三ヶ月前 ―――――
オヅマがアールリンデンにやって来たときには、まだ近侍は誰も来ていなかった。
「しばらくはお前が小公爵様の近侍として奮励努力するように」
挨拶するなり、初対面の家令の爺さんに難しい言葉を言われ、オヅマは「はぁ?」と聞き返した。
扉横に立っていたアドリアンの従僕・サビエルは、頭を押さえ内心で天を仰ぐ。
彼はレーゲンブルトからこのアールリンデンに来るまでの間に、オヅマと小公爵であるアドリアンの仲が、非常に
この広大なグレヴィリウス公爵邸の、厳格なる番人である老家令を目の前にしても、だ。
「今のは、何だ?」
初対面の少年の不遜な態度に、家令であるルンビック子爵はいつもの鹿爪らしい顔を険しくした。
「あ、すみません。意味がわかんなかったもので」
オヅマはまったく悪びれることもなく言う。
「意味がわからない? 何がだ?」
「えぇと…奮励努力っつーのは、つまり頑張れってことですかね?」
「そうだ」
「だったら頑張れよ、でいいのに。いちいち難しい言葉使わなくてもさー」
老家令はしばらく黙りこくって、一言つぶやいた。「成程」
それはオヅマの言うことに納得したのではなく、クランツ男爵が送り込んできた近侍には、
しかしルンビックがオヅマにつけた礼儀作法の教師は、たった一日で退職を願い出た。
「私には無理です!」
泣きながら帰っていく家庭教師に対して、オヅマの態度はふてぶてしいほどに傲然としたものだった。
「あんなネチネチと鬱陶しいやつに教わったら、礼儀より先に卑屈が身につくぜ」
「卑屈になるかどうかは、君次第だろ」
アドリアンの従僕であるサビエルがあきれたように言ったが、オヅマはどこ吹く風だった。
ルンビックはまた「成程」と独り言ちて、新たな教師を連れてきた。
しかしこれまた初日にして、サビエルが飛び込んできた。
「大変です! ルンビック様!」
「なにがあった?」
「オヅマがまたやったみたいです!」
道すがらに聞いてみれば、サビエルが偶然廊下を歩いていたら、オヅマが授業を受けている部屋から、男の「助けてくれっ」という悲鳴が聞こえてきたのだと言う。あわてて扉を開けると、礼法教師が真っ青な顔で腰を抜かしており、その前にオヅマが剣呑たる表情で立ち尽くしていた。
オヅマはすぐにサビエルに気づいたものの、驚く様子もなかった。
「言いにいけよ。あの爺さんに」
サビエルはその雰囲気があまりに恐ろしすぎて、あわててルンビックを呼びに来た…とのことだ。
ルンビックが部屋に辿り着くと、礼法教師はまだ青ざめた顔で、尻もちをついたままだった。オヅマはやってきたルンビックの厳しい顔にも、なんら悪びれる様子もない。
「なにがあった?」
ルンビックはオヅマに問うたが、震える声で叫んだのは、礼法教師だった。
「そ、その小僧がっ…いきなりっ…わ、私にっ…剣をっ…」
「剣?」
ルンビックが聞き返すと、オヅマはケッと嘲笑った。
「剣なんて持ってるわけないだろ。これだよ」
左手に出したのは小刀だった。木筆*1を使うときに、削るのに使うものだ。
「それで何をしたのだ?」
「鞭を切った」
「鞭?」
「そこの野郎がなってないとか言って、鞭出してきて叩こうとするから、ふざけんなと思って」
見れば床には真っ二つになった馬用の鞭が落ちていた。
あまり褒められたことではないが、教師が鞭を持って、言うことをきかない子供を打つのはよくあることだ。
ルンビックはため息をつき、オヅマに言った。
「先生はお前の間違いを正そうとしたのだろう」
「間違いってなんだよ! 頭を下げる角度云々言って、グイグイ頭押してくるから、手を払っただけだろ。そうしたらコイツが逆上して、鞭持っていきなり叩いてくるから」
どうやら礼法教師は最初の授業ということもあり、今後、馬鹿にされぬために、権威を示したかったようだ。
しかし相手が悪かった。
オヅマはまたふてぶてしく言い放つ。
「フン。自分の思い通りにならないからって、鞭打つ奴の礼儀作法なんぞ、習う必要もない」
ルンビックはサビエルに先生を引き取らせるように頼んで、オヅマをとりあえず椅子に座らせた。
床に落ちていた鞭を拾って切り口を見れば、見事なほどにスッパリときれいに切られている。さすがは
ルンビックはしかし、オヅマの前にある机の上にその鞭を放り投げた。
