「なにを考えているんだ!! この愚か者ーッ」
怒り過ぎて声がひっくり返ったせいで、真剣に怒っているのにどこか滑稽になる。しかし、いつもなら混ぜっ返して馬鹿にするオヅマも、このときばかりはムッスリと押し黙っていた。
マティアスは言い返さないオヅマを、ますます激しく非難する。
「よりによって公爵閣下にあのような無礼な態度! まったくもって有り得ない!! 貴様が下賤の身の上であることは承知していたが、今日という今日は許せん! 小公爵さまにまでご迷惑をおかけするとは、臣下として恥ずべきことだ!」
このときアドリアンは、サビエルによって自室で手当てを受けていたので不在だった。
近侍たちは、勉強室兼サロンとなっている、いわゆるたまり場で、この後に控えた歴史の授業の準備のため集まっていたが、公爵との対面後、当然ながらそこはオヅマを弾劾する場となった。
「僕、よくは知らなかったけど、君、クランツ男爵と血の繋がりはないのか?」
テリィが仏頂面のオヅマに怖々尋ねる。
オヅマはためらいもなく認めた。
「そうだ」
「じゃ、じゃあ…あの噂は? 新しいクランツ男爵夫人は、元々は召使いだったらしい…っていうのは?」
口の立つオヅマがいつになくおとなしいので、テリィはここぞとばかりに疑問をぶつけた。以前、母とその友人である貴婦人達が面白おかしく噂していたのだ。
「その通りだ」
オヅマは素っ気なく、これもまた肯定する。
その答えにテリィは目をまん丸にすると、しばらくブツブツと頭を整理するようにつぶやいた。
「その連れ子ってことは…本当のところは、身分もない、ただの雇い人の息子ってこと…?」
今回の近侍の人選については情報が錯綜して、クランツ男爵の
テリィは病弱であると聞いていたクランツ男爵の息子が、自分よりも年下のくせに体格も大きく、馬も乗りこなしているのを見て、混乱していたのだ。
ようやく納得がいくと、テリィはその口元に微かな嘲りを浮かべた。
「要は、君は元はただの平民ということじゃないか。本来であれば、こんな場所にいるのだって…」
「そのことについては小公爵さまはご存知なのでしょう?」
テリィの言葉を遮ったのはキャレだった。
何かを訊かれたり、言うべき必要がない限りほとんど話すことをしないキャレの、やや強い語気にテリィがムッとしたように見る。
「だからこそ、公爵閣下が注意していらしたんじゃないか。たかだか平民出身の、まともな礼も弁えない者を贔屓しすぎるから、こうして不興を買うようなことになって。ルンビック卿に礼儀作法を習ったとはいっても、一朝一夕に身につくものじゃないし。そのことは君だって思うところはあるはずだ。違うか、キャレ?」
キャレは俯いた。
実際、キャレもまたここに来た当初から、オヅマと小公爵であるアドリアンがあまりに親しいことに、違和感とかすかな苛立ちがあった。オヅマから理由を聞いて、納得できる部分もあったが、それでも彼らの関係性は他の近侍と一線を画しているように見える。
キャレの沈黙で間隙ができると、それまで黙っていたエーリクが低い声で言った。
「オヅマの身分について、我らが論ずるのは分に過ぎたことだ」
「どういう意味だ?」
明らかに不機嫌に問うたのはマティアスだった。
「まともな礼儀も心得ない猿のような奴のために、小公爵さまに恥をかかせても、見て見ぬふりせよと? ただでさえ、この公爵邸での小公爵さまの地位は不安定だというのに、この不遜で無礼な者のせいで、ますます窮地に立たせることになるのだぞ!」
しかしエーリクの表情は変わりなく、冷静だった。
「オヅマがクランツ男爵の息子ということで、ここに来ている…ということは、既に公爵家において
「そっ……」
マティアスは押し黙った。
不満顔のテリィもやはり口を噤む。
さっき会っただけでもその厳粛な迫力に圧倒されたというのに、できればこのあと半年は、公爵とは会わずに過ごしたい。
エーリクは扉横に立って、何も言い返さないオヅマを見た。握りしめた拳に、物言わぬ怒りが込められているのだろう。
「公爵閣下の言う事にも一理はある。孤児であるならまだしも、母という存在がいるのに、己の出自について問うことをしないのは、何か理由でもあるのか?」
エーリクの問いかけに、オヅマは目をそらす。
