいである西館を象徴する木で、そのために西館は別名を七竈(ナナカマド)の館、引いては小公爵自身を示す隠喩としても使われる。…というのは、キャレがファルミナにいた頃に、唯一親しく話すことができた騎士のおじさんから聞いた話だ。

 

 庭園の隅に並んだ花壇は、まだ春と呼ぶには早い季節であるせいか、何も植わっていない。淡いベージュ色の煉瓦が積まれて作られた花壇の中央部分にはタイルが嵌め込まれており、そこにはスズランの絵が描かれていた。おそらく春になれば、この花壇にはグレヴィリウス家の象徴であるスズランの花が並び咲くに違いない。

 

 そんなことをキャレがボンヤリ考えている間に、乗ってきた馬車は西館脇へと続く石畳の道を去って行ってしまった。

 一人取り残されたキャレは途方に暮れる。困惑と怯えを浮かべたオリーブグリーンの瞳が、キョロキョロと辺りを見回す。

 

「ようこそ、アールリンデンへ」

 

 いきなり呼びかけられてキャレはビクリと震えた。

 本来、歓待を示すその言葉に身構えてしまったのは、そこに人を見下すかのような横柄さが滲んでいたからだろう。すぐさまキャレの脳裏に長兄の姿が浮かび、声の主を見る顔が強張る。

 

 見上げた先、幾何学模様の彫刻がされた玄関扉の前に立っていたのは、金髪を後ろにきれいに撫でつけた、いかにも近侍らしい身なりのきちんとした少年だった。

 細いターコイズブルーの瞳が鋭くキャレを見て、素早く品定めする。

 

 キャレは一気に気まずくなって、身をすぼめた。

 その様子に少年はフンと明らかに見下した笑みを浮かべる。この時点でキャレは少年よりも下の地位になってしまったようだ。

 

「失礼だが、まずは貴君の名前を伺おうか」

 

 自分の名乗りをせずに、相手の名を問う時点で、それは決定的だった。

 キャレは憂いた顔で、ボソボソと名乗った。

 

「キャレ・オルグレンです」

「………どこのオルグレンだと?」

 

 少年は眉を寄せて、馬鹿にしたように尋ねてくる。

 そんなこと、本当は言わなくてもわかっているだろうに。

 オルグレン男爵家からキャレが小公爵様付きの近侍として行くことは、既に連絡がきているだろうし、こうして来るのがわかっているから待ち構えていたに違いないのだから。

 それでも格式を重んじる貴族であれば、名乗りすらまともに出来ぬことは恥とされる。

 

「ファルミナ領主、セバスティアン・マレク・オルグレンの息子であるキャレ・オルグレンです」

「………で?」

 

 少年は厭味ったらしく問いかけてくる。キャレが困惑して黙り込むと、大仰にため息をついて肩をすくめた。

 

「やれやれ、さすがに庶子というだけあって、まともな教育も受けていないのだな」

 

 キャレはカッと赤くなった。やはり、そのことも伝えられていたのか…と深く恥じ入る。

 しかし庶子とわかっているのに受け入れてくれるとは、公爵家はずいぶんと寛大だ。それともやはり兄の態度からしてもそうであるように、小公爵様は家臣らから相当に侮られているのだろうか。

 

 どうやら自分はあまり将来に期待が持てない人に仕えることになったらしい…と、キャレが暗澹とした気分でいると、溌剌と張りのある声が響いた。

 

「なんだよ、まだそこにいたのか、お前ら」

 

 振り向けば、亜麻色の髪の少年が建物横の小道からこちらに歩いてくる。

 おそらく、さっきの先導役の少年だろう。約束通りに馭者を案内してくれたようだ。

 お礼を言おうかと思ったが、先に金髪の少年が怒鳴りつけた。

 

「オヅマ、貴様…なんだその格好は!」

 

 オヅマ…と呼ばれた亜麻色の髪の少年が、面倒そうに首を傾げる。

 

「なにが?」

「上着はどうした? クラバットをしろと、いつも言っているだろうが!」

「うるせぇなぁ。クラバットなんぞつけてられっか、鬱陶しい。上着はキツイし」

「新しいのが届くまでは我慢して着ろ!」

 

 亜麻色の髪の少年はハァとあらぬ方を向いてため息をつくと、相手にするだけ無駄とばかりにキャレの方へと視線を向ける。薄紫の瞳がじっとキャレを見つめてきたが、先程の金髪の少年の品定めするかのような視線と違って、純然と興味深そうな様子だった。

 

「すっげー髪だな。柘榴(ザクロ)みたいな色じゃねぇ?」

「あ……」

 

 キャレがどう言えばいいのか困っていると、金髪の少年はまたフンとあきれたように鼻を鳴らす。

 

「オルグレン家の赤毛といえば有名だろうが。そんなことも知らないのか、貴様」

「その程度のこと覚えてるからって、いちいちひけらかすようなことでもねぇだろ。ほんっとにお前、自慢したがりだよな」

「なっ!」

 

 怒鳴りつけようとした金髪の少年を無視して、亜麻色の髪の少年はキャレに手を差し出してきた。

 

「俺、オヅマな。あーと…一応、オヅマ・クランツって名前だ。お前は?」

「キャレ・オルグレン…です」

 

 やや遠慮がちに言いながらキャレも手を出すと、オヅマはぐっと握手した。

 

「おう、キャレか。言いやすいな。よろしく」

「………よろしくお願いします」

 

 思っていたよりも強い力に、キャレはドキリとした。また小さく体が縮こまりそうになる。

 

「こいつの名前聞いたか?」

 

 オヅマが金髪の少年を指さして尋ねてくるので、キャレは素直に首を振った。

 

「なんだよ、まだ言ってないのか? っとに、いちいち勿体ぶるよなぁ」

 

 あきれたように言いながら、首筋をポリポリ掻く。

 金髪の少年はさっきからのオヅマの態度に怒り心頭のようだった。

 

「なっ…ぼっ、僕は……注意してやっているんだろうが!」

「注意する前に自己紹介くらいしろよ。あ、こいつの名前はマティアスな。怒りん坊マティって呼んだら、たいてい振り返る」

「誰が怒りん坊マティだ! マティアス・ブルッキネンだ。アハト・タルモ・ブルッキネン伯爵の息子にして、グレヴィリウスの青い(ほこ)、ブルッキネン伯爵家の()()なる跡取り息子だ!」

 

 マティアスはわざわざ『正統』を強調して言ったが、オヅマはまったく意に介していないようだった。無視を決め込んで、キャレを館内に(いざな)う。

 

「じゃ、早く行こう。アドル…っじゃねぇ……小公爵さまがお待ちだから」

「よろしくお願いします」

 

 キャレは深々とお辞儀した。

 

 これでようやく公爵邸の()に入れる。

 長かった。ファルミナ領を出てから長かったが、公爵家の門からここに至るまでの道が、最後の最後で追い打ちをかけるように延々と続いて、キャレは正直、疲労困憊だった。

 

 そうした感想を持ったのは、キャレだけではなかったようだ。

 オヅマは小公爵の部屋に案内しながら言った。

 

「門からここまで長かったろ~? 俺も初めてここに来たときにさぁ、長くて長くて、もう眠くって…」

 

 




次回は2023.02.12.投稿予定です。

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