「礼を知らぬは、猛獣の類と変わりない。そのままでは小公爵様にとって、
「フン。礼儀を教わるなら、最低限『礼儀』を知っている人間に教わりたいもんだ」
「成程」
ルンビックはまた頷いた。しかし納得したわけでないのは、いつものことだ。
しばらく考えてから、ポケットから鍵を取り出して机に置いた。
「なんだよ?」
「これは私の執務室の鍵だ。すまぬが、本館にある私の執務室に行ってきて、机の上に置いてある眼鏡を取ってきてもらえるかな?」
「はぁ? なんで俺が…」
「このアールリンデンにおいて、お前にどうして礼が必要なのかを、お前自身が知るべきであろうと思うのでな」
ルンビックが漂わせる峻厳な風格は、さっきまでの礼法教師とは比べ物にならない。
オヅマは不承不承に鍵を取ってポケットに突っ込むと、部屋を出た。
とりあえず本館へと向かって、その辺りで仕事をしている女中にルンビックの執務室を尋ねた。
「……誰です? あなた」
女中は見慣れない顔のオヅマに、不信感もあらわに問うてくる。
オヅマのいる世嗣用の西館 ――― 別名
「あ…俺、いや僕は小公爵さまの近侍の…」
言いかけるや否や、女中は表情を変えた。気まずそうに目を逸らすと「ごめんだけど、他の人に聞いて」と、逃げるように行ってしまった。
「は? なんだあれ?」
オヅマは呆気にとられたが、気にしても仕方ない。
ちょうど通りかかって、その状況を見ていたらしい従僕と目が合ったので、声をかけた。
「あの、すみません。家令のルンビック様の執務室を探しているのですが…」
若い従僕は曖昧な笑みを浮かべると、手を振って「僕わかんない」と、これまたどこかへ行ってしまう。
オヅマは首をひねりながら、その後にも何人かの召使いに声をかけたが、誰も彼もオヅマが小公爵付きの近侍であることを聞くと、目を逸らして、そそくさと逃げてしまう。
どういうことだ?
考え込んでいると、肩を叩かれた。
ハッと顔を上げると、そこには丸顔の中年の従僕が、笑みを貼りつかせて立っていた。
「君、どうしたかな?」
尋ねられ、オヅマは素早く観察した。いかにも人良さげに見える丸顔の、中年の従僕だ。ボタンがはち切れそうになっている膨れた腹、短い足。祭りで売られる木彫りの【坊や人形】に似ている。
「あ…ルンビック様の執務室を探していて」
オヅマは言いながら辟易としていた。何度目だろうか、この
「ルンビック様の執務室に、なぜ用があるのかね?」
「眼鏡を取ってこいと本人に言われまして」
「ルンビック様が? 君に?」
従僕は糸のような目を少し開いて、ジロジロとオヅマを探るように見つめた。
「失礼だが、君は本館付きの従僕ではないようだが?」
「あ、俺…僕は、小公爵さまの近侍になった…」
「おぉ! そうか。……君か」
最後まで言い終わらないうちに、従僕は大きく頷いた。
「先程来、小公爵様の新たな近侍となった少年が、畏れ多くも公爵様の執務される本館をうろつき回っていると聞いていたが、君であったわけか」
「はぁ…?」
オヅマは従僕の権高な物言いが気になったが、とりあえず今は黙っておくことにした。やや警戒しつつ返答を待っていると、従僕はまたニッコリとした笑みを貼りつかせて、自分の歩いてきた廊下の先を指さした。
「この廊下をまっすぐ行って、あそこの大きな壺が置かれている角を右に折れて、そこから三つめの角を左に曲がった先の突き当りの扉だ。そこが、ルンビック様の執務室だよ」
「右に曲がってから、三つめの角を左…でまっすぐ……」
「そうそう」
従僕はオヅマの確認にいちいち大仰に頷くと、「それじゃ」と手を上げて去っていく。
「ありがとうございます!」
オヅマは丸い後ろ姿に深く頭を下げた。思ったよりも悪い人じゃないようだ…と、ホッとする。
しかし程なくして、それがあの丸顔従僕の仕掛けた悪戯だと気付いた。
「左に曲がって…まっすぐ……って、庭に出たじゃねぇかッ」
むかついて地団駄を踏む。ギリギリと歯噛みしてから、オヅマはチッと舌打ちした。
腹立たしいが、今ので確実にわかった。
オヅマは自分の名前は言わなかった。小公爵の近侍だということを言っただけだ。
つまり、皆はオヅマ・クランツという一個人を馬鹿にしたのではない。
なぜ?
