オヅマは呆然としていた。
一体、何が起こっているのだろう?
居並ぶ大人達の間で床に座り込んでいるオヅマを見て、オリヴェルとマリーはわっと駆け寄った。
「お兄ちゃん!」
「オヅマ! ごめん!」
二人から抱きしめられ、オヅマは目を白黒させる。
「僕のせいで二人を…オヅマ達を館から追い出すなら、僕もここを出て行く!」
「嫌だぁ~!」
「…………」
盛大な泣き声を聞きながら大人達は互いに目を見合わせた。
皆が渋い顔なのは、まるで自分達が子供達を泣かせているような構図で、なんとなく腑に落ちない。
その時、静かだが凛とした声が響いた。
「失礼致します。ミーナでございます」
白い寝間着の上にベージュのショールを掛けた姿で、ミーナが頭を下げていた。
沈着な態度ではあったが、よほど急いできたのは裸足であるのを見れば明らかだ。
「このような身なりでご領主様にお目にかかりますこと、平にご容赦下さいませ。我が子達が若君に対して失礼があったこと、聞き及び、
ヴァルナルを初めとして、子供達以外の大人は、ミーナのその古風ながらも分を
ミーナはオリヴェルが出て行った後、血相を変えたアントンソン夫人に叩き起こされ、そこで我が子の不行状を聞いて、あわててやって来たのだが、青い顔をしつつも落ち着いた所作でマリーのかたわらにしゃがみこんだ。
「おっ…お母さ…」
マリーはしばらくぶりに会えた母に抱きつく。
ミーナはマリーの背中をさすりながら、オヅマに目配せして頭を下げた。
オヅマは母の隣で再び平伏した。
「申し訳ございませぬ、領主様。前に若君の病もあってご
ミーナの声は少しだけ震えていたが、きっぱりと言い切る姿はある種の崇高ささえ感じられた。
ヴァルナルはふぅと溜息をもらすと、ヒラヒラと手を振る。
「罰を与える気など…最初から毛頭ない。オヅマもミーナも頭を上げよ。それと丁度よい、アントンソン夫人。聞きたいことがある」
ミーナの後ろからやって来て様子を窺っていたアントンソン夫人は、急に呼ばれてビクンとしながらも背筋をいつも以上に伸ばして、部屋へと足を踏み入れる。
「オリヴェルのこの一月のことだ。普段より世話をしている
アントンソン夫人は素早く居並ぶ
途中でネストリが何か言いたげに睨んできたが、フイと目を逸らし、澄まして答える。
「病気になる前であれば、以前に比べましてお食事を残されることは少なくなったと思います。嫌いな野菜なども、懸命に食べておられるご様子でございました。そのせいか、体重も増えたと
「そうか。下がってよい」
ヴァルナルが言うと、アントンソン夫人はとっとと出て行った。
虎穴から逃げられた気分である。
「さて…」
ヴァルナルは未だに頭を下げたままのミーナの前にしゃがみこんだ。
「そういう訳なので、今後とも息子のためにミーナには滋養のある食事を作ってもらわねばならぬ。よいかな?」
ミーナは一度だけ顔を上げて、朗らかな笑顔を浮かべるヴァルナルを見た後、再び頭を下げた。
「ご随意に」
「では、早く元気になってもらわねばな」
ヴァルナルはミーナの手を持つと、立ち上がらせた。
「部屋まで送ってやりたいところだが、まだ話さねばならぬこともあるのでな…パシリコ、ミーナを部屋まで送ってやれ。マリーとオリヴェルも部屋に戻りなさい。大丈夫だ。誰も追い出したりはしない」
最後のヴァルナルの言葉に、マリーとオリヴェルはようやくホッと喜色を浮かべた。
パシリコに連れられて行くミーナと一緒に出て行く。
「オヅマ、さっきも言ったようにこの事は不問だ。これからも友として、息子と仲良くしてやってくれ」
オヅマは立ち上がると、ペコリと頭を下げて部屋を出た。
しばらくボーっと廊下で立ち尽くす。
なんだか全部がいいようにいった気がするが、これは夢なんだろうか?