小さい頃には無邪気に問うていたが、その度に見せる母の哀しげな様子に、やがて父について一切話すことはなくなった。母が避けるのと同様に、いつしかオヅマ自身も本当の父という存在を忌避し、なんであれば憎しみに近い感情を抱くようになっていた。
「……父親が
テリィがこっそりとつぶやく。
その声にはあきらかな
一番近くにいたキャレは顔が固まった。
本当に小さな声だったので、扉近くのオヅマには聞こえてないだろう…と思って、そちらを向いたときには、既にオヅマは目の前に迫っていた。
キャレは思い出した。
騎士は囁くような小さな声も聞き取る訓練をする。雑踏にいても、戦場にいても、声を聞き分けて増幅させるのだ。
オヅマも、おそらくエーリクも習得しているのだろう。彼は即座にオヅマを止めようと手を伸ばしたが、間に合わない。
既にオヅマはテリィの襟首を掴んで、宙に持ち上げていた。
「どういう意味だ? それは」
「……ぅうっ……ご、ごめ……」
「俺の母親を侮辱するなら覚悟の上だろうな?」
低いその声は、ただの恫喝でない
そばにいたキャレは真っ青になってカタカタと震え、マティアスは金切り声を上げた。
「やめろ! やめろ! なんてことをしてるんだ!? 狂っているのか、お前は!」
直接的にオヅマを止めることが出来たのはエーリクだけであった。
テリィの首を絞めるオヅマの腕を掴み、珍しく怒鳴った。
「いい加減にしろ! その短気をどうにかしろと言われたんだろうが!」
オヅマはギリッと奥歯を噛みしめると、テリィを離した。
「ヒャイッ!!」
無様に尻もちをついて、テリィは情けない声を上げる。
キャレは「大丈夫?」と声をかけたが、恐怖と助かったことの安堵で、テリィはそれこそ子供のようにしゃくり上げて泣き始めた。
マティアスは額を押さえ、うめくようにつぶやいた。
「まったく…どうかしてる……」
オヅマは剣呑とした雰囲気を漂わせてその場に立ち尽くし、エーリクは厳しい目でオヅマを牽制しながら深呼吸して、乱れた息を整える。キャレは殺伐とした雰囲気に息が詰まりそうで、ひたすら自分の存在を小さくした。
重苦しく、ヒリヒリとした空気が流れる中、カチャリと扉が開き、現れたのはアドリアンだった。
「…………なに?」
扉を開くなり、目が合ったのはキャレ・オルグレンだった。泣きそうな顔でこちらを見つめている。
「なに? どうしたの?」
アドリアンは入った途端に、その場の空気がかなり悪いとわかった。
テリィは床に座り込んで、また泣いているし、エーリクは怖い顔でオヅマを睨みつけている。背を向けたオヅマの表情はわからなかったが、アドリアンの声を聞いても振り向かないのだから、きっと穏やかな顔をしているわけではないだろう。
マティアスが小走りにやってきて、深々と頭を下げた。
「申し訳ございません、小公爵さま。少し、
「あぁ、そう」
アドリアンは軽く頷いて、ゆっくりとした足取りでオヅマらの方へと歩いていく。
キャレはあわてて椅子から立ち上がり、エーリクやマティアス同様に頭を下げた。
テリィの前に立って、しばらくアドリアンは無言だった。俯いたまま、じっと立ち尽くしているオヅマには一顧だにしない。
テリィはしゃくりあげながらも、指の間から小公爵の履いている磨き上げられた革靴をチラチラ見つつ、待っていた。
『大丈夫、テリィ?』と、優しくいたわる声を。
しかしアドリアンの顔には、同情は一片たりとなかった。しばらく待っても、しゃがみ込んだまま一向に泣き止まないテリィに、冷たく呼びかける。
「テリィ、立ってもらえる?」
テリィはそれでもなかなか立ち上がらなかったが、アドリアンが眉を寄せるのを見たキャレが、すぐさま小声で叱責した。
「チャリステリオ、立って下さい。いつまでも泣いていてはみっともないです」
「まったくだ」
マティアスも言って、二人で手を貸してテリィを立ち上がらせる。
テリィは自分にちっとも優しくないアドリアンに失望した。
自分は祖父に言われて仕方なしに、ここに来たのに。
母だって反対していたし、叔父だって今更、小公爵に肩入れする必要などないと言っていたのに、祖父が御恩顧云々なんて知りもしない昔話を始めて、結局なし崩しにここに来る羽目になった。
それでも公爵家で冷遇されている小公爵に同情したからこそ、支えてあげようと思っていたのに、こんな態度をされるなんて…!