小公爵の近侍をからかって、小公爵本人から不興を買うという想像力はないのだろうか?
―――― このアールリンデンにおいて、お前にどうして礼が必要なのかを、お前自身が知るべきであろう…
ルンビックの澄ました顔が思い浮かぶ。
オヅマはその場でしばらく立ったまま考え込んでいたが、また、のんびりした声に呼びかけられた。
「んん? なんだァ、小僧? こーんなとこで…見慣れない顔だな…いや、もしかして」
庭師らしい青年だった。北方では珍しく、日焼けした肌はやや浅黒い。
オヅマはじっと庭師を見つめた。
こいつはどうなのだろうか? 逃げるのか、知らないと嘯くのか、それとも嘘をつくのか。
だがそのどれでもなかった。
青年は被っていた季節外れの麦わら帽子を取ると、オヅマに向かってペコリと頭を下げてから、恭しい口調で尋ねてきた。
「あンのォ、もしかして迷ってしまわれたかねェ? こっちは貴族の若君が来られるような場所じゃねぇんスよ」
「………」
これまでの対応と違って、庭師のいかにも貴族子弟に対する態度に、オヅマはかえって戸惑った。
「あンのォ…大丈夫ですか?」
再び尋ねられ、あわてて頷くと、オヅマはゴクリと唾をのんだ。
「あの、俺…じゃねぇ、僕、小公爵さま付きの近侍なんです。家令のルンビック様に執務室に行って、眼鏡を取ってこいといわれまして」
「え?」
庭師は固まった。
それからオヅマをじっと見つめる。「小公爵様の…近侍?」
恐る恐るといったように問い返しながら、ジリジリ後ろに下がる。そのまま放っておいたら逃げるとわかったので、オヅマは素早く庭師の腕を掴んだ。
「逃げるなよ」
思わずドスの利いた声になってしまうのを、一度深呼吸して、ニヤリと慣れない愛想笑いを浮かべた。
「逃げないで、教えてもらえませんか? ここに来て間もないので、まだ把握できてないんですよ。こんなに大きなお屋敷なんでね」
「えぇぇ…」
庭師は情けない声をあげる。
「困ったなぁ。今日はハヴェル様もいらっしゃってるってェのに…」
「ハヴェル?」
聞き返しながら、オヅマは庭師の腕をグリッと捻る。気の弱い庭師はすぐさま降伏した。
「イタタタタ! わっ、わかりましたんでェ。教えます! 教えますから、手ェ離して下さいよォ!」
「嘘をつくなよ」
オヅマは先回りして言ったが、庭師はあきれたようにため息をついた。
「まさかァ。小公爵様の近侍の方に、俺らみたいなンが、嘘なんぞつけるはずもありませんでさァ。しかし…こっからだとルンビック様の執務室のある棟とは、まったくもって反対方向ですよ」
「そうかい。じゃ、アンタが案内してくれよ」
「勘弁でさァ。ルンビック様の執務室なんぞ、行ったこともないんでさァ。北棟まではお送りしますんで、それで勘弁でさァ」
確かにこれだけの規模の屋敷の、一介の庭師風情では、家令の執務室なんぞに行く機会などないかもしれない。あるとすれば、それは何かしらヘマをしたときで、場所を覚えるほどに行くことがあれば、もうその時点で解雇されるだろう。
「わかった。北棟まで案内してくれ」
庭師は嘆息しながら歩き出す。
オヅマは庭師の後ろについて歩きながら、注意深く観察していた。
庭師は植え込みと建物の間の、あまり人目につかないところを選んで歩いている。ときどき、チラチラと辺りを見回しては、人がいないことを確認しているようだった。
外廊下や、使用人専用の薄暗い廊下を通り抜けて、庭師は小さな扉の前で立ち止まった。
「この扉の先に階段があるんでさァ。確か執務室は二階だったって聞いたから…あとは、そのへんの奴らに聞いてください。あっ、俺っちにここを教えてもらったってことは、言わねェで下さいよォ」
「なんでだよ?」
「なんでってェ……そりゃ、そのォ……マズイんでさァ」
「マズイ?」
「なるべく…
オヅマは言葉をなくした。
あからさまな疎外。しかもオヅマに対してではなく、小公爵であるアドリアンに対しての…。本来であれば不敬極まりない態度だ。
庭師はギュッと眉を寄せて黙り込んだオヅマに、ペコリと一礼して、早々に立ち去った。
次回は2023.03.05.投稿予定です。