頬を思いきりつねってから、痛みに顰め面になる。
その時、廊下の角からひょっこりとマリーとオリヴェルが顔を出した。
オヅマはニッと笑って、二人のところへと走っていった。
◆
執務室に残っていたネストリは目の前で繰り広げられた一連の出来事に苦虫を噛み潰していた。
執事の不満げな様子にヴァルナルは軽く溜息をついてから、椅子に腰掛ける。
「…こういう事だ、ネストリ」
「ですが、領主様! さっきも申しましたように、それでは下の者に示しがつきません! あの兄妹は決して若君に会ってはならぬという
ネストリは激昂のあまり裏返った声で必死に訴えたが、ヴァルナルを始めカールも冷たい視線だった。
ヴァルナルは机の上で肘をつき、手を組み合わせて顎を置き、じっとネストリを見上げる。
「そもそもまず、私は息子に特定の誰かと会うことを禁じた覚えはない」
「し……しかし、こうして悪い病に罹ることもあると思って…」
「事態は正確に把握せねばならぬ。オヅマ達がオリヴェルと知り合い、一緒になって遊ぶようになったのは先月の話だ。それから一月近くを経てから発症とはおかしいではないか。そもそも、その時には
「それは……」
ネストリは正確なところを突かれて口ごもる。
ヴァルナルは相手が怯んだとみるや、鋭い目で刺した。
「むしろ、流行し始めたのは君が実家から帰ってきてからと記憶している」
ネストリはギョッとなった。
まさか自分に矛先が向くとは思っていなかった。
「りょ、領主様ッ! わ、私がこの病の元凶と仰言っておいでですか!?」
「この病に関して、誰かに対して感染の責任を問うつもりはない。そもそもどこから流行ったかなど、わかりようもない。領地には他国からの商人達も多く訪れる。明らかに誰と特定できようはずもない」
ヴァルナルは言いながら、ゆっくりと椅子に凭れかかった。
大きく胸をひらいた姿は横柄にも見えたが、その威容にネストリは口を噤む。
ヴァルナルは重ねて言った。
「ミーナは自分の子供よりも優先して我が息子を看病し、その娘は自分もまた病にありながらオリヴェルに母を譲ったのだ。この一事をとっても、息子にとってマリーとミーナが恩人であることは間違いない。恩人を追い出すなど、そのような恥知らずな真似を私にさせるのか、ネストリ」
「………」
ネストリは何も言えなかった。
ヴァルナルの論法はケチのつけようもない。
「私は君に執事としての権能を与えたが、勝手な規則を作って領主館を差配することを命じた覚えはない。この領地においての法は私である。
普段は柔和なヴァルナルのグレーの瞳に怒りにも似た閃きが宿り、ネストリは軽く後ずさった後、無言で頭を下げた。
ヴァルナルが出て行くよう手を振ると、そのまま部屋を出て行く。
「まったく…いよいよ困った執事殿ですね。公爵邸に送り返した方が、本人も嬉しいのではないですか?」
カールがあけすけに言うと、ヴァルナルは苦笑した。
「それが、あちらでもさほどに入用ではないらしくてな」
「まったく。不良人材を押しつけないでほしいですね。領主様も律儀に彼を雇っておかずともよろしいのに」
「まぁ…下手に解雇して痛くもない腹を探られるのも面倒だからな」
ヴァルナルが言うと、カールはむぅと眉をひそめる。
本家となる公爵家が目付として家臣の家に使用人を
だが、ヴァルナルと公爵の間でそんな隔たりがあるとは思えない。
「まさか。公爵様が領主様に対して不信を抱くことなどないでしょう?」
「公爵様がそうであっても、周りにはいくらでも
ヴァルナルが一応の結論を出した時に、パシリコが戻ってきた。
「ミーナを部屋まで送り届けました」
「ご苦労。顔色が思わしくないようだったが、大丈夫だったか?」
「支えようとしましたが、気丈な女でして、最後まで一人で歩いて部屋に入っていきましたよ。部屋に入る時も私に、領主様のご温情に感謝していると伝えてほしい、と言われました」
ヴァルナルはその報告を聞いて、顎髭を撫でる。
つぶやくように問いかけた。
「お前達、ミーナについてどう思う?」
唐突な質問の意図がわからず、パシリコとカールは目を見合わせた。
やや間をおいて、パシリコは咳払いしてから言う。
「えー…確かに多少目を引く女人ではございます」
その答えはヴァルナルの求めたものではないようだった。
ジロリと睨みつけられ、パシリコは内心で首を傾げる。
「厨房の下女とは思えぬほどに、洗練された女人だと思いました」
カールが言うと、それこそが求めた答えであったようで笑みを浮かべる。
「そうだ。聞いたか?『いかようなる罰も厭いませぬ』などと古びた言いよう…そこらの領主館の召使いの言葉遣いではない」
「そういえば…さっきも領主様が顔を上げろと仰言ったのに、一度では拝跪礼を解きませんでしたね」
カールが重ねて同調すると、ヴァルナルは我が意を得たりとばかりにニヤリとする。
「貴人に対しては、一度の赦しで頭を上げるのは不敬とされるからな。そんな細かな
あきれたような言い方をしながらも、ヴァルナルの目は穏やかな光を浮かべている。
カールはまさか、と思いつつもそれとなく言ってみた。
「そういえば、ミーナは
「……どうしてそんなことをいきなり言いだすんだ?」
「いえ。弟と同じ年だと思っただけです」
カールはしれっと矛先を躱したが、パシリコが余計なことを付け加える。
「おぉ、そういえばアルベルトはオヅマ達兄妹とは随分と仲良くなったようだし、ミーナとは似合いかもしれんな」
案の定、というべきか、意外に、というべきか…ヴァルナルの顔が一気に無表情になった。
カールは無頓着なパシリコに溜息をついた。
「それでは一件落着しましたし、私はこれにて騎士団に戻ります」
「む。来週からの演習について、各班長と話しておくように」
「はッ」
カールは肘を前に突き出して敬礼すると、部屋から出た。
こういう時は鈍感なパシリコが領主様付きの警護担当で良かったと思う。
それにしても、あの親子は三人とも、この館にとんでもない風を運んできたようだ。………