テリィは心の中でつらつらとこれまでのことを振り返る。
すると鼻の奥がツンとしてきて、ますます涙があふれて止まらない。
マティアスとキャレは、またひどくしゃくり上げて泣き出したテリィに驚いた。目を見合わせて、キャレは首をひねり、マティアスは渋い顔になった。
情けなく泣き続けるテリィに、アドリアンは内心で嘆息した。
自分よりも二歳年上の子爵家の嫡嗣は、なにせ泣き虫だ。男でも女でも、すぐに泣く人間というのは、どうにも話が通じない。
アドリアンはややあきれたように命令した。
「テリィ…いや、チャリステリオ。君の口からなにがあったのかを説明したまえ」
「うっ…ぅ…お…オヅマ…がっ……」
しゃくりあげるテリィの言葉は切れ切れだったが、懸命に訴えた。
最終的に「オヅマが僕の首を絞めた」という言葉を聞いて、アドリアンは公爵にも似た眉間の皺を浮かべ、マティアスに命じた。
「マティアス、テリィの首を見せてくれ」
言われてマティアスはテリィの襟の留具を外した。
白い首にくっきりついた赤い痣に、アドリアンは一気に冷たい顔になった。
「………サビエル」
アドリアンが静かに呼ぶと、扉を背に控えていたサビエルが「は」と頭を下げる。
「テリィを連れて行って。一応、医師に見せた方がいいだろう」
「かしこまりました」
サビエルは泣き続けるテリィを促して、部屋から出て行った。
バタン、と扉が閉まると同時に、アドリアンは隣に立っていたオヅマの頬を打った。
キャレは悲鳴を上げそうになって口を押さえ、マティアスとエーリクは目の前の光景が信じられないように口を開いたまま固まった。
その場にいて、この状況について把握できていたのはアドリアンとオヅマだけだった。
アドリアンは何も言わず下を向いたままのオヅマの頬に、再び手を上げる。パシッと乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。
「ルンビック卿から忍従を学ぶようにと、言われたよね?」
アドリアンが冷たく言うと、オヅマはしずかに跪いた。
「………申し訳ございません」
淡々とした言葉に感情はない。あくまでも主従として、自分の不手際を謝しているだけだった。
アドリアンはオヅマの謝罪が形式的なもので、テリィに対して何らの申し訳無さも感じていないのはわかったが、それについて咎めようとは思わなかった。
だが ――――…
「君に近侍になることを望んだ以上、僕が受けるべき罰については甘んじて受ける。その覚悟はしている。しかし、チャリステリオに対する暴行は許されない。彼が君を怒らせるようなことを言ったにしろ、暴力は控えろ。それは君自身の価値を下げる行為だ」
オヅマは唇を噛みしめた。
何の反論もできない。
「はい」とおとなしく頷くと、アドリアンは重ねて言った。
「公爵閣下に対しても同じだ。僕は閣下が僕を嫌う理由はわかっているし、納得もしている。だから……心配しなくていい」
最後の言葉でアドリアンは引き締めていた顔を、ふっと緩めた。
無理に作られた穏やかな表情に、オヅマは眉を寄せる。
なんだって、
アドリアンはオヅマの内心をおおよそ理解しつつ、そのことについては話を打ち切った。
「さて。じゃ、今回の罰についてだけど」
さきほどまでの冷ややかな剣幕が嘘のように、いつもの朗らかな口調に戻る。
オヅマはぶたれた頬をさすりながら、立ち上がった。
「罰?」
「そりゃそうだろ。僕は君についての責任があるんだから、責任者としては反省させる必要がある」
オヅマはさっき、アドリアンが公爵から頬を
自分が頬を
「ちょっと待て! 俺、さっきお前……小公爵さまに殴られましたよね? しかも二度!」
「僕の平手打ちなんて、君にとっちゃ蝿に顔を突つかれた程度だろ。君への罰はベントソン卿に頼んでおいたから、とっとと行ってこい。授業の方は、後で補講してもらうように、オーケンソン先生に言っておくから」
アドリアンは澄まして言った。
オヅマが渋い顔で突っ立っていると、やや意地悪な笑みを浮かべて、別案を提示する。
「それとも、謹慎にするかい? 今から三日間、自室から一歩も出ずに反省文を…」
途端にオヅマの顔が引き攣った。以前にその罰をくらったときが一番きつかったことを思い出す。
「………行きます」
即座に頷いて、オヅマは足早に部屋から出て行った。
次回は2023.03.26.更新予